32 / 44
第5章 ひとりぼっちの世界
7月28日(土) 晴れ
しおりを挟む
さくらさんの手術の日は、一日中落ち着かなかった。だけど私にできることは、ただ祈るだけだ。
音羽くんはどうしているのだろう。ひとりでさくらさんの手術が終わるのを待ちながら、なにを考えているのだろう。
窓を開けて外を見る。昨日までの風雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
翌日は朝から家を出て、パン屋さんへ行った。もちろん看板は出ていない。
私は音羽くんが住んでいる二階の窓を見上げる。そしてこの前ソファーの上でしたことを思い出し、急に恥ずかしくなる。
裏口にあるインターフォンを鳴らした。ここから二階へ繋がっているはず。だけど返事はない。
携帯を取り出して時間を確認する。朝の九時。まだ寝ているのか。それとももう病院にいるのか。
おとはくん――。
二階の窓を見上げながら、声にならない声でつぶやいた。けれど音羽くんに会えることはなく、私は家に帰った。
音羽くんが私の家に突然来たのは、その翌日だった。
夜眠れなくて、うとうとしてすぐに目覚めた。時計を見ると、まだ早い時間だった。もう眠れそうもなくて、机の前に座り、音羽くんにもらった問題集を解き始める。なんでもいい。なにかしていないと、落ち着かなかったんだ。
「芽衣ー? 起きてるのー?」
お母さんの声にはっと顔を上げる。気づくと机に顔をつけて眠ってしまっていた。なにやってるんだ、私。
「音羽くん、来てるわよー」
「え?」
私はあわてて椅子から降りる。部屋着のまま、階段を駆け下りる。玄関を見ると、朝の日差しの中で、音羽くんが私に小さく笑いかけた。
「これ、作ったんです。もしよかったら食べてください」
音羽くんがお母さんに袋を渡している。
「あら、パンじゃない。音羽くんが作ったの?」
「そうです」
「すごいわねぇ。やっぱりパン屋さんの息子さんは違うわね」
お母さんが笑って、音羽くんも一緒に笑っている。私はその顔を黙って見ている。
「じゃあ……」
「あら、上がって行きなさいよ」
「いえ。これからちょっと出かけるんで」
音羽くんがぺこりと頭を下げて、玄関から出ていく。
「待って!」
私は思わず声を上げた。
「私も……図書館に本を返しに行きたいから……だから一緒に」
私の声に、音羽くんはもう一度笑った。
服を着替えて、いつものトートバッグを持って外へ出た。朝から真夏の日差しが照りつける中、音羽くんが私を待っている。私が駆け寄ると、バッグについているキーホルダーがゆらゆらと揺れた。
「さくらさん。無事手術終わったよ」
並んで歩きながら、音羽くんが言った。
「今のところ、転移もなさそうで……とりあえずは安心した」
「そう……よかった」
私は胸をなで下ろす。本当に、本当に心配だった。
「まだ抗がん剤治療とかいろいろあるけど、通院でできるらしいから。しばらくしたら退院すると思う」
「うん」
音羽くんが立ち止まって、私を見る。そして気をつけの姿勢で頭を下げて言った。
「いろいろ心配かけて……ごめん」
私は首を横に振る。
「ごめんなんて言わないで。音羽くんが話してくれて嬉しかった」
そして少し笑う。
「私じゃ、全然頼りにならないと思うけど」
「そんなことっ」
音羽くんが声を上げた。
「そんなことない!」
恥ずかしくなって、うつむいた。そんな私に音羽くんが言う。
「あの雨の日、芽衣といられてよかった。ひとりでいると、悪いことばっか考えちゃって……情けないよな、俺」
苦笑いをした音羽くんは、また歩き出す。私もその隣を歩く。
マスクの中が熱くて、それをはずした。マスクをはずして、音羽くんと歩く。
誰かに会うのは、怖かったけど。それよりもあかるい日差しの中を、音羽くんとこうやって歩けることが嬉しかった。
「それじゃ」
図書館の前で音羽くんと別れる。これから電車に乗って、音羽くんはさくらさんの病院に行くそうだ。
「今度……お見舞いに行ってもいい?」
肩にかけたバッグをぎゅっと握って聞く。
「うん。さくらさんに言っとく」
音羽くんはもう一度「じゃあ」と言って背中を向ける。
駅に向かって歩いていく音羽くんの背中を見送った。夏の太陽は朝からぎらぎらと照りつけていて、小さくなっていく背中がやけに眩しく見えた。
図書館で本を返して、家に戻った。仕事が休みのお母さんとお父さんは、そろってリビングでお茶を飲んでいた。
「芽衣、おかえり! ねぇ、このパン、すごくおいしいよ!」
ふたりは音羽くんが焼いてくれたパンを食べていた。
「うん、さすがだな。うまいよ」
お父さんも褒めている。
「それにほらこれ、あんたの好きなやつじゃない?」
お母さんがパンを私に見せる。それはこの前ゲームセンターで取れなかった、あのひよこのキャラクターの姿だった。
「わぁ、すごい!」
「これ商品になるよ」
「お母さんのお店で、販売したらいいのにね。あ、著作権の問題とかあるから、ダメなのかしら?」
