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第7話 心にかけた鍵
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「本当にすみません。急に引っ越すことになってしまって……」
退室の立ち合いをしに来た私に、申し訳なさそうに頭を下げるのは、岡崎さんだ。
岡崎さんは学生時代からずっと、このアパートに住んでくれていたけど、めでたく結婚が決まったため、引っ越すことになったのだ。
「大丈夫ですよ。お式はいつでしたっけ?」
「二週間後です。とにかく急に決まったもので……」
岡崎さんはそう言ってから、引っ越しの手伝いに来ていた婚約者の彼女を、照れくさそうにチラリと見てから言う。
「彼女のお腹に……子供ができたんです。だから少しでも早めにと……」
「ああ、そうなんですか」
私が顔を向けると、まだ目立たないお腹にそっと手を当て、彼女は幸せそうに微笑んだ。
「それなら二重のおめでたですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
岡崎さんが笑って、彼女と見つめ合う。
長い間暮らしたというのに、お部屋は目立った傷も痛みもなく、とても綺麗だった。我が社が紹介した部屋を、岡崎さんが丁寧に使っていてくれたってことがわかる。
「お世話になりました」
そう言って、岡崎さんは彼女を車に乗せ、新居に向けて去って行った。
私は手の中に残された部屋の鍵を見つめながら、ふっと口元をゆるませる。
――二重のおめでたですね。おめでとうございます。
よく言う。そんなこと、思ってもいないくせに。
幸せそうな妊婦さんを見て、私の心の中は醜い嫉妬でいっぱいだ。
「……嫌な人間」
人の幸せを、素直に喜んであげられないなんて。
今さらそんなこと考えても、どうにもならないって、わかっているのに。
ガランと何もなくなった部屋に鍵をかける。
それと一緒に、自分の中からあふれ出そうになる汚れた想いにも、固く鍵をかけた。
「岡崎さん、とても綺麗に使ってくれてましたよ、あの部屋」
「そう、それは嬉しいね」
お店に戻って社長に報告する。社長は嬉しそうに笑ってくれたけど……。
「でもあのアパート、また一部屋空いちゃったな」
パソコンの前で頬杖をつきながら、鷲尾くんがつぶやく。
「そ、そうだけど。でもすぐに決まりますよ! あのお部屋、すごく日当たりいいし、駅からはちょっと遠いけど、なんたって安いし」
「日当たり良くて、駅近で、うちよりもっと安い物件、大手に行けばいっぱいあるよ。しかも築浅、敷礼ゼロで」
くるりと私に向けられたパソコンのディスプレイには、二万円台や三万円台の物件がずらりと並んでいた。
最近どこの業者もぎりぎりまで家賃を下げて、お客さんを呼び込むのに必死なのだ。
「仕方ないねぇ……うちも精一杯家賃下げてるつもりなんだけど」
ああ、社長のテンションが落ちちゃったよ。
社長は立ち上がると、作業着を羽織って私たちに言った。
「コーポ篠塚の山田さんとこ、エアコンの調子が悪いって言うから見てくるよ。あとよろしく」
入居者さんが困っていれば、社長は大工仕事から電気工事までなんでもやってくれる。
すごく、すごくいい人なんだ。ほんとに。
「いくら社長がいい人でも、お客が来なくちゃなぁ……」
社長がいなくなった店の中で、鷲尾くんが私に言う。
もう、なんなのよ? なんで鷲尾くんまでテンション低いのよ。
「今はみんなネットで家探すだろ? うちみたいな小さな不動産屋まで、足伸ばしてくれないんだよ」
「じゃあうちもネットにガンガン載せようよ」
「広告費払って、いろんなところに載せれば、もっと検索されるんだろうけど。社長、そういうの乗り気じゃないからなぁ。せいぜいホームページ更新するくらいしか」
「じゃあホームページ更新しようよ! できることは全部やろう? ねっ、鷲尾くん!」
「でもうちのホームページ、はっきり言って、見てる人ほとんどいないよ?」
うー、もう、なんなのよ!
