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さよなら
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そして、以前とまったく変わらないように見える日々が戻ってきた。
ビートとその子分たちの死について、町の住人は何も言わなかった。人々のボニーたちに対する態度は変わらなかった。ビート自身が言ったように、法律が存在せず、また銀河連邦の統制も受けないこの星では、殺人を犯しても裁かれることはない。だがもちろんそれだけではなかった。裁かれたのはビートの方であることを、誰もが承知していた。
経営者を失い、酒場『クリヤキンの店』は閉店したが、『モリーの店』だけは女将のもとで営業を続けていた(キャンディは『モリーの店』の用心棒の座に収まった)。
どこから聞きつけたのか町の外から大勢の人間が流れてきて、クリヤキンの買収した土地に勝手に住みつき始めた。
ゴライアス惑星開発公社が、土地を管理するための後釜の社員を送り込んでくるまで、しばらく時間がかかるだろう――一方、もう《中央》の巡回登記団は隣町のヴァイシャ・タウンまで来ている。巡回登記団がナザレ・タウンに着いた時点で土地を占有していて、その占有を登記団に認めさせることができれば、晴れて正式に土地を自分のものにできる。所有権さえ登記してしまえば、後でゴライアス惑星開発公社がどれだけ吠えようと恐れる必要はないというわけだ。
クリヤキンに土地を売り渡して逃げるように姿を消した連中も、何人か町に戻ってきた。まっさきに戻ってきたのは元の助役のブルーウィングだった。ブルーウィングはまったく悪びれた様子もなく雑貨屋に顔を出し、
「やあ、お手柄だったな、カズマさん。俺は信じてたよ、あんたならきっとやってくれると……。またこの町で住むことにしたんだ。よろしく頼むよ」
と、へらへら笑ってみせた。
店主は無表情のまま、それに対し何も言わなかった。
ボニーは時折、かつてコッホ先生の店が建っていた辺りを通り過ぎることがあった。建物のわずかな燃え残りも灰も、もう完全に風に吹き飛ばされてしまい、そこはただの空き地にすぎない。土地の境界線を示すために四隅に赤い杭を打ってあるのが、唯一の目印だ。
焼きたてのパンの入った篭を携えて、にこやかに訪ねてきたコッホ先生の顔を思い出す。
『試作品を持ってきたんだが、味見をしてくれんかね、ボニー……?』
ゴライアス・プログラムのアンインストールは、少なくとも部分的には成功した。ボニーは殺戮機械から人間に戻り、《心》を取り戻した。そのことが今、はっきりわかる。
なぜならコッホ先生の優しい笑顔や、最後に抱きしめたコッホ夫人の小さな体を思い起こすだけで、胸がいっぱいになるのだ。目に涙が湧き上がってくるのだ。
それはまぎれもなく心の働きだ。戦場にいた頃には、縁のなかった感覚だ。
それは午後の《嵐》の時間帯のことだった。
窓にも正面のガラス扉にも堅くシャッターを下ろしてしまうので、店内は真っ暗になる。外からも客は入ってこない。《嵐》が通り過ぎるまでの十数分間は、なんとなく仕事の手を休める時間になるのが通例だった。電灯の黄色っぽい光の下で、店主は点火器を派手に鳴らし、葉巻に火をつけた。その横顔を、近づきがたいもののように感じながら、ボニーは意を決して口を切った。
「あたし、今週いっぱいでこの店辞めたいんだけど」
店主が猛然と煙を吹き上げ、その顔はほとんど白煙に覆われてしまった。ボニーは続けた。
「クリヤキンもビートも死んで、いやがらせをしてくる奴もいなくなったわけだし。もう、自分の身を守れる店員でなくたっていいでしょ?」
