金平糖ひとつ

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金平糖ひとつ

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 今日も空が青い。
 サヨは菅笠のつばを上げて、白い雲がわく夏空を見あげた。
 ――今夜は向こうに泊ってくるようにね。
 姑に言われて、サヨは夫の妹が養生している屋敷へ行く途中だ。
 住み込みの使用人や牛馬も暮らす大きなやかたを朝にたち、すでに数刻歩き通しだ。
 館から村外れの四辻を通りすぎ、お地蔵さまを右に折れて山みちへ。サヨは来た道筋を頭の中でなんども確かめた。帰るときに迷わないようにと。
 サヨは夫の青斗と祝言をあげて、また三月も経っていない。もとは屋敷の使用人であったサヨを嫁に選んだ青斗あおとは、村一番の分限者の跡取りだ。
 サヨは働き者だが、物おぼえは今ひとつ。もとより身分のちがいもありすぎる。横紙破りともいえることだが、意外にも夫の二親はサヨに優しかった。
 姑は野良仕事ばかりしてきたサヨに、縫いものや料理を教えた。髪をきれいに梳くことも、化粧も教えてくれた。舅は、外の仕事は使用人にまかせて、家のなかのことをしてくれたらいいと、サヨの体を気遣ってくれた。
 夫の青斗はいつでもサヨに優しく、食べるものから着るものまで、サヨの身の回りを整えてくれた。そればかりか、亡くなった母親の墓も建ててくれたことのに、サヨは心の底から感謝していた。
 今は亡き母と二人で苦労を重ね、流れ着いた村でサヨはようやく幸せを手に入れた。
 だから、夏の盛りに用を言いつけられても嫌な顔ひとつせずに、使いに出たのだ。
 照りつける日差しで、乾いた道に落ちる影は黒く短い。サヨは新しい紬を着せてもらい、背中に小さな荷をくくりつけている。中身は昼用の握り飯と、悪阻つわりで苦しむ義妹の好物の金平糖だ。
 人気のない山道に入ると、青く伸びた竹が木陰を作っていた。ざわざわと音を立てて涼しい風が吹き抜ける。サヨは菅笠を脱ぎ、顔や首の汗を手ぬぐいで拭いた。朝から歩き通しで、だいぶくたびれた。腰つるした竹筒から水を一口飲んだ。ここらで一休みしても罰は当たらないだろう。夕刻までには着けるだろう。サヨは道端の石に腰かけようと思った。
「あっ」
 石と思った塊は、うずくまったカラスだった。
 カラスはサヨがそばにいても逃げようとせず、ただビードロのような眼玉で見つめている。
 怪我でもしているのだろうか。サヨが様子をうかがおうと腰をかがめた時、カラスの細いくちばしが開いた。
「食いもんを寄こしな」
 しわがれていたが、わずかに高めの声は老女のようだった。
 サヨが悲鳴をあげて後ずさると、カラスはなおもズケズケと命じた。
「金平糖、もってんだろ。知ってんだよ」
「だめ、だめだよ。たのまれたものだから」
「一粒くらいなくなったって、分かりゃしないよ。一粒でいいんだよ、さっさと出しな」
 がんとして譲らないカラスに根負けした。
 サヨは金平糖を渡したなら、すぐに去ろうと決めて荷をほどくと、小さな壺から桃色の一粒を摘まみだした。
 つつかれないよう、腕を伸ばしてカラスの前に金平糖を置き、手早く荷物をまとめようとした。
「ちょっと待ちなよ」
 すぐに食べるのかと思ったが、カラスは半身を起こして金平糖をつついた。小さく砕けた砂糖の塊を、さらに鋭いくちばしで細かくする。何かを吟味するように、カラスは二三度つついてはくうをみあげた。つられてサヨも竹林を見あげる。青々とした葉を透かして差し込む日の光で、山みち全体が緑色に染まっている。つかのま目の前のことを忘れる。涼やかにわたる風で額の汗が引く。
「あんた……手をつけてないだろうね?」
 カラスの声にあわてて顔を戻す。まるで金平糖をくすねたと決めつけるように、カラスはサヨに詰め寄った。
「そんなこと、していません」
 サヨは盛んに首を左右に振った。カラスは、ふんっと横を向いた。
「食べてないならいいんだよ。これは、毒だからね。口にしたら、体が動かなくなる」
「うそ、そんなわけないよ、だってこれは、ハナさまへのおみやげだよ」
 カラスは、サヨの顔をしげしげと見ている。
「おまえ、顔はきれいなのに頭がたりないのかい? 言葉づかいを知らないね」
 頭がたりない……サヨは、いちばん言われたくないことをカラスにずけずけと言われて口をつぐんだ。
 ぽってりとした唇に、いつも眠そうな下がった目尻。愛らしくも、しっかりしているようには見えないサヤだ。嫁いでから、青斗にふさわしい嫁になれるよう、姑からいろいろと教わっているが、サヨの物覚えは歩みが遅い。いまだに読みか書きに不自由する。
「でも、言いつけを守っている。素直なんだね。今までの娘たちは、みんなここあたりで菓子を食べつくしてしまっていた」
「いままで?」
「そう、みんなおまえのように美しい娘たちだった」
 自分が美しいかどうかなど、サヨは考えたことがなかった。身なりなど考える余裕もなく、ただ毎日をひっしで過ごして来ただけで。その働きぶりで、青斗と夫婦《めおと》になれたのだと思っていた。げんに、青斗はサヨの体の丈夫さと、言われたことを愚直なまでに続ける辛抱強さを褒めてくれた。
「カラス、うそはいわないで」
「嘘ではないよ、金平糖のつぼと一緒にがふみが入っているはずだよ。ああ、おまえは字が読めなかったね。連中が迎えにくる夕方までは、まだ間があるから、わたしの話を聞きな」
 カラスは、サヨに話し始めた。

