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第百八回 滄洲からの離脱

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 辛くも危機を脱した林冲と柴進達。まずは花栄の待つ場所へと案内される。

「すごい船だな……梁山泊でもこのような船は……いや、こんな船を見たのは生まれて初めてだ。船と呼んでよいのかこれは?」

 案内役の郭盛に足もとの注意を促されながらも林冲、柴進、鈕文忠と食客や使用人達は目を見開いて忙しなく周辺を見渡していた。

「ははは。造りあげた孟康殿は水上の砦と言っても問題ないと息巻いていますけどね。首領にいい土産が出来たと」

 郭盛は笑いながら林冲にそう説明すると林冲も何度も頷く。

「砦か。いやまさに。初めて見る者は間違いなく息を呑むであろう」
「孟康殿がきいたら喜びますよ」
「しかし何故こんなものが……」
「それは本人から説明があると思います」

 そうして林冲と柴進は花栄の部屋ヘ、他の者は休める場所へと向かう。

「では林冲殿。私は一旦これで」
「うむ。貴殿には世話になった。必ず義兄上に紹介しよう」
「楽しみにしてます」

 林冲は鈕文忠を労って別れた。

「林冲殿、柴進様。花栄殿はここにおられます。花栄殿! お二人をお連れしました」

 その場所には花栄だけでなく孟康もおり、林冲と柴進を暖かく迎えてくれる。

「おお! お二人ともご無事で良かった。何かあっては私を信じて任せてくれた首領に顔向けできませんからな」

 柴進と挨拶を交わした花栄に林冲が尋ねた。

「此処にいたのは義兄上の指示だったとか」
「左様。林冲殿は万が一の場合此処に逃げてくる手筈になっていたのでしょう? 我等は到着したあなた方を支援する命を受けていたのです」

 二人が王倫の指示の擦り合わせを行っていく。柴進は先を見通した様な指示を出したという王倫を信じられないでいる様子だった。

「首領の読み通りならばすぐさま支援に回れたはずなのですが予想外な事が起きました」

 花栄達が到着した時、この場所はまさにうってつけといった場所であり、彼等はここを仮の拠点としてその時に備えていたという。林冲達に異変が見られない間は訓練や研究に明け暮れここでの生活も板についてきた。

「しかしそちらに何事も起こらない間に季節も変わり、こちらの環境の方が変わってしまったのです」

 常に強風が吹き、穏やかな水面も荒れて滞在するには困難な状況になったというのだ。

「そういえば以前、地元の漁師がこの季節、一帯がそんな風になる時があるので困ると話しているのを思い出しましたぞ」

 柴進がふとそんな内容を口にした。林冲と花栄、孟康は顔を見合わせる。

「……なるほど。地元の漁師しか知らぬような情報なら首領が分からずとも致仕方ない」
「義兄上の策なのに不都合が出たのはその為であったか。……ではひょっとしてこの大船は義兄上の指示ではない?」

 林冲が疑問を抱くと孟康の説明が始まった。

「その通りです林冲殿! 最初は大小の舟を組み合わせて繋ぎその上に板を渡して揺れを軽減させていたのですが、それだと今度は航行に支障がでましてね。他にも生活空間の確保の発想もあったので両方の問題を解決するには小舟の形状に拘らず、最初から大船の部品と見立てて建造すれば良いのではないか、と。それでこれらを平面ではなく立体的に組み合わせる事によってこの水上の砦が出来上がるといった寸法です。これらを連結する部分に関しては湯隆殿と何度も協議し……」
「お、おう」

 孟康の猛攻の前にたじたじの林冲を見て花栄も苦笑いするしかない。

「私の屋敷はどうなったのでしょうか? それにあやつらは……」

 柴進により話は本題に戻され、翌日明るくなってから斥候部隊を出す事で皆の意見がまとまった。花栄は敵の攻撃を受ける心配のない場所まで大船の移動の指示を出し、警戒も怠らせないように手を打つ。林冲や柴進達は激動の一日の終わりを水上で過ごすのだった。

 そして翌日。現場に詳しい林冲と鈕文忠に加えて花栄、そして暴れられなかった劉唐が斥候として行く事になったのだが、どうしても行くと言い張る人物が一人。屋敷の所有者である柴進その人だ。皆危険だからと諌めたがどうしても自らの目で見たいと譲らない。花栄達もその心情は理解できるので無茶はしないようにと念を押して同行を認めた。

 その屋敷はすでに引き払われたのか人の気配は感じられない。林冲が先行しやはり人がいないのを確認すると一行は慎重に近付く。

「な、なんという事だ……」

 その広大な屋敷は無惨な状態になっていた。焼け落ち、崩れ、装飾などは剥がされ消えている。柴進は鈕文忠に支えられ、その場に倒れ込む事だけは避けられたようだ。

「金目の物は随分と持ち去られているみたいですぜ」

 劉唐が状況を述べる。……とは言え柴進にとって本当に価値のあるものは林冲と鈕文忠が持ち出してくれているので無事だ。柴進は林冲達が進言してきた時にもっと積極的に協力していればと嘆いた。

「……」

 花栄と林冲は無言で惨状に見舞われた地を見ていたが……

「長居は危険だ。引き返してここを離れた方がいいかも知れません」

 花栄が言う。柴進はもっと詳しく調べたいと言ったが花栄の意見に林冲も同調した。

「ただの野盗がここまで大胆な事をするとは思えない。それに……」

 確かに柴進殿からすれば自分の屋敷の惨状に目がいくのは当然としながらも、林冲は別の点に着目していた事を話す。それは実際敵を打ち倒した彼だからこその発言。

「敵の遺体すら全くないのが腑に落ちない」

 相手にも犠牲は出ていたはず。金目の物だけではなく遺体すらないのは普通の野盗とは一線を画しているというのだ。

「実際血痕は残っているのに、だ」

 林冲が示したそれは引き摺られたような跡にも見えた。花栄が続ける。

「一夜にして金目の物を奪うだけではなく、味方の遺体まで持ち去る手際。これは決して行き当たりばったりの犯行ではないでしょう」
「うむ。我等は騎兵に追撃を受けたが自らの痕跡も消そうなどというのはその数もかなりいたと見るのが普通だ」

 柴進が青い顔をして言う。

「つまり今回の襲撃は事前に計画されていて、その正体は野盗のような者達ではない……と?」

 もし二人の言う通りだとすると、ますます柴進には襲撃される心当たりなどない。

「あくまで推測にしか過ぎません。まずは戻り首領と軍師の意見を聞くのがよいかと思いますが」
「私も花栄殿に賛成だ」
「ちっ。じゃあ暴れ足りない分は貸しにしといてやらなきゃいけねぇかな」

 鈕文忠はもとより劉唐も悪態をつきつつも反対はしないので一同は船に戻り、柴進の食客達に現地での情報収集を頼んだ。有益なものには梁山泊と柴進から報酬も出すとの事だったので、希望する食客達は安全な場所で船を降り、思い思いの場所へと散って行くのだった。それを見届け花栄達もまた梁山泊への帰路をとる。柴進は胸中に複雑な思いを抱きながらも故郷、滄洲に別れを告げた。
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