「殊勝なこと言うじゃねえか。柄にもなく。もちろん、おまえよりマシな後釜なんぞいくらでも見つかるが……ずいぶん、急な話だな?」
「実は、ヴァイシャ・タウンへ行こうと思ってるの。あそこは大きな町で、酒場もたくさんあるよね。てっとり早く稼ぐなら酒場の用心棒が一番だって聞いたからさ。しばらく用心棒でもやって、お金を稼いで……」
ボニーは店主の双眸をまっすぐ見つめた。
「この町へ帰ってくる。そしたらあたしに、コッホ先生の店があった土地を貸してくれないかな。地代はちゃんと払うから」
店主は答えなかった。ボニーは言葉を継いだ。
「あそこでパン屋を開きたいのよ、あたし」
――もう二度と銃は持つまいと思っていた。武器や暴力や、その他戦争を思い出させるものから完全に縁を切りたいと思っていた。誰かに利用されて戦うのは、二度とごめんだった。
でも、問題なのは銃そのものではなく――その使い方ではないのか。
自分の力は、人を守るためにだけ使う。店主がそうしているのと同じように。
そして、この大地に根を下ろして生きていく。何も壊さず、誰も傷つけず、ささやかでも人に喜んでもらうため働き続ける。その決心に迷いはなかった。
《嵐》が町を通過していくにつれて、ごおおおおっ、という恐ろしげな風の音が窓の外で荒れ狂った。締め切ったシャッターが空気の圧力でびりびりと震えた。轟音の中、薄暗い店内で、二人はしばらく無言で睨み合った。やがて店主の瞳に柔らかい光が浮かんだ。
「地代はいらねえ。あれはもともと俺の土地じゃねえ。……おまえが使うんなら、コッホさんも喜ぶだろう」
「そ……そう?」
ボニーはひどくほっとした。地代を払わずに済むことにではなく、店主が自分の決心を承認してくれたことに対して。
店主は重々しくうなずいた。
「商売ってのは、甘くねえぞ。覚悟しておくことだ」
《嵐》の一番ひどい部分は過ぎ去ったらしい。いつしか風の轟音は消えていた。思い出したように強風が、がたがた、とシャッターを揺さぶるだけだ。
ボニーが窓のところへ行ってシャッターを持ち上げると、午後の陽光が、薄闇に慣れた目にはまぶしく、店内にあふれ込んできた。
ボニーはカウンターの奥に不動の姿勢で立つ店主を振り返った。
「大丈夫よ♪ この店で働いて、あたし、自信ついたもん。ここで勤まるんなら、どんな厳しい環境でもやっていける、って」
窓と正面の扉を保護していたシャッターを開け、品物の配置を直す作業の間ずっと、店主のボニーに対する罵詈雑言は止まらなかった。ボニーは心の耳栓をして店主の悪罵を完全に意識からシャットアウトした――この雑貨屋で働いているうちに、いつしか身についてしまったスキルだった。窓の外の空気は、風で巻き上げられた大量の砂を含んで、黄色っぽく澱んで見えた。町に通行人の姿が戻り始めていた。
ちりんちりん、という軽快な鈴の音と共に、正面の扉が開いた。
「いらっしゃい!」
かがみこんで一番低い棚の商品を並べ直していたボニーが顔を上げると、入ってきたのは全身黒ずくめの男だった。黒革の帽子を目深にかぶり、黒のロングコートを着て、黒のブーツを履いていた。帽子に隠れて顔が見えないので年の頃ははっきりしないが、それほど若い男ではなさそうだ。その男が歩くにつれて、靴底の金具が床に当たる、硬い音が響いた。
触れた物を即断する鋭利な刃物のような殺気を全身から漂わせていた。
ボニーは店主に警告しようとしたが――そのときにはもう黒ずくめの男は早足に店内を横切っており、カウンターに基本栄養食の缶詰をきれいに積み上げ終えた店主がふと視線を上げ、間近に迫った男の姿を見、そして顔をこわばらせた。
「久しいな。キャプテン・カズマ」
男は低いがよく響く声で言い放った。