 
 青竹の山みちに茜色の夕陽がさすころ、カラスの言うとおりに男たちがやってきた。
 さかんに鳴くヒグラシの声に紛れて、男たちの話しはあまり聞き取れなかったが、指一本くらい……という不穏な言葉がサヨの耳には聞こえた。
 ここで怯えてはだめだ。サヨは大きく息をすると立ちあがった。男たちはあからさまに声をあげて後ずさった。
「おでむかえ、ごくろうさまです」
 サヨは深々とおじぎをした。男らは、二言三言意味のない声をだしてから、とりつくろうようにサヨにあいさつを返した。
「も、もうじき日が暮れますんで迎えにあがりました」
「それは? なにか、はこぶのですか」
 一人の男は縄を、もう一人は長い杭を持っていたのだ。
「いえ……その、明日はこちらの先で仕事がありまして。ついでと申したら失礼ですが、明日使うものをあらかじめ置いてこようと、な?」
 縄を持つ男が杭を持つ男へと話しかける。ぎこちなく立ち尽くす男たちに、サヨは何も分からないふうに小首をかしげて微笑んで見せた。笑顔を作りながらも、心の臓は冷えた。 
 カラスの言ったとおりだ。
 サヨは、カラスから聞いたことが、嘘ではないという確かな手応えを感じた。
 男らは、サヨを運ぶ用意をしてきたのだ。ほんらいなら、毒入り金平糖でサヨは動けなくなっているはずだった。まさか、サヨがぴんしゃんしているなどと思いもしなかったのだろう。今も視線をさ迷わせ、しどろもどろだ。
「あ、あっしは先に、ハナさまへ知らせて参りますんで」
 杭をかついだ男は、もう一人から縄を奪うようにして、いま来た道を足早に戻って行った。
「ご案内いたします」
 先をゆく大きな男の背中を、サヨは唇を引き結んで見つめた。

 夫の妹・ハナが養生のため嫁ぎ先から移り住んだ屋敷は、思ったよりも小さかった。山みちとおなじように竹に囲われ、ささやかな庭の木槿むくげが花ざかりだ。
 サヨは通された土間で、屋敷のなかをぐるりと見渡した。裕福な家がそうであるように、太い梁と柱で造られ、床は黒く鏡のように磨かれていた。土間の左手から縁側が伸びている。縁側ぞいに障子が続いているが、中ほどに障子が開いている一間がある。そこがハナの部屋なのだろう。
 サヨは出された桶で足を洗うと、ハナへと目通りされた。

