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1巻
1-3
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まあいいや。どうせこれからも顔を合わせない連中だ。私は三十日弱でこことおさらばするんだし、やりたい放題させてもらおう。
「……次から気をつけるわ」
「ぜひそうしてくれたまえ」
リチャードがくっくと笑うのが、壁越しにも伝わってきた。開き直ってはいるものの、笑われるのはやっぱり腹が立つ。そっちがそんな態度に出るなら私だって喘ぎまくって、そっちの情欲をあおりたててやるんだから。
「それより、私のほうは聞いていないのだがね」
「聞いてない? 何を?」
「君の名だ。知ってはいるが君の口から聞きたい」
「何よソレ。破滅した女の名前を聞きたいなんて、とんだ酔狂ね」
私はゆっくりと立ち上がり、壁に向かって優雅に一礼した。
見ていないのは当然分かっている。それでもお父様から頂いたこの名は私の誇り。それに相応しくありたい。
「私はヴィクトリアよ。多分聞いているんでしょうけれど」
「いい名じゃないか。かつて勝利の女王が抱いた名前だな」
放っておいてほしい。
悪役令嬢が勝利の名を冠するとか、皮肉以外の何物でもないでしょうよ。
それが、リチャードとの出会いだった。
□ 処刑まであと27日
「――これでチェックメイトだ」
「ぐぬぬ……」
日課にした体操と筋トレが終わった後、私はリチャードと壁越しに会話をしていた。
「さすがに喋ってばかりだとすぐに話題が尽きるわよね」
そう本音をもらすと、リチャードが「それならチェスでも一局どうかね?」なんて言ってきたのだ。要するに脳内将棋のチェス盤である。
私もチェスはある程度、嗜んでいる。けれど本当に嗜む程度であまり強くはない。脳内でチェス盤の局面を思い描けるほど精通なんてしていなかった。
そう拒否しようとしたのに――
「それなら私が手ほどきしよう。すぐに慣れるものさ。勿論手心は加えるし、ハンデ戦にしても構わない。勝ち負けではなく、退屈凌ぎなのだから」
「……まあ、確かにそうよね」
そんな感じで言葉巧みに丸め込まれたのが運のつき。はっきり言って頭の中はぐちゃぐちゃだった。
チェスの名人は最初から最後までの盤面を記憶しているって聞くけれど、私は今の盤面を覚えるのが精いっぱい。そこからどう進めれば有利な戦局になるかまで考える余裕などない。
「ヴィクトリア、そこにポーンはないぞ」
「えっ? あ、ごめんなさい」
ただリチャードは頻繁に間違える私に気分を害する様子もなく、いつも優しく訂正してくれた。そんな気遣いは、今までどんな殿方にも、それこそ婚約者だった王太子様からも受けた覚えがない。
……うん、純粋に大切に扱われるのは、嬉しいわね。
「あーあ、リチャードってば強いのね。全然敵わないわ」
「これでも兄上には敵わないのだがね。君さえ良ければ、チェスばかりでなくオセロや他のボードゲームを楽しんでもいいが?」
「……知恵熱で寝込みそうだし、やめておくわ」
結局この対局もリチャードの圧勝に終わった。私は負けた悔しさより、必死になって盤面を覚えることに悩まされずに済む解放感が勝り、そのままベッドに身体を投げ出す。
あー、何も考えないで呆けるのって素晴らしい。
「――ヴィクトリアさん、昼食を持ってきましたよ」
リチャードとのゲームが終わり、ライオネルが昼食を持ってきたのは、お日様がちょうど真上になった頃だった。
食欲を満たす行為は数少ない欲求解消の手段だ。ここの食事も、もう少し豪勢にならないかしら?
こう考えると、わたしの世界って食べ物に溢れていて飢えなかったし、贅沢としか言いようがなかったのね。金さえかければ、豪華な料理を堪能できた。
雑……もとい、質素な食事で腹八分目になったところで、私は食器を片付けさせる。どうやら囚人たちの食事は配膳台に載せて運んでくるらしく、窓から廊下を眺めてみると、ライオネルとは別の兵士がトレイごと食器を回収していた。
「それでさ、ライオネル。やっぱ今日もあの人は来るの?」
「あの人って、神父様ですか? はい、毎日いらっしゃいますよ」
それを視界に入れつつ、気になっていたことを聞く。
「マジかぁ、お昼ご飯食べた後って無性に眠くなるから、お祈りは違う時間にずらしてもいいんじゃない?」
「そうは言いましても、ずっと前から続く慣習です。変えられませんよ」
「うへえ」
私は辟易して廊下の奥を見る。やがてその人が姿を見せた。
修道服に身を包んで分厚い本を手にした彼は、一言で言えば筋肉もりもりのマッチョマンだ。少し筋肉アピールしただけであの修道服がはち切れるんじゃないかしらね? 女の子みたいに華奢なライオネルの二回り以上は背が高い。あんなに大きな人を、私は見たことがなかった。
「神父様、本日もよろしくお願いします」
「はい。それでは今日も偉大なる神への祈りを捧げましょう」
マッチョマン神父こと、トーマスはこれでもかってくらいの爽やかな笑顔で分厚い教本を開く。
彼が読み上げるのは、この世界で信じられている神の教えだ。熱心な信徒じゃない私はあまり興味がないが、この世界は光の神と闇の神によって創造されたらしい。人々が信仰しているのは光の神のほうなんだとか。
光の神は生物が活動する昼を作って、闇の神は生物が眠る夜を作った。生命を育む海や雨といった現象は光の神の賜物で、大地を焼き払う炎や天地を荒らす嵐は闇の神の業に当たる。
やがてそんな二人の神の役割分担に亀裂が生じ始めた。
光の神を信じる光神教の教えだと、闇の神が人に愛される光の神を妬んだのがきっかけらしいけれど、真実はどうなのやら。
とにかく闇の神は、下僕となる偽りの神を勝手に創造し始めたらしい。それが異教とされる多神教の神々、光神教で悪魔と定義される存在だと伝えられている。
悪魔を率いた闇の神は天使を率いた光の神に戦いを仕掛けた。戦いは長く繰り広げられたが、最後に光の神が勝つ。そして、反乱を起こした闇の神をその慈愛で許したんだとか何とか。
以後闇の神は改心して今の平穏な世界になったとさ。
なお、この設定をゲームはそれほど活かしていない。単に世界観に深みを与えるために、無駄に凝っているだけ。
もっともゲームではおまけでも、私にとって現実の世界であるここでは、一番信仰される教え……いえ、常識と言い切ってしまっていい。信じて当然、何を考えるにしてもまずその教えが前提になる。それだけ重要な宗教だ。
じゃあどうして、トーマス神父はそんな常識を改めてこんこんと囚人に伝えるのか?
