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第5章 ひとりぼっちの世界
7月25日(水) 大雨 3
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パン屋さんの二階にある、音羽くんの家に上がった。ここに来るのは二回目だ。この前来たときは、下にさくらさんがいた。だけど今日、お店もこの家も、静まり返っている。
「……そのへんに座ってて」
音羽くんはそう言うと、洗面所のほうへ行ってしまった。私はリビングに入って、部屋の中を見回す。この前よりも、ずいぶん散らかっている。
「あ、座るとこ、ないよな」
音羽くんはタオルで頭を拭きながら、手に持っていたもう一枚のタオルを、私に差し出した。それから、ソファーの上の脱ぎっぱなしの服や、学校に持っていっているリュックをどかした。テーブルの上にある雑誌や、教科書も端に寄せ、お菓子の袋やペットボトルもゴミ箱へ捨てた。
「ごめん。汚くて」
私は首を横に振る。
さくらさんがいないからだ。音羽くんはこの部屋で、たったひとりで暮らしている。
私はタオルを胸に抱きしめて、ソファーに座った。音羽くんはキッチンの冷蔵庫を開け、小さい缶ジュースを二本持ってきて、一本を私の前に置いた。
「ありがとう」
「うん……」
音羽くんがソファーに座る。私と少し離れて。そして、かすれるような声で、ぼそっとつぶやいた。
「さくらさんが……入院したんだ」
「……うん」
「聞いてたんだろ? 病気のこと」
私は黙ってうなずく。音羽くんは深く息をはく。
「明日、手術なんだ。命に係わるような手術じゃないけど、どんな手術でも百パーセント安全とは言い切れないからって、病院の先生が……」
「うん」
「手術して、悪いものを全部取っちゃえばいいんだ。でももしかしたら他にも転移してて、取り切れない場合もあるって。そういう場合は、また別の治療を考えるしかないって」
音羽くんが頭を抱えた。
「そんなこと急にいろいろ言われても、わかんねぇよ。俺はただ病院に任せるだけ。なにもしてあげられない」
「音羽くん……」
「なにも……してあげられないんだ」
カタカタと窓が揺れた。どこか遠くで救急車の音がする。
音羽くんはさくらさんを想ってる。お父さんがいなくなってから、ふたりで支え合って生きてきた、お母さんのことを想ってる。
「どうしよう……さくらさんがいなくなったら」
音羽くんがつぶやく。
「さくらさんが死んだら……俺はこの世にひとりになる。たったひとりに……」
そこで声が途切れた。うつむいた肩が震えている。
私はなにも言えなかった。違うよって言えなかった。さくらさんは死なないって言えなかったし、音羽くんはひとりじゃないとも言えなかった。
どうしたらいいんだろう。私は目の前で震えている音羽くんに、どうしてあげたらいいんだろう。
雨の粒が屋根を叩いた。強い風が桜の木を揺らす。激しい嵐の中、私は音羽くんの身体を抱きしめていた。
ガタガタと揺れる窓の音。少し身体を動かすたびに、ぎしりと軋む古いソファー。私はその上で、音羽くんを両手で包む。頼りない手で、ただ必死に。音羽くんが、遠くに行ってしまわないように。
「芽衣……」
かすかに私の名前を呼ぶ声が聞こえた。ぎしっとソファーが音を立て、音羽くんの身体が揺れる。ゆっくりと動いたその手が、私の背中に回った。
ぎゅっと背中を抱き寄せられた。包んでいたはずが包み込まれる。音羽くんの胸に顔を押しつけられて、息をするのが苦しい。
だけど音羽くんは、もっときつく私の身体を抱きしめた。身体が熱い。ぼうっとする。
ただ、すぐそばで、心臓の鼓動を感じた。音羽くんが生きている証だ。
私はその動きを感じながら、目を閉じる。音羽くんが生きていてくれるだけで、こんなに嬉しく思える。
そのとき、私のバッグの中から、携帯電話の着信音が響いた。一瞬驚いて、私は音羽くんから、身体を離してしまった。
「あ……」
すぐ目の前の音羽くんと目が合う。音羽くんは赤い顔をしている。たぶん私も同じだ。
「……電話、親からじゃない?」
音羽くんの声を聞きながら、まだ心臓がどきどきしていた。
「出なよ。きっと心配してる」
私はバッグに手を伸ばす。だけど指先が震えて、上手く動かない。なんとか携帯を取り出し画面を見ると、やっぱりお母さんからだった。
「……もしもし?」
「ああ、芽衣。いまどこにいるの?」
お母さんの声に、答えられない。
「台風来てるから、仕事早く終わったのよ。あんたどこにいるの? 迎えに行ってあげるわよ」
「ううん……平気」
「ダメよ、危ないから。図書館?」
違う。
「それとも、パン屋さんにいるの?」
どうしよう。なんて答えたらいいの?
