水曜日のパン屋さん

水瀬さら

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第5章 ひとりぼっちの世界

7月28日(土) 晴れ

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 さくらさんの手術の日は、一日中落ち着かなかった。だけど私にできることは、ただ祈るだけだ。
 音羽くんはどうしているのだろう。ひとりでさくらさんの手術が終わるのを待ちながら、なにを考えているのだろう。
 窓を開けて外を見る。昨日までの風雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。

 翌日は朝から家を出て、パン屋さんへ行った。もちろん看板は出ていない。
 私は音羽くんが住んでいる二階の窓を見上げる。そしてこの前ソファーの上でしたことを思い出し、急に恥ずかしくなる。
 裏口にあるインターフォンを鳴らした。ここから二階へ繋がっているはず。だけど返事はない。
 携帯を取り出して時間を確認する。朝の九時。まだ寝ているのか。それとももう病院にいるのか。
 おとはくん――。
 二階の窓を見上げながら、声にならない声でつぶやいた。けれど音羽くんに会えることはなく、私は家に帰った。

 音羽くんが私の家に突然来たのは、その翌日だった。
 夜眠れなくて、うとうとしてすぐに目覚めた。時計を見ると、まだ早い時間だった。もう眠れそうもなくて、机の前に座り、音羽くんにもらった問題集を解き始める。なんでもいい。なにかしていないと、落ち着かなかったんだ。
「芽衣ー? 起きてるのー?」
 お母さんの声にはっと顔を上げる。気づくと机に顔をつけて眠ってしまっていた。なにやってるんだ、私。
「音羽くん、来てるわよー」
「え?」
 私はあわてて椅子から降りる。部屋着のまま、階段を駆け下りる。玄関を見ると、朝の日差しの中で、音羽くんが私に小さく笑いかけた。

「これ、作ったんです。もしよかったら食べてください」
 音羽くんがお母さんに袋を渡している。
「あら、パンじゃない。音羽くんが作ったの?」
「そうです」
「すごいわねぇ。やっぱりパン屋さんの息子さんは違うわね」
 お母さんが笑って、音羽くんも一緒に笑っている。私はその顔を黙って見ている。
「じゃあ……」
「あら、上がって行きなさいよ」
「いえ。これからちょっと出かけるんで」
 音羽くんがぺこりと頭を下げて、玄関から出ていく。
「待って!」
 私は思わず声を上げた。
「私も……図書館に本を返しに行きたいから……だから一緒に」
 私の声に、音羽くんはもう一度笑った。

 服を着替えて、いつものトートバッグを持って外へ出た。朝から真夏の日差しが照りつける中、音羽くんが私を待っている。私が駆け寄ると、バッグについているキーホルダーがゆらゆらと揺れた。
「さくらさん。無事手術終わったよ」
 並んで歩きながら、音羽くんが言った。
「今のところ、転移もなさそうで……とりあえずは安心した」
「そう……よかった」
 私は胸をなで下ろす。本当に、本当に心配だった。
「まだ抗がん剤治療とかいろいろあるけど、通院でできるらしいから。しばらくしたら退院すると思う」
「うん」
 音羽くんが立ち止まって、私を見る。そして気をつけの姿勢で頭を下げて言った。

「いろいろ心配かけて……ごめん」
 私は首を横に振る。
「ごめんなんて言わないで。音羽くんが話してくれて嬉しかった」
 そして少し笑う。
「私じゃ、全然頼りにならないと思うけど」
「そんなことっ」
 音羽くんが声を上げた。
「そんなことない!」
 恥ずかしくなって、うつむいた。そんな私に音羽くんが言う。
「あの雨の日、芽衣といられてよかった。ひとりでいると、悪いことばっか考えちゃって……情けないよな、俺」
 苦笑いをした音羽くんは、また歩き出す。私もその隣を歩く。

 マスクの中が熱くて、それをはずした。マスクをはずして、音羽くんと歩く。
 誰かに会うのは、怖かったけど。それよりもあかるい日差しの中を、音羽くんとこうやって歩けることが嬉しかった。

「それじゃ」
 図書館の前で音羽くんと別れる。これから電車に乗って、音羽くんはさくらさんの病院に行くそうだ。
「今度……お見舞いに行ってもいい?」
 肩にかけたバッグをぎゅっと握って聞く。
「うん。さくらさんに言っとく」
 音羽くんはもう一度「じゃあ」と言って背中を向ける。
 駅に向かって歩いていく音羽くんの背中を見送った。夏の太陽は朝からぎらぎらと照りつけていて、小さくなっていく背中がやけに眩しく見えた。

 図書館で本を返して、家に戻った。仕事が休みのお母さんとお父さんは、そろってリビングでお茶を飲んでいた。
「芽衣、おかえり! ねぇ、このパン、すごくおいしいよ!」
 ふたりは音羽くんが焼いてくれたパンを食べていた。
「うん、さすがだな。うまいよ」
 お父さんも褒めている。
「それにほらこれ、あんたの好きなやつじゃない?」
 お母さんがパンを私に見せる。それはこの前ゲームセンターで取れなかった、あのひよこのキャラクターの姿だった。

「わぁ、すごい!」
「これ商品になるよ」
「お母さんのお店で、販売したらいいのにね。あ、著作権の問題とかあるから、ダメなのかしら?」
「じゃあ、オリジナルのキャラクターを作っちゃうとかどうだ?」
「あの子ならできそう。大人気商品になっちゃったりして。味もおいしいし。ねぇ芽衣?」
 なんだかお父さんもお母さんも、音羽くんのパンで盛り上がっている。曖昧に返事をしながら、私もパンを手にとったら、お母さんが言った。

「おいしいパンを作ってくれる彼氏なんて、いいわねぇ」
「えっ」
 私は驚いて顔を上げる。
「芽衣の彼氏なんでしょ? 音羽くんは」
「ちがっ、そんなんじゃないよ! なに言ってるの、お母さん!」
「ん、違うのか? お父さんもてっきり」
「そうよ、だってねぇ?」
「違う! 絶対違うから!」
 もう、お父さんもお母さんもなに言ってるのよ。

「まぁ、彼氏じゃないにしても」
 お母さんがにっこり笑って私に言う。
「朝早くから芽衣の好きなもの作ってくれて、それをうちまで届けてくれるお友達なんて、そうそういないわよ。大事にしなくちゃね」
 私は音羽くんの作ってくれたパンを見つめる。そしてこれを作ってくれている音羽くんの姿を想像する。胸がじんわりと熱くなる。
「うん。大事にする」
 お母さんとお父さんが笑っている。私もそんなふたりの前で、笑顔を見せた。
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