勿論、母神でもある光の神へ罪を告白し、許しを請わせ、慈悲を頂くためだ。
大罪を犯した者に、正しい神の教えを今一度知ってもらうといったところだろう。
あいにく活版印刷もないこの世界では、本のほとんどが写本だったりする。大量生産ができない貴重品、よほどの大商人か貴族しか持てない嗜好品だ。
だからここで教本を手にするのはトーマス神父だけ。私達囚人は神父による有難いお説教をただ聞けという。
ところが、トーマス神父は神の教えの素晴らしさに恍惚となっているご様子で、囚人達の態度を見ていない。朗読の邪魔になるほど騒ぎ立てれば怒鳴り散らすらしいけれど、そうでもしない限り囚人達を完全放置だ。
まあ、つまり、特に光の神様に有難さを感じない不真面目な私にとって、トーマス神父の語りは催眠術同然なのよね。
と言うわけで、おやすみなさい。すやぁ~。
ちなみに、ゲームでは語られなかった裏設定で、ヒロインのメアリーは光の神から啓示を受けた聖女というのがある。その癒しの力で多くの人を救うらしい。
どんだけ属性盛り盛りにするんだって話だ。
近日、って言ってもわたしが私になる前に発売予定だった、『白き島』アペンド版では、追加になる攻略対象者の中に、闇の神に啓示を受けた魔王の生まれ変わりがいると噂だった。ヴィジュアルは明らかにされていなかったけど、きっと他の攻略対象者と同じで美形なんでしょうね。
彼の他にも、追加される攻略対象者の中に罪人と仮称されたキャラクターもいる。
もしかしたらのもしかしたら、私と同じこの監獄に収容されていたりして。そしたら、メアリーは王太子様ルートに入っているため、罪人(仮)は相手がいない状態なわけだ。
そこまで考えて、はっと我に返った。
「やーめた。馬鹿らしい」
どうせ私は処刑までここに閉じ込められて終わる。次の攻略対象者に飛びついてどうなるんだ。
第一、わたしにとっては狙っていた攻略対象者程度かもしれないが、私にとっては王太子様が全てだった。そう簡単に気持ちは切り替えられない。
……ん? 私の全てだった? 王太子様が?
私が覚えている最も古い記憶は運命の王子様との出会い。
王太子様は立派な方だったし、多くの殿方や令嬢、ご学友にも慕われていた。私にはそれがとても誇らしかったものだ。
うん、だから王太子様が私の全てに変わりはない。私は王太子様がメアリーを選んだ今でも、あのお方を慕っている。憎しみこそあれ、ね。家の発展の道具としか私を見なしていなかったお父様より。私を愛していると一度も仰ったことはなく厳しいだけだったお母様よりも。
けど、私は……王太子様を愛していたのかしら?
王太子様といる時間はとても幸せだった。心が温まったし、あんなにも世界が素敵なんだって思えたことはない。王太子様を好きだって気持ちは、絶対に否定できなかった。
けれど、それが男女間の恋愛感情なのかって問われたら、どうも違う気がする。
私は王太子様がメアリーに示したように恋に溺れていたかしら? 私が抱いたメアリーへの嫉妬も単に親しい人を奪われたくないって焦りから生まれたとしたら? 果たして私は……全てを捧げたいって思うほど王太子様に恋い焦がれていた?
もしかして、王太子である相手に相応しくあれ、とばかり考えていなかった?
「……負けるわけね」
私は王太子様個人と添い遂げる心積もりができていなかった。その結果がこれなのだとしたら、素直に受け入れるしかない。
ただ、そう思い返すと、一つ素朴な疑問が浮かんだのだった。
「――あれ? メアリーって、王太子様を愛していたんだっけ?」
□ 処刑まであと26日
実を言うと、私が収容されたこの監獄がアルビオン王国のどこにあるか、ゲーム知識のあるわたしにもさっぱり分からない。そもそも罪人がどこに移されようと興味がなかったのもある。
けれど一番の原因は、私が連行される際に目隠しをされたせいだ。
どうしてこんなことを考えているかというと、別にライオネルの目をごまかして脱走しようと企てたわけではない。そもそも家族どころか親戚から友人までありとあらゆる交友関係が切れた私は、脱獄できたところで頼る当てがないし。
「ここの外ってどんな景色なのかしらね?」
背伸びして手を伸ばしても届かない、高い位置にある柵付きの小窓。お天道様の光を私にもたらしてくれる小さなあそこから眺める景色がどんなものか、知りたくなっただけだ。
まあ、つまり単なる好奇心からだったりする。
「んー、えいっ」
ジャンプしてみる。指の先すら縁にかかりやしない。
壁を蹴って上れるほど運動神経は良くないし、身体能力に頼らない手段を見つけないと。人類には素晴らしい叡智があるんだもの、使わない手はないわ。
一番手っ取り早いのは足場を用意することだ。あまり広くない私の個室を見渡して真っ先に目についたのは……便所壺。
「……ないわね。さすがに」
バランスを崩して壺が引っくり返り、汚物まみれになる未来が容易に想像できる。悪役令嬢ならぬ異臭令嬢にはなりたくない。
となったらベッドを足場代わりに使うのが無難かしら。壁に寄せてある寝具を窓辺まで引っ張ってくれば、何とか届きそうな気がする。
よし、思い立ったが吉日。やってみようじゃないの!
