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第百五十四回 蔡京の罷免

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 一一○七年、冬。都に激震が走る。あれだけ権勢を振るっていた宰相の蔡京がその職を解かれ自宅謹慎となったからだ。

 原因は遼への使節団の一件。徽宗の意思は国境問題仲裁への感謝とお互いの良好な関係の維持。だが戦争を望む蔡京は密かに林攄に命じて遼へ対して挑発行動をとらせその役目をねじ曲げた。

 この事実がどこから伝わったのか徽宗本人の耳に入り、怒った彼が蔡京を罷免したのである。

 蔡京にとってこれは誤算であった。激昂した徽宗を宥める事ができなかった彼は、言い逃れもできずその場で謹慎処分を言い渡され屋敷から出られなくなる。

 蔡京としては当然この事実を徽宗に伝えたのが誰かを探しだそうとし、調査を息子の蔡攸に命じるが芳しい結果をあげる事は出来なかった。

 徽宗から信頼されている蔡攸は本人や周辺にも慎重に探りを入れたが父の喜ぶような情報は掴めない。そもそも宰相である蔡京が言い逃れ出来なかったのも徽宗がその時の使者……林攄の言動をまるでその場で見ていたかの如く責め立てたからだ。当然林攄もその場で処罰され、役職を解かれ身分も平民に落とされた。

 蔡京も役職を剥奪されたとはいえ自宅謹慎となっているのは徽宗の情による部分であるもの。一時的な処置で望みはあるのではないか。蔡攸はこう考えた。

(こういう時は一番得をした者が疑わしいというが……)

 蔡攸が手詰まりになった理由はこれだ。蔡京が罷免された事で誰かがかわりに宰相になった訳でもなく、権力を握ったり財産を増やすような者もいなかった。と、なると身内からの告発を考慮せざるを得ない。

「事実を知る者は限られておるし、今更そのような愚行をするとは思えんがな。わざわざ藪をつついて蛇を出したいとは考えまい」

 父である蔡京はこう言った。告発した事でその者に注目が集まり、過去を暴かれれば結局破滅するのだからそのような真似はしないという。

「しかし父上。勢力を増した政敵もいないとなると……」

 蔡攸はひとつだけ気になる点があったがそれを伝えるべきか否か悩んでいた。だが蔡京はそんな息子の悩む姿を簡単に見抜く。

「蔡攸よ。何か引っ掛かる事があるのだろう。構わぬ。申せ」
「父上の目は誤魔化せませんか。杞憂かもしれませんが実は気になるお方が一人。その方はある意味得をしており処罰もされておりません」
「ほう」
「さらに陛下がその場を見ていたかのような言動とやらもその方から陛下の耳に入ったと考えれば辻褄があいます」

 蔡攸の言う人物とは正使の林攄に副使として同行した高俅を指していた。

「調べましたが高俅殿は林攄殿の役目を確認するような言があったともありますし、現在も父上と立場を異にする旧法派の者に援助を続けているとの話もございます」

 高俅は出世する以前、ある旧法派の人物の世話になっており、その者が新法派である蔡京に追いやられて衰退してもその時の恩義を忘れず、現在も一族への援助を続けている。

「高俅か……確かに義理堅い部分はあるがそれは儂にも同じであろう。それにあやつは義理以上に計算高い。儂と対立する事がいかに危険か分かっておる。情報源があやつなら儂はもっと早くこうなっておった」

 蔡京は蔡攸の懸念を払拭した。結果から先に言えばこの蔡京の見解は正しい。

「もし遼から直接陛下へ苦情が届けば今回の様になったかもしれん。が、そんな動きはすぐ耳に入るからな。お主は儂が動けぬ間陛下周辺の動きを逐一報告するのだ」
「はい父上」

 遼での使節団の言動。その場で見ていた者が宋国の者だけとは限らない。蔡京も長い間そういう世界で生きているだけあった。が、彼の持つ情報だけでは真実には辿り着けない。

 この情報は林攄に憤りを感じた洞仙から梁山泊の王倫、呉用らの前でつぶさに語られ、今度はその軍師呉用から王家村に来訪していた徽宗の側近、宿元景と知恵者である聞煥章へと直接伝えられたのだ。利用されない訳がない。

 彼らの講じた周到な策により徽宗に直接情報が伝わり蔡京は罷免となった。

「これは三国志で言うなら司馬懿の存在に手を焼いた蜀側が彼を失脚させる為に打った一手。流言で権威を失った司馬懿ですが一時的なもので後にまた復帰します。諸葛亮はこの間に軍事行動をおこしますが我らに同じ事はできません」