「じゃあ、オリジナルのキャラクターを作っちゃうとかどうだ?」
「あの子ならできそう。大人気商品になっちゃったりして。味もおいしいし。ねぇ芽衣?」
なんだかお父さんもお母さんも、音羽くんのパンで盛り上がっている。曖昧に返事をしながら、私もパンを手にとったら、お母さんが言った。
「おいしいパンを作ってくれる彼氏なんて、いいわねぇ」
「えっ」
私は驚いて顔を上げる。
「芽衣の彼氏なんでしょ? 音羽くんは」
「ちがっ、そんなんじゃないよ! なに言ってるの、お母さん!」
「ん、違うのか? お父さんもてっきり」
「そうよ、だってねぇ?」
「違う! 絶対違うから!」
もう、お父さんもお母さんもなに言ってるのよ。
「まぁ、彼氏じゃないにしても」
お母さんがにっこり笑って私に言う。
「朝早くから芽衣の好きなもの作ってくれて、それをうちまで届けてくれるお友達なんて、そうそういないわよ。大事にしなくちゃね」
私は音羽くんの作ってくれたパンを見つめる。そしてこれを作ってくれている音羽くんの姿を想像する。胸がじんわりと熱くなる。
「うん。大事にする」
お母さんとお父さんが笑っている。私もそんなふたりの前で、笑顔を見せた。
音羽くんはどうしているのだろう。ひとりでさくらさんの手術が終わるのを待ちながら、なにを考えているのだろう。
窓を開けて外を見る。昨日までの風雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
翌日は朝から家を出て、パン屋さんへ行った。もちろん看板は出ていない。
私は音羽くんが住んでいる二階の窓を見上げる。そしてこの前ソファーの上でしたことを思い出し、急に恥ずかしくなる。
裏口にあるインターフォンを鳴らした。ここから二階へ繋がっているはず。だけど返事はない。
携帯を取り出して時間を確認する。朝の九時。まだ寝ているのか。それとももう病院にいるのか。
おとはくん――。
二階の窓を見上げながら、声にならない声でつぶやいた。けれど音羽くんに会えることはなく、私は家に帰った。
音羽くんが私の家に突然来たのは、その翌日だった。
夜眠れなくて、うとうとしてすぐに目覚めた。時計を見ると、まだ早い時間だった。もう眠れそうもなくて、机の前に座り、音羽くんにもらった問題集を解き始める。なんでもいい。なにかしていないと、落ち着かなかったんだ。
「芽衣ー? 起きてるのー?」
お母さんの声にはっと顔を上げる。気づくと机に顔をつけて眠ってしまっていた。なにやってるんだ、私。
「音羽くん、来てるわよー」
「え?」
私はあわてて椅子から降りる。部屋着のまま、階段を駆け下りる。玄関を見ると、朝の日差しの中で、音羽くんが私に小さく笑いかけた。
「これ、作ったんです。もしよかったら食べてください」
音羽くんがお母さんに袋を渡している。
「あら、パンじゃない。音羽くんが作ったの?」
「そうです」
「すごいわねぇ。やっぱりパン屋さんの息子さんは違うわね」
お母さんが笑って、音羽くんも一緒に笑っている。私はその顔を黙って見ている。
「じゃあ……」
「あら、上がって行きなさいよ」
「いえ。これからちょっと出かけるんで」
音羽くんがぺこりと頭を下げて、玄関から出ていく。
「待って!」
私は思わず声を上げた。
「私も……図書館に本を返しに行きたいから……だから一緒に」
私の声に、音羽くんはもう一度笑った。
服を着替えて、いつものトートバッグを持って外へ出た。朝から真夏の日差しが照りつける中、音羽くんが私を待っている。私が駆け寄ると、バッグについているキーホルダーがゆらゆらと揺れた。
「さくらさん。無事手術終わったよ」
並んで歩きながら、音羽くんが言った。
「今のところ、転移もなさそうで……とりあえずは安心した」
「そう……よかった」
私は胸をなで下ろす。本当に、本当に心配だった。
「まだ抗がん剤治療とかいろいろあるけど、通院でできるらしいから。しばらくしたら退院すると思う」
「うん」
音羽くんが立ち止まって、私を見る。そして気をつけの姿勢で頭を下げて言った。
「いろいろ心配かけて……ごめん」
私は首を横に振る。
「ごめんなんて言わないで。音羽くんが話してくれて嬉しかった」
そして少し笑う。
「私じゃ、全然頼りにならないと思うけど」
「そんなことっ」
音羽くんが声を上げた。
「そんなことない!」
恥ずかしくなって、うつむいた。そんな私に音羽くんが言う。
「あの雨の日、芽衣といられてよかった。ひとりでいると、悪いことばっか考えちゃって……情けないよな、俺」
苦笑いをした音羽くんは、また歩き出す。私もその隣を歩く。
マスクの中が熱くて、それをはずした。マスクをはずして、音羽くんと歩く。
誰かに会うのは、怖かったけど。それよりもあかるい日差しの中を、音羽くんとこうやって歩けることが嬉しかった。
「それじゃ」
図書館の前で音羽くんと別れる。これから電車に乗って、音羽くんはさくらさんの病院に行くそうだ。
