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第百二十一回 医者

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 梁山泊にある杜遷の店での昼下がり。そこには少し遅めの昼食をとろうとした者達が何組かにわかれて食事をしていた。最初に来たのは史進と連れの女性。それを皮切りに旅人らしき男が一人。柴進と鄭天寿と白秀英。蕭嘉穂と孫安。許貫忠に喬冽とその弟子の馬霊が入ってきた。

「一気に賑やかになったわね」
「ほらな。梁山泊の名店って呼ばれてるだけに空いてる方が珍しいんだ」

 史進が連れの女性に説明している。旅人の男は主人と思われる人物が案内してくれた場所に座った。

 史進は旅人のすぐ後から入ってきた集団に声をかける。

「これは柴進殿。お疲れ様です。鄭天寿殿……も相変わらずか」

 村のまとめ役の柴進は礼儀作法に通じており、梁山泊の外交の使者にさせたいという鄭天寿にそれを教えていた。史進は二人をその意味と別の意味とで労った訳だ。

「あら史進さん。お連れ様綺麗な人。もしかして私と鄭天寿さんのようなあつあつの関係?」
「ははは。まぁ……ちょっとしたなじみでね」

 白秀英の後ろでぶんぶん首を振る鄭天寿を見て史進は言葉を濁す。三人はそのまま別の机へと進んで行く。

「ああ見えて彼女は東京にあった人気一座の看板だったんだぜ。今はこの村に一座ごと来て鄭天寿殿を追いかけ回してるけどな」
「そう。あちらの彼女、多分私の事も見抜いたと思うわ。似たような業種だとお互い鼻がきくのよね」

 そんな会話が旅人の耳に聞こえてくる。そしてすぐ店の入り口の方から多人数の声が聞こえてきた。

「杜遷さん、五人なんだけど席はあるかい?」
「ええ。このお客さんの奥へどうぞ」

 馬霊の問いにちょうど出てきた杜遷が旅人に茶を出してそのまま応対した。

「汗をかいたので上を着替えさせていただいてもかまいませんか?」
「じゃあ濡れた手拭いをお持ちしましょう」

 体格のよい男に要領よく答えて杜遷は店の奥に戻る。旅人の男はそれを黙ってみていた。

 次に杜遷が出てきて濡れ手拭いを孫安に渡して戻ってきた時に男はたずねる。

「店主。この店のおすすめはなんだい?」

 と。

「へへへ。お客さん旅の途中かい? うちは腹を満たす料理はたくさんあるけどこの店にしかない料理ならなんといっても『命をのばす料理』さ!」

 男の耳がぴくりと動く。

「まーた杜遷殿の料理自慢が始まるぞ」

 史進がちゃちゃをいれるが杜遷は止まらない。

 鑷子を取り入れた朱貴の店に先を行かれた杜遷は差別化をはかって挽回する事を考え、その着想を桃香に頼った。再三拝み倒された桃香は医療の観点から健康と美容に注目。体に負担をかけない薬草などを利用した食事を提案したという訳だ。

(薬食同源の考えを実行に移したという訳か。なるほど。言うのは易いが知識がなければ行うのは難しいだろうに)

「なんでも食べ物で病気を予防したり治療する考えは薬食同源という考えで昔からあったらしいのですが」

 男はやはりと思った。

「その方がいうには薬ときくと食べ物と想像せず敬遠されてしまうかもしれないので、健康と美容を連想させやすい医食同源と表現すれば良いと言っていただいたのです」

(!? ……医食同源!)

 男は衝撃を受ける。


 ※医食同源……日本での造語。現在では中国に逆輸入され使われている。


「常連客には薬膳料理と呼ばれていて、高齢者や健康志向の高い者。女性に人気があるんだそうだ。杜遷殿に何度も聞かされた」

 史進が連れの女性に言う。

「あら嬉しい。私の事をちゃんと考えてくれていたのね」
「当たり前だろう。名高い李瑞蘭を太らせたり肌荒れさせたとあっちゃどれだけの男に恨まれる事か」
「うふふ。そういう事にしておいてあげるわ」

 医食同源と聞いた男は身震いしていたが、ふとその目線は身体を濡れ手拭いで拭いている孫安をとらえた。

「……もしそこのお方。失礼ながらおたずねします。その傷は怪我や戦傷ではないようにお見受けしますが?」
「え? ああこれですか。いや病で死の一歩手前までいきまして。この傷はそれを救われたという証みたいなものです」

 孫安の言葉に喬冽達が頷く。

「その時の症状を教えていただいても?」
「え? ええ」

 今度は店内の他の頭目達が驚く事になる。旅の男は孫安の病名と桃香が行ったであろう処置を全て言い当てたのだから。

「この料理、粥ひとつとっても本当に食べる者の事を考えられている。ここまで面倒をみる医者などそういるものではない。どうやら噂に聞いた以上の人物のようだ」

 杜遷がたずねる。

「お客さんは旅のお医者さんなのかい?」

 言われて男は姿勢を正した。

「申し遅れた。某は安道全。どうかこの地にいるという名医に会わせていただきたい」

 梁山泊に神医と呼ばれる安道全が来訪し、桃香と面会を果たしていた頃。都では殿司太尉の宿元景が病床にふせっていた。

 と言っても別に流行り病が都を襲った訳ではなく、季節の変わり目で体調を崩し数日間自宅で療養していたにすぎないのだが。

「こう言ってはなんだが、たまの静養も悪くはないかもしれぬな」

 宿元景は思い返す。慌ただしかった日々を。思えば聞煥章が孔明達と引き合わせてからだ。宿元景からすればまさに冒険の連続だったように思えた。だがそれも懐かしい。

「ふ。いかんいかん。休めるときに休んでおかねばまたいつ妙な事に巻き込まれる事になるかわか……」

 それは最後まで言えなかった。けたたましい勢いで使用人の一人が飛び込んできたから。

「ご主人様大変です!」
「な、何事だ」

 使用人の普段みることのない形相に宿元景も気圧される。

「ご主人様にお見舞いしたいと猿が、あいやさるお方が」
「落ち着け。普段のそなたはどこへ行った。扉も開けっ放しで」
「邪魔するぞ」
「そう、邪魔……え?」

 その見舞い客は屋敷の主である宿元景の許可を得ずにずかずかと入り込んできていた。が、青くなったのは宿元景の方だ。文字通り飛び上がらん勢いで平伏する!

「へ、陛下!? このような所に。お出迎えもいたしませんで!」

 使用人もこれでもかと言わんばかりに平伏していた。来客とは徽宗皇帝その人なのだから。

「よいから寝ておれ。挨拶も不要だ」

 徽宗は宿元景を心配し、なんと自分付きの医者を連れて来てくれたのだという。

「お主は朕の為に日夜働いてくれておるのだ。これくらいはさせてくれ」

 この徽宗の優しさに宿元景は大変感激した。
しかしこの来訪が彼をさらなる窮地に立たせる事になるなど誰が予測できたであろうか。苦労人の宿元景に気の休まる暇などないのだ。
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