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第4章 ママに会いに
6月23日(土) 晴れ 2
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電車に三十分くらい揺られて、大学病院のある駅に着いた。ここからさらにバスに乗る。
バスの椅子に座ったら、私は少しほっとした。こんなところで同級生に会う確率は低い。息苦しさから解放されたくて、マスクをはずした。もうすぐママに会える寛太くんはごきげんだった。
「ママ!」
「カンちゃん! よく来てくれたね」
寛太くんのママは、大きな窓のある、五階の個室に入院していた。ベッドの上にいるママに駆け寄って、寛太くんは頭をなでてもらっている。
「ありがとうございます。こんな遠くまで寛太を連れてきていただいて」
寛太くんのママが、私と音羽くんに笑いかける。落ち着いた感じのやさしそうなひと。
「ごめんなさいね。ベッドの上で安静にしてるように言われてるので、なんのおかまいもできなくて」
「いえ。とんでもないです」
音羽くんはそう言ったあと、少し腰を落として、寛太くんの顔をのぞきこんだ。
「よかったな。ママに会えて」
「うん!」
にっこり笑った寛太くんが、「あっ」と何かを思い出した顔をする。そして持っていた紙袋を、少し恥ずかしそうにママに差し出した。
「ママ。これ持ってきたよ」
「カンちゃん、これ、もしかして?」
ママがいたずらっぽく笑って、中をのぞく。病室内に、甘い香りがかすかに漂う。
「わぁ、かわいい! パンダさんのパンね!」
「うん! このおにいちゃんが作ってくれたんだよ」
「まぁ、お兄ちゃんが?」
ママは少し驚いてから、すぐに笑顔で音羽くんを見た。
音羽くんは苦笑いをしたあと、しゃがみ込んで、寛太くんの耳元でささやく。
「それは言わなくていいって言っただろ?」
「え、なんでー?」
無邪気な顔で寛太くんに聞かれて、音羽くんはため息をついた。
「まぁ、いいや」
そして立ち上がると、寛太くんと寛太くんのママに言った。
「じゃあ俺たち、ちょっとジュースでも飲んでくるんで。カンちゃん、ママとゆっくりお話してな」
「はーい!」
「ほんとうにすみません」
音羽くんは私の背中を押して、「行くぞ」と言った。
中庭のベンチに腰かけた。音羽くんは自動販売機でジュースを二本買って、一本を私にくれた。
風に揺れる緑の葉の隙間から、夏っぽい日差しが降ってくる。
音羽くんは私になにも聞かない。駅の改札であったこと。たぶん私が三人と話していたところ、見ていたと思うのに。
私は静かに目を閉じる。隣に座る音羽くんは、やっぱり焼き立てのパンの匂いがする。
「あのね……さっき……」
言葉をぎこちなく、つなげていく。
「小学校からの友達に会ったの。向こうはもう私のこと、友達と思ってないかもしれないけど」
私はふうっと息をはく。胸が苦しい。でも吐き出したい。
「その子が言ったの。『学校来れないくせに、遊びには行けるんだ』って……」
私たちの前を、車いすに乗ったひとが通り過ぎる。病院には、いろんなひとがいる。
もう一度、深く息をはいたとき、音羽くんの声が聞こえた。
「ほっとけよ、そんなやつら」
私は膝の上で、スカートをぎゅっとにぎる。
「今日は休みなんだから、どこに出かけたって勝手だろ? そんなやつらの言うこと気にするな」
そう言ってから、音羽くんはほんの少し口元をゆるませる。
「って言っても、無理だよな。気にしないでいられたら、学校行ってるか」
私はうつむいたまま、小さくつぶやく。
「私……もうダメかも」
また泣きそうになるのを、必死にこらえる。
「このままずっと、学校行けないかも」
音羽くんが私の隣で、小さく息をはく。そして前を見たまま、ひとり言のように言った。
「俺、小学校の頃、すっげームカつくやつがいてさ」
私は右側の耳で、音羽くんの声を聞く。
「そいつ、他のやつのこといじめてて。それはよくないって、みんなわかってたんだけど、仕返しがこわくてさ。黙って見てるか、一緒にいじめるかしかなかった。俺もそうだった」
音羽くんがまた、ため息のような息をはく。