「あれから十年か。ずいぶんうまく逃げていたようだが……連邦政府の治安維持部隊が隣の町まで来ているというのに、のうのうと隠れもせずにいたのが命取りになったな。連邦中央捜査局は罪を決して忘れない。外宇宙船舶航行妨害罪、航行中船舶奪取罪、第二種強盗殺人罪に時効はないのだ。――宇宙海賊キャプテン・カズマ。連邦保安官の権限において、本日ただ今をもって、貴様の身柄を銀河連邦政府の拘束下に置く」
「……!」
次の刹那、店主が動いた。
ボニーは反射的に床に伏せた。店主が男に発砲した場合、自分の位置はその射線の延長線上にあたると気づいたからだ。店主も、ボニーが回避行動をとることを確信していたのだろう。カウンターの下に置いてあったレイガン《ネメシス》をつかみ、男に向かってぶっ放す動作に逡巡はなかった。
しかし男は倒れなかった。
レイガンの射線が、男の体に届く一フィートほど手前で、魔法のように消失したためだ。
連邦政府が戦争末期に開発したといわれているARF(対光線銃防御力場)――あらゆる高エネルギー波の攻撃を無効化する偏向フィールドだ。
男が立ったままなのを見て、しまった、と言わんばかりに顔をしかめる店主。その胸のど真ん中を、黒ずくめの男は、銃身の長いパルスガンで軽々と撃ち抜いた。
深い水に石を投げ入れたときのように、高く細く飛沫が舞い上がった。濃い鮮血の飛沫が。
店主の体は後ろへ吹き飛んで酒瓶を並べた棚にぶつかり、そのまま力なく床へ滑り落ちた。
ボニーは凍りついた。まるで自分が死んだみたいに、全身が冷たくなっていくのを感じた。動けず床に伏せたままの彼女を、黒ずくめの男が振り返った。引き伸ばされた時の中で、その動作はひどく緩慢に思える。男の唇が動いて言葉を紡いだ。《オマエモ海賊ノ仲間カ》。銃口がゆっくりとこちらへ向けられる……。
視界がすべての色彩を失った。自分の中でスイッチが切り替わるのを止められなかった。おなじみの感覚だ。忘れかけていたけれど。
ボニーは人間離れした俊敏さで男に襲いかかり、床に押し倒した。それは機械の動き。思考を経由せず、指令を反射的に執行する強化兵のプログラム。行動原理はただ一つ。敵を殲滅せよ。
両手で男の頭をつかみ、ぐいとひねった。
不気味な音と共に首の骨が折れた。
ボニーはよろよろと立ち上がりカウンターに歩み寄った。
店内はおそろしいほど静かで、自分の足音さえそらぞらしく響いた。
カウンターの陰に倒れた店主は、まだ息があった。近寄ってくるボニーの気配に、うっすら目を開けると、口元を苦しげに歪めて笑ってみせた。
「言っただろう、ボニー。過去ってやつは長い手を持っていると。……俺も……逃げ切れなかったようだ……」
「医者、呼んだ方がいい?」
ボニーは尋ねた。店主はかすかに首を横に振った。医者が来たところでどのみち助からない、そんなことは二人ともよく承知していたのだ。
「おまえは、逃げろ……逃げ切ってみせろ。おまえが背負ってるのがどんな過去だとしても。……そして、未来をつかめ……幸せになれ……」
「ボス……!」
ボニーには、まだ言いたい事があった。しかし店主は待ってはくれなかった。突然その瞳は光を失い、頭が不自然な角度でぐらりと傾いた。店主はすでに絶命していた。
カウンターの奥の、割れた酒瓶が散乱する狭い空間で動かなくなった店主を、ボニーは見下ろしていた。
店に入ってきた客が連邦保安官の死体を見て悲鳴をあげたが、ボニーは振り返ろうともしなかった。
心を持つのは良いことばかりではない。
心があるから、こんなにもつらくて苦しい。
何も感じなければ、楽に生きていけるのに。
それが、ボニーの長い旅のはじまりだった。
連邦中央捜査局は、保安官を殺した者を容赦しない。銀河の果てまで追ってくる。