「ん……く……っ」
お、重い……!
思いっきり引っ張ってもほんのちょっとずつ引きずれる程度。しかも、たった指一本分動かしただけで、ベッドがものすごく不快で大きな音を鳴り響かせるんだけれど。多分ベッドを脱獄に利用されないよう、重くてすぐ音が出る構造にしたんだろう。余計な真似を。
「……ヴィクトリアさん、何しているんですか?」
看守のライオネルが扉の小窓越しに疑い交じりの眼差しを向けてくる。
やっぱりすぐにばれるか。もうベッドを使って何かする選択肢は除外したほうが良さそうね。
「ああ、ライオネル。ちょっとベッドが動いちゃっただけよ。驚かせちゃって悪いわね」
「そうでしたか。あまり変な真似はしないでくださいね」
「はぁい」
ライオネルはなおも私に疑念を抱いているようだ。それでも実際に犯行を目撃されない限りはばれっこない。
それに今は、ベッドの上に乗るって一番の近道を潰されただけ。まだ方法はあるはずなんだから、このくらいで諦めてたまるものですか。
でも、便所壺とベッド以外で踏み台にできる物がない。食事時のトレイにバランス良く乗る曲芸なんて、私にはとても無理。ベッドのシーツと掛け布団を折り畳んだって、そう高くはならないでしょうし。
よし、発想を逆転させましょう。足場が作れないなら逆にターザンロープみたいなのを垂らして登ればいい。西部劇よろしく縄をぐるぐる回して引っかける……のは突起物がなさそうだから没。柵に縄を通すのが無難かしらね。
「縄、縄、っと」
そう考えたものの、手ごろな紐状の物がない。アレか、迂闊にそんな物を置いていたら、看守が小窓の隙間から首絞められて扉の鍵を開けられる、みたいな脱走劇を想定しているの?
まあいいわ。ないならないなりに、やりようはいくらでもある。
例えば、毛布の端を少し結んで対角線状に絞ればそれなりに縄状になる。シーツみたいな薄い布地なら、さらに都合がいい。
囚人用の寝具は羽毛みたいな高価なものじゃないから、作業がしやすいわね。
よしっ、できた。薄い毛布で作った即席の縄が。ちょっとどころじゃなく、かなり太いのが難点だけれど……まあ柵に通して使う分には充分でしょう。
「さっきから君は何をしているのかね?」
どうやら私の作業の様子に、壁の向こうのリチャードが気になったらしい。別に隠すことでもないし、喋ってしまおうかしらね。
「外を見てみたいからその大道具づくりを」
「……すまない、私の理解力が足りないだけかもしれないが、もう一度言ってくれ」
「だから、外を眺めたいって言ったのよ」
縄をぐるぐると回す。太いせいか、さすがに映画みたいに高速では回転しないわね。それでもこう、投げれば……! あら、柵に引っかかるどころか窓にも届かなかったわ。むしろぐるぐる回さないで普通に遠投っぽくすればいいのかしら?
「待て待て待て。君は一体何を考えているのかね? ここから逃げ出すなど……」
「別に外に出たいって比喩じゃあないわよ。純粋に景色を楽しみたいだけ、よ!」
私は思いっきり振りかぶって即席縄を上に放り投げた。サイドスローって言うんだったっけ、確かこの投げ方。
今度は先程の失敗が嘘みたいに縄が昇っていく。そして見事に柵に掛かり、端が手前側に垂れ下がった。自画自賛したくなるくらい見事な縄さばきだ。
「よ~しよしよしよし。これで少しずつあの端っこを下に持っていけば……」
縄の端を手繰り寄せ両側の端を掴んで、軽く引っ張ってみる。うん、惚れ惚れするほど上手く引っかかっている。試しに少し体重をかけてみても、千切れる様子はない。
いざ外世界へ。
私は縄の両側の端を引っ張りながら上っていく。わたしの小学校の縄登り以来かしらね。私なんて発想すらなかったと思う。
「ふっ、ぐっ……」
数日の筋トレの効果もあってか、何とか身体が持ち上がっていく。ただ、相変わらず腕が震えるのが情けない……屈強とまでは言わないが、せめてあと少し引き締まった身体になりたい。
でも、これで……! どうだ!
「おおー……」
窓から広がる世界は絶景だった。
私が閉じ込められた牢屋は予想通り高い階層にあるようで、地面がかなり遠い。監獄の建物を囲うように設けられている塀は上から見てもかなりの高さだ。梯子もかけられそうにない。
塀の外に広がっていたのは平野だ。建物は何一つなく、舗装されていない道路がいくつかあるのと、小川が手前側で横切る以外は、緑一色。人の姿も見えず、大自然まっただ中って感じだ。そんな平野の奥は森が広がっていて、遠くには地平線代わりに山脈が見える。
圧倒されるくらいに美しい。そう思うのは都会で育ったわたしが交じっているから?