「わかった、もういい! 私がなんとかするから!」
「睦美さんが? なんとかって、何するんだよ?」
「わ、わかんないけど……なんとかするもん。もう鷲尾くんには頼らない!」
もっと私が頑張って、社長に元気出してもらいたい。
うちの物件の良さは、住んでもらわないとわからないんだ。
「へぇ、最近のアパートって安いのねぇ」
手作りで作った物件の冊子を持って、私は駅前の商店街を回った。
「はい。見た目はちょっと古いですけど、内装はしっかりリフォームしてますし、絶対おすすめばかりですから」
そう言って何冊かの冊子を店長さんに渡す。
「どなたかお部屋探ししているお客様がいらしたら、これを。お店の隅にでも、置いておいていただければ」
「いいよ、いいよ。お宅の社長さんとは、昔から顔なじみだし」
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げてお店を出る。
こんなことで、お客さんが急激に増えるとは思えないけど……だけど地道に、できることをやるしかないのだ。
「睦美?」
次のお店に入ろうとした時、私の背中に声がかかった。一瞬、体が凍りついたように動けなくなる。
「睦美だろ?」
ゆっくりと振り返った私の目に、懐かしいあの人の姿がうつる。
「雅人さん……」
「元気……そうだな」
そう言って少し困ったように微笑むのは、私の別れた夫、長谷川雅人だった。
「それ配ってるの? 仕事?」
雅人さんに会うのは、正式に離婚してから、初めてだった。
同じ町に住んでいたのに、今まで会わなかったことのほうが不思議だ。
「うん」
「不動産屋の冊子?」
雅人さんが手を差し出すから、私は一冊をその手に渡した。
「へぇ、大河内不動産」
「私、そこで働いてるの」
「そうか」
冊子を見つめたまま、雅人さんはぽつりとつぶやく。
大ゲンカをしたわけではない。憎しみ合って別れたわけではない。
だから、だから微妙なんだ。
顔も見たくない人とだったら、お互い声もかけずに、すれ違うだけだと思うのに。
「じゃあ、私、仕事中なんで」
「ああ、うん」
小さく頭を下げて、彼の顔を見ないようにして立ち去る。
これ以上話して、何かを思い出すのが怖かったのだ。
「睦美……」
かすかに名前を呼ばれた気がした。だけど私は振り返らないで歩いた。
商店街を抜け、信号を渡り、やがて見慣れた店が見えてくる。
「鷲尾くん?」
その店の前に鷲尾くんの背中が見えた。
何をするわけでもなく、ぼんやり立っているその視線の先に、私の植えたパンジーの花。
ううん、違う。鷲尾くんが見ているのは、彼女が植えたパンジーの花なんだ。
「鷲尾くん!」
声を出した途端、私の心の中にかけた鍵がとけた。
「睦美さん?」
振り返った鷲尾くんの胸に、飛び込んでしがみつく。
「ど、どうしたんだよ?」
あわてている鷲尾くんのシャツをぎゅっと握ったら、こらえていた涙があふれ出た。
立ち止まったまま、前に進めていないのは、私も同じだ。
どうにもならない想いを今も引きずって、うわべだけの笑顔を見せている。
本当の私を、誰にも見せないようにして。
「睦美さん……」
「……ごめん」
やっとのことでつぶやいた声は、めちゃくちゃ涙声だ。
どうしよう、どうしよう。今さら顔を上げられないよ。
その時私の背中にあたたかいものが触れた。
鷲尾くんの手だ――そう思った瞬間、ぎゅうっと体を抱きしめられた。
「この前のお返し」
やだ、どうしよう。恥ずかしすぎる。逃げ出したい。逃げ出したいけど……逃げられないよ。
小さな店先のパンジーの花の前で、私は鷲尾くんと抱き合った。
それは時間にしたら、ほんの一瞬の出来事だったはずだけど、私にはものすごく、長い長い時間に思えた。
「仲が良いのはけっこうだけどね、店の前でいちゃいちゃするのは、ちょっとまずいんじゃないのかなぁ?」
その一瞬の出来事を、社長にばっちり見られていたのは、運が悪かったとしか思えない。
私はただ恥ずかしくて、社長の言葉をうつむいたまま聞いていた。
「いちゃいちゃなんてしてませんから。このおばさんが、急に僕に抱きついてきたんです」
お、おばさんって……また言ったよ、こいつ。
「わ、鷲尾くん!」
「なにか違いますか? 抱きついてきたの、そっちですよねぇ?」