ボニーは追っ手をかわすために辺境へ、辺境へと移動した。名もなき星々を旅した。多くの町を見、多くの人に会った。《フロンティア》。人が過去の呪縛を逃れ、未来を夢見られる場所。店主が愛した自由の地。
――安住の地は、まだまだ見つかりそうにない。【完】
―――――To be continued to the next episode (『USELESS』へ続きます)
ビートとその子分たちの死について、町の住人は何も言わなかった。人々のボニーたちに対する態度は変わらなかった。ビート自身が言ったように、法律が存在せず、また銀河連邦の統制も受けないこの星では、殺人を犯しても裁かれることはない。だがもちろんそれだけではなかった。裁かれたのはビートの方であることを、誰もが承知していた。
経営者を失い、酒場『クリヤキンの店』は閉店したが、『モリーの店』だけは女将のもとで営業を続けていた(キャンディは『モリーの店』の用心棒の座に収まった)。
どこから聞きつけたのか町の外から大勢の人間が流れてきて、クリヤキンの買収した土地に勝手に住みつき始めた。
ゴライアス惑星開発公社が、土地を管理するための後釜の社員を送り込んでくるまで、しばらく時間がかかるだろう――一方、もう《中央》の巡回登記団は隣町のヴァイシャ・タウンまで来ている。巡回登記団がナザレ・タウンに着いた時点で土地を占有していて、その占有を登記団に認めさせることができれば、晴れて正式に土地を自分のものにできる。所有権さえ登記してしまえば、後でゴライアス惑星開発公社がどれだけ吠えようと恐れる必要はないというわけだ。
クリヤキンに土地を売り渡して逃げるように姿を消した連中も、何人か町に戻ってきた。まっさきに戻ってきたのは元の助役のブルーウィングだった。ブルーウィングはまったく悪びれた様子もなく雑貨屋に顔を出し、
「やあ、お手柄だったな、カズマさん。俺は信じてたよ、あんたならきっとやってくれると……。またこの町で住むことにしたんだ。よろしく頼むよ」
と、へらへら笑ってみせた。
店主は無表情のまま、それに対し何も言わなかった。
ボニーは時折、かつてコッホ先生の店が建っていた辺りを通り過ぎることがあった。建物のわずかな燃え残りも灰も、もう完全に風に吹き飛ばされてしまい、そこはただの空き地にすぎない。土地の境界線を示すために四隅に赤い杭を打ってあるのが、唯一の目印だ。
焼きたてのパンの入った篭を携えて、にこやかに訪ねてきたコッホ先生の顔を思い出す。
『試作品を持ってきたんだが、味見をしてくれんかね、ボニー……?』
ゴライアス・プログラムのアンインストールは、少なくとも部分的には成功した。ボニーは殺戮機械から人間に戻り、《心》を取り戻した。そのことが今、はっきりわかる。
なぜならコッホ先生の優しい笑顔や、最後に抱きしめたコッホ夫人の小さな体を思い起こすだけで、胸がいっぱいになるのだ。目に涙が湧き上がってくるのだ。
それはまぎれもなく心の働きだ。戦場にいた頃には、縁のなかった感覚だ。
それは午後の《嵐》の時間帯のことだった。
窓にも正面のガラス扉にも堅くシャッターを下ろしてしまうので、店内は真っ暗になる。外からも客は入ってこない。《嵐》が通り過ぎるまでの十数分間は、なんとなく仕事の手を休める時間になるのが通例だった。電灯の黄色っぽい光の下で、店主は点火器を派手に鳴らし、葉巻に火をつけた。その横顔を、近づきがたいもののように感じながら、ボニーは意を決して口を切った。
「あたし、今週いっぱいでこの店辞めたいんだけど」
店主が猛然と煙を吹き上げ、その顔はほとんど白煙に覆われてしまった。ボニーは続けた。
「クリヤキンもビートも死んで、いやがらせをしてくる奴もいなくなったわけだし。もう、自分の身を守れる店員でなくたっていいでしょ?」
