時の舟と風の手跡

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春の章

金曜日のカレー

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 行くところがないなら、うちにくればいい。おまえはわたしの孫だし、おまえ一人くらい寝る場所はある。
 ただし、同居するのは百歳近いジジイだということだけ、忘れずにいてくれ。
 風は、祖父である葛城謹吾—-通称おじい――と暮らし始めた時のことを思い出していた。
 風が手にした写真楯には、桜の木の下で撮った家族写真が入っている。
 おじい、孫の風、曾孫の茉莉花、風の父・凪。
 開いた窓から庭の桜の木の花びらがリビングに舞い込む。風は写真楯を鞄にしまった。
「そろそろ行こうか」
 誰に言うともなしにつぶやくと、風は玄関に向かう。きれいに片づけられた家が残される。
 路地の奥の突き当り、小さな平屋、猫の額の庭に不釣り合いな桜の木。
 古めかしい一葉の写真のような家を、風はあとにした。



 コーヒーの香りが鼻をくすぐる。かぜはベッドに背をもたれかけさせた不自然な格好で、かすかに目を覚ました。FMラジオの音に混じって、カサカサという音がする。あれは……。
「おじい、ごはんまえにクッキーたべるなよ」
 起き抜けのかすれ声で、風は注意した。
「朝飯がいつになるか、分からんから。小腹が空いたんだよ」
 二つのベッドに挟まれた小さな机の上から眼鏡をとると、風はようやく起きた。体の節々が痛む。ついでに体が冷えている。おじいがストーブを付けてくれたらしいが、三月初旬の朝は、まだ冬から抜けていない感じの寒さだ。
「読書灯なら気にしないから、ベッドに横になって読書すればいいじゃないか」
 白いネルのシャツに手編みの緑のベスト、風の祖父である謹吾はすでに百歳となったが、いたって元気だ。縁側の籐の椅子に腰かけて朝刊を読み始める。
「横になると、すぐ寝ちゃうから」
 洗面所で顔を洗いながら、風は答えた。ブルーのシャツの上に、紺のカーディガン、コットンのパンツを身につける。それからエプロンも。身支度を整え、すぐにキッチンへ行く。
「今日はパンだよ。オムレツ? スクランブルエッグ?」
「スクランブルエッグで」
 風はボウルに卵を二個割入れて、牛乳と塩と胡椒を少し加える。すべて目分量で手早く熱したフライパンに流し込む。
 謹吾は百歳を超えても、歯はすべて自前で健啖家だ。むしろ、小食の風は祖父より食べられなかったりする。
 スクランブルエッグを皿に盛り、レタスときゅうり、それから湯むきしたトマトを小さめに切って卵に添える。夕飯の残りのポテトサラダに半分に切ってゆでたウインナーも付け合せる。
「手際がいいな」
「二年もやっていればね。おじいの淹れたコーヒー、もらっていい?」
 もちろん、とおじいはいったので風はおじいと自分のマグカップにコーヒーを注いだ。
 それから二人はテーブルについて、いただきますと言った。

