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1巻
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古の時代。まだ神が地上を見守っていた頃。
華と呼ばれる地域には数百もの国があり、それらを夏という大国が治めていた。
夏国による統治は数百年もの間続き、人々は平和に暮らした。
しかし、長きに渡る安穏とした時の流れは、大国の根を腐らせていく。
いつしか夏国に君臨する大王は自らを天の代理人、即ち天子と名乗った。天に代わって華の地を支配しているのだ、と驕ったのだ。
やがて太平の世を築くという建国時の理念は失われた。大王とそれに群がる臣下達は富と人を全て己の手中にすべく横暴を働いた。民は平和を奪われ、笑顔は消えた。
神は憤った。華の地が、民が嘆き悲しみ、恐れおののき、苦しむ地獄と化したことを。
神は三名の腹心に命じることとした。地上に降りて世を正すように、と。
一人目には夏国を内側から堕落させてその権威を失わせろ、と命じた。
二人目には夏国に代わる新たな国の王となる者を見つけて導け、と命じた。
そして三人目は……とある意図をもって地上へ送り出すこととした。
「さあ、私の可愛い女狐達よ。その魅力を華の地で示せ」
神は願った。華の地に光差す未来への道標を与え、民に幸せと救いを、と。
□□□
「末喜。今すぐ地上に行き、華を治める国を滅ぼしてこい」
「はい?」
太陽の光が優しく照りつけるある日。軒下で寝転びながらお菓子をつまんでいたら、突然我が主が私の屋敷に来襲した。そして私が起き上がる暇も無いまま理不尽な命令が下されてしまう。
思わず手にしていた菓子を落として見上げると、我が主が凍えるぐらい冷たい眼差しで私を見下ろしていた。あいも変わらずの凛々しさと美しさながら、その威圧感に圧されて顔が引きつったのも仕方がない。
「あの、我が主。もう一度だけ仰っていただけますか?」
「華の地の国を滅ぼしてこい、と命じた」
「え、と。どのようにして?」
「それを考えるのもお前の仕事だ」
なんて理不尽な! まさか我が主が私のぐーたら生活に立ちふさがるなんて!
仕方なく私は姿勢を正して座り、我が主と向き合う。一方の我が主は用意されていた敷布団には目もくれず、立って腕を組んだまま私を見下ろし続けてくる。包容力のある豊かな胸が強調されて……げふんげふん。無表情な面持ちはいつものことだけど、今日はいつになく無駄口を許さない迫力があった。
「私、地上に追放されるような何かをしましたでしょうか?」
「いや。お前の仕事ぶりは可もなく不可もなく、だ。何かをしたことへの罰ではない」
「ではどうしてこの私を地上に派遣しようとお思いになったので?」
我が主は地上に度々干渉している。時には豊穣を授け、時には飢饉をもたらす。男女の縁結びから親子間の血で血を洗う争いにまで介入し、人の営みを調整してきた。全ては歴史を良き流れに導くために。今よりもずっと先、神の加護が不要となる時代が来るまで。
けれど、直属の配下を派遣して介入させるのはとても珍しい。これまでを振り返っても片手で数えられる程度の数でしょう。生活環境を改善させる発明、人生の導きとなる思想、そして新たに地上を治める君主の誕生、といったように、いずれの場合も歴史の転換点となってきた。
それほどまでに今の地上には天の干渉が不可欠だと、我が主は考えているのか。
「お前も知っているだろう。私は華を治める国が成熟するまでは地上を見守り続けると決めている、と。しかし人とは難儀なもので、平和が続くと停滞し、堕落し、結局は腐るものだ。華の地の国々も例外ではない」
「はあ……」
「やがてはそれを良しとせぬ者が立ち上がり、腐敗を一掃し、大地に新たな芽吹きがもたらされるだろう。だが、それでは遅い。民は今まさに理不尽な仕打ちに苦しみ、悲しんでいる。自然な流れを悠長に待っていられん。一刻も早い新陳代謝が必要だ」
ここ、蓬莱界は神のおわす領域。今、私を見下ろしている我が主が何を隠そうその創造女神こと女媧様と仰る。言うならばこの世界は神の箱庭であり、神が歴史の道標で、全てが神の思し召しのままなのだ。
で、この私は女媧様のしがない眷属。名を末喜と申す。こう見えてもそれなりに徳の高い存在なのだけれど、やることはただのしがない使いっぱしりに過ぎない。我が主にやれと言われたら二つ返事で従うしかないのよ。
「つまり、私に本来の時代の流れを早めろ、とのご命令で? 地上に降りて?」
「その通りだ。現在華の地を治めている夏国という器は既にヒビだらけになっている。修復したところで水は漏れる一方だな。なら器ごと交換しなければいけない」
「ちなみにお断りしたら?」
「今すぐ地上に蹴落とした上で、任務完了まで蓬莱に戻ることを禁ずるまでだ」
「げっ!?」
僅かな希望は瞬く間に一刀両断された。容赦無さすぎます、我が主。
「準備期間も無いなんて酷すぎます! 分かりました、分かりましたから折檻だけは何卒ご勘弁を……!」
「ならいい」
私がせめてもの抵抗とばかりに抗議の声を上げた途端、我が主は戯言は許さんとばかりに目を細めて睨んできた。慌てて床に額をこすりつける勢いで土下座してご機嫌を取る。どうせ我が主は私の考えなんてお見通しなんだから、態度だけでも従順に振る舞わないと。
僅かな間、静寂が辺りを支配する。私は平伏し、見えないけれど我が主は私を無表情で見下ろしているのでしょう。
やがて沈黙に飽きたのか、我が主は踵を返してその場を後にする。
「ああ、そうそう。出発は明日だ。準備するなら急げよ」
「そんなご無体な……!」
私に無慈悲なぐらい冷酷な通告を残して。
よよよ、こんな理不尽な上司にこき使われて、なんて可哀想な私!