あねさま、ようお越しくださいました」
 義妹のハナは、サヨよりも二つほど年上だ。重ねた布団に背中をあずけ、大きな腹に押しつぶされそうになっていた。臨月近くなっても、難儀なことに悪阻つわりが続いているのだ。嫁に行く前のハナをサヨはあまり知らない。サヨと青斗の祝言にも悪阻を理由に顔を出さなかったのだ。
「おかしを、とどけにまいりました」
 サヨは、青白く顔がむくんだハナに、金平糖の壺と姑からのふみを差し出した。両手をついて挨拶をしたとき、妙に甘い匂いが鼻を突いた。
 ――子をはらむと息が生臭くなるから、匂い消しに香を焚いているだろう。
 これも、カラスが教えてくれたとおりだ。
 ハナは添えられた文を開いて目を通し、数度うなずくと二重のまなこを三日月のように細め、口の両端を引き上げた。
「歩きどおしで、さぞお疲れになったでしょう。夕餉を用意いたしますゆえ、さきに風呂などいかがですか」
 ハナは口元を袖で隠し、サヨにすすめた。屋敷の奥の方から皿や鍋がぶつかる音や足音が、聞こえる。サヨのための食事など用意されていなかったのだろう。あわをくって準備しているに違いない。
 ――今日、屋敷にいる連中はみんなして、あんたを待っている。ま、あては外れるわけだが。
 そう、待っていたのだ。動けなくなって棒にくくられ運び込まれるサヨを。
「ありがとうございます。でも、つかれすぎて何もたべられそうにありません。先に休ませていただいてもよいですか?」
 ハナは、瞬間目を丸くしたが笑いをこらえるようにして、うなずいた。
「姉さまは、素直なおかたですこと。奥の座敷に床をのべましょう」

 食事を断ったサヨだが、ハナはサヨへ風呂に入るよう何度もすすめた。サヨは丁重にことわり、手桶に湯を一杯だけ貰った。
 ――隙を見せてはいけないよ。奴らは、きっと夜にやってくるだろう。
 サヨが通された部屋は、廊下の一番奥の座敷だった。障子は開かれ、月明かりに照らされる庭が見える。吊るされた蚊帳の中には、寝心地のよさそうな床がのべてあった。サヨは浴衣に着替えて、床へと入ったが目は冴えている。


「夜には行くから先に一人で食べるなと、書いてある」
 姑の文を読んだカラスが、教えてくれた。サヨは目を丸くした。食べる? 誰を?
「おまえを食べるだよ、奴らが。そうやって今まで何人も食べられてきたんだ」
「カラス、なにをいってるの」
 サヨは頭を左右に振った。カラスは体の羽根をふっと膨らませて座りなおした。
「奴らは人を喰らう魔物だ。人の形をまねているだけだ」
「そんなわけない。ご主人様も奥様も、わたしによくしてくれるんだよ。しゅうげんをあげてからは、はたけしごとにも出なくていいって、いえのなかのしごとをしていなさいって」
 サヨは、子どもの頃からずっと野良仕事ばかりしてきた。暑い日も、冷たい雨が降る日も、毎日まいにち田畑で暗くなるまで働いた。顔は日に焼け、手足はひび割れていた。
 それが今は、生来の色白さを取り戻し、手足はなめらかになった。それもこれも、青斗をはじめ、舅姑たちの配慮のたまものだ。
「日に焼けて固くなった皮を喰いたくないんだろうよ」
 カラスは事もなげに答えた。
「サヨ、おまえはどうして嫁になれたと思っている」
「そ、それは……青斗さまは、わたしが働き者だからと……」
 美しいと呼び声高い庄屋の娘よりも、賢いといわれた造り酒屋の娘よりも、夫の青斗はサヨを選んだ。
「そうだね、あんたは働き者だ。それに、やさしいところがあるよ。年寄りの仕事を引き受けたり、牛小屋に住みついた猫のめんどうをみたり。みんなみたいに、あたしらに石をなげない」
 そうだ、青斗もそういった。いつも懸命に働くサヨを見ていたと。サヨは胸の前で手を強く握った。
「あんたが嫁になれたのは、おあつらえ向きだったからさ。奴らにとって。身寄りがいない娘はうってつけなんだよ。あんたの様子が変わっても、気づかれないってことは」
「なんで、わたしのようすがかわるのよ」
「……ハナは、おまえになり替わる。おまえを食べたあと、サヨとして館《やかた》に戻るんだ」
 サヨは意味が分からず眉を寄せた。ハナが嫁いだのは、去年の春のことだ。今は悪阻が酷くて生家の別宅で療養している。
「だって、ハナさまは……ハナさまの旦那様は」
「そんな奴はいない。ハナはどこへも嫁いでいない」
 ハナの花嫁道中を去年の春に遠くから見たサヨは、カラスの話が信じられなかった。
 どこへも嫁いでいない。ならば、ハナの腹の父親は誰なのだ。
「やっぱり、カラスのいうことなんてしんじられない」
 サヨは荷物を背負って身支度をした。
「サヨ」
 カラスは立ち上がり、サヨの前に歩み出た。緑いろの光の中で、カラスは練られた墨のような艶やかな翼を広げた。
「見よ」
 くちばしを地面に向けたカラスをサヨは見た。サヨは喉をきゅっと鳴らし目をみはった。