「うん……」
「じゃあ車で迎えに行くわ。いつもお世話になってるから、奥さんにご挨拶したいし」
「あっ、違うの。えっと、今日はもうパン売り切れちゃって、さくらさん、出かけちゃったの。だからいまちょうど、帰ろうと思ったとこ」
咄嗟に言ってしまった。
「そうなの? そういえばパンなくなり次第、お店も閉店だったわね。じゃあいま迎えに行くから。お店の前で待たせてもらいなさい」
電話が切れた。私、嘘をついた。
さくらさんも音羽くんも大変なときに……私、本当のことを言えなかった。
気まずい顔で、音羽くんを見る。音羽くんは、立ち上がって私に言う。
「外、行こう。お母さん、迎えにくるんだろ?」
「ごめんなさい」
音羽くんが私を見下ろす。
「出かけてるとか、嘘ついて。さくらさん、大変な思いしてるのに……」
「いいんだよ、あれで。お母さん、心配するだろ? 本当のこと言ったら……やっぱり、さ」
音羽くんは、ほんの少し口元をゆるませる。
「行こう」
「でも……」
でも音羽くんがひとりになってしまう。
「俺はもう大丈夫」
背中を向けた音羽くんがつぶやく。
「ごめんな? 芽衣」
どうしてそんなこと言うの? 「ごめん」なんて、言わなくていいのに。
音羽くんが私の荷物を持ち、部屋を出ていく。私もあわてて、そのあとを追いかける。
外へ出て、店の前の軒下で迎えを待った。雨は激しく地面を叩きつけている。
「今日は……」
ふたり並んで、雨を見ながら音羽くんが言った。
「俺も嬉しかった。芽衣と会えて」
私はその声を、右側の耳で聞く。
ふっと、右手があたたかくなった。音羽くんが私の手をにぎっていた。だけどその手は、やっぱり少し震えていて。私はその手を、ぎゅっと強く握りしめた。
やがて坂道を、一台の車がのぼってきた。私の隣の音羽くんが、さりげなくその手を離した。
「……そのへんに座ってて」
音羽くんはそう言うと、洗面所のほうへ行ってしまった。私はリビングに入って、部屋の中を見回す。この前よりも、ずいぶん散らかっている。
「あ、座るとこ、ないよな」
音羽くんはタオルで頭を拭きながら、手に持っていたもう一枚のタオルを、私に差し出した。それから、ソファーの上の脱ぎっぱなしの服や、学校に持っていっているリュックをどかした。テーブルの上にある雑誌や、教科書も端に寄せ、お菓子の袋やペットボトルもゴミ箱へ捨てた。
「ごめん。汚くて」
私は首を横に振る。
さくらさんがいないからだ。音羽くんはこの部屋で、たったひとりで暮らしている。
私はタオルを胸に抱きしめて、ソファーに座った。音羽くんはキッチンの冷蔵庫を開け、小さい缶ジュースを二本持ってきて、一本を私の前に置いた。
「ありがとう」
「うん……」
音羽くんがソファーに座る。私と少し離れて。そして、かすれるような声で、ぼそっとつぶやいた。
「さくらさんが……入院したんだ」
「……うん」
「聞いてたんだろ? 病気のこと」
私は黙ってうなずく。音羽くんは深く息をはく。
「明日、手術なんだ。命に係わるような手術じゃないけど、どんな手術でも百パーセント安全とは言い切れないからって、病院の先生が……」
「うん」
「手術して、悪いものを全部取っちゃえばいいんだ。でももしかしたら他にも転移してて、取り切れない場合もあるって。そういう場合は、また別の治療を考えるしかないって」
音羽くんが頭を抱えた。
「そんなこと急にいろいろ言われても、わかんねぇよ。俺はただ病院に任せるだけ。なにもしてあげられない」
「音羽くん……」
「なにも……してあげられないんだ」
カタカタと窓が揺れた。どこか遠くで救急車の音がする。
音羽くんはさくらさんを想ってる。お父さんがいなくなってから、ふたりで支え合って生きてきた、お母さんのことを想ってる。
「どうしよう……さくらさんがいなくなったら」
音羽くんがつぶやく。
「さくらさんが死んだら……俺はこの世にひとりになる。たったひとりに……」
そこで声が途切れた。うつむいた肩が震えている。