いいですよー、だ。いかに我が主とて私の怠惰な人生計画を阻むなら容赦しない。
こうなりゃさっさと夏国を滅ぼして、その後に有休貰ってやるんだから!
私はその日のうちに出発し、月が輝く夜の世界へと降り立った。
蓬莱と地上を結ぶ道は限られている。大抵は龍穴と呼ばれる、大地の力が吹き出る凄い場所に通じていた。人も感覚的に自然の力を感じ取るのか、龍穴は神のおわす場所ってみなして社を建てたりする。人々はそうした特別な場所で神に祈りを捧げる。豊穣を、健康を、安寧を願って。
私が降り立った場所もそんな風に人が築きし社の敷地だった。
この時、私がどう感じたかって言うと、別にどうということはない。単純に高台から地面にひょいと飛び降りるのと同じ感覚だ。昼間だったら大空からの絶景を眺めながらの降下だったんでしょうけれど、月明かりだけの暗黒の世界じゃあ風情も何もありゃしない。
しかし、地上の人々が天より使者が降り立つ光景を目の当たりにしたら、全く違う感想を抱くらしい。
本殿の屋根から辺りを見渡すと、もう人々は夢の世界に旅立っているようで、大地に築かれた家々の明かりはほぼ見られない。例外があるとすれば、有力者のお屋敷を守るために夜番が起こした火ぐらいか。夜まで働くなんてご苦労様。私はまっぴらごめんだわ。
「美しい……」
それは一体誰の声だったか。
周囲一帯の観察が終わり屋根から飛び降りようとしたところで、山の中で流れるせせらぎのように透き通った声が私の耳をくすぐった。あまりに不意だったものだから驚いて足を滑らせて屋根から落ちそうになった。
声の主、私を見上げる殿方がいたのはすぐ下だった。
年はかなり若そう。成人したてかしらね。顔は悪くない。背も高いし、整えられた髪や髭がきちんと剃られた清潔感のある身なりから察するに、相当な立場を持つ家のお坊ちゃま、または若主人ってところか。
「そなた、名をなんと申すのだ?」
彼は一人だけで同行者はいないようね。確か一人で社にお参りに来るのは神へ願い事をするなら単身でって古の決まりがあるからだって記憶してる。日が沈んだ真夜中にお参りするのは世界が眠りについた刻限ならより神に自分の声を届けやすくなる、と信じられているから、だったっけか。神に仕える私が言うのもなんだけれど、本当かしらね?
青年の瞳は私だけを映しているようだ。いたずら心が働いて少し動いてみてもその眼差しは私を追って離れない。丁度私の後ろで月が輝いているのもあってより幻想的に映ったのが理由かもしれない。
でもねえ、今の私に見惚れたのならちょっとドン引きなんですけど。何しろ今の私は人の姿じゃない。この身は狐。狼や熊よりも大きい、純白の妖狐だもの。人々が恐れおののく、自然の猛威の化身なのだから。
「頼む、天より舞い降りし方。どうかこの俺にそなたの名を教えてくれ」
青年は心震わせるような切ない声で私に頼んできた。あまりにも必死なものだから思わず私の心も揺れ動く。
どうしよう。このまま無視してしまうか。どうせこの場を立ち去れば最後、この広大な華の地において彼とはもう二度と会わないでしょう。この姿でいるのは近くの人里に着くまでの間だけだし。むしろこれ以上彼と見つめ合っていると私の正体を見破られる可能性が高まって、この先仕事がやりにくくなっちゃう。
けれど、そんな慎重に事を進めようとする理性は、この出会いに運命を感じてしまった私の衝動を抑えるには足らなかった。
この邂逅は偶然では片付けられない。それこそ神の思し召しじゃないかしら、と。
「我が名は末喜」
であれば、無下にするのは無粋。
この私の姿、言葉、在り方を、折角出会ったこの男に知らしめるとしましょう。
「天がそなたに微笑むのなら再び会うこともあろうな」
と、まあ、意味深だけど実際はなんの意味もない台詞を送り、私は青年をその場に残してさっさと駆け出した。
(もう深夜だし、さっさと落ち着ける場所で寝たいのよ! 夜更かしはお肌の天敵だし、早く惰眠を貪りたいし!)
そうして一人取り残された社の境内にて、青年は去っていく私の背をただ見つめていた。私の言葉、そして私の名を噛みしめるように繰り返し、心に刻みつけていたのだろう。彼が、ただの家のしきたりに過ぎなかったお参りで運命的な出会いを果たしたのだ、と私が知ることになるのはかなり後になる。
「末喜……」
それが私こと傾国の女狐となる末喜と、青年こと夏国の王子である癸との初めての出会い。
そして、夏国を終焉に導く二人の運命が動き出した瞬間だった。
□□□
身体を文字通り小さくして木の上でぐっすり寝た……否、爆睡しすぎてしまった。目を覚ましてみたらなんとお天道様がほぼ真上まで昇ってるじゃないの!
慌てふためきながら私は木から降りて、自分に人化の術を施す。
「よいしょ、と」
私ぐらいに年数を重ねた妖狐なら人に化けるなんてお茶の子さいさい。老若を問わず、小汚い浮浪者から絶世の美女までなんでもござれだ。服や靴だってお手の物。私が思い浮かべた通りに自分の姿を変えられるのよ。
とはいえ、命令を果たすまで目立つべきじゃない。私は地味な村の小娘に扮して社の麓にある町へと乗り込むことにした。町は盗賊対策にぐるっと囲いが施されていて見張りもいたけれど、人目に付かないところでえいやと飛び越える。
「さて。まずは情報収集ですかねえ」
目的は、我が主が仰っていた堕落とやらがどこまで影響を及ぼしているのか、この目で確かめることだ。何せ私は地上を監視する仕事についてなかったので、夏国の治世で人々の暮らしがどんな風に形作られているか全く分からないからね。
大通りに出ると丁度お昼時なのか、行き交う人で賑わっていた。使用人、昼休憩中の職人、旅人など通り過ぎる様々な客を店の人が元気よく声を上げて呼び込もうとしている。並んでいる野菜や雑貨などの売り物も目移りしちゃうぐらい種類に富んでいた。
(……あら、意外に活気づいてるじゃないの。もしかして頭の挿げ替えって必要ないんじゃないでしょうかね?)
我が主が懸念するぐらいだもの。民は税を搾り取られて貧困に喘ぎ、町は衰退して活気を失い、畑は枯れ果てて土が割れ、権力者が贅沢三昧、って想像してたけど。もしかして我が主の取り越し苦労だったりする?
とりあえず茶屋で一服することにした。代金? 社に奉納される物の中に貨幣が含まれていることもあるのよね。銅貝って言うらしいんだけれど。天への貢物は従属神である私がありがたく使わせていただく。
「お姉さん、お姉さん。ちょいとお尋ねしたいんですが、時間あります?」
「え? はい、大丈夫ですよ」
ついでに店の娘に世間話として最近の状況を聞いてみることにする。
「最近景気はどうなんですか? この様子だとお客さんには困ってないでしょう」
私が質問を投げかけると、娘は訝しげに眉をひそめた。その反応から察するに、どうやらこの賑わいは日常的なものではないらしい。
娘が言うには、どうも今は中央の王都からやんごとなき方、即ち天上人がいらっしゃっているから、一目見ようと近隣の村々から多くの人が詰めかけている状態なんだとか。なのでこの活気は所詮一時的なもので、すぐに閑古鳥が鳴く寂しい日常に戻っちまうだろう、とさ。
やんごとなき方の来訪目的は、私が昨夜降りた社へお参りするためらしい。神を祀る社は数多くあれど、神のおわす場所へと通じる天道があると信じられている社は数えるほどしかない。私も地上に降りるのに選んだほどだし、夏国の中心である王都から一番近いのはここなのだ。
そんな社が近くにあるおかげで、この町は近隣の村と比べてまだ栄えて……いや、人の営みが保たれている方なんだそうだ。
「わたしはこの町で生まれ育ってるんで、これは旅人からの又聞きなんですけど……他の村とか町だと若い人達が大勢王都に連れ去られてるそうなんですよ」
「ほうほう。それは人さらいが横行してるってことで?」
「いえ、どうも軍が差し向けられて連れていかれるんだそうで。おかげで奥の村なんかは人手が足りなくなって畑も満足に耕せないんですって」
成程。どうせさらった男は奴隷として無駄に豪華な建造物の労働力にしてるんでしょう。女の方は男の欲望を満たす道具にされる、とか? いやはや、これは相当な荒れ具合ですねえ。
情報代とばかりに駄賃をちょいと娘に握らせて再び町を歩く。町の中央に向かうにつれて段々と人が多くなっていくのに気付いた。何かあるのかと足を運んでみたら、広大な敷地に鎮座する領主のお屋敷の周囲に集まってるみたいね。
なんの騒ぎなのかと尋ねたら、野次馬の一人が天上人がここに滞在してるんだと教えてくれた。物珍しさもあるんでしょうけれど、中にはありがたやありがたやとお屋敷に向けて手を合わせて拝んでる老婦人もいる。そんな自分達を苦しめる天の代理人じゃなく、天そのものの我が主に祈ればいいのに、と思ってしまった。
「しかし別に姿が見えるわけじゃないのにどうして集まってるんでしょうね? まさか同じ空気を吸えれば幸せだとか? その天上人が我が子を連れていくかもしれないのに?」
「天災だと思い息を潜めて目をつむっているのさ。どうか自分だけはお助けください、って祈りながらな。火の粉だって我が身に降りかかってこないと払わないだろう?」
私が声をかけたのは壁にもたれかかった従僕風の格好をした若い男だ。粉塵避けなのか髪と口に布を巻いている。それでも見えている目元だけでも他の男衆より顔立ちは端整かな、と分かる。
何より、何かをやり遂げようという強い意志を感じさせる目がとても気に入った。
そんな彼は領主の屋敷じゃなく、その周りに集う民衆を観察してるようだった。あくまで私の想像に過ぎないけれど、おそらく一般庶民が天上人に対してどんな印象を抱いているのかを確かめるために。
そして、わざわざそんな酔狂な真似をする人間といえば……
「それで、せっかくこのようにお話しするのも何かの縁。ついでにこの光景について貴方様が抱いた所感をお聞かせ願えれば、と」
――この地にいらしているという天上人その人しかいないでしょう。
お忍び姿をした殿方は面白いとばかりにくっくと笑った。
「中央が圧政を敷いていて地方が苦しめられている、と聞いていたが……思っていたより民の不満は溜まっていなさそうだな、と」
「それほど皆様にとって中央の大王様は手の届かぬ場所にいる御方。貴方様も仰ったように嵐や火事を天災だと諦めるのと同じ感覚なのでしょう」
「だからと大王が天子などと自称して民を虐げていいわけがない。手遅れになる前に政は正されるべきだ」
「それはそれは。頑張ってくださいまし」
私は殿方に慇懃なお辞儀をしてその場を立ち去ろうとしたけれど、不意に手を取られた。ぱっとしない小娘に変化した私の小さな手は殿方の鍛えた無骨な手に包まれる。大きくて硬いな、と率直な感想を抱き、次に強く握られたせいで鈍い痛みを覚える。
「何をなさるんですか。お離しください」
「そなたに名乗られたのに俺は名乗っていなかったから」
「はあ? 私、貴方様のお名前を聞いた覚えは――」
いえ、ちょっと待って。
地上に来たのはこれが初めて。この姿になってからは一切自分の名は口にしていない。名乗った相手はそれこそ地上に降り立った際、参拝に来ていたあの青年にだけだ。
……まさか、この人は昨晩の青年? そして彼が参拝しに来たという天上人なの?
ううむ、あいにく昨晩は月明かりと彼が持っていた松明だけが頼りで、容姿の細部までは確認出来なかったからなぁ。言われてみれば確かにこんな風貌だったような、そうでなかったような……記憶が曖昧すぎて確信が持てない。
「俺は履癸。癸と呼んでくれ」
「癸様、ですか……。これはこれはご丁寧に。私は――」
「知っている。末喜だろう?」
この男、全く疑うことなく断言したわね。私が昨日遭遇した天からやって来た使者だって。思わずとぼけるのも忘れて顔を引きつらせそうになってしまったわ。
だいたい、あの時私は妖狐の姿だったでしょうよ。それに今は彼がしているような変装とは根本的に違う原理で見た目を人に変えている。いかに妖怪は人に化けるものって常識として知られていようと、妖狐と町の小娘を結びつける要素は何一つ無いはず。
「人違いをなさっておいででは?」
「いいや。昨日の晩、天より舞い降りるそなたと俺は出会った。あのとても美しかったそなたを見間違えやしない。あれほどの衝撃はこれまで受けたことがなかった」
彼の眼差しは真剣そのもので、私を捉えて離さない。どういったわけか今の私はあの純白の狐と同じ存在だと確信しているようだ。
直感か、それとも何かしらのからくりがあるのか。判断がつかない。
私は強がる意味も込めて鼻で笑ってやった。しかし目の前の男は全く気分を害する様子がない。それがまた癪に障ったので、小馬鹿にした口調で反論する。
「おやまあ。癸様は天からの遣いがいらっしゃる場面を目の当たりにしたと。このような見苦しい小娘に過ぎぬ私をその御方と見間違えるとは恐れ多い限りです」
「天よりなんらかの使命を与えられて降臨したのだろう。そしてそれが何かもおおよそは察せられる。俺なら力になれる」
「お離しくださいませ。それ以上の戯言に付き合ってる暇はございません」
「この手を離せばすぐに離れていき、もう掴めなくなるのだろう? 断る」
ええい、強情な。まさかこの私を気に入って連れていこうとしてるの? このまま彼に連れていかれる先はおそらく夏国の中央、即ち王都。妻にされるのか愛人にされるのかは知らないけれど、彼にすり寄ったって私が仕事をこなせるとは思えない。
どうやってこの国を滅ぼすかって言うと、やっぱ腐敗を促進させて政が成り立たなくなるまで堕落させるのが一番手っ取り早い。でもそれって大王本人を誘惑して言いなりになるぐらい骨抜きにしなきゃいけない。彼の立場は知らないけれど、彼の寵愛を得たところで国をすぐ動かせるようになるとは思えなかった。もっとこう、下準備だけ済ませたら後は滅亡へと真っ逆さまに転がり落ちるばかりっていう手段を取りたいのよね。
振りほどこうにもこの姿のままだと力負けして無理。仕方がない。ちょっと派手に驚かせるとしましょう。
「ふっ」
「……!?」
私は唇に指を当てて軽く息を吹いた。すると息吹はたちまちに火を伴って彼に襲いかかった。
これは地上に住む人々が方術と呼ぶ、自然の力とは異なる様々な現象を起こす術だ。一般的には祭祀、卜占、煉丹術などが知られているかしら。けれど私のような神に直接仕える従属神は自然の理を超越した、地上に生きる人々が奇蹟と呼ぶような現象も起こせる。火種や油も無いのに火を吹くのもほら、ご覧の通り造作もない。
彼は迫る炎をとっさにもう片方の手で振り払ったけれど、気を取られたおかげで私を捕まえていた手の力が緩む。
「では、ごめんあそばせ」
「あっ! 待て……!」
待てと言われて待つ馬鹿がおりますか、っての!
私は彼の束縛を振りほどいてから人混みを縫うように逃げて距離を離していく。そして彼の姿が見えなくなった人気のない裏手で変化を解いて、今度は猫と同じぐらいの大きさの狐に化けた。ほんの僅か後に彼が裏手にやって来たものの、隅で縮こまった私を視界に捉えることは出来なかった。
後は町が寝静まるまで木の上で隠れて、真夜中に出発すればいいか。
それにしても彼、癸って名前だったっけ。どうして人に化けた私の正体をひと目で見破ったのかしら? そこまで下手な化け方はしてないはずなのだけれど。勘が鋭いのか、それとも別の何かが見えているのか。
彼が天上人である以上、夏国を崩壊へと誘う過程で再会するかもしれない。警戒に値するわ。
「ま、考えても仕方がないし。今日は十分働きましたからおやすみー」
もういい、寝る! 今日はかなり頑張ったもの。
明日のことは明日考えるとしましょう。
□□□
夜も更けてきたところで私は木から飛び降りて、町からおさらばする。勿論、門なんて使わないで塀をひょいとひとっ飛びして。それから見回りに見つからないように素早くその場を離れた。こうして旅するなら人の姿でいるより元の妖狐の方がずっと速く走れる。
街道から少し距離を保ちながら夜を駆け抜けていく。うーん、風が気持ち良い。天上でごろごろしてばかりだったけれど、たまにはこうして運動するのもいいかもね。疲れるのは勘弁願いたいけれどさ。
「あら……?」
どれだけ走ったかしら。月の傾きが結構変わってるから相当時間が経ったと思う。とにかく出発した町がとっくに見えなくなった地点で、私はその一団を見かけた。
それは若い男女を連れていく武装した兵士達だった。茶屋の娘さんが言っていた中央への労働力の運搬ってところか。奴隷達が車輪付きの檻に所狭しと積み込まれている。
気に入らない、と率直な感想を抱いて眉間にしわが寄った。
牢屋の中の者達は薄い布の服一枚だけだからか、夜の肌寒さに身を震わせている。男衆は抵抗して罰を受けたのか、かなりの打撲痕と思しき青いアザが出来ていた。女衆は身を寄せ合ってまだ幼い子供が不安からすすり泣くのを元気づけている。
この武装集団は装備から察するに夏国の正規兵ってところかしら。国が率先して民を虐げるなんて……確かに我が主の仰る通り、未来を先細りさせかねない愚策だ。