「今度……お見舞いに行ってもいい?」
肩にかけたバッグをぎゅっと握って聞く。
「うん。さくらさんに言っとく」
音羽くんはもう一度「じゃあ」と言って背中を向ける。
駅に向かって歩いていく音羽くんの背中を見送った。夏の太陽は朝からぎらぎらと照りつけていて、小さくなっていく背中がやけに眩しく見えた。
図書館で本を返して、家に戻った。仕事が休みのお母さんとお父さんは、そろってリビングでお茶を飲んでいた。
「芽衣、おかえり! ねぇ、このパン、すごくおいしいよ!」
ふたりは音羽くんが焼いてくれたパンを食べていた。
「うん、さすがだな。うまいよ」
お父さんも褒めている。
「それにほらこれ、あんたの好きなやつじゃない?」
お母さんがパンを私に見せる。それはこの前ゲームセンターで取れなかった、あのひよこのキャラクターの姿だった。
「わぁ、すごい!」
「これ商品になるよ」
「お母さんのお店で、販売したらいいのにね。あ、著作権の問題とかあるから、ダメなのかしら?」
「じゃあ、オリジナルのキャラクターを作っちゃうとかどうだ?」
「あの子ならできそう。大人気商品になっちゃったりして。味もおいしいし。ねぇ芽衣?」
なんだかお父さんもお母さんも、音羽くんのパンで盛り上がっている。曖昧に返事をしながら、私もパンを手にとったら、お母さんが言った。
「おいしいパンを作ってくれる彼氏なんて、いいわねぇ」
「えっ」
私は驚いて顔を上げる。
「芽衣の彼氏なんでしょ? 音羽くんは」
「ちがっ、そんなんじゃないよ! なに言ってるの、お母さん!」
「ん、違うのか? お父さんもてっきり」
「そうよ、だってねぇ?」
「違う! 絶対違うから!」
もう、お父さんもお母さんもなに言ってるのよ。
「まぁ、彼氏じゃないにしても」
お母さんがにっこり笑って私に言う。
「朝早くから芽衣の好きなもの作ってくれて、それをうちまで届けてくれるお友達なんて、そうそういないわよ。大事にしなくちゃね」
私は音羽くんの作ってくれたパンを見つめる。そしてこれを作ってくれている音羽くんの姿を想像する。胸がじんわりと熱くなる。
「うん。大事にする」
お母さんとお父さんが笑っている。私もそんなふたりの前で、笑顔を見せた。
10
お気に入りに追加
57
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ぼっち陰キャはモテ属性らしいぞ
みずがめ
恋愛
俺、室井和也。高校二年生。ぼっちで陰キャだけど、自由な一人暮らしで高校生活を穏やかに過ごしていた。
そんなある日、何気なく訪れた深夜のコンビニでクラスの美少女二人に目をつけられてしまう。
渡会アスカ。金髪にピアスというギャル系美少女。そして巨乳。
桐生紗良。黒髪に色白の清楚系美少女。こちらも巨乳。
俺が一人暮らしをしていると知った二人は、ちょっと甘えれば家を自由に使えるとでも考えたのだろう。過激なアプローチをしてくるが、紳士な俺は美少女の誘惑に屈しなかった。
……でも、アスカさんも紗良さんも、ただ遊び場所が欲しいだけで俺を頼ってくるわけではなかった。
これは問題を抱えた俺達三人が、互いを支えたくてしょうがなくなった関係の話。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
もしもしお時間いいですか?
ベアりんぐ
ライト文芸
日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。
2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。
※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
元おっさんの幼馴染育成計画
みずがめ
恋愛
独身貴族のおっさんが逆行転生してしまった。結婚願望がなかったわけじゃない、むしろ強く思っていた。今度こそ人並みのささやかな夢を叶えるために彼女を作るのだ。
だけど結婚どころか彼女すらできたことのないような日陰ものの自分にそんなことができるのだろうか? 軟派なことをできる自信がない。ならば幼馴染の女の子を作ってそのままゴールインすればいい。という考えのもと始まる元おっさんの幼馴染育成計画。
※この作品は小説家になろうにも掲載しています。
※【挿絵あり】の話にはいただいたイラストを載せています。表紙はチャーコさんが依頼して、まるぶち銀河さんに描いていただきました。
快晴の葵空と夕焼け~TOWN編~
東雲 周
ライト文芸
自分が高校生の時に書いたものをそのまま書いたので、人称・視点がぶれたりと、稚拙な部分しかありませんが、どうぞよろしくお願いします。
これが自分の第一作目になります。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる