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第百五十六回 高俅の提案

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──首都開封の夕暮れ時。

 都を眼下に一望できる場所にその女はいた。優雅な佇まいで家路へと忙しなく向かう人々を無言で見つめている。

 しかしその視線は人々を捉えておらずどこか別の場所を見ているようでもあった。やがてわずかに女の口の端があがる。

(間もなくじゃ。もうすぐ妾の手元に『石』が戻る。そうすれば……ふふふ)

「高俅……しっかり働いてくりゃれ」

 女は妖艶に微笑んだかと思うとまるで風景と同化するかのように静かに姿を消していた。


──数日後。蔡京の屋敷に高俅、童貫、楊戩が集まる。復職させようと動いてくれた彼らに感謝を示すため蔡京が招待したもので息子の蔡攸も同席していた。

 三人を代表して高俅が陛下の気持ちは揺らいでいるのであと少し辛抱してほしいと告げる。蔡京は頷き形式通りの返礼をしてみせた。

「高俅殿には使節団の任務を『忠実』にこなしてもらっただけではなく今回の事でも世話になった。何か礼を考えねばならぬな」

 蔡攸は父のこの含みのある言い方で何故この場に自分を同席させたのかを察する。以前高俅が林攄に釘を刺したという内容を報告したので念のためその真意を聞き出そうとしているのだと。

「……」

 高俅は黙っていたが顔色ひとつ変えていない。だが蔡京の意図は察したようでおもむろにこんな事を口にした。

「それでは賊の討伐に軍を動かす事を認めていただきたいのですが」
「地位や品ではなく賊の討伐と?」

 その場にいる者が思わず呆気にとられる。

「蔡京閣下の大望は私めもよく存じております。それに反対する気など最初からありません。しかしながら遼との戦は一戦だけで終わるものではないでしょう」

 高俅は冷静に状況を分析し説明してみせた。

「我が国の兵は他国に比べて決して強いとは申せません。国内で我等が栄華を享受するには役に立っても戦において過信していれば思わぬ落とし穴にはまりまする。まずは正しい戦力と戦い方を把握する必要があるかと」

「西夏との国境問題が落ち着いているのは遼が仲裁に入ったからであり、その遼と戦端を開けば西夏もこれ幸いと動き出し最悪二カ国と同時に戦わねばいけない事態となります」

「そこでまずは国内で目立つ賊を討伐し部隊の連携と練度を洗練するのです。戦力の把握にも繋がり戦いをおこす上で有用かと」

 至極真っ当な見解であったので皆黙って聞いている。その上で蔡京に問う。

「蔡京閣下。北京から賊の討伐に力を貸してほしいと連絡がきておられるのでは? 丁度良い機会だと考えます」
「む。確かに来ておるが」
「どうもその梁山泊に巣くう賊には官軍出身の者まで加わり勢力を拡大している様子」

 青州の軍が山賊討伐に失敗したのもこの梁山泊が関係していると告げられると童貫や楊戩からも驚く声があがる。

「これは既に賊ではなくいわば……梁山泊軍。油断できる相手ではありません」
「軍とまで申されるか!?」

 それだけ賊という存在を軽く見ていた訳だが高俅はさらに蔡京を納得させる為の材料を持ち出す。

「ですがこの梁山泊軍を討伐できれば閣下にも恩恵がございます。どうも閣下への生辰網を強奪した一味もこの地に逃げ込んでいるようでして」

 賊が勢力を成長させた理由としてその生辰網の可能性を示唆する高俅。

(賊を排除してしまえば北京からの賄賂が今後届きやすくなるのはわかってはいたが……さて)

「さらにもうひとつ得がございます」
「ほう」

 高俅は一度姿勢を正してから言う。

「この軍事行動。閣下の失職中に某が陛下に進言して実現させてみせます。さすればその責任は全て私めが負う事になり皆様が追及される可能性は皆無でしょう」

 童貫と楊戩は興味と理解を示す。

「成功してもその功績は賊討伐程度のもの。失敗した時に比べて割りに合わないのは確かですから高俅殿の名乗りは有難い話ではありますなぁ」

 この言葉こそ彼らが腰をあげない理由。

 楊戩は梁山泊付近の石や木や魚、果ては草や水にまで税金をかけていた悪臣。当然それらは税金を払えないため、管理する者や舟を持つ者が取り立てを受けていた。その政策は事実を知った徽宗から即刻廃止されてしまったが、そんな経緯もあって阮兄弟をはじめ石碣村出身の者などにはかなり恨まれている。