私のほうは民家が一つもない陸の孤島ね、なんて感想を抱いた。
「ヴィクトリアさんっ!」
「えっ、わ……!」
景色を堪能しているわたしに、いきなり背後から声をかけられる。そのせいで手がすべり、身体が宙を舞う。
視界に映る天井が見る見るうちに遠ざかっていき――
「く、ぅ……!」
「きゃ、ぁっ!」
気が付けば私は、ライオネルに抱きかかえられていた。
「ライオネル……。その、どうもありがとう……かしら?」
感謝を述べた辺りで、彼が牢屋の扉を開けて素早く私の下に入ってくれたんだと理解してくる。
ライオネルは女の子みたいな顔立ちなので、華奢だろうと勝手に思っていた。けれど実際には、腕周りは太く、結構鍛えているのが分かる。肩幅も狭くないし、不可抗力で手を添えている胸も筋肉で僅かに膨らんでいる。
見かけなんて当てにならないわね、なんて考えていると、ライオネルは相当お冠で私にきつい眼差しを送ってきた。
「今回は見なかったことにします。危ない真似は絶対にやめてくださいね」
「……分かったわ。ごめんなさい」
素直に反省したなんて何年ぶりかしら。私は肩を落としたのだった。
□ 処刑まであと25日
昨日は外の景色を眺めようとしたせいでライオネルに無茶苦茶怒られてしまった。
幸いにも罰は受けずに済んでいる。鎖とかで繋がれたり拘束具で身動き取れなくなったりしたらどうしようと不安を抱いていたが、杞憂で終わった。もっとも、次に何かしでかしたらどうなるか、分かったものではないのだけれど。
外はどんよりとした曇り空で、窓から差し込む日光が弱々しい。着ている囚人服はあまり生地が厚くないため、少し肌寒かった。柵しかない窓から風が入り放題なのが一番の原因だ。
「ガラス張りでもなければ雨戸もないなんて最低ね……」
嘆いても、部屋の中の物で雨風を完全に防ぐなんて無理な話だ。死刑囚が待遇改善を要求するのも変な話だし、ここは実際に雨に直面したら考えることにしましょう。
人はそれを、棚上げとか先送りとかと言う。
「~♪ ~♪」
体操とストレッチを終えて暇になり、ベッドメイキングをする。昨日外を見るのに縄代わりにしたシーツは、残念ながら交換してもらえなかった。おかげでしわくちゃだ。思っていたよりは汚れず使えただけ、良しとする。
「いい曲だな。ゆっくりと落ち着いた曲調だ」
「ふぇっ!?」
いけない、いつの間にか鼻歌交じりになっていた。壁の向こうからリチャードの声が聞こえて初めて気付く。
うわぁ、他の人に聞かれているんだと意識すると途端に恥ずかしくなるわね。
急いで毛布を敷き直したら終了。私は早速ベッドの上に座り込み壁に寄り掛かった。
この壁の向こうにはリチャードがいる。壁は冷たいのに温かいと錯覚するのは、打ち解けた人がいるんだって安心感からかしらね?
「あいにく私は音楽には疎いんだが、曲名は何というのかな?」
「残念だけど私にも分からないわ」
「ほう。記憶には残っているがそれが何かは分からない、か」
「ええ、子守唄代わりに聞かされていた曲だから」
この曲は、幼い頃にお母様が寝付けない私を寝かしつけるために歌ってくれたものだ。今でもたまに口ずさむくらいに気に入っている。
「しかし所々あやふやな箇所があるように聞こえるんだが、なぜなんだ?」
「仕方がないじゃないの。いつも途中で眠っちゃうんだもの。最初のほうしか覚えてないのよ」
最後まで聞けた時は寝つきが悪くていらいらしちゃっていたし。そんな時お母様は静かに私を抱いてくれて、私はその温かさの中で心地良く眠りについたものだ。
「成程、そう聞くと君のお母さんは大層子煩悩だったみたいだな」
「お母様が子煩悩? 面白い冗談だわ」
「……違うのか?」
「ええ。だってお母様が母親らしくしてくれたのって、それくらいだもの」
母、つまり侯爵夫人はお父様と政略結婚で結ばれた。お母様曰く、結婚してから育まれる愛もあるんだとかで、夫婦仲はそれなりだ。少なくとも私を含めて四人も子を産んでいるんだし、お父様と情熱的な夜をそれなりに過ごしたんでしょう。
ただ、お母様が私に愛情があるかとなると、ちょっと違うと思う。
お兄様はランカスター家の後継者として英才教育を施された。厳格な父を支えるようにと、お母様はお兄様に厳しくも優しく接している。少なくとも私にはそう見えた。
長女のお姉様はお淑やかながら聡明に育ったので、多くの殿方から求婚を受けていた。ただ彼女は別の侯爵家の嫡男と幼い頃から親しい付き合いをしていて、特に波風なく嫁いでいる。
一方、私はと言うと、ランカスター家をさらに発展させるための駒だ。
王太子様を運命の王子様だと言い出したのが運の尽き。お母様からは二言目には王太子様の妃に相応しくあれと言われ、テーブルマナーから趣味、教養、何から何まで徹底的に仕込まれた。
おかげで両親に親らしい愛情を注がれた記憶があまりない。むしろ屋敷で働く侍女達や教育係と接する機会のほうが多かった。
「お父様やお母様はね、私の願いを叶えるために厳格な教育をしてくれたんじゃないの。あくまでも侯爵家の利害と一致していただけね」
そうして私は多くの貴族令嬢を退けて王太子様の婚約者に選ばれた。
運命の王子様のお嫁さんになれる、お父様方から褒めてもらえる。二つの喜びを抱いて屋敷に戻った私を、お母様はやっとスタートに立てたにすぎない、気を引き締めて精進なさいと叱ったのだ。
「結局、お父様もお母様もランカスター家の娘が大事なんであって、私自身はどうでも良かったのよ」
だから、私はすぐに見捨てられた。
お父様もお母様も恩赦を乞おうともせず、むしろ容赦ない罰を国王陛下に求めたのだ。
私が嫉妬のあまりに家に迷惑をかけてしまったのは認めよう。侯爵家の汚点だと罵られたって文句は言えない。
だからって……何らかの感情を示してくれても良かったと思う。
「つまり君は、自分自身を単なる侯爵家の道具だと考えているのかね?」
「そうよ。失敗した途端、容赦なく捨てられる価値しかなかったってわけ」
「やれやれ、相変わらず貴族の権力闘争は随分と醜いものなのだな」
「繁栄と名声を得ようとするのは貴族の性だもの。割り切るしかないわよ」
「……次から気をつけるわ」