華と呼ばれる地域には数百もの国があり、それらを夏という大国が治めていた。
夏国による統治は数百年もの間続き、人々は平和に暮らした。
しかし、長きに渡る安穏とした時の流れは、大国の根を腐らせていく。
いつしか夏国に君臨する大王は自らを天の代理人、即ち天子と名乗った。天に代わって華の地を支配しているのだ、と驕ったのだ。
やがて太平の世を築くという建国時の理念は失われた。大王とそれに群がる臣下達は富と人を全て己の手中にすべく横暴を働いた。民は平和を奪われ、笑顔は消えた。
神は憤った。華の地が、民が嘆き悲しみ、恐れおののき、苦しむ地獄と化したことを。
神は三名の腹心に命じることとした。地上に降りて世を正すように、と。
一人目には夏国を内側から堕落させてその権威を失わせろ、と命じた。
二人目には夏国に代わる新たな国の王となる者を見つけて導け、と命じた。
そして三人目は……とある意図をもって地上へ送り出すこととした。
「さあ、私の可愛い女狐達よ。その魅力を華の地で示せ」
神は願った。華の地に光差す未来への道標を与え、民に幸せと救いを、と。
□□□
「末喜。今すぐ地上に行き、華を治める国を滅ぼしてこい」
「はい?」
太陽の光が優しく照りつけるある日。軒下で寝転びながらお菓子をつまんでいたら、突然我が主が私の屋敷に来襲した。そして私が起き上がる暇も無いまま理不尽な命令が下されてしまう。
思わず手にしていた菓子を落として見上げると、我が主が凍えるぐらい冷たい眼差しで私を見下ろしていた。あいも変わらずの凛々しさと美しさながら、その威圧感に圧されて顔が引きつったのも仕方がない。
「あの、我が主。もう一度だけ仰っていただけますか?」
「華の地の国を滅ぼしてこい、と命じた」
「え、と。どのようにして?」
「それを考えるのもお前の仕事だ」
なんて理不尽な! まさか我が主が私のぐーたら生活に立ちふさがるなんて!
仕方なく私は姿勢を正して座り、我が主と向き合う。一方の我が主は用意されていた敷布団には目もくれず、立って腕を組んだまま私を見下ろし続けてくる。包容力のある豊かな胸が強調されて……げふんげふん。無表情な面持ちはいつものことだけど、今日はいつになく無駄口を許さない迫力があった。
「私、地上に追放されるような何かをしましたでしょうか?」
「いや。お前の仕事ぶりは可もなく不可もなく、だ。何かをしたことへの罰ではない」
「ではどうしてこの私を地上に派遣しようとお思いになったので?」
我が主は地上に度々干渉している。時には豊穣を授け、時には飢饉をもたらす。男女の縁結びから親子間の血で血を洗う争いにまで介入し、人の営みを調整してきた。全ては歴史を良き流れに導くために。今よりもずっと先、神の加護が不要となる時代が来るまで。
けれど、直属の配下を派遣して介入させるのはとても珍しい。これまでを振り返っても片手で数えられる程度の数でしょう。生活環境を改善させる発明、人生の導きとなる思想、そして新たに地上を治める君主の誕生、といったように、いずれの場合も歴史の転換点となってきた。
それほどまでに今の地上には天の干渉が不可欠だと、我が主は考えているのか。
「お前も知っているだろう。私は華を治める国が成熟するまでは地上を見守り続けると決めている、と。しかし人とは難儀なもので、平和が続くと停滞し、堕落し、結局は腐るものだ。華の地の国々も例外ではない」
「はあ……」
「やがてはそれを良しとせぬ者が立ち上がり、腐敗を一掃し、大地に新たな芽吹きがもたらされるだろう。だが、それでは遅い。民は今まさに理不尽な仕打ちに苦しみ、悲しんでいる。自然な流れを悠長に待っていられん。一刻も早い新陳代謝が必要だ」
ここ、蓬莱界は神のおわす領域。今、私を見下ろしている我が主が何を隠そうその創造女神こと女媧様と仰る。言うならばこの世界は神の箱庭であり、神が歴史の道標で、全てが神の思し召しのままなのだ。
で、この私は女媧様のしがない眷属。名を末喜と申す。こう見えてもそれなりに徳の高い存在なのだけれど、やることはただのしがない使いっぱしりに過ぎない。我が主にやれと言われたら二つ返事で従うしかないのよ。
「つまり、私に本来の時代の流れを早めろ、とのご命令で? 地上に降りて?」
「その通りだ。現在華の地を治めている夏国という器は既にヒビだらけになっている。修復したところで水は漏れる一方だな。なら器ごと交換しなければいけない」
「ちなみにお断りしたら?」
「今すぐ地上に蹴落とした上で、任務完了まで蓬莱に戻ることを禁ずるまでだ」
「げっ!?」
僅かな希望は瞬く間に一刀両断された。容赦無さすぎます、我が主。
「準備期間も無いなんて酷すぎます! 分かりました、分かりましたから折檻だけは何卒ご勘弁を……!」
「ならいい」
私がせめてもの抵抗とばかりに抗議の声を上げた途端、我が主は戯言は許さんとばかりに目を細めて睨んできた。慌てて床に額をこすりつける勢いで土下座してご機嫌を取る。どうせ我が主は私の考えなんてお見通しなんだから、態度だけでも従順に振る舞わないと。
僅かな間、静寂が辺りを支配する。私は平伏し、見えないけれど我が主は私を無表情で見下ろしているのでしょう。
やがて沈黙に飽きたのか、我が主は踵を返してその場を後にする。
「ああ、そうそう。出発は明日だ。準備するなら急げよ」
「そんなご無体な……!」
私に無慈悲なぐらい冷酷な通告を残して。
よよよ、こんな理不尽な上司にこき使われて、なんて可哀想な私!
いいですよー、だ。いかに我が主とて私の怠惰な人生計画を阻むなら容赦しない。
こうなりゃさっさと夏国を滅ぼして、その後に有休貰ってやるんだから!