私はなにも言えなかった。違うよって言えなかった。さくらさんは死なないって言えなかったし、音羽くんはひとりじゃないとも言えなかった。
どうしたらいいんだろう。私は目の前で震えている音羽くんに、どうしてあげたらいいんだろう。
雨の粒が屋根を叩いた。強い風が桜の木を揺らす。激しい嵐の中、私は音羽くんの身体を抱きしめていた。
ガタガタと揺れる窓の音。少し身体を動かすたびに、ぎしりと軋む古いソファー。私はその上で、音羽くんを両手で包む。頼りない手で、ただ必死に。音羽くんが、遠くに行ってしまわないように。
「芽衣……」
かすかに私の名前を呼ぶ声が聞こえた。ぎしっとソファーが音を立て、音羽くんの身体が揺れる。ゆっくりと動いたその手が、私の背中に回った。
ぎゅっと背中を抱き寄せられた。包んでいたはずが包み込まれる。音羽くんの胸に顔を押しつけられて、息をするのが苦しい。
だけど音羽くんは、もっときつく私の身体を抱きしめた。身体が熱い。ぼうっとする。
ただ、すぐそばで、心臓の鼓動を感じた。音羽くんが生きている証だ。
私はその動きを感じながら、目を閉じる。音羽くんが生きていてくれるだけで、こんなに嬉しく思える。
そのとき、私のバッグの中から、携帯電話の着信音が響いた。一瞬驚いて、私は音羽くんから、身体を離してしまった。
「あ……」
すぐ目の前の音羽くんと目が合う。音羽くんは赤い顔をしている。たぶん私も同じだ。
「……電話、親からじゃない?」
音羽くんの声を聞きながら、まだ心臓がどきどきしていた。
「出なよ。きっと心配してる」
私はバッグに手を伸ばす。だけど指先が震えて、上手く動かない。なんとか携帯を取り出し画面を見ると、やっぱりお母さんからだった。
「……もしもし?」
「ああ、芽衣。いまどこにいるの?」
お母さんの声に、答えられない。
「台風来てるから、仕事早く終わったのよ。あんたどこにいるの? 迎えに行ってあげるわよ」
「ううん……平気」
「ダメよ、危ないから。図書館?」
違う。
「それとも、パン屋さんにいるの?」
どうしよう。なんて答えたらいいの?
「うん……」
「じゃあ車で迎えに行くわ。いつもお世話になってるから、奥さんにご挨拶したいし」
「あっ、違うの。えっと、今日はもうパン売り切れちゃって、さくらさん、出かけちゃったの。だからいまちょうど、帰ろうと思ったとこ」
咄嗟に言ってしまった。
「そうなの? そういえばパンなくなり次第、お店も閉店だったわね。じゃあいま迎えに行くから。お店の前で待たせてもらいなさい」
電話が切れた。私、嘘をついた。
さくらさんも音羽くんも大変なときに……私、本当のことを言えなかった。
気まずい顔で、音羽くんを見る。音羽くんは、立ち上がって私に言う。
「外、行こう。お母さん、迎えにくるんだろ?」
「ごめんなさい」
音羽くんが私を見下ろす。
「出かけてるとか、嘘ついて。さくらさん、大変な思いしてるのに……」
「いいんだよ、あれで。お母さん、心配するだろ? 本当のこと言ったら……やっぱり、さ」
音羽くんは、ほんの少し口元をゆるませる。
「行こう」
「でも……」
でも音羽くんがひとりになってしまう。
「俺はもう大丈夫」
背中を向けた音羽くんがつぶやく。
「ごめんな? 芽衣」
どうしてそんなこと言うの? 「ごめん」なんて、言わなくていいのに。
音羽くんが私の荷物を持ち、部屋を出ていく。私もあわてて、そのあとを追いかける。
外へ出て、店の前の軒下で迎えを待った。雨は激しく地面を叩きつけている。
「今日は……」
ふたり並んで、雨を見ながら音羽くんが言った。
「俺も嬉しかった。芽衣と会えて」
私はその声を、右側の耳で聞く。
ふっと、右手があたたかくなった。音羽くんが私の手をにぎっていた。だけどその手は、やっぱり少し震えていて。私はその手を、ぎゅっと強く握りしめた。
やがて坂道を、一台の車がのぼってきた。私の隣の音羽くんが、さりげなくその手を離した。
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