「ぜひそうしてくれたまえ」
リチャードがくっくと笑うのが、壁越しにも伝わってきた。開き直ってはいるものの、笑われるのはやっぱり腹が立つ。そっちがそんな態度に出るなら私だって喘ぎまくって、そっちの情欲をあおりたててやるんだから。
「それより、私のほうは聞いていないのだがね」
「聞いてない? 何を?」
「君の名だ。知ってはいるが君の口から聞きたい」
「何よソレ。破滅した女の名前を聞きたいなんて、とんだ酔狂ね」
私はゆっくりと立ち上がり、壁に向かって優雅に一礼した。
見ていないのは当然分かっている。それでもお父様から頂いたこの名は私の誇り。それに相応しくありたい。
「私はヴィクトリアよ。多分聞いているんでしょうけれど」
「いい名じゃないか。かつて勝利の女王が抱いた名前だな」
放っておいてほしい。
悪役令嬢が勝利の名を冠するとか、皮肉以外の何物でもないでしょうよ。
それが、リチャードとの出会いだった。
□ 処刑まであと27日
「――これでチェックメイトだ」
「ぐぬぬ……」
日課にした体操と筋トレが終わった後、私はリチャードと壁越しに会話をしていた。
「さすがに喋ってばかりだとすぐに話題が尽きるわよね」
そう本音をもらすと、リチャードが「それならチェスでも一局どうかね?」なんて言ってきたのだ。要するに脳内将棋のチェス盤である。
私もチェスはある程度、嗜んでいる。けれど本当に嗜む程度であまり強くはない。脳内でチェス盤の局面を思い描けるほど精通なんてしていなかった。
そう拒否しようとしたのに――
「それなら私が手ほどきしよう。すぐに慣れるものさ。勿論手心は加えるし、ハンデ戦にしても構わない。勝ち負けではなく、退屈凌ぎなのだから」
「……まあ、確かにそうよね」
そんな感じで言葉巧みに丸め込まれたのが運のつき。はっきり言って頭の中はぐちゃぐちゃだった。
チェスの名人は最初から最後までの盤面を記憶しているって聞くけれど、私は今の盤面を覚えるのが精いっぱい。そこからどう進めれば有利な戦局になるかまで考える余裕などない。
「ヴィクトリア、そこにポーンはないぞ」
「えっ? あ、ごめんなさい」
ただリチャードは頻繁に間違える私に気分を害する様子もなく、いつも優しく訂正してくれた。そんな気遣いは、今までどんな殿方にも、それこそ婚約者だった王太子様からも受けた覚えがない。
……うん、純粋に大切に扱われるのは、嬉しいわね。
「あーあ、リチャードってば強いのね。全然敵わないわ」
「これでも兄上には敵わないのだがね。君さえ良ければ、チェスばかりでなくオセロや他のボードゲームを楽しんでもいいが?」
「……知恵熱で寝込みそうだし、やめておくわ」
結局この対局もリチャードの圧勝に終わった。私は負けた悔しさより、必死になって盤面を覚えることに悩まされずに済む解放感が勝り、そのままベッドに身体を投げ出す。
あー、何も考えないで呆けるのって素晴らしい。
「――ヴィクトリアさん、昼食を持ってきましたよ」
リチャードとのゲームが終わり、ライオネルが昼食を持ってきたのは、お日様がちょうど真上になった頃だった。
食欲を満たす行為は数少ない欲求解消の手段だ。ここの食事も、もう少し豪勢にならないかしら?
こう考えると、わたしの世界って食べ物に溢れていて飢えなかったし、贅沢としか言いようがなかったのね。金さえかければ、豪華な料理を堪能できた。
雑……もとい、質素な食事で腹八分目になったところで、私は食器を片付けさせる。どうやら囚人たちの食事は配膳台に載せて運んでくるらしく、窓から廊下を眺めてみると、ライオネルとは別の兵士がトレイごと食器を回収していた。
「それでさ、ライオネル。やっぱ今日もあの人は来るの?」
「あの人って、神父様ですか? はい、毎日いらっしゃいますよ」
それを視界に入れつつ、気になっていたことを聞く。
「マジかぁ、お昼ご飯食べた後って無性に眠くなるから、お祈りは違う時間にずらしてもいいんじゃない?」
「そうは言いましても、ずっと前から続く慣習です。変えられませんよ」
「うへえ」
私は辟易して廊下の奥を見る。やがてその人が姿を見せた。
修道服に身を包んで分厚い本を手にした彼は、一言で言えば筋肉もりもりのマッチョマンだ。少し筋肉アピールしただけであの修道服がはち切れるんじゃないかしらね? 女の子みたいに華奢なライオネルの二回り以上は背が高い。あんなに大きな人を、私は見たことがなかった。
「神父様、本日もよろしくお願いします」
「はい。それでは今日も偉大なる神への祈りを捧げましょう」
マッチョマン神父こと、トーマスはこれでもかってくらいの爽やかな笑顔で分厚い教本を開く。
彼が読み上げるのは、この世界で信じられている神の教えだ。熱心な信徒じゃない私はあまり興味がないが、この世界は光の神と闇の神によって創造されたらしい。人々が信仰しているのは光の神のほうなんだとか。
光の神は生物が活動する昼を作って、闇の神は生物が眠る夜を作った。生命を育む海や雨といった現象は光の神の賜物で、大地を焼き払う炎や天地を荒らす嵐は闇の神の業に当たる。
やがてそんな二人の神の役割分担に亀裂が生じ始めた。
光の神を信じる光神教の教えだと、闇の神が人に愛される光の神を妬んだのがきっかけらしいけれど、真実はどうなのやら。
とにかく闇の神は、下僕となる偽りの神を勝手に創造し始めたらしい。それが異教とされる多神教の神々、光神教で悪魔と定義される存在だと伝えられている。
悪魔を率いた闇の神は天使を率いた光の神に戦いを仕掛けた。戦いは長く繰り広げられたが、最後に光の神が勝つ。そして、反乱を起こした闇の神をその慈愛で許したんだとか何とか。
以後闇の神は改心して今の平穏な世界になったとさ。
なお、この設定をゲームはそれほど活かしていない。単に世界観に深みを与えるために、無駄に凝っているだけ。
もっともゲームではおまけでも、私にとって現実の世界であるここでは、一番信仰される教え……いえ、常識と言い切ってしまっていい。信じて当然、何を考えるにしてもまずその教えが前提になる。それだけ重要な宗教だ。
じゃあどうして、トーマス神父はそんな常識を改めてこんこんと囚人に伝えるのか?