「殊勝なこと言うじゃねえか。柄にもなく。もちろん、おまえよりマシな後釜なんぞいくらでも見つかるが……ずいぶん、急な話だな?」
「実は、ヴァイシャ・タウンへ行こうと思ってるの。あそこは大きな町で、酒場もたくさんあるよね。てっとり早く稼ぐなら酒場の用心棒が一番だって聞いたからさ。しばらく用心棒でもやって、お金を稼いで……」
ボニーは店主の双眸をまっすぐ見つめた。
「この町へ帰ってくる。そしたらあたしに、コッホ先生の店があった土地を貸してくれないかな。地代はちゃんと払うから」
店主は答えなかった。ボニーは言葉を継いだ。
「あそこでパン屋を開きたいのよ、あたし」
――もう二度と銃は持つまいと思っていた。武器や暴力や、その他戦争を思い出させるものから完全に縁を切りたいと思っていた。誰かに利用されて戦うのは、二度とごめんだった。
でも、問題なのは銃そのものではなく――その使い方ではないのか。
自分の力は、人を守るためにだけ使う。店主がそうしているのと同じように。
そして、この大地に根を下ろして生きていく。何も壊さず、誰も傷つけず、ささやかでも人に喜んでもらうため働き続ける。その決心に迷いはなかった。
《嵐》が町を通過していくにつれて、ごおおおおっ、という恐ろしげな風の音が窓の外で荒れ狂った。締め切ったシャッターが空気の圧力でびりびりと震えた。轟音の中、薄暗い店内で、二人はしばらく無言で睨み合った。やがて店主の瞳に柔らかい光が浮かんだ。
「地代はいらねえ。あれはもともと俺の土地じゃねえ。……おまえが使うんなら、コッホさんも喜ぶだろう」
「そ……そう?」
ボニーはひどくほっとした。地代を払わずに済むことにではなく、店主が自分の決心を承認してくれたことに対して。
店主は重々しくうなずいた。
「商売ってのは、甘くねえぞ。覚悟しておくことだ」
《嵐》の一番ひどい部分は過ぎ去ったらしい。いつしか風の轟音は消えていた。思い出したように強風が、がたがた、とシャッターを揺さぶるだけだ。
ボニーが窓のところへ行ってシャッターを持ち上げると、午後の陽光が、薄闇に慣れた目にはまぶしく、店内にあふれ込んできた。
ボニーはカウンターの奥に不動の姿勢で立つ店主を振り返った。
「大丈夫よ♪ この店で働いて、あたし、自信ついたもん。ここで勤まるんなら、どんな厳しい環境でもやっていける、って」
窓と正面の扉を保護していたシャッターを開け、品物の配置を直す作業の間ずっと、店主のボニーに対する罵詈雑言は止まらなかった。ボニーは心の耳栓をして店主の悪罵を完全に意識からシャットアウトした――この雑貨屋で働いているうちに、いつしか身についてしまったスキルだった。窓の外の空気は、風で巻き上げられた大量の砂を含んで、黄色っぽく澱んで見えた。町に通行人の姿が戻り始めていた。
ちりんちりん、という軽快な鈴の音と共に、正面の扉が開いた。
「いらっしゃい!」
かがみこんで一番低い棚の商品を並べ直していたボニーが顔を上げると、入ってきたのは全身黒ずくめの男だった。黒革の帽子を目深にかぶり、黒のロングコートを着て、黒のブーツを履いていた。帽子に隠れて顔が見えないので年の頃ははっきりしないが、それほど若い男ではなさそうだ。その男が歩くにつれて、靴底の金具が床に当たる、硬い音が響いた。
触れた物を即断する鋭利な刃物のような殺気を全身から漂わせていた。
ボニーは店主に警告しようとしたが――そのときにはもう黒ずくめの男は早足に店内を横切っており、カウンターに基本栄養食の缶詰をきれいに積み上げ終えた店主がふと視線を上げ、間近に迫った男の姿を見、そして顔をこわばらせた。
「久しいな。キャプテン・カズマ」
男は低いがよく響く声で言い放った。