 蔡京の排除も一時的なものになるだろうがその間に次の手を打つ事は可能。諸葛亮は軍事力に頼ったが結局成果は得られなかった。

「そこでもし蔡京の排除に成功したならば……」

 蔡京不在の間に反奸臣派の者達が動き始める。また蔡京罷免の件を知った張叔夜もこの機会を有効に利用するべく動いていた。

 組合実現の目処はまだ立っていなかったが、北京の盧俊義が王家村へ向かったという報告は監視に残した部下から受けていた為、遠からずこの東京に盧俊義が自分を訪ねてくるという確信めいたものは抱いている。

(あの村を見て心を動かさぬ者はおらぬ。彼は必ず動く)

 そしてその盧俊義は張叔夜の思惑通り王家村にてそれまでの概念を打ち壊される事となった。黄承彦と名乗り潜入している張叔夜の部下、凌振と接触した盧俊義は彼が得た村の情報なども教えられながら滞在を続ける。

 しかし盧俊義もまた商工会に関する知識を得ようと動きすぎて怪しまれてしまう。裁判所までの同行を求められるものの張叔夜の時とは違い身元がはっきりしていたので事なきを得た。それどころか逆に自分の店が北京にある点を有効に説明し、取引契約を結ぶにまで至る。転んでもただでは起きなかった。盧俊義はこれらの成果を土産に張叔夜の計画に参加するため一度東京へと向かう決意を固める。

 一方望む成果があげられない凌振。ある日王家村で起きた重大な事故に遭遇し足踏み状態からの脱却が見えてくる事になる。その事故とは──

 安道全と桃香のもとに火傷の患者が運ばれてくる。患者は四人でいずれも男性。軽度な患者二名と重傷者が二名。軽傷者は王英と鄧飛だった。

 重傷者の方は安道全と桃香の懸命な治療によりなんとか一命をとりとめるがとても話せる状態ではない。

 王英と鄧飛が火傷した理由。それは黄承彦が湯隆にもちかけ、募集しようとした「黒色火薬」の武器への転用案である。良い発想には賞金が出ると聞いて王英は黒色火薬を詰めて火をつけた竹筒を槍の先に結んで振り回す案を。鄧飛は縄の両端に黒色火薬を詰め火をつけた竹筒を投擲武器として使用する発想を思いつく。

 お互いがそれを使用して手合わせをしてみた結果が今回の患者になった理由だった。

 武器としては火がついているので牽制にはなるが火力としては弱く、軽い火傷を負わせるのがせいぜいで、ばれるまでなら威嚇に使えるかも知れないと判断されたらしい。それでも改善の可能性を考慮され賞金の一部を貰った二人は満足げだった。

 鄧飛と王英の一件は些細なものであったが、重傷者の案件は王倫はじめ梁山泊の知恵者が動員される事態となる。なぜならこの二人は純粋な村民で作業従事者であり武芸の心得もなく作業で黒色火薬など扱っていなかったのだから。再発防止の為にも原因の究明は必須と判断した王倫。

 二人は貯蔵庫内で作業中事故にあった。事故直後その建物は八方へ吹き飛び周囲にもその爪痕を残している。熊や虎、狼が暴れてもこうはならない。何より全身に火傷という謎が残る。そして当時この二人は発生場所の中心にいたという事まではわかった。また道士の樊瑞からこれが道術の類ではないとも報告される。

 この奇妙な事件。凌振も積極的に調査への参加を願い出て受理される。まずは当事者に話を聞こうとしたがそれはまだ無理だと桃香に断られた。

 凌振は不謹慎だと自覚しつつも周辺に影響を与えた破壊力……長年研究してきた黒色火薬の威力を軽くこえるその力が自分にひとつの答えを与えてくれるのではないか。という予感があった。

「貯蔵庫には小麦を粉にした小麦粉が箱に入れられてしまわれていた。建物は土壁で光をとりいれる穴はない」

 他にもある同じ構造の貯蔵庫を調査して情報を整理し仮説を組み立てていく。知恵者や職人達とも何度も意見交換や現場検証を行い、同じく関わった者達と信頼関係を築くのに繋がった。

「中は棚と箱で整理されていて火の気もなかった。一体何があったというのだ」

 王家村は二人を助ける者と原因を究明する者、再発防止の為に努める者達に別れ団結。村民達も二人の回復を祈った。

 王家村に暗い影を落とした出来事。しかし事実を受け止め団結して前向きに動いた行動が更なる発展への兆しを示そうとしていた。
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