勿論、母神でもある光の神へ罪を告白し、許しを請わせ、慈悲を頂くためだ。
大罪を犯した者に、正しい神の教えを今一度知ってもらうといったところだろう。
あいにく活版印刷もないこの世界では、本のほとんどが写本だったりする。大量生産ができない貴重品、よほどの大商人か貴族しか持てない嗜好品だ。
だからここで教本を手にするのはトーマス神父だけ。私達囚人は神父による有難いお説教をただ聞けという。
ところが、トーマス神父は神の教えの素晴らしさに恍惚となっているご様子で、囚人達の態度を見ていない。朗読の邪魔になるほど騒ぎ立てれば怒鳴り散らすらしいけれど、そうでもしない限り囚人達を完全放置だ。
まあ、つまり、特に光の神様に有難さを感じない不真面目な私にとって、トーマス神父の語りは催眠術同然なのよね。
と言うわけで、おやすみなさい。すやぁ~。
ちなみに、ゲームでは語られなかった裏設定で、ヒロインのメアリーは光の神から啓示を受けた聖女というのがある。その癒しの力で多くの人を救うらしい。
どんだけ属性盛り盛りにするんだって話だ。
近日、って言ってもわたしが私になる前に発売予定だった、『白き島』アペンド版では、追加になる攻略対象者の中に、闇の神に啓示を受けた魔王の生まれ変わりがいると噂だった。ヴィジュアルは明らかにされていなかったけど、きっと他の攻略対象者と同じで美形なんでしょうね。
彼の他にも、追加される攻略対象者の中に罪人と仮称されたキャラクターもいる。
もしかしたらのもしかしたら、私と同じこの監獄に収容されていたりして。そしたら、メアリーは王太子様ルートに入っているため、罪人(仮)は相手がいない状態なわけだ。
そこまで考えて、はっと我に返った。
「やーめた。馬鹿らしい」
どうせ私は処刑までここに閉じ込められて終わる。次の攻略対象者に飛びついてどうなるんだ。
第一、わたしにとっては狙っていた攻略対象者程度かもしれないが、私にとっては王太子様が全てだった。そう簡単に気持ちは切り替えられない。
……ん? 私の全てだった? 王太子様が?
私が覚えている最も古い記憶は運命の王子様との出会い。
王太子様は立派な方だったし、多くの殿方や令嬢、ご学友にも慕われていた。私にはそれがとても誇らしかったものだ。
うん、だから王太子様が私の全てに変わりはない。私は王太子様がメアリーを選んだ今でも、あのお方を慕っている。憎しみこそあれ、ね。家の発展の道具としか私を見なしていなかったお父様より。私を愛していると一度も仰ったことはなく厳しいだけだったお母様よりも。
けど、私は……王太子様を愛していたのかしら?
王太子様といる時間はとても幸せだった。心が温まったし、あんなにも世界が素敵なんだって思えたことはない。王太子様を好きだって気持ちは、絶対に否定できなかった。
けれど、それが男女間の恋愛感情なのかって問われたら、どうも違う気がする。
私は王太子様がメアリーに示したように恋に溺れていたかしら? 私が抱いたメアリーへの嫉妬も単に親しい人を奪われたくないって焦りから生まれたとしたら? 果たして私は……全てを捧げたいって思うほど王太子様に恋い焦がれていた?
もしかして、王太子である相手に相応しくあれ、とばかり考えていなかった?
「……負けるわけね」
私は王太子様個人と添い遂げる心積もりができていなかった。その結果がこれなのだとしたら、素直に受け入れるしかない。
ただ、そう思い返すと、一つ素朴な疑問が浮かんだのだった。
「――あれ? メアリーって、王太子様を愛していたんだっけ?」
□ 処刑まであと26日
実を言うと、私が収容されたこの監獄がアルビオン王国のどこにあるか、ゲーム知識のあるわたしにもさっぱり分からない。そもそも罪人がどこに移されようと興味がなかったのもある。
けれど一番の原因は、私が連行される際に目隠しをされたせいだ。
どうしてこんなことを考えているかというと、別にライオネルの目をごまかして脱走しようと企てたわけではない。そもそも家族どころか親戚から友人までありとあらゆる交友関係が切れた私は、脱獄できたところで頼る当てがないし。
「ここの外ってどんな景色なのかしらね?」
背伸びして手を伸ばしても届かない、高い位置にある柵付きの小窓。お天道様の光を私にもたらしてくれる小さなあそこから眺める景色がどんなものか、知りたくなっただけだ。
まあ、つまり単なる好奇心からだったりする。
「んー、えいっ」
ジャンプしてみる。指の先すら縁にかかりやしない。
壁を蹴って上れるほど運動神経は良くないし、身体能力に頼らない手段を見つけないと。人類には素晴らしい叡智があるんだもの、使わない手はないわ。
一番手っ取り早いのは足場を用意することだ。あまり広くない私の個室を見渡して真っ先に目についたのは……便所壺。
「……ないわね。さすがに」
バランスを崩して壺が引っくり返り、汚物まみれになる未来が容易に想像できる。悪役令嬢ならぬ異臭令嬢にはなりたくない。
となったらベッドを足場代わりに使うのが無難かしら。壁に寄せてある寝具を窓辺まで引っ張ってくれば、何とか届きそうな気がする。
よし、思い立ったが吉日。やってみようじゃないの!
