V3

奇楽 ( kill-luck )

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第六章

トウゲンキョウ

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 真っ青な空、白い雲、緑の葉っぱ、背は低いが、その逞しい木々にぶら下がるピンクの桃、大地には養分がたくさん含まれた茶色の土壌が広がる。その風景は永遠に続いているように見えた。
 ときどき、木々の合間に人影が見える。何をも気にする様子もなく、当てもなく歩いているようだった。
 ランは一瞬後ろを振り返った。さっきまでいた老人の家が見える。室内でぶら下がっていた六角形の灯篭をそのまま大きくしたような形だった。この美しい自然色の中に、漆黒の屋根瓦と白色の家壁が美しく、それらを支えるむき出しの柱と梁が朱色に映えていた。原色に近い色々が、自然の風になびくわずかな動きで完璧な調和を作りだしている。侘び寂びを基調とする日本の雅の美しさとは異なる力のある美しさを与えている。
 あの居心地の悪い室内からは想像もつかない。あの老人は一体だれだったのだ。そして、左に座っていた動かない老人。やっぱり何もかもが変だ。美しいのだが、とてつもなく長い悪夢の中に入ってしまっていた。
 ランはしばらくこの桃の木々の森の中で一人彷徨っていた。おかしな童話のような世界だった。相変わらず、ポツリ、ポツリと人影は見えるのだが、微妙な距離で、木々の迷路の中を進んでいるようなので、声を掛けることができない。みんなゆったりと、この林の中を散策しているようだった。木々を掻き分け進んでいると突然、すぐ目の前の木の陰から人が出てきた。思わず、二人はぶつかりそうになった。
「キャ、ごめんなさい」
「オウ、アイムソーリー」
 甲高い女性の声だった。
 その女性はこの場には、あまりに不釣り合いな格好だった。高校の制服を着たままのランも、この場に合わないと言えば合わないのだが……。その女性は、真っ青な中世のヨーロッパ貴族のようなドレスを着ていた。
「す、すみません」
 ランはその人物に声を掛けた。女性はゆっくりとランの方を見た。
「……」
「あのー、ここは一体どこですか?」
「……」
 返事がない。ダメだと思った。夢の中の住人は、こちらの思うようには反応してくれないようだった。
 しかし、あきらめかけて、その場を離れようとすると女性はランに向かって言葉を発した。
「チャイニーズ?」語尾を上げ調子で話したので、こちらに尋ねたのであろうことがわかった。
「ジャパニーズ」ランは、返事をした。どうせ自分の夢の中なのだ。ヘタな英語でも屈辱もない。
「オウケイ、ウェイト」
 そう言うと、女性は突然空虚の表情になった。その数秒後、女性の表情が戻ったと思うと、ランに再び話し始めた。
「分かりました。もう一度お願いします」まるでスイッチを切り替えたかのように、日本語で話し始めてきた。ランは目を丸くして彼女を見た。
「ああ、あの、ここはどこですか?」
 翻訳するのに若干の時間差を感じられた。
「わたしにもよく分かりません。ただ、トウゲンキョウという名前だったと思います。あまりきれいだったので、ちょっと寄らせてもらいました。」
「ここはわたしの夢の中なんでしょ?」
 女性は苦笑いに似たような表情だった。
「では、わたしはあなたの夢の登場人物ということですか?」
 どことなくアニメのロボットのような話し方だった。
「違うの? だって、おかしいことばかり続くんだもの」
 女性は困惑の表情に変わった。
「V3ですよ」
「ヴィスリー?」
「本当に知らないのですか?」
 女性は困った表情で、辺りを見回した。
「どこかに日本人の方がいらっしゃるといいのですが……」
 女性は優しくランの肩に手を掛けた。
「心配しなくていいわ。なんとかなるから」
 そう言われてもあまり励ましにはなっていなかった。普通の迷子というわけにはいかないのだ。
「あなたがここに来たのはいつですか?」
「よく分からないだけど、気付いたら、あっちの六角形の家に中に座っていたの。多分、三十分くらい前だと思います」
 そう言ってランは来た方角を指差した。
「テーブルの向かいに愛想の悪いおじいさんがずっとわたしのことを睨んでて、気味が悪いから出てきたの」
「彼はきっと日本人が嫌いなのよ」
 女性は肩をすぼめた。
「あの人は誰なのですか?」
「ここの支配人よ。そこが始点なのです。始点は決まっていますが、終点は決まっていません」
「一体、何の話し?」
 女性は困惑の度合いを深めた。ラン以上に困惑しているようにも見えた。
「本当にここに来た理由も分からないのね。とにかく困っていることを分かってもらわないと……そして、早く見つけてもらいましょう」
「見つけてもらうって、誰に? ここは一体どこなの? わたしは一体どうなっているの?」
 相変わらずランには何のことだか、さっぱり理解できなかった。
 女性は腕を組んで考え込んだ。
「ちょっと待って、考えがあるわ」
 女性はバッグからスマホを取り出した。ランにとっては、中世貴族がスマホを使っている姿は滑稽に映った。そして、女性はしばらく一人で画面を操作していた。やがて、一人でウンウンと頷きだした。
「いいわ。一緒に来て」
 そう言って、画面を見ながら歩き出した。
「どこに行くんですか?」
「売店よ」
「売店? あの売店って……?」
「ショップよ。そこで必要なものを買うのよ。わたしも場所を知らないから、マップで確認しながらだけどね。かなり歩くみたいだから、がんばりましょうね」
「わたし、お金なんて一切持ってないんですが…」
「気にしなくていいわ。困ったときは、お互い様よ。さあ、行きましょう」
 彼女はスマホを胸の前に出して、歩き出す前に振り向いて言った。
「わたしは、ベティよ。イギリス人なの。よろしくね」
「ラ、ランです」
 そうして、二人は歩き始めた。
 一時間ほど歩き続けただろうか、それでも桃の木は延々続いていた。ほのかな甘い香りに包まれて、ランは気分が良かった。
 途中やはり何度か人にすれ違った。東洋人、西洋人、老若男女バラバラで、人物に統一性が一切感じられなかった。しかし、それでも日本人らしき人にだけは出会うことはなかった。それに、だれ一人、話しかけてくる者も、こちらに興味を示す者もいなかった。まるで当たり前のように、この森の中を散策しているようだった。中には一生懸命に写真を撮っている者もいた。ここは観光地のような場所なのかも知れない。
 かなり歩き続けた。そのうちに、ベティが「あそこよ」と言って前方を指さした。そこには『商店』と看板のついた小さな木造の黒っぽい建物が見えた。
 二人はその『商店』の中に入った。
 が、その中には商品らしきものは一切何もなかった。ランはキョロキョロと見回したが、あまりに殺風景な眺めに不安になった。ただカウンターの中に老婆が一人いるたけだった。それと決して明るくない裸電球が天井にぶら下がっているだけだ。そして、その老婆も先ほどの老人同様、洒落っ気もなく皺だらけだった。
 ベティはそのカウンターの老婆の耳元で一言、二言、話しかけた。返事もせず無反応に見えた老婆は、腰を曲げ、カウンターの中に見えなくなってしまった。すると、まるで初めから用意されていたかのように、B4サイズほどの白いボードと黒色のマーカーを手にして顔を出した。
 それを見て、ベティは「グッ!」と言って親指を立てた。バッグからいくらかの小銭を出し、それを老婆に渡した。老婆は礼も言わずにそれを受け取り、カウンター内のどこかに置いた。
 必要な物を購入すると言われ付いてきたが、そのボードとマーカーが何に必要かは、まだランには分からなかった。
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