13 / 44
第2章 思い出のあんぱん
5月23日(水) 晴れ 1
しおりを挟む
一週間前の出来事は、ずっと私の頭から離れなかった。おじいさんのことはもちろんだけど、妙に元気がなくなってしまった音羽くんのことも……。
木曜日に一度、あのパン屋さんに行ってみた。水曜日以外、さくらさんは他の仕事をしていると言っていたし、音羽くんは学校に行っているはず。だからきっと会えないだろうとは思っていた。
それでも家にいても落ち着かなくて、私はいつもと違う行動を起こしていたのだ。
マスクをして外を歩いた。雨は降っていなかったから、傘はさせない。ひとの目が気になって、自然とうつむきがちになり、足を速める。
坂道をのぼって、さくらさんのお店の前に立った。
『本日おやすみです ごめんなさい』
うさぎがお辞儀をしているイラスト入りのプレートが、ドアにかかっている。
私は小さく息をはき、建物の二階を見上げた。窓もカーテンも閉まっていて、誰もいる気配はない。きっとふたりとも、出かけているのだろう。こんな時間にうろうろしているのは、私くらいだ。
もう一度ため息をついて、来た道を戻った。足取りは、ものすごく重かった。
それから約一週間、ずっと外に出ないで、家で本を読んでいた。もやもやする気分を、少しでも紛らわせたかったのだ。
水曜日。私は朝からそわそわしていた。お母さんを見送って朝食を食べると、トートバッグを肩に掛け、外へ出た。本は入っていなかった。図書館に行くつもりは最初からなかった。
歩道を走って、坂道を駆け上がる。マスクの内側で息をきらしながら、パン屋さんのドアを開ける。
「いらっしゃいませー!」
明るい声が、耳に飛び込んできた。
「さ、さくらさん!」
「あ、芽衣ちゃん。おはよう。早いね」
急いで駆け寄ると、さくらさんは私の聞きたいことをわかってくれたらしく、やさしく微笑んで教えてくれた。
「おじいちゃんだったら、大丈夫だよ」
その言葉に、とりあえずほっとする。
「昨日、お見舞いに行ってきたんだけど、もうピンピンしてて。あんぱん食べたいって言ってた。病院のご飯は、味が薄くておいしくないんだって」
ふふっとおかしそうに、さくらさんが笑う。
「もうすぐ退院できるそうだよ」
「よかった……」
私が言うと、さくらさんは少しだけ顔をくもらせた。
「ただね。おじいちゃん、隣の県に住んでる娘さんの家で暮らすことになったの。一人暮らしはなにかと心配だからって」
「え……」
「だからもう……うちのあんぱんを買いに来てもらえないんだ」
さくらさんが悲しそうな顔で微笑んだ。
そんな……もう今までみたいに、おじいちゃんに会えなくなるなんて……。
「でもやっぱりそれがいいよね。娘さんのそばなら安心だし。今回は大事に至らなかったけど、おじいちゃん持病もあるみたいだし、ね?」
私は黙ってうつむいた。
わかるけど。そのほうがいいんだってわかるけど。
『とってもおいしいんだよ。うちのばあさんの大好物なんだ』
そう言って嬉しそうな顔をしていたおじいちゃん。おじいちゃんもおばあちゃんも、もうさくらさんの作ったあんぱんを、食べることができなくなる。
「ねぇ、芽衣ちゃん」
さくらさんの声に、ゆっくりと顔を上げる。
「お願いがあるの」
「なんですか?」
さくらさんは私に背中を向けて、焼き上がったパンをお店に並べる。
「ちょっと二階に行ってきてくれないかな?」
「え?」
どうして私がさくらさんの家に?
「音羽がね。学校休んでるんだ、もう一週間」
「一週間も? 具合でも悪いんですか?」
私はこの前の、音羽くんの青白い顔を思い出す。
さくらさんは振り返って、ちょっといたずらっぽく言う。
「そうだね。昔の病気が再発しちゃったかなぁ。『学校行きたくない病』」
私は黙ってさくらさんを見る。
「あの子、あれで意外と繊細だからさ。市郎さんが倒れてたの見て、ショックだったんじゃないのかな。父親を亡くしたときのこと、思い出しちゃったかもしれないし」
そういえば、音羽くんのお父さんも、病気で倒れて亡くなったって聞いていた。
「芽衣ちゃん、話し相手にでもなってあげてよ。一週間も部屋に引きこもってるからさ、そろそろ暇してると思うんだ」
「でも……私なんか……」
私なんかじゃ、音羽くんの気持ちを、きっとわかってあげられない。
「大丈夫。