 サヨは眠らず、布団の中にいた。縁側に背を向け、屋敷の音を聞きもらすまいとした。屋敷の中はしんとしている。さして多くはないと感じられた使用人たちがいるようにも感じられない。
 開け放たれた障子からは、じっとりとぬるい風が吹いてきて蚊帳を揺らす。寝苦しい暑さのはずだが、サヨは薄手の布団をしっかりかぶった。そうしていないと、体のふるえを止められないと思ったのだ。
 満月が空の真うえをすぎるころ、竹薮がざわざわと鳴った。引き戸が静かに開けられる音と密かに交わされる声がする……。
 サヨは天井を見るように、寝返りをうった。迷い込んだ蛍が蚊帳にとどまり、明滅した。
 銀色の月の光が、障子に影がさした。すり足なのだろうか。ずるずると這うような音と廊下がきしむ音が重なる。
 サヨはふるえを落ち着かせるために、大きく呼吸を繰り返し、ゆっくりと身を起こした。
 やがて大小の影が畳に映し出された。サヨは布団のうえに正座して影たちと向き合った。
 すらりとした影は、青斗だろう。重そうな腹を抱えるハナを母親とで両側で支え、しんがりは父親だ。たぶん、縁側の端のほうには使用人たちが息をひそめて雁首を並べているのだろう。
「みなさま、おそろいで」
 サヨは背筋を伸ばし、青斗たちへ声をかけた。びくりと四つの影が動いた。
「わたしへ、つかいをまかせたことが、そんなにこころもとなかったですか」
「いや、そんなことはないよ、サヨ」
 青斗の優し気な声が応えた。こんな夜更けにハナのところを訪ねる理由がないはずなのに、青斗はいたってふだんどおりだ。
「ただ、心配でね」
 青斗が畳の縁を踏むのが見えた。
「こないで! ハナさまの腹の子は、青斗さまの子ですね」
 こんどこそ、青斗の動きが止まった。ハナと舅姑の影が揺らいだように見えた。
「だれがそんなことを」
 くぐもった青斗の声が、動揺を伝える。
「あいつだね、おしゃべりな鳥。うそだよ、サヨ。あいつにたぶらかされちゃ駄目だよ!」
 下卑た言葉が、ふだんしとやかな姑の口から飛び出した。
 カラスは言った。青斗が父親だと。
 ――財産を減らさないためには、どうすればいいと思う? 血縁者を増やさないことさ。奴らは親子兄妹で子どもを作るんだ。船で海の向こうから渡ってきてからの歳月、そうやって過ごして来た。こちらの神々を恐れ敬わず、禁忌を犯し人を食う。
 頭のめぐりが少しばかり遅いサヨにさえ分かった。自分と青斗がしとねのなかで交わすもの。それは兄妹でやってはいけないことなのだと。
 禁忌を繰り返し、青斗の家は分限者になった。途中途中で、若い女を食べて。
 ――おまえを食べたなら、ハナはおまえになり替わる。しれっと、青斗と夫婦として暮らすんだよ。
 たしかにサヨは贄にうってつけだろう。尋ねて来るものもいなければ、サヨのかわりように気づくものもいない。
「そうだよ、サヨ。だまされちゃいけない。あいつらは嘘しか言わないからな」
 青斗はまくし立てた。
「なぜ、名まえでよばないのですか」
 怖くて口にできないのだ。カラスの名前を。 
 四つの影が低く唸りながら重なる。身を寄せ合ったのかもしれない。
 サヨは額に珠の汗を浮かばせたまま、懐に手を当て、片膝を立てた。
 ――こんや屋敷にいる連中は、旦那様から下っ端までみんな血がつながっている。奴らは身内で血をつないでくるうちに、他人ひとと自分との区別がつかなくなっているんだ。
 畳にじわじわと闇が広がる。サヨは蚊帳越しに見定めようとした。自分にできるだろうか。でも、やらなければ、生きたままで食われるだけだ。
 ――ひとつだけでいい、サヨ。覚えるんだ。奴らを倒す言葉を。
 墨を流したような黒の中に黄色の双眸が現れ、獲物を狙うように揺らめいた。サヨは息を整えた。
 ――迷うな、叫べ。