「ん……く……っ」
お、重い……!
思いっきり引っ張ってもほんのちょっとずつ引きずれる程度。しかも、たった指一本分動かしただけで、ベッドがものすごく不快で大きな音を鳴り響かせるんだけれど。多分ベッドを脱獄に利用されないよう、重くてすぐ音が出る構造にしたんだろう。余計な真似を。
「……ヴィクトリアさん、何しているんですか?」
看守のライオネルが扉の小窓越しに疑い交じりの眼差しを向けてくる。
やっぱりすぐにばれるか。もうベッドを使って何かする選択肢は除外したほうが良さそうね。
「ああ、ライオネル。ちょっとベッドが動いちゃっただけよ。驚かせちゃって悪いわね」
「そうでしたか。あまり変な真似はしないでくださいね」
「はぁい」
ライオネルはなおも私に疑念を抱いているようだ。それでも実際に犯行を目撃されない限りはばれっこない。
それに今は、ベッドの上に乗るって一番の近道を潰されただけ。まだ方法はあるはずなんだから、このくらいで諦めてたまるものですか。
でも、便所壺とベッド以外で踏み台にできる物がない。食事時のトレイにバランス良く乗る曲芸なんて、私にはとても無理。ベッドのシーツと掛け布団を折り畳んだって、そう高くはならないでしょうし。
よし、発想を逆転させましょう。足場が作れないなら逆にターザンロープみたいなのを垂らして登ればいい。西部劇よろしく縄をぐるぐる回して引っかける……のは突起物がなさそうだから没。柵に縄を通すのが無難かしらね。
「縄、縄、っと」
そう考えたものの、手ごろな紐状の物がない。アレか、迂闊にそんな物を置いていたら、看守が小窓の隙間から首絞められて扉の鍵を開けられる、みたいな脱走劇を想定しているの?
まあいいわ。ないならないなりに、やりようはいくらでもある。
例えば、毛布の端を少し結んで対角線状に絞ればそれなりに縄状になる。シーツみたいな薄い布地なら、さらに都合がいい。
囚人用の寝具は羽毛みたいな高価なものじゃないから、作業がしやすいわね。
よしっ、できた。薄い毛布で作った即席の縄が。ちょっとどころじゃなく、かなり太いのが難点だけれど……まあ柵に通して使う分には充分でしょう。
「さっきから君は何をしているのかね?」
どうやら私の作業の様子に、壁の向こうのリチャードが気になったらしい。別に隠すことでもないし、喋ってしまおうかしらね。
「外を見てみたいからその大道具づくりを」
「……すまない、私の理解力が足りないだけかもしれないが、もう一度言ってくれ」
「だから、外を眺めたいって言ったのよ」
縄をぐるぐると回す。太いせいか、さすがに映画みたいに高速では回転しないわね。それでもこう、投げれば……! あら、柵に引っかかるどころか窓にも届かなかったわ。むしろぐるぐる回さないで普通に遠投っぽくすればいいのかしら?
「待て待て待て。君は一体何を考えているのかね? ここから逃げ出すなど……」
「別に外に出たいって比喩じゃあないわよ。純粋に景色を楽しみたいだけ、よ!」
私は思いっきり振りかぶって即席縄を上に放り投げた。サイドスローって言うんだったっけ、確かこの投げ方。
今度は先程の失敗が嘘みたいに縄が昇っていく。そして見事に柵に掛かり、端が手前側に垂れ下がった。自画自賛したくなるくらい見事な縄さばきだ。
「よ~しよしよしよし。これで少しずつあの端っこを下に持っていけば……」
縄の端を手繰り寄せ両側の端を掴んで、軽く引っ張ってみる。うん、惚れ惚れするほど上手く引っかかっている。試しに少し体重をかけてみても、千切れる様子はない。
いざ外世界へ。
私は縄の両側の端を引っ張りながら上っていく。わたしの小学校の縄登り以来かしらね。私なんて発想すらなかったと思う。
「ふっ、ぐっ……」
数日の筋トレの効果もあってか、何とか身体が持ち上がっていく。ただ、相変わらず腕が震えるのが情けない……屈強とまでは言わないが、せめてあと少し引き締まった身体になりたい。
でも、これで……! どうだ!
「おおー……」
窓から広がる世界は絶景だった。
私が閉じ込められた牢屋は予想通り高い階層にあるようで、地面がかなり遠い。監獄の建物を囲うように設けられている塀は上から見てもかなりの高さだ。梯子もかけられそうにない。
塀の外に広がっていたのは平野だ。建物は何一つなく、舗装されていない道路がいくつかあるのと、小川が手前側で横切る以外は、緑一色。人の姿も見えず、大自然まっただ中って感じだ。そんな平野の奥は森が広がっていて、遠くには地平線代わりに山脈が見える。
圧倒されるくらいに美しい。そう思うのは都会で育ったわたしが交じっているから?