私はその日のうちに出発し、月が輝く夜の世界へと降り立った。
蓬莱と地上を結ぶ道は限られている。大抵は龍穴と呼ばれる、大地の力が吹き出る凄い場所に通じていた。人も感覚的に自然の力を感じ取るのか、龍穴は神のおわす場所ってみなして社を建てたりする。人々はそうした特別な場所で神に祈りを捧げる。豊穣を、健康を、安寧を願って。
私が降り立った場所もそんな風に人が築きし社の敷地だった。
この時、私がどう感じたかって言うと、別にどうということはない。単純に高台から地面にひょいと飛び降りるのと同じ感覚だ。昼間だったら大空からの絶景を眺めながらの降下だったんでしょうけれど、月明かりだけの暗黒の世界じゃあ風情も何もありゃしない。
しかし、地上の人々が天より使者が降り立つ光景を目の当たりにしたら、全く違う感想を抱くらしい。
本殿の屋根から辺りを見渡すと、もう人々は夢の世界に旅立っているようで、大地に築かれた家々の明かりはほぼ見られない。例外があるとすれば、有力者のお屋敷を守るために夜番が起こした火ぐらいか。夜まで働くなんてご苦労様。私はまっぴらごめんだわ。
「美しい……」
それは一体誰の声だったか。
周囲一帯の観察が終わり屋根から飛び降りようとしたところで、山の中で流れるせせらぎのように透き通った声が私の耳をくすぐった。あまりに不意だったものだから驚いて足を滑らせて屋根から落ちそうになった。
声の主、私を見上げる殿方がいたのはすぐ下だった。
年はかなり若そう。成人したてかしらね。顔は悪くない。背も高いし、整えられた髪や髭がきちんと剃られた清潔感のある身なりから察するに、相当な立場を持つ家のお坊ちゃま、または若主人ってところか。
「そなた、名をなんと申すのだ?」
彼は一人だけで同行者はいないようね。確か一人で社にお参りに来るのは神へ願い事をするなら単身でって古の決まりがあるからだって記憶してる。日が沈んだ真夜中にお参りするのは世界が眠りについた刻限ならより神に自分の声を届けやすくなる、と信じられているから、だったっけか。神に仕える私が言うのもなんだけれど、本当かしらね?
青年の瞳は私だけを映しているようだ。いたずら心が働いて少し動いてみてもその眼差しは私を追って離れない。丁度私の後ろで月が輝いているのもあってより幻想的に映ったのが理由かもしれない。
でもねえ、今の私に見惚れたのならちょっとドン引きなんですけど。何しろ今の私は人の姿じゃない。この身は狐。狼や熊よりも大きい、純白の妖狐だもの。人々が恐れおののく、自然の猛威の化身なのだから。
「頼む、天より舞い降りし方。どうかこの俺にそなたの名を教えてくれ」
青年は心震わせるような切ない声で私に頼んできた。あまりにも必死なものだから思わず私の心も揺れ動く。
どうしよう。このまま無視してしまうか。どうせこの場を立ち去れば最後、この広大な華の地において彼とはもう二度と会わないでしょう。この姿でいるのは近くの人里に着くまでの間だけだし。むしろこれ以上彼と見つめ合っていると私の正体を見破られる可能性が高まって、この先仕事がやりにくくなっちゃう。
けれど、そんな慎重に事を進めようとする理性は、この出会いに運命を感じてしまった私の衝動を抑えるには足らなかった。
この邂逅は偶然では片付けられない。それこそ神の思し召しじゃないかしら、と。
「我が名は末喜」
であれば、無下にするのは無粋。
この私の姿、言葉、在り方を、折角出会ったこの男に知らしめるとしましょう。
「天がそなたに微笑むのなら再び会うこともあろうな」
と、まあ、意味深だけど実際はなんの意味もない台詞を送り、私は青年をその場に残してさっさと駆け出した。
(もう深夜だし、さっさと落ち着ける場所で寝たいのよ! 夜更かしはお肌の天敵だし、早く惰眠を貪りたいし!)
そうして一人取り残された社の境内にて、青年は去っていく私の背をただ見つめていた。私の言葉、そして私の名を噛みしめるように繰り返し、心に刻みつけていたのだろう。彼が、ただの家のしきたりに過ぎなかったお参りで運命的な出会いを果たしたのだ、と私が知ることになるのはかなり後になる。
「末喜……」
それが私こと傾国の女狐となる末喜と、青年こと夏国の王子である癸との初めての出会い。
そして、夏国を終焉に導く二人の運命が動き出した瞬間だった。
□□□
身体を文字通り小さくして木の上でぐっすり寝た……否、爆睡しすぎてしまった。目を覚ましてみたらなんとお天道様がほぼ真上まで昇ってるじゃないの!
慌てふためきながら私は木から降りて、自分に人化の術を施す。
「よいしょ、と」
私ぐらいに年数を重ねた妖狐なら人に化けるなんてお茶の子さいさい。老若を問わず、小汚い浮浪者から絶世の美女までなんでもござれだ。服や靴だってお手の物。私が思い浮かべた通りに自分の姿を変えられるのよ。
とはいえ、命令を果たすまで目立つべきじゃない。私は地味な村の小娘に扮して社の麓にある町へと乗り込むことにした。町は盗賊対策にぐるっと囲いが施されていて見張りもいたけれど、人目に付かないところでえいやと飛び越える。
「さて。まずは情報収集ですかねえ」
目的は、我が主が仰っていた堕落とやらがどこまで影響を及ぼしているのか、この目で確かめることだ。何せ私は地上を監視する仕事についてなかったので、夏国の治世で人々の暮らしがどんな風に形作られているか全く分からないからね。
大通りに出ると丁度お昼時なのか、行き交う人で賑わっていた。使用人、昼休憩中の職人、旅人など通り過ぎる様々な客を店の人が元気よく声を上げて呼び込もうとしている。並んでいる野菜や雑貨などの売り物も目移りしちゃうぐらい種類に富んでいた。
(……あら、意外に活気づいてるじゃないの。もしかして頭の挿げ替えって必要ないんじゃないでしょうかね?)
