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2、また、会えますか?
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カラン、カラン
下駄を鳴らしながら歩く男は、隣の女を横目でちらりと見遣った。
上質な生地の着物と袴。乱れなく結い上げられた髪に、鮮やかな紅色のリボン。
何処から見ても、華やかな装いがよく似合う育ちの良い女学生だ。
大事な娘が寮を抜け出して朝帰りしている事など知ったら両親は卒倒するに違いない。
「次に抜け出せるのは二週間後だわ。…また、会えますか?」
……本人は意に介さない様だが。
「ああ。迎えに行く」
ここで断らない自身も大概質たちが悪いか、と男は自嘲めいた笑みを口元に乗せた。
女学校の学生寮と男の借家はそう遠くない距離にある。
遠くに門が見えて来た辺りで、女の歩みが少しばかり遅くなった。
カラン、、カラン、、
下駄の鳴る音も僅かに間隔が広くなる。
自他共に認めるせっかちな男が女に歩調を合わせてやる自分に気づいたのは、つい最近のことだった。
対して会ったばかりの頃から、無愛想な男の優しさを知っていた女は嬉しそうに小さく笑って口を開く。
「夏目漱石って、ご存知?」
「ああ、勿論。死んじまってからまた、遺作だ何だと流行ってやがる」
「……あの逸話は?」
何かを探るような、それでいて何かを期待するような女の声音。
男が珍しくがしがしと頭を掻くと伸び切った前髪が目元を覆い隠した。
「あんなの誰かがでっち上げた作り話だろ。信じるんじゃねぇよ」
「だけど、素敵だわ。“I love you”を“月が綺麗ですね”と訳すなんて」
「…、」
門はもう、すぐそこで。
ようやく完全に顔を出した太陽が逢瀬を終える男女を暖かく包み込む。
「宗次郎さんなら、…何と訳すの?」
来ると思った予想通りの問いに男は分かりやすく眉を顰めて見せた。
「さあな。俺は英語には疎いもんで」
「嘘つき」
だが、この返しも予想通りだったのか。
女は揶揄うようにくすくすと笑って男の顔を覗き込む。
早くも負けを認めた男は足を止めて女の深い双眸をじっと見つめ返した。
さあ、と冷たい風が落ち葉を舞い上げる。
「………俺なら、“帰る時間だ”、と訳す」
目の前の門を顎で示して男は言った。
落ち葉を掬った風が優しく、穏やかに。二人の間を分かつように通り抜ける。
「…ほんと、狡い」
眉尻を下げた女は、呟くように男を詰なじり。
それでも男が背を押すと、素直に門の隙間をするりと抜けて寮へと駆けて行く。
残された男は一度も振り返らない背中が寮の裏口に消えるまで見送ってから踵を返した。
煙草を咥えてマッチを擦ると、はぁ、と溜め息を吐いて眩しい陽を見上げる。
「狡ぃのはどっちだよ、…ばか」
小さな呟きは紫煙と共に風に攫われた。
下駄を鳴らしながら歩く男は、隣の女を横目でちらりと見遣った。
上質な生地の着物と袴。乱れなく結い上げられた髪に、鮮やかな紅色のリボン。
何処から見ても、華やかな装いがよく似合う育ちの良い女学生だ。
大事な娘が寮を抜け出して朝帰りしている事など知ったら両親は卒倒するに違いない。
「次に抜け出せるのは二週間後だわ。…また、会えますか?」
……本人は意に介さない様だが。
「ああ。迎えに行く」
ここで断らない自身も大概質たちが悪いか、と男は自嘲めいた笑みを口元に乗せた。
女学校の学生寮と男の借家はそう遠くない距離にある。
遠くに門が見えて来た辺りで、女の歩みが少しばかり遅くなった。
カラン、、カラン、、
下駄の鳴る音も僅かに間隔が広くなる。
自他共に認めるせっかちな男が女に歩調を合わせてやる自分に気づいたのは、つい最近のことだった。
対して会ったばかりの頃から、無愛想な男の優しさを知っていた女は嬉しそうに小さく笑って口を開く。
「夏目漱石って、ご存知?」
「ああ、勿論。死んじまってからまた、遺作だ何だと流行ってやがる」
「……あの逸話は?」
何かを探るような、それでいて何かを期待するような女の声音。
男が珍しくがしがしと頭を掻くと伸び切った前髪が目元を覆い隠した。
「あんなの誰かがでっち上げた作り話だろ。信じるんじゃねぇよ」
「だけど、素敵だわ。“I love you”を“月が綺麗ですね”と訳すなんて」
「…、」
門はもう、すぐそこで。
ようやく完全に顔を出した太陽が逢瀬を終える男女を暖かく包み込む。
「宗次郎さんなら、…何と訳すの?」
来ると思った予想通りの問いに男は分かりやすく眉を顰めて見せた。
「さあな。俺は英語には疎いもんで」
「嘘つき」
だが、この返しも予想通りだったのか。
女は揶揄うようにくすくすと笑って男の顔を覗き込む。
早くも負けを認めた男は足を止めて女の深い双眸をじっと見つめ返した。
さあ、と冷たい風が落ち葉を舞い上げる。
「………俺なら、“帰る時間だ”、と訳す」
目の前の門を顎で示して男は言った。
落ち葉を掬った風が優しく、穏やかに。二人の間を分かつように通り抜ける。
「…ほんと、狡い」
眉尻を下げた女は、呟くように男を詰なじり。
それでも男が背を押すと、素直に門の隙間をするりと抜けて寮へと駆けて行く。
残された男は一度も振り返らない背中が寮の裏口に消えるまで見送ってから踵を返した。
煙草を咥えてマッチを擦ると、はぁ、と溜め息を吐いて眩しい陽を見上げる。
「狡ぃのはどっちだよ、…ばか」
小さな呟きは紫煙と共に風に攫われた。
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