「でも中学になって、つい口走っちゃったんだよ。そいつに向かって『ふざけんな。悪いのはお前だろ』って。そしたら次の日から世界が変わった。クラス中のいじめの標的が、俺になった」
私は顔を上げて、音羽くんを見る。音羽くんは前を見たまま、ほんの少し笑う。
「それからは、口にも出せないようなこと、いっぱいされた。悔しくて、痛くて、惨めで……死んだ方がマシかもって思ったこともある。だけどあいつらはもう忘れてるんだろうな。傷つけられた方は、一生忘れられないっていうのに」
胸がきゅうっと痛くなる。
「でもそんな想いを、あの頃は誰にも吐き出せなかった」
音羽くんがゆっくりと視線を動かして、私を見た。
「それってすごく苦しいんだよ。自分ひとりで抱え込むには、重すぎるんだよ」
私は黙って音羽くんを見つめる。
「だから俺は聞くよ? なんの解決にもならないかもしれないけど。俺で良かったら、話くらいは聞けるから。だからお前も、あんまり抱え込むなよ」
「……音羽くん」
振り絞るように声を出した。音羽くんは照れくさそうに笑って、持っていたリュックの中に手を入れた。
「気持ち悪いの、治った?」
「あ、うん」
私が気持ち悪かったの、気づいてたんだ。
「じゃあこれ、食う?」
音羽くんが取り出したのは、見慣れたパンの袋。
「……いいの?」
「芽衣にやる」
私は少し震える手でそれを受け取る。そしてそっと中をのぞきこむ。
「あ……これ」
「お前に似てるだろ?」
「に、似てないもん!」
袋に入っていたのは、前にもらったキーホルダーについていた、ブサカワ猫のパンだ。
音羽くんは自分の袋から同じパンを取り出すと、わざと私に見せながら言った。
「芽衣を食おうっと。いただきますっ」
「ちょっ……ひどい」
「あ、うまっ。これうまいわ。芽衣だけどうまい」
「もうー」
音羽くんがパンを食べながら笑っている。幸せそうな顔をして笑っている。私はなんだか嬉しくなる。
袋の中からパンを取り出した。
「……いただきます」
一口食べると、中からカスタードクリームがとろりと出てきた。
「おいしい」
「だろ?」
「自分で作って自分で褒める?」
音羽くんが笑っている。私はそんな音羽くんの隣で、またパンを一口食べる。
甘い味が口の中に広がって、胸の奥まで、なんだか甘い気持ちになった。
バスの椅子に座ったら、私は少しほっとした。こんなところで同級生に会う確率は低い。息苦しさから解放されたくて、マスクをはずした。もうすぐママに会える寛太くんはごきげんだった。
「ママ!」
「カンちゃん! よく来てくれたね」
寛太くんのママは、大きな窓のある、五階の個室に入院していた。ベッドの上にいるママに駆け寄って、寛太くんは頭をなでてもらっている。
「ありがとうございます。こんな遠くまで寛太を連れてきていただいて」
寛太くんのママが、私と音羽くんに笑いかける。落ち着いた感じのやさしそうなひと。
「ごめんなさいね。ベッドの上で安静にしてるように言われてるので、なんのおかまいもできなくて」
「いえ。とんでもないです」
音羽くんはそう言ったあと、少し腰を落として、寛太くんの顔をのぞきこんだ。
「よかったな。ママに会えて」
「うん!」
にっこり笑った寛太くんが、「あっ」と何かを思い出した顔をする。そして持っていた紙袋を、少し恥ずかしそうにママに差し出した。
「ママ。これ持ってきたよ」
「カンちゃん、これ、もしかして?」
ママがいたずらっぽく笑って、中をのぞく。病室内に、甘い香りがかすかに漂う。
「わぁ、かわいい! パンダさんのパンね!」
「うん! このおにいちゃんが作ってくれたんだよ」
「まぁ、お兄ちゃんが?」
ママは少し驚いてから、すぐに笑顔で音羽くんを見た。
音羽くんは苦笑いをしたあと、しゃがみ込んで、寛太くんの耳元でささやく。
「それは言わなくていいって言っただろ?」
「え、なんでー?」
無邪気な顔で寛太くんに聞かれて、音羽くんはため息をついた。
「まぁ、いいや」
そして立ち上がると、寛太くんと寛太くんのママに言った。
「じゃあ俺たち、ちょっとジュースでも飲んでくるんで。カンちゃん、ママとゆっくりお話してな」
「はーい!」
「ほんとうにすみません」
音羽くんは私の背中を押して、「行くぞ」と言った。