消失xiāo shī蛇等shé děng!」
 蚊帳を跳ね上げ飛び出したサヨは、カラスから託された短刀で畳の瞳を突き刺した。
 耳を聾する咆哮が屋敷を揺らした。サヨは悲鳴を上げそうになったが、こらえて叫んだ。
「ヤタガラス!」
 叫ぶと時を同じくして月が隠れた。かと思う刹那に、畳の上でのたうつ影へ障子を突き破り、三本足のカラスが殺到した。
 細かくちぎれた影をヤタガラスが襲う。ねじくれ、飛ぶものたちの足に絡みつく蛇と、鋭い嘴との攻防は、長くは続かなかった。蛇が次々とヤタガラスたちについばまれ、引きちぎられ食べられるさまを、サヨは座敷の隅にうずくまってみていた。圧倒的な数のヤタガラスの勝利で間もなくすべてが終わった。
 いつのまにか、夜明けが近づいていた。座敷にはカラスの羽根がちらばり、無数の足あとがついていた。
 天井を見上げると、屋根が破れて薄明るい空がのぞいている。サヨがよろよろと庭に出ると、屋敷は百年も時が過ぎたように傾き古びていた。庭に残された木槿むくげにもたれ、サヨはへたり込んだ。
 軽い羽音とともに、三本の黒い足が見えた。
「サヨ、ようやった。ようやく奴らを駆逐できた」
 カラスは投げ出したサヨの掌に、頭をそっと乗せた。
 小さな温かさに触れると、サヨの両目から涙が流れた。
「みんな、みんななくした。あたしには、なんにもない。またひとりだ」
 声に出すと、いまさら何もかも失ったことをサヨは知った。すでに母もなく、戻る家もなくなった。
 泣き止まないサヨに、ヤタガラスは金平糖を一つ渡した。
「なら、それを喰って終わらせるか」
「ひ、ひどい、ひどいよカラス……」
 金平糖はサヨの手の中で甘い香りを放った。食べればよかったのだろうか、あの山みちで。カラスになど耳を貸さなければよかったのだろうか。自分の命と新しい家族や暮らしを天秤にかけたのは、間違いだったのだろうか。けれど、生きたまま喰われることなどサヨは望まなかったのだ。
 サヨは鼻をぐずぐずさせながらも、泣き止んだ。
「おまえは、正直で働き者だ。それに、度胸もある。大丈夫だ」
 かあかあと、サヨの頭の上でカラスたちが鳴き始めた。見あげると、雲間から青空がのぞいていた。雀の声も、啄木鳥が木をたたく音も聞こえる。
「礼は、させてもらうよ!」
 そう言うと、カラスは舞いあがった。
「カラス、カラス!」
 サヨはやにわに立ち上がり、カラスの姿を追った。素足のまま、竹の林を抜け笹をこぎ獣道をたどった。どれくらい走っただろう。息があがって立ち止まると、背後から声をかけられた。
「どうした、こんな山みちで」
 驚き振り返ると、粗朶そだをしょった親子らしい男たちがいた。
「……道に迷ったのか」
 サヨはうなずいた。
「なんでもします、なんでもするから、あなたの村へつれていってください」
 頭を下げるサヨの頭のうえで、カラスの声がした。


 それから、新しい村でサヨは働いた。田畑を耕し、蚕を養い、縄をない……。誰よりも働いた。
 青斗の屋敷は、落雷で焼けたと風の噂で聞いた。早くに気づいた使用人たちは助かったが、逃げ遅れた青斗と両親は焼け死んだと。ハナの消息は誰も知らないようだった。
 口が悪いといえども、熊野神社の使いだ。ヤタガラスたちが始末をつけたのだろう。
 やがてサヨは山道で最初に会った男と、夫婦になった。
 覚悟のしるしとして持っていた金平糖はいつの間にか失くし、今は甘い乳の香りのする赤子を抱く。
 あの村にある母の墓参りが出来ないことだけが、サヨの唯一の心残りだ。
 カラスに会った日、四辻と地蔵のまえにあった赤い花。あれほど頭の中で繰り返した館までの道。
 けれど、とうに帰り道は忘れた。
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