悔しいけど、何も言い返せないところが、また腹立つんだ。
鷲尾くんはそんな私を見て、勝ち誇ったような表情をしている。社長はもうどうでもいいような顔つきで、いつもの席に座ると、私に言った。
「むっちゃん、お茶くれないかなぁ?」
「は、はいっ!」
「あ、俺にも。コーヒーがいいなぁ、ミルク入りで」
私は社長に熱い日本茶をいれてあげて、鷲尾くんに苦ーいコーヒーをいれてあげた。
明日は鷲尾くんにも、冊子配り手伝ってもらおう。
頭の中で、そんなことを考えながら。
退室の立ち合いをしに来た私に、申し訳なさそうに頭を下げるのは、岡崎さんだ。
岡崎さんは学生時代からずっと、このアパートに住んでくれていたけど、めでたく結婚が決まったため、引っ越すことになったのだ。
「大丈夫ですよ。お式はいつでしたっけ?」
「二週間後です。とにかく急に決まったもので……」
岡崎さんはそう言ってから、引っ越しの手伝いに来ていた婚約者の彼女を、照れくさそうにチラリと見てから言う。
「彼女のお腹に……子供ができたんです。だから少しでも早めにと……」
「ああ、そうなんですか」
私が顔を向けると、まだ目立たないお腹にそっと手を当て、彼女は幸せそうに微笑んだ。
「それなら二重のおめでたですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
岡崎さんが笑って、彼女と見つめ合う。
長い間暮らしたというのに、お部屋は目立った傷も痛みもなく、とても綺麗だった。我が社が紹介した部屋を、岡崎さんが丁寧に使っていてくれたってことがわかる。
「お世話になりました」
そう言って、岡崎さんは彼女を車に乗せ、新居に向けて去って行った。
私は手の中に残された部屋の鍵を見つめながら、ふっと口元をゆるませる。
――二重のおめでたですね。おめでとうございます。
よく言う。そんなこと、思ってもいないくせに。
幸せそうな妊婦さんを見て、私の心の中は醜い嫉妬でいっぱいだ。
「……嫌な人間」
人の幸せを、素直に喜んであげられないなんて。
今さらそんなこと考えても、どうにもならないって、わかっているのに。
ガランと何もなくなった部屋に鍵をかける。
それと一緒に、自分の中からあふれ出そうになる汚れた想いにも、固く鍵をかけた。
「岡崎さん、とても綺麗に使ってくれてましたよ、あの部屋」
「そう、それは嬉しいね」
お店に戻って社長に報告する。社長は嬉しそうに笑ってくれたけど……。
「でもあのアパート、また一部屋空いちゃったな」
パソコンの前で頬杖をつきながら、鷲尾くんがつぶやく。
「そ、そうだけど。でもすぐに決まりますよ! あのお部屋、すごく日当たりいいし、駅からはちょっと遠いけど、なんたって安いし」
「日当たり良くて、駅近で、うちよりもっと安い物件、大手に行けばいっぱいあるよ。しかも築浅、敷礼ゼロで」
くるりと私に向けられたパソコンのディスプレイには、二万円台や三万円台の物件がずらりと並んでいた。
最近どこの業者もぎりぎりまで家賃を下げて、お客さんを呼び込むのに必死なのだ。
「仕方ないねぇ……うちも精一杯家賃下げてるつもりなんだけど」
ああ、社長のテンションが落ちちゃったよ。
社長は立ち上がると、作業着を羽織って私たちに言った。
「コーポ篠塚の山田さんとこ、エアコンの調子が悪いって言うから見てくるよ。あとよろしく」
入居者さんが困っていれば、社長は大工仕事から電気工事までなんでもやってくれる。
すごく、すごくいい人なんだ。ほんとに。
「いくら社長がいい人でも、お客が来なくちゃなぁ……」
社長がいなくなった店の中で、鷲尾くんが私に言う。
もう、なんなのよ? なんで鷲尾くんまでテンション低いのよ。
「今はみんなネットで家探すだろ? うちみたいな小さな不動産屋まで、足伸ばしてくれないんだよ」
「じゃあうちもネットにガンガン載せようよ」
「広告費払って、いろんなところに載せれば、もっと検索されるんだろうけど。社長、そういうの乗り気じゃないからなぁ。せいぜいホームページ更新するくらいしか」
「じゃあホームページ更新しようよ! できることは全部やろう? ねっ、鷲尾くん!」
「でもうちのホームページ、はっきり言って、見てる人ほとんどいないよ?」
うー、もう、なんなのよ!