中庭のベンチに腰かけた。音羽くんは自動販売機でジュースを二本買って、一本を私にくれた。
風に揺れる緑の葉の隙間から、夏っぽい日差しが降ってくる。
音羽くんは私になにも聞かない。駅の改札であったこと。たぶん私が三人と話していたところ、見ていたと思うのに。
私は静かに目を閉じる。隣に座る音羽くんは、やっぱり焼き立てのパンの匂いがする。
「あのね……さっき……」
言葉をぎこちなく、つなげていく。
「小学校からの友達に会ったの。向こうはもう私のこと、友達と思ってないかもしれないけど」
私はふうっと息をはく。胸が苦しい。でも吐き出したい。
「その子が言ったの。『学校来れないくせに、遊びには行けるんだ』って……」
私たちの前を、車いすに乗ったひとが通り過ぎる。病院には、いろんなひとがいる。
もう一度、深く息をはいたとき、音羽くんの声が聞こえた。
「ほっとけよ、そんなやつら」
私は膝の上で、スカートをぎゅっとにぎる。
「今日は休みなんだから、どこに出かけたって勝手だろ? そんなやつらの言うこと気にするな」
そう言ってから、音羽くんはほんの少し口元をゆるませる。
「って言っても、無理だよな。気にしないでいられたら、学校行ってるか」
私はうつむいたまま、小さくつぶやく。
「私……もうダメかも」
また泣きそうになるのを、必死にこらえる。
「このままずっと、学校行けないかも」
音羽くんが私の隣で、小さく息をはく。そして前を見たまま、ひとり言のように言った。
「俺、小学校の頃、すっげームカつくやつがいてさ」
私は右側の耳で、音羽くんの声を聞く。
「そいつ、他のやつのこといじめてて。それはよくないって、みんなわかってたんだけど、仕返しがこわくてさ。黙って見てるか、一緒にいじめるかしかなかった。俺もそうだった」
音羽くんがまた、ため息のような息をはく。
「でも中学になって、つい口走っちゃったんだよ。そいつに向かって『ふざけんな。悪いのはお前だろ』って。そしたら次の日から世界が変わった。クラス中のいじめの標的が、俺になった」
私は顔を上げて、音羽くんを見る。音羽くんは前を見たまま、ほんの少し笑う。
「それからは、口にも出せないようなこと、いっぱいされた。悔しくて、痛くて、惨めで……死んだ方がマシかもって思ったこともある。だけどあいつらはもう忘れてるんだろうな。傷つけられた方は、一生忘れられないっていうのに」
胸がきゅうっと痛くなる。
「でもそんな想いを、あの頃は誰にも吐き出せなかった」
音羽くんがゆっくりと視線を動かして、私を見た。
「それってすごく苦しいんだよ。自分ひとりで抱え込むには、重すぎるんだよ」
私は黙って音羽くんを見つめる。
「だから俺は聞くよ? なんの解決にもならないかもしれないけど。俺で良かったら、話くらいは聞けるから。だからお前も、あんまり抱え込むなよ」
「……音羽くん」
振り絞るように声を出した。音羽くんは照れくさそうに笑って、持っていたリュックの中に手を入れた。
「気持ち悪いの、治った?」
「あ、うん」
私が気持ち悪かったの、気づいてたんだ。
「じゃあこれ、食う?」
音羽くんが取り出したのは、見慣れたパンの袋。
「……いいの?」
「芽衣にやる」
私は少し震える手でそれを受け取る。そしてそっと中をのぞきこむ。
「あ……これ」
「お前に似てるだろ?」
「に、似てないもん!」
袋に入っていたのは、前にもらったキーホルダーについていた、ブサカワ猫のパンだ。
音羽くんは自分の袋から同じパンを取り出すと、わざと私に見せながら言った。
「芽衣を食おうっと。いただきますっ」
「ちょっ……ひどい」
「あ、うまっ。これうまいわ。芽衣だけどうまい」
「もうー」
音羽くんがパンを食べながら笑っている。幸せそうな顔をして笑っている。私はなんだか嬉しくなる。
袋の中からパンを取り出した。
「……いただきます」
一口食べると、中からカスタードクリームがとろりと出てきた。
「おいしい」
「だろ?」
「自分で作って自分で褒める?」
音羽くんが笑っている。私はそんな音羽くんの隣で、またパンを一口食べる。
甘い味が口の中に広がって、胸の奥まで、なんだか甘い気持ちになった。
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