我が主が懸念するぐらいだもの。民は税を搾り取られて貧困に喘ぎ、町は衰退して活気を失い、畑は枯れ果てて土が割れ、権力者が贅沢三昧、って想像してたけど。もしかして我が主の取り越し苦労だったりする?
とりあえず茶屋で一服することにした。代金? 社に奉納される物の中に貨幣が含まれていることもあるのよね。銅貝って言うらしいんだけれど。天への貢物は従属神である私がありがたく使わせていただく。
「お姉さん、お姉さん。ちょいとお尋ねしたいんですが、時間あります?」
「え? はい、大丈夫ですよ」
ついでに店の娘に世間話として最近の状況を聞いてみることにする。
「最近景気はどうなんですか? この様子だとお客さんには困ってないでしょう」
私が質問を投げかけると、娘は訝しげに眉をひそめた。その反応から察するに、どうやらこの賑わいは日常的なものではないらしい。
娘が言うには、どうも今は中央の王都からやんごとなき方、即ち天上人がいらっしゃっているから、一目見ようと近隣の村々から多くの人が詰めかけている状態なんだとか。なのでこの活気は所詮一時的なもので、すぐに閑古鳥が鳴く寂しい日常に戻っちまうだろう、とさ。
やんごとなき方の来訪目的は、私が昨夜降りた社へお参りするためらしい。神を祀る社は数多くあれど、神のおわす場所へと通じる天道があると信じられている社は数えるほどしかない。私も地上に降りるのに選んだほどだし、夏国の中心である王都から一番近いのはここなのだ。
そんな社が近くにあるおかげで、この町は近隣の村と比べてまだ栄えて……いや、人の営みが保たれている方なんだそうだ。
「わたしはこの町で生まれ育ってるんで、これは旅人からの又聞きなんですけど……他の村とか町だと若い人達が大勢王都に連れ去られてるそうなんですよ」
「ほうほう。それは人さらいが横行してるってことで?」
「いえ、どうも軍が差し向けられて連れていかれるんだそうで。おかげで奥の村なんかは人手が足りなくなって畑も満足に耕せないんですって」
成程。どうせさらった男は奴隷として無駄に豪華な建造物の労働力にしてるんでしょう。女の方は男の欲望を満たす道具にされる、とか? いやはや、これは相当な荒れ具合ですねえ。
情報代とばかりに駄賃をちょいと娘に握らせて再び町を歩く。町の中央に向かうにつれて段々と人が多くなっていくのに気付いた。何かあるのかと足を運んでみたら、広大な敷地に鎮座する領主のお屋敷の周囲に集まってるみたいね。
なんの騒ぎなのかと尋ねたら、野次馬の一人が天上人がここに滞在してるんだと教えてくれた。物珍しさもあるんでしょうけれど、中にはありがたやありがたやとお屋敷に向けて手を合わせて拝んでる老婦人もいる。そんな自分達を苦しめる天の代理人じゃなく、天そのものの我が主に祈ればいいのに、と思ってしまった。
「しかし別に姿が見えるわけじゃないのにどうして集まってるんでしょうね? まさか同じ空気を吸えれば幸せだとか? その天上人が我が子を連れていくかもしれないのに?」
「天災だと思い息を潜めて目をつむっているのさ。どうか自分だけはお助けください、って祈りながらな。火の粉だって我が身に降りかかってこないと払わないだろう?」
私が声をかけたのは壁にもたれかかった従僕風の格好をした若い男だ。粉塵避けなのか髪と口に布を巻いている。それでも見えている目元だけでも他の男衆より顔立ちは端整かな、と分かる。
何より、何かをやり遂げようという強い意志を感じさせる目がとても気に入った。
そんな彼は領主の屋敷じゃなく、その周りに集う民衆を観察してるようだった。あくまで私の想像に過ぎないけれど、おそらく一般庶民が天上人に対してどんな印象を抱いているのかを確かめるために。
そして、わざわざそんな酔狂な真似をする人間といえば……
「それで、せっかくこのようにお話しするのも何かの縁。ついでにこの光景について貴方様が抱いた所感をお聞かせ願えれば、と」
――この地にいらしているという天上人その人しかいないでしょう。
お忍び姿をした殿方は面白いとばかりにくっくと笑った。
「中央が圧政を敷いていて地方が苦しめられている、と聞いていたが……思っていたより民の不満は溜まっていなさそうだな、と」
「それほど皆様にとって中央の大王様は手の届かぬ場所にいる御方。貴方様も仰ったように嵐や火事を天災だと諦めるのと同じ感覚なのでしょう」
「だからと大王が天子などと自称して民を虐げていいわけがない。手遅れになる前に政は正されるべきだ」
「それはそれは。頑張ってくださいまし」
私は殿方に慇懃なお辞儀をしてその場を立ち去ろうとしたけれど、不意に手を取られた。ぱっとしない小娘に変化した私の小さな手は殿方の鍛えた無骨な手に包まれる。大きくて硬いな、と率直な感想を抱き、次に強く握られたせいで鈍い痛みを覚える。
「何をなさるんですか。お離しください」
「そなたに名乗られたのに俺は名乗っていなかったから」
「はあ? 私、貴方様のお名前を聞いた覚えは――」
いえ、ちょっと待って。
地上に来たのはこれが初めて。この姿になってからは一切自分の名は口にしていない。名乗った相手はそれこそ地上に降り立った際、参拝に来ていたあの青年にだけだ。
……まさか、この人は昨晩の青年? そして彼が参拝しに来たという天上人なの?