 風が祖父と一緒に住んですでに二年が経過した。二十八歳の風と百歳祖父。祖父は腰も曲がっていないし、頭もしっかりしている。元気すぎて怖いくらいだ。だだ、やはり皺のよった指や首回り、時折食べこぼしたりするのをみるにつけ、年相応なのだろうと感じる。
「今日は金曜日か。風、仕事は?」
「午前中はリモートで会議があるけど、あとはふつう。土日は休むよ」
「ケアマネさんはいつくる? ……おおたさん、あのかわいいお嬢さん」
「太田さんが来るのは来週。それから、おじい。今かわいいとか本人へ言うの、セクハラ扱いされるから」
「風だって、かわいいと思ってるだろう?」
 風は、いやな汗をかきつつ、返事をパスした。祖父に見透かされているのが悔しい。
 ケアマネの太田は、風より二歳ほど年上だ。ショートカットで笑顔をたやさない人だ。月に一度、おじいの様子を見に来る。
 答えない風に、謹吾はパチンとウインクしたかったんだろうが、あぶん顔の筋肉がうまく動かせず結果ただのまばたきになった。そのようすを見て、風は吹き出しそうになる。とうの謹吾は気にするふうもなく、ゆっくりスクランブルエッグを口に運んだ。
 地元FMの番組ではここ最近、タイトルに春が入った曲が流れる。雪国住む皆は春が待ち遠しいのだ。ぼんやり聞いていたら、縁側のガラス戸を叩く音がした。
「おじい、ふうちゃん、おはよー」
 風が戸を開けると、おじいの曾孫の茉莉花が中学の制服姿でいた。
「理科の成績、あがってた! ありがとう、おじいのおかげだよ!」
「そりゃ、よかった。今日も来るか?」
「うん、夕方。部活が終わったら、来るからね」
 茉莉花は耳の下で結った二つの髪をぴょんぴょんさせながら、答えた。
「こんどペアで大会に出られそうなんだ」
 茉莉花はバドミントン部だ。一年生にして大会に出られるほどの選手らしい。
「じゃあ、ぼくは何か特別なデザート用意しておこうかな」
「ほんと? ふうちゃん。やったー! 楽しみにしてるね!」
 茉莉花は寒さをものともせず、マフラーひとつでリンゴのように頬を赤くし、登校していった。
「茉莉花ちゃん、元気いいー」
 戸を閉めながら風はつぶやいた。最初の就職先での激務の末、心身を壊していまだに半分療養中の風には、茉莉花のほとばしらんばかりのエネルギーはまぶしい。
「家庭が順調なのは、美津子のところだけだな」
「それは言わないお約束」
 おじいの五人のこどものうち、夫婦仲がいいのは亡くなった美津子伯母のところだけ、というのは偽らざることだ。
「ほんと言わないでー。耳が痛い。ぼくも婚約で失敗してるわけだし」
「おまえは分かれて正解。無駄に長く生きてると様々耳に入るってもんだ。おっと、もう茉莉花の登校時間てことはだ。今朝は少しのんびりしすぎじゃないか」
 たしかに、と風は皿の料理をたいらげて、洗濯機のスイッチを入れに脱衣場へ行った。

 九時からは、リモート会議だった。
 おじいと風の寝室の隣が風の仕事場だ。パソコン二台がL字型の机に乗せてある。風はリモートでホームページの作成や、データの打ち込みをしている。基本的に会社へは行かなくていい。
 まだ本調子ではない風にはちょうどいい仕事だ。風の事情も理解したうえでの雇用だ。
「では、葛城さん。よろしくお願いしますね」
 風の上司に当たる伊東は、なぜか毎回顔出しNGだ。会議は無駄なくすぐに終わるから、風の負担にならない。どんな顔だろうと気にならないわけでもないが、仕事がスムーズにいくほうが重要だから、風はあまり深く考えない。
 昼は焼きそばだった。野菜は細かく、そばも短めにカットする。おじいの飲み込みには毎食注意する。味噌汁も忘れずにつくる。簡単に若布と豆腐と油揚げの味噌汁。椀によそう直前に葱をいれると風味が格段にいい。
 おじいは食事に時間がかかる。風は毎食、おじいと向き合う。おじいはたいがい、昼食後には長目の昼寝をする。リビングダイニングと寝室は隣だ。引戸を立てて、部屋を隔てる。
「おやすみ」
 おじいは百歳を過ぎて、眠る時間が増えたように感じる。あまりに深く眠り、このまま目を覚まさないのではないかと不安になるときがある。ねんれいが年齢だ。今は元気でも、いつどうかなるか分からない。
 いつか、は必ず来るのだ。それを考えると、風は怖くて仕方なくなる。
 風は気持ちを落ち着かせようと、静かに食器を洗った。今夜はカレーだ。いまから仕込んでおく。
 それから、茉莉花のために菓子を作ろうと、ボウルを出した。