「あれから十年か。ずいぶんうまく逃げていたようだが……連邦政府の治安維持部隊が隣の町まで来ているというのに、のうのうと隠れもせずにいたのが命取りになったな。連邦中央捜査局は罪を決して忘れない。外宇宙船舶航行妨害罪、航行中船舶奪取罪、第二種強盗殺人罪に時効はないのだ。――宇宙海賊キャプテン・カズマ。連邦保安官の権限において、本日ただ今をもって、貴様の身柄を銀河連邦政府の拘束下に置く」
「……!」
次の刹那、店主が動いた。
ボニーは反射的に床に伏せた。店主が男に発砲した場合、自分の位置はその射線の延長線上にあたると気づいたからだ。店主も、ボニーが回避行動をとることを確信していたのだろう。カウンターの下に置いてあったレイガン《ネメシス》をつかみ、男に向かってぶっ放す動作に逡巡はなかった。
しかし男は倒れなかった。
レイガンの射線が、男の体に届く一フィートほど手前で、魔法のように消失したためだ。
連邦政府が戦争末期に開発したといわれているARF(対光線銃防御力場)――あらゆる高エネルギー波の攻撃を無効化する偏向フィールドだ。
男が立ったままなのを見て、しまった、と言わんばかりに顔をしかめる店主。その胸のど真ん中を、黒ずくめの男は、銃身の長いパルスガンで軽々と撃ち抜いた。
深い水に石を投げ入れたときのように、高く細く飛沫が舞い上がった。濃い鮮血の飛沫が。
店主の体は後ろへ吹き飛んで酒瓶を並べた棚にぶつかり、そのまま力なく床へ滑り落ちた。
ボニーは凍りついた。まるで自分が死んだみたいに、全身が冷たくなっていくのを感じた。動けず床に伏せたままの彼女を、黒ずくめの男が振り返った。引き伸ばされた時の中で、その動作はひどく緩慢に思える。男の唇が動いて言葉を紡いだ。《オマエモ海賊ノ仲間カ》。銃口がゆっくりとこちらへ向けられる……。
視界がすべての色彩を失った。自分の中でスイッチが切り替わるのを止められなかった。おなじみの感覚だ。忘れかけていたけれど。
ボニーは人間離れした俊敏さで男に襲いかかり、床に押し倒した。それは機械の動き。思考を経由せず、指令を反射的に執行する強化兵のプログラム。行動原理はただ一つ。敵を殲滅せよ。
両手で男の頭をつかみ、ぐいとひねった。
不気味な音と共に首の骨が折れた。
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「言っただろう、ボニー。過去ってやつは長い手を持っていると。……俺も……逃げ切れなかったようだ……」
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「おまえは、逃げろ……逃げ切ってみせろ。おまえが背負ってるのがどんな過去だとしても。……そして、未来をつかめ……幸せになれ……」
「ボス……!」
ボニーには、まだ言いたい事があった。しかし店主は待ってはくれなかった。突然その瞳は光を失い、頭が不自然な角度でぐらりと傾いた。店主はすでに絶命していた。
カウンターの奥の、割れた酒瓶が散乱する狭い空間で動かなくなった店主を、ボニーは見下ろしていた。
店に入ってきた客が連邦保安官の死体を見て悲鳴をあげたが、ボニーは振り返ろうともしなかった。
心を持つのは良いことばかりではない。
心があるから、こんなにもつらくて苦しい。
何も感じなければ、楽に生きていけるのに。
それが、ボニーの長い旅のはじまりだった。
連邦中央捜査局は、保安官を殺した者を容赦しない。銀河の果てまで追ってくる。
ボニーは追っ手をかわすために辺境へ、辺境へと移動した。名もなき星々を旅した。多くの町を見、多くの人に会った。《フロンティア》。人が過去の呪縛を逃れ、未来を夢見られる場所。店主が愛した自由の地。
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