ううむ、あいにく昨晩は月明かりと彼が持っていた松明だけが頼りで、容姿の細部までは確認出来なかったからなぁ。言われてみれば確かにこんな風貌だったような、そうでなかったような……記憶が曖昧すぎて確信が持てない。
「俺は履癸。癸と呼んでくれ」
「癸様、ですか……。これはこれはご丁寧に。私は――」
「知っている。末喜だろう?」
この男、全く疑うことなく断言したわね。私が昨日遭遇した天からやって来た使者だって。思わずとぼけるのも忘れて顔を引きつらせそうになってしまったわ。
だいたい、あの時私は妖狐の姿だったでしょうよ。それに今は彼がしているような変装とは根本的に違う原理で見た目を人に変えている。いかに妖怪は人に化けるものって常識として知られていようと、妖狐と町の小娘を結びつける要素は何一つ無いはず。
「人違いをなさっておいででは?」
「いいや。昨日の晩、天より舞い降りるそなたと俺は出会った。あのとても美しかったそなたを見間違えやしない。あれほどの衝撃はこれまで受けたことがなかった」
彼の眼差しは真剣そのもので、私を捉えて離さない。どういったわけか今の私はあの純白の狐と同じ存在だと確信しているようだ。
直感か、それとも何かしらのからくりがあるのか。判断がつかない。
私は強がる意味も込めて鼻で笑ってやった。しかし目の前の男は全く気分を害する様子がない。それがまた癪に障ったので、小馬鹿にした口調で反論する。
「おやまあ。癸様は天からの遣いがいらっしゃる場面を目の当たりにしたと。このような見苦しい小娘に過ぎぬ私をその御方と見間違えるとは恐れ多い限りです」
「天よりなんらかの使命を与えられて降臨したのだろう。そしてそれが何かもおおよそは察せられる。俺なら力になれる」
「お離しくださいませ。それ以上の戯言に付き合ってる暇はございません」
「この手を離せばすぐに離れていき、もう掴めなくなるのだろう? 断る」
ええい、強情な。まさかこの私を気に入って連れていこうとしてるの? このまま彼に連れていかれる先はおそらく夏国の中央、即ち王都。妻にされるのか愛人にされるのかは知らないけれど、彼にすり寄ったって私が仕事をこなせるとは思えない。
どうやってこの国を滅ぼすかって言うと、やっぱ腐敗を促進させて政が成り立たなくなるまで堕落させるのが一番手っ取り早い。でもそれって大王本人を誘惑して言いなりになるぐらい骨抜きにしなきゃいけない。彼の立場は知らないけれど、彼の寵愛を得たところで国をすぐ動かせるようになるとは思えなかった。もっとこう、下準備だけ済ませたら後は滅亡へと真っ逆さまに転がり落ちるばかりっていう手段を取りたいのよね。
振りほどこうにもこの姿のままだと力負けして無理。仕方がない。ちょっと派手に驚かせるとしましょう。
「ふっ」
「……!?」
私は唇に指を当てて軽く息を吹いた。すると息吹はたちまちに火を伴って彼に襲いかかった。
これは地上に住む人々が方術と呼ぶ、自然の力とは異なる様々な現象を起こす術だ。一般的には祭祀、卜占、煉丹術などが知られているかしら。けれど私のような神に直接仕える従属神は自然の理を超越した、地上に生きる人々が奇蹟と呼ぶような現象も起こせる。火種や油も無いのに火を吹くのもほら、ご覧の通り造作もない。
彼は迫る炎をとっさにもう片方の手で振り払ったけれど、気を取られたおかげで私を捕まえていた手の力が緩む。
「では、ごめんあそばせ」
「あっ! 待て……!」
待てと言われて待つ馬鹿がおりますか、っての!
私は彼の束縛を振りほどいてから人混みを縫うように逃げて距離を離していく。そして彼の姿が見えなくなった人気のない裏手で変化を解いて、今度は猫と同じぐらいの大きさの狐に化けた。ほんの僅か後に彼が裏手にやって来たものの、隅で縮こまった私を視界に捉えることは出来なかった。
後は町が寝静まるまで木の上で隠れて、真夜中に出発すればいいか。
それにしても彼、癸って名前だったっけ。どうして人に化けた私の正体をひと目で見破ったのかしら? そこまで下手な化け方はしてないはずなのだけれど。勘が鋭いのか、それとも別の何かが見えているのか。
彼が天上人である以上、夏国を崩壊へと誘う過程で再会するかもしれない。警戒に値するわ。
「ま、考えても仕方がないし。今日は十分働きましたからおやすみー」
もういい、寝る! 今日はかなり頑張ったもの。
明日のことは明日考えるとしましょう。
□□□
夜も更けてきたところで私は木から飛び降りて、町からおさらばする。勿論、門なんて使わないで塀をひょいとひとっ飛びして。それから見回りに見つからないように素早くその場を離れた。こうして旅するなら人の姿でいるより元の妖狐の方がずっと速く走れる。
街道から少し距離を保ちながら夜を駆け抜けていく。うーん、風が気持ち良い。天上でごろごろしてばかりだったけれど、たまにはこうして運動するのもいいかもね。疲れるのは勘弁願いたいけれどさ。
「あら……?」
どれだけ走ったかしら。月の傾きが結構変わってるから相当時間が経ったと思う。とにかく出発した町がとっくに見えなくなった地点で、私はその一団を見かけた。
それは若い男女を連れていく武装した兵士達だった。茶屋の娘さんが言っていた中央への労働力の運搬ってところか。奴隷達が車輪付きの檻に所狭しと積み込まれている。
気に入らない、と率直な感想を抱いて眉間にしわが寄った。
牢屋の中の者達は薄い布の服一枚だけだからか、夜の肌寒さに身を震わせている。男衆は抵抗して罰を受けたのか、かなりの打撲痕と思しき青いアザが出来ていた。女衆は身を寄せ合ってまだ幼い子供が不安からすすり泣くのを元気づけている。
この武装集団は装備から察するに夏国の正規兵ってところかしら。国が率先して民を虐げるなんて……確かに我が主の仰る通り、未来を先細りさせかねない愚策だ。
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