私のほうは民家が一つもない陸の孤島ね、なんて感想を抱いた。
「ヴィクトリアさんっ!」
「えっ、わ……!」
景色を堪能しているわたしに、いきなり背後から声をかけられる。そのせいで手がすべり、身体が宙を舞う。
視界に映る天井が見る見るうちに遠ざかっていき――
「く、ぅ……!」
「きゃ、ぁっ!」
気が付けば私は、ライオネルに抱きかかえられていた。
「ライオネル……。その、どうもありがとう……かしら?」
感謝を述べた辺りで、彼が牢屋の扉を開けて素早く私の下に入ってくれたんだと理解してくる。
ライオネルは女の子みたいな顔立ちなので、華奢だろうと勝手に思っていた。けれど実際には、腕周りは太く、結構鍛えているのが分かる。肩幅も狭くないし、不可抗力で手を添えている胸も筋肉で僅かに膨らんでいる。
見かけなんて当てにならないわね、なんて考えていると、ライオネルは相当お冠で私にきつい眼差しを送ってきた。
「今回は見なかったことにします。危ない真似は絶対にやめてくださいね」
「……分かったわ。ごめんなさい」
素直に反省したなんて何年ぶりかしら。私は肩を落としたのだった。
□ 処刑まであと25日
昨日は外の景色を眺めようとしたせいでライオネルに無茶苦茶怒られてしまった。
幸いにも罰は受けずに済んでいる。鎖とかで繋がれたり拘束具で身動き取れなくなったりしたらどうしようと不安を抱いていたが、杞憂で終わった。もっとも、次に何かしでかしたらどうなるか、分かったものではないのだけれど。
外はどんよりとした曇り空で、窓から差し込む日光が弱々しい。着ている囚人服はあまり生地が厚くないため、少し肌寒かった。柵しかない窓から風が入り放題なのが一番の原因だ。
「ガラス張りでもなければ雨戸もないなんて最低ね……」
嘆いても、部屋の中の物で雨風を完全に防ぐなんて無理な話だ。死刑囚が待遇改善を要求するのも変な話だし、ここは実際に雨に直面したら考えることにしましょう。
人はそれを、棚上げとか先送りとかと言う。
「~♪ ~♪」
体操とストレッチを終えて暇になり、ベッドメイキングをする。昨日外を見るのに縄代わりにしたシーツは、残念ながら交換してもらえなかった。おかげでしわくちゃだ。思っていたよりは汚れず使えただけ、良しとする。
「いい曲だな。ゆっくりと落ち着いた曲調だ」
「ふぇっ!?」
いけない、いつの間にか鼻歌交じりになっていた。壁の向こうからリチャードの声が聞こえて初めて気付く。
うわぁ、他の人に聞かれているんだと意識すると途端に恥ずかしくなるわね。
急いで毛布を敷き直したら終了。私は早速ベッドの上に座り込み壁に寄り掛かった。
この壁の向こうにはリチャードがいる。壁は冷たいのに温かいと錯覚するのは、打ち解けた人がいるんだって安心感からかしらね?
「あいにく私は音楽には疎いんだが、曲名は何というのかな?」
「残念だけど私にも分からないわ」
「ほう。記憶には残っているがそれが何かは分からない、か」
「ええ、子守唄代わりに聞かされていた曲だから」
この曲は、幼い頃にお母様が寝付けない私を寝かしつけるために歌ってくれたものだ。今でもたまに口ずさむくらいに気に入っている。
「しかし所々あやふやな箇所があるように聞こえるんだが、なぜなんだ?」
「仕方がないじゃないの。いつも途中で眠っちゃうんだもの。最初のほうしか覚えてないのよ」
最後まで聞けた時は寝つきが悪くていらいらしちゃっていたし。そんな時お母様は静かに私を抱いてくれて、私はその温かさの中で心地良く眠りについたものだ。
「成程、そう聞くと君のお母さんは大層子煩悩だったみたいだな」
「お母様が子煩悩? 面白い冗談だわ」
「……違うのか?」
「ええ。だってお母様が母親らしくしてくれたのって、それくらいだもの」
母、つまり侯爵夫人はお父様と政略結婚で結ばれた。お母様曰く、結婚してから育まれる愛もあるんだとかで、夫婦仲はそれなりだ。少なくとも私を含めて四人も子を産んでいるんだし、お父様と情熱的な夜をそれなりに過ごしたんでしょう。
ただ、お母様が私に愛情があるかとなると、ちょっと違うと思う。
お兄様はランカスター家の後継者として英才教育を施された。厳格な父を支えるようにと、お母様はお兄様に厳しくも優しく接している。少なくとも私にはそう見えた。
長女のお姉様はお淑やかながら聡明に育ったので、多くの殿方から求婚を受けていた。ただ彼女は別の侯爵家の嫡男と幼い頃から親しい付き合いをしていて、特に波風なく嫁いでいる。
一方、私はと言うと、ランカスター家をさらに発展させるための駒だ。
王太子様を運命の王子様だと言い出したのが運の尽き。お母様からは二言目には王太子様の妃に相応しくあれと言われ、テーブルマナーから趣味、教養、何から何まで徹底的に仕込まれた。
おかげで両親に親らしい愛情を注がれた記憶があまりない。むしろ屋敷で働く侍女達や教育係と接する機会のほうが多かった。
「お父様やお母様はね、私の願いを叶えるために厳格な教育をしてくれたんじゃないの。あくまでも侯爵家の利害と一致していただけね」
そうして私は多くの貴族令嬢を退けて王太子様の婚約者に選ばれた。
運命の王子様のお嫁さんになれる、お父様方から褒めてもらえる。二つの喜びを抱いて屋敷に戻った私を、お母様はやっとスタートに立てたにすぎない、気を引き締めて精進なさいと叱ったのだ。
「結局、お父様もお母様もランカスター家の娘が大事なんであって、私自身はどうでも良かったのよ」
だから、私はすぐに見捨てられた。
お父様もお母様も恩赦を乞おうともせず、むしろ容赦ない罰を国王陛下に求めたのだ。
私が嫉妬のあまりに家に迷惑をかけてしまったのは認めよう。侯爵家の汚点だと罵られたって文句は言えない。
だからって……何らかの感情を示してくれても良かったと思う。
「つまり君は、自分自身を単なる侯爵家の道具だと考えているのかね?」
「そうよ。失敗した途端、容赦なく捨てられる価値しかなかったってわけ」
「やれやれ、相変わらず貴族の権力闘争は随分と醜いものなのだな」
「繁栄と名声を得ようとするのは貴族の性だもの。割り切るしかないわよ」
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