 楊戩もそういった者達が梁山泊へ流れ賊となった点に気付き、これを排除してくれるなら有難いと賛同した訳だ。

「実は私めが今の地位に至るまでに追い落としを図った者どもが追手をかわし梁山泊に逃げ込んでいると知り、後の禍根となる前に叩いてしまいたかったという点もあるのですが」

 ここで高俅は自分の都合を述べた。この場にいるのは本来自分の利益優先の者達ばかり。だからこそ四奸臣などと揶揄されている。そんな者が無条件で他人の利益の為だけに動くなど不自然極まりない。

 最初は高俅の真意がわからず腰が重い部分もあったかもしれないが、皆の利害が一致する話としての提案となれば反対する者は出てこない。満場一致でこの件は高俅に任せる方向で話が進んだ。


──時間が経過し見送りを済ませて戻ってきた蔡攸。

「父上。皆様お帰りになりました」
「そうか」
「あ、あの父上。高俅殿のことで聞きたい事が……」
「申してみよ」

 蔡攸は畏まる。

「高俅殿はその……昔からあんな人物だったのですか? 私は……失礼ながらもっとならず者のような方だと思っておりましたが……」
「奇遇よな。儂もそう思っておった。つい先程までな」
「父上も。しっかりとした見解に加えてあの情報量。一体どこから……」
「さてな。環境が奴を変えたのか心境に変化が起きたのか。高俅という男の評価の見直しが必要かもしれん」

 蔡京は軽く笑う。

「蔡攸よ。儂ももう高齢。いずれ儂の座には息子のお前が座るものだとばかり思っていたが」

 父である蔡京は息子である蔡攸に高俅相手に隙を見せてつけこまれぬようにとの助言を与えた。

 高俅がまだ野心を抱き、それを隠しているなら警戒は必要な人物というのがこの父子の共通認識となる。

 そんな高俅が梁山泊討伐計画に着手しはじめた頃──

 登州出身の楽和は王家村の劇団一座に所属し、長年の夢であった得意の歌で身を立てる事に成功していた。

 そこで心配していた親族に対して報告がてら故郷に錦を飾りに一度帰郷しようとしたのである。

「へへっ。土産もたくさん用意したし皆きっと驚くぞ」

 だがいざ帰郷してみると、親族の反応は楽和が考えていたようなものではなかった。それどころか到着したその日に判明した『大勢の親族』が関わろうとした事件に楽和自身も巻き込まれてしまう。


──楽和がその扉に手をかけて開くのと中から女性の怒声が聞こえたのはほぼ同時であった。

「断るのなら死ぬまで戦う! さぁどっちだい!」

 体格のよい女性が男に刀を突き付け凄んでいる。男もそのあまりの剣幕に圧されているようだ。その二人の周囲にも男が三人いるが皆緊張した面持ちだ。とても気軽に声をかけれそうな雰囲気ではない。

「……くっ。分かった。俺も手を貸す」

 刀を突き付けられていた男がどうやら折れたのか何やら承諾したようだ。場の緊張感が一気にゆるむ。

「感謝するよ。これできっとあの二人を助けられる。強引なやり方をしてすまなかったね」
「いや……承諾したからには俺も覚悟を決めた」
「酒場で見せ物でも始めるの? その練習?」
「見せ物じゃないよ! いや、その前にこの場を見たからには帰す訳には……って楽和かい!?」

 そこではじめてその場の者達が楽和の存在に気付くのだった。

「これは皆さんお揃いでー。って言っておけばいい? で、義兄さん脅してまで何やろうとしてたのうわ!?」

 楽和が言い終わらない内にその女性に詰め寄られ両肩を掴まれる。そのまま激しく揺さぶられた。

「私の従弟の解珍と解宝の兄弟を知ってるだろ? あんたも協力しておくれよ!」
「ぐぅええ!? ままままずは落ち着いてなななにがあっあったかせせ説明してぇぇ!」

 一人の男が楽和を助けるために割って入る。

「あ、ありがとう孫新さん。うう……土産よりも先に自分の中身が出ちゃうかと思った」
「妻も身内の危機に焦っていてな。すまない」

 男はこの酒場の主人で孫新。妻とは顧大嫂という名の肝の据わった女性だ。腕っぷしが強く並の男では相手にならないので女傑と言われていて雌の虎(大虫)、を意味する母大虫というあだ名まである。

 この彼女の従弟で猟師をしている兄弟が無実の罪で牢に入れられたのだという。どうも地元の長者と一悶着起こした事が発端のようだった。
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