水曜日のパン屋さん

水瀬さら

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第3章 チョココロネは初恋の味

6月6日(水) 曇り 1

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「へぇ……お前、学校行ってきたんだ」
「うん。テスト中だけだけど」
 私はさくらさんのお店にいた。目の前でしゃべっているのは音羽くんだ。さくらさんはパンを焼き上げたあと、私たちに店番を頼み、用事を済ませてくると言って出かけてしまった。
 パンの香りが漂う、厨房の隅っこ。そこにある椅子に、ふたりで座っている。音羽くんはテストがあるからと言って、さっきから学校の教科書をぱらぱらとめくっているけれど、全く頭に入っていないみたいだ。
「でも、全然できなかった」
「当たり前だ。授業受けてねぇんだから」
 やっぱりそうだよね。そう思うよね。
 私はふうっとため息をつく。
「ダメだよね……このままじゃ……」
 そんなことはわかっているけど。でもどうしたらいいのかわからない。

「ねぇ、音羽くん。高校って楽しい?」
 私の声に、音羽くんは、教科書を見下ろしながら答える。
「びみょう」
 私はちょっとがっかりした。きっと私は音羽くんに「楽しいぞ」って言って欲しかったんだと思う。そうしたら私も、なんとなく「がんばろう」って気持ちになれたから。
「楽しいやつは楽しいんじゃねぇの? 俺はそれほどでもないけど。今日も午後の授業、サボっちゃったし」
「え、そうだったの?」
「さくらさんには言うなよ」
 音羽くんはときどき授業をサボって、帰ってきてしまうそうだ。早い時間にお店にいるのは、そのせい。さくらさんには適当にごまかしているらしいけど。
「毎日学校に行ってるやつらはさ、俺たちみたいな人間のこと、どうして学校来ないんだって思うかもしれないけど」
 ちょっと遠くを見る感じで、音羽くんが言う。
「俺からしたら、あいつらのほうが、不思議でしょうがない。どうして毎日学校行けるんだって」
 あ、それ、ちょっとわかる。
 音羽くんがちらりと私を見る。

「お前、高校行きたいの?」
 私は少し考えてうなずく。
「……行きたい」
 いまの学校だって、行きたいって思ってる。行きたいけど、行けないだけ。
「じゃあ俺が勉強教えてやろうか?」
「えっ」
 私は驚いて顔を上げる。音羽くんは頭をかきながら、私から顔をそむける。
「ま、教えるほど頭良くねぇけど。でも一応高校受験して受かったし」
「いいの?」
 私は身を乗り出して聞いた。
「勉強教えてもらっても、いいの?」
「べつに……俺でよければ」
 音羽くんと一緒なら、少しは変われそうな気がする。
「じゃあ今度、勉強道具持ってきてもいい?」
「勝手にすれば?」
 そのときドアのベルが鳴った。お客さんだ。

「いらっしゃいませぇ」
 音羽くんの声が響く。
「いらっしゃいませ」
 私も真似して言う。
 ドアを開けて入ってきたのは、若い女のひとだった。
「こんにちは」
 そのひとが私たちを見て言った。
 長い髪をひとつにまとめて、黒っぽいスーツを着たひと。派手な感じではないけれど、肌も髪もとても綺麗で、美人なひとだなぁってすぐに思った。
 そして私がこのお客さんを見るのは、今日がはじめてだった。

「あれ?」
 そのひとはカウンター越しに、音羽くんに近づいてきて言った。
「きみ、もしかして、音くん?」
「え、はい。そうですけど……」
「わぁ、大きくなったねぇ! 私のこと、覚えてない? 覚えてないかぁ。音くんまだ、小学生だったもんねぇ」
 女のひとがそう言って笑う。
「私、詩織。高校生の頃、学校帰りによくここに来てたの。音くん、いつもお父さんのそばにいたから、すごく覚えてる」
「詩織……?」
 音羽くんはつぶやいたあと、「あっ」と短く声を上げ、あわてて口元を覆う。
「しお……ねえちゃん?」
「そう! しお姉ちゃんだよ!」
 詩織さんというひとはそう言って、音羽くんの前で嬉しそうに微笑んだ。

「ほんとびっくりしたよ! しおちゃん、すっかり綺麗なお姉さんになっちゃって!」
 出先から帰ってきたさくらさんが、詩織さんと話している。
「高校卒業したきり会ってなかったから……何年ぶり?」
「五年ぶりです。でもさくらさん、全然変わってないですよね!」
「そんなことないって。もうすっかりおばさんでしょ? あ、もとからおばさんだったかぁ」
「いえいえ、こんな大きい男の子のお母さんには見えませんって」
 詩織さんがそう言って、音羽くんを見る。
「音くん、もう高校生なんですね。あんなにちっちゃくて、かわいかったのに、すっかりイケメンになっちゃって」
「やあねー、そんなことないって。生意気なガキで困ってるんだから」
 さくらさんが笑う。私はちらりと音羽くんを見る。音羽くんはなにも言い返そうともせず、どこか落ち着かない表情をしている。
 あれ? なんかいつもと違う。音羽くんの顔、うっすら赤くなってる?

「でも……」
 さくらさんと一緒に笑っていた詩織さんが、声を落とす。
「ご主人亡くなっていたなんて……私、全然知らなくて……」
「ああ、二年前にね。このお店も、そのときやめようかと思ったんだけど。週に一度だけ、私がパンを焼かせてもらってるの」
「うれしいです。今日ここに来てよかった」
 詩織さんが微笑む。そしてさくらさんに向かって言う。
「さくらさん、私の母も亡くなりました。二日前に」
「え……」
「ずっと入院してたんですけど、よくならなくて……それでお葬式やらなんやらで、こっちに戻ってきたんです」
「そうだったの……最近お見かけしてなかったから、どうされたかと思ってたのよ。しおちゃんのお母さん」
 ふうっと息をはくさくらさんの前で、詩織さんは明るく言う。

「でもね、さくらさん。私、全然悲しくないんです」
 さくらさんが顔を上げ、詩織さんを見た。
「ほら、私、母と上手くいってなかったでしょ? だから……全然悲しくないんです」
 詩織さんがそう言って微笑む。音羽くんはそんな詩織さんの顔をじっと見ていた。なにも言おうともせず、ただじっと。
 私はそんな音羽くんの横顔を、黙って見つめていた。
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