上 下
1 / 7

種の元

しおりを挟む
 「どうですか? 職場には慣れましたか?」

 社員通路を二人で歩きながら、部長が俺、白河櫂斗しらかわかいとに聞いてくる。
 橘亜沙子たちばなあさこ。社内では初の女性部長だ。

 昔から知っている顔だが、その態度には、旧知の馴れ馴れしさも媚びるような卑下た浅ましさもなかった。張りつめた糸のような程よい緊張感と清廉なまなざしを持ったこの女性は、社長である父の片腕でもあり、社員からは女帝と言われていた。彼女の一言で会社が動くとまで言われ、影響力は絶大だ。

 うちは百貨店経営が主であるが、不動産関係など複数の会社も手掛けているため、父も一つのところに落ち着いているわけにはいかない。
 いずれは俺が百貨店を継ぐことになっているが、今年大学院を卒業し会社に入社したばかりだ。
 社長子息とはいえ、ベテランの社員から見れば、世間知らずなお坊ちゃんに過ぎない。当然見る目も厳しい。次期社長としてどれほどの手腕を持っているのか、品定めされている感は拭えない。この中をこれから、上手に渡り合っていかなくてはならない。

 全てが敵とは言わないが、全てが味方ともいえない。中には腰低くしっぽを振りながら、阿って来る社員も少なからずいる。何故か中間管理職の人間に多いが。

「そうですね。少しは……」

 話を続けようとしていた時に、

 どんっ。

 突然、猪でも激突してきたかのような、かなりの衝撃を肩のあたりに受けた。
 不意打ちとはいえ、その衝撃で後ろによろけてしまった。ジムで鍛えているはずなのに、男としてちょっと情けなかった。と同時に、

「いったーい」

 俺の目の前で痛みを訴えるように叫ぶ女性の声が聞こえた。
 見ると、自分以上に衝撃があったんだろう、床に手をついて転んでいる一人の女性。

 床に倒れ込んでしまった彼女は、

「いたたたっ」

 転んだ拍子に打ち付けてしまったのか、腰のあたりをさすっていた。声の調子ではひどくはなさそうだったが、彼女のそばではバックから書類やファイルが飛び出していた。

 なぜ、ぶつかってしまったのか⁈

 社員通路はわりと広い。大の大人が四、五人はゆうに歩ける広さだ。
 俺と橘部長は右の端を歩いていて、通路の半分はあいていたはずだった。それに俺の姿を見た社員は、必ずと言っていいほど通路の端に寄り会釈をして通っていく。それなのに、避けるどころかぶつかってくるとは。

 話をしながら歩いていたとはいえ、彼女の存在には全く気づかなかった。かなりの勢いで走ってきたのかもしれない。どんな理由にせよ、ぶつかるとは考えにくい。どこに目をつけていたんだろう。

「大丈夫? 芳村よしむらさん」 

 呆れて彼女を見ていた俺の横から、橘部長が心配そうに声をかける。
 やっと、上半身を起こした彼女が俺達を見上げた。

「あっ。橘部長」
 
 驚いたように声をあげた彼女は、

「すみません」

 ぺこりと頭を下げて、急いで起き上がろうとした。

「大丈夫か?」

 俺は彼女の目の前に手を差し出した。突進というに相応しいぶつかり方だったから、もしも怪我をしていたら大変だ。 
 どこからか降ってわいた声のように聞こえたのか、彼女はびっくりしたように俺の手をじっと見つめ、それから顔を見た。
 見開いた茶色の瞳が俺を捉える。ほんのり上気した頬。きゅっと引き結んだ唇。艶やかに輝く長い髪。ピンク系のパンツスーツ姿。店内の制服姿でないところを見ると内勤者なのだろう。

「はい、すみません。もしかして、ぶつかってしまいましたか?」

 ぶつかった時の体の感触を思えば、橘部長でないことはわかったのだろう。 
 
「ああ、こっちは大丈夫だ。君は?」

「わたしも大丈夫です」

 俺の言葉にほっとしたのか、微かに笑みを浮かべて一人ですくっと立ち上がった。

 思いもしなかった彼女の行動に目が点になってしまった。ここは恥じらいながらでも手を取るところだろう。それなのにあっさりと俺を拒むとは。差し出した右手は宙に浮いたまま。
 どうすればいいのか。自分がものすごい間抜けに見える。
 仕方なく手を下げ、こぶしを握りしめる。

 彼女の体を心配して手を差し伸べてあげたのに。この手はしっかりと彼女の視界に入ったはずなのに、見事に無視されてしまった。好意を無下にされてしまった時ほど、虚しいものはない。この気持ちをどこに持っていけばいいのか。さらにこぶしに力が入る。

 一人で元気に立ち上がった彼女は洋服の埃を軽く払い、書類などをバッグにおさめると、はっとしたように腕時計に目を向けた。

「あっ! ヤバい。時間。遅刻する」

 焦った声をあげ、急いで走り出そうとした。

「芳村さん、通路は走らないのよ」 

 橘部長の小学生並みの注意に足を止め、振り返ると、

「すみませーん。会議に遅れそうなんです。今日だけ見逃してくださーい」

 ありふれた言い訳を悪びれず大きな声で言ったかと思うと、踵を返して言葉通り走り去ってしまった。
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

あなたと恋に落ちるまで~御曹司は一途に私に恋をする~ after story

けいこ
恋愛
あなたと恋に落ちるまで~御曹司は一途に私に恋をする~ のafter storyになります😃 よろしければぜひ、本編を読んで頂いた後にご覧下さい🌸🌸

あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。 「俺ね、ダメなんだ」 「あーもう、キスしたい」 「それこそだめです」  甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の 契約結婚生活とはこれいかに。

一目惚れ、そして…

詩織
恋愛
完璧な一目惚れ。 綺麗な目、綺麗な顔に心を奪われてしまった。 一緒にいればいるほど離れたくなくなる。でも…

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

王子様、あなたの不貞を私は知っております

岡暁舟
恋愛
第一王子アンソニーの婚約者、正妻として名高い公爵令嬢のクレアは、アンソニーが自分のことをそこまで本気に愛していないことを知っている。彼が夢中になっているのは、同じ公爵令嬢だが、自分よりも大部下品なソーニャだった。 「私は知っております。王子様の不貞を……」 場合によっては離縁……様々な危険をはらんでいたが、クレアはなぜか余裕で? 本編終了しました。明日以降、続編を新たに書いていきます。

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

瀬崎由美
恋愛
穂香は、付き合って一年半の彼氏である栄悟と同棲中。でも、一緒に住んでいたマンションへと帰宅すると、家の中はほぼもぬけの殻。家具や家電と共に姿を消した栄悟とは連絡が取れない。彼が持っているはずの合鍵の行方も分からないから怖いと、ビジネスホテルやネットカフェを転々とする日々。そんな穂香の事情を知ったオーナーが自宅マンションの空いている部屋に居候することを提案してくる。一緒に住むうち、怖くて仕事に厳しい完璧イケメンで近寄りがたいと思っていたオーナーがド天然なのことを知った穂香。居候しながら彼のフォローをしていくうちに、その意外性に惹かれていく。

処理中です...