「わかった、もういい! 私がなんとかするから!」
「睦美さんが? なんとかって、何するんだよ?」
「わ、わかんないけど……なんとかするもん。もう鷲尾くんには頼らない!」
もっと私が頑張って、社長に元気出してもらいたい。
うちの物件の良さは、住んでもらわないとわからないんだ。
「へぇ、最近のアパートって安いのねぇ」
手作りで作った物件の冊子を持って、私は駅前の商店街を回った。
「はい。見た目はちょっと古いですけど、内装はしっかりリフォームしてますし、絶対おすすめばかりですから」
そう言って何冊かの冊子を店長さんに渡す。
「どなたかお部屋探ししているお客様がいらしたら、これを。お店の隅にでも、置いておいていただければ」
「いいよ、いいよ。お宅の社長さんとは、昔から顔なじみだし」
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げてお店を出る。
こんなことで、お客さんが急激に増えるとは思えないけど……だけど地道に、できることをやるしかないのだ。
「睦美?」
次のお店に入ろうとした時、私の背中に声がかかった。一瞬、体が凍りついたように動けなくなる。
「睦美だろ?」
ゆっくりと振り返った私の目に、懐かしいあの人の姿がうつる。
「雅人さん……」
「元気……そうだな」
そう言って少し困ったように微笑むのは、私の別れた夫、長谷川雅人だった。
「それ配ってるの? 仕事?」
雅人さんに会うのは、正式に離婚してから、初めてだった。
同じ町に住んでいたのに、今まで会わなかったことのほうが不思議だ。
「うん」
「不動産屋の冊子?」
雅人さんが手を差し出すから、私は一冊をその手に渡した。
「へぇ、大河内不動産」
「私、そこで働いてるの」
「そうか」
冊子を見つめたまま、雅人さんはぽつりとつぶやく。
大ゲンカをしたわけではない。憎しみ合って別れたわけではない。
だから、だから微妙なんだ。
顔も見たくない人とだったら、お互い声もかけずに、すれ違うだけだと思うのに。
「じゃあ、私、仕事中なんで」
「ああ、うん」
小さく頭を下げて、彼の顔を見ないようにして立ち去る。
これ以上話して、何かを思い出すのが怖かったのだ。
「睦美……」
かすかに名前を呼ばれた気がした。だけど私は振り返らないで歩いた。
商店街を抜け、信号を渡り、やがて見慣れた店が見えてくる。
「鷲尾くん?」
その店の前に鷲尾くんの背中が見えた。
何をするわけでもなく、ぼんやり立っているその視線の先に、私の植えたパンジーの花。
ううん、違う。鷲尾くんが見ているのは、彼女が植えたパンジーの花なんだ。
「鷲尾くん!」
声を出した途端、私の心の中にかけた鍵がとけた。
「睦美さん?」
振り返った鷲尾くんの胸に、飛び込んでしがみつく。
「ど、どうしたんだよ?」
あわてている鷲尾くんのシャツをぎゅっと握ったら、こらえていた涙があふれ出た。
立ち止まったまま、前に進めていないのは、私も同じだ。
どうにもならない想いを今も引きずって、うわべだけの笑顔を見せている。
本当の私を、誰にも見せないようにして。
「睦美さん……」
「……ごめん」
やっとのことでつぶやいた声は、めちゃくちゃ涙声だ。
どうしよう、どうしよう。今さら顔を上げられないよ。
その時私の背中にあたたかいものが触れた。
鷲尾くんの手だ――そう思った瞬間、ぎゅうっと体を抱きしめられた。
「この前のお返し」
やだ、どうしよう。恥ずかしすぎる。逃げ出したい。逃げ出したいけど……逃げられないよ。
小さな店先のパンジーの花の前で、私は鷲尾くんと抱き合った。
それは時間にしたら、ほんの一瞬の出来事だったはずだけど、私にはものすごく、長い長い時間に思えた。
「仲が良いのはけっこうだけどね、店の前でいちゃいちゃするのは、ちょっとまずいんじゃないのかなぁ?」
その一瞬の出来事を、社長にばっちり見られていたのは、運が悪かったとしか思えない。
私はただ恥ずかしくて、社長の言葉をうつむいたまま聞いていた。
「いちゃいちゃなんてしてませんから。このおばさんが、急に僕に抱きついてきたんです」
お、おばさんって……また言ったよ、こいつ。
「わ、鷲尾くん!」
「なにか違いますか? 抱きついてきたの、そっちですよねぇ?」
悔しいけど、何も言い返せないところが、また腹立つんだ。
鷲尾くんはそんな私を見て、勝ち誇ったような表情をしている。社長はもうどうでもいいような顔つきで、いつもの席に座ると、私に言った。
「むっちゃん、お茶くれないかなぁ?」
「は、はいっ!」
「あ、俺にも。コーヒーがいいなぁ、ミルク入りで」
私は社長に熱い日本茶をいれてあげて、鷲尾くんに苦ーいコーヒーをいれてあげた。
明日は鷲尾くんにも、冊子配り手伝ってもらおう。
頭の中で、そんなことを考えながら。
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