「きたよー」
 夕方、五時くらいに茉莉花はやってきた。制服から私服に着替えている。袖が長めのパーカーにゆるっとしたデニムのバンツで髪は結わずにほどいている。
「今夜も勉強するの?」
「うん、テストで間違ったとこだけ。おじいに教えてもらう」
 茉莉花は78点の理科のテストを風に見せた。おじいに教わる前は、50点も取れなかったのを覚えている風としては、茉莉花の進歩に目を丸くするだけだ。
「カレーとデザート、楽しみにしてて」
 風が声をかけると、満面の笑みを茉莉花は見せた。
 茉莉花とおじいが縁側のテーブルで勉強している間に、風はカレーを温めた。ご飯は午後から炊いた。付け合わせのサラダと、お昼の味噌汁に豆腐を追加して、かさましする。ついでにトッピングの小さめサイズのゆで卵をチューリップの形にナイフを入れて切り、小皿に盛り付けた。あとは、福神漬けとラッキョウも忘れずにテーブルに並べる。
「ふうちゃーん、勉強、あと少しで終わるよ」
 茉莉花が座ったまま腰を伸ばして、キッチンに立つ風に声をかける。
「風、もうだめだよ。茉莉花の腹がぐうぐう鳴ってるぞ」
 おじい、言わないでと茉莉花が抗議するので、風は笑ってしまう。昔ながらのアーモンド形の深皿にご飯をよそおい、圧力鍋からカレーをすくってかけた。
「おじい、ごはんにしよう」
 人数分そろえると、風は二人を呼んだ。
「金曜日、海軍カレーだな」
「おじい、毎回それ言う」
 茉莉花に突っ込まれながらも、おじいと茉莉花は並んで座る。
 金曜日の夜の、いただきますの声は三人分だ。
「おいしい! やっぱりカレーはふうちゃんのが一番。お肉の塊がホロホロってとろけるの、嘘みたい」
「圧力鍋でつくっているからね」
 おじいがのどに詰まらせないようにとの、風なりの配慮だ。舌で押しつぶせるくらいの柔らかさだ。味は甘くち。おじいも茉莉花も辛い物は苦手だからだ。風は、二人を優先するのはまったく苦ではない。
「おかわりする」
 茉莉花はおかわりを自分でよそう。キッチンは、風が使いやすい高さに作ったので茉莉花には少し高い。なので、茉莉花用の踏み台がある。背が高くなった茉莉花が鍋からカレーをすくう姿を見ると、ついつい頬が緩んでしまう。それはおじいも同じようで、にこにこしている。
「いいもんだな」
 おじいがぽつりとつぶやく。そうですね、と風は無言でうなずいた。
 カレーの後にデザートを風が並べた。小さめのグラスに入った、白とピンクの二色のゼリーだった。
「あれ? なんだか桜のにおいがする」
「食べてみて」
 風はふたりにティ―スプーンを渡した。茉莉花は上の層、ピンクの部分をスプーンですくった。
「なんだか、もちもちする。ゼリーなのに」
 そのまま、ぱくんと口に入れてしばらく目をつぶった。
「どう?」
 茉莉花は、ぱちんと目を開けた。
「桜のにおいがしたよ、それから、もちもちだと思ったけど、口に入れたらすーって溶けちゃった」
「うん、材料は砂糖と牛乳と生クリーム、それをゼラチンで固めただけなんだ。ピンクのところは食紅をちょこっと。それから桜の塩漬けを細かく刻んだのが入ってる」
「えー! 材料、それだけ? 信じられないよ。わたしも作りたい。お父さんとお母さんに食べさせたい。あとで作り方教えて」
 もちろん、と風はうなずいた。おじいは、ゼリーを少しずつすくって食べていた。ほんとは、桜餅を出したいところだけど、もしものどに詰まらせたらと考えてしまう。ゼリーなら口の中で溶けるから安心だ。桜の香りで、少し春を感じてもらえたらいいと風は思った。
「ふうちゃん、おかわりある?」
「残念ながらありません。作り方、教えるからおうちで作って」
 茉莉花は理科のテストの裏に、レシピを書いた。

 茉莉花を家まで送って帰ると、おじいはすでにベッドで寝ていた。ああ、今夜は風呂なしだったなと風は思った。
 なかなか風呂に入りたがらないのは、風の課題でもある。またケアマネさんに相談しよう。
 キッチンは、茉莉花と一緒に片づけたのでさっぱりとしている。ラジオのボリュームを絞ってつけると、父がよく聞いている洋楽が聞こえてきた。少しのミルクをレンジで温めて風は小説や料理本のならんだ棚からノートを取り出した。
 今日の日にち、天気、おじいの様子と三食の献立を記録する。
 縁側のガラス戸越しに、庭の桜の木が見える。
 おじいがこの家を建てた時に、ばあちゃんがどうしても植えたいといった木だと聞いた。
 ――来年、また桜が見られるかなあ。
 おじいは、今年もまたそうつぶやくだろうか。
 風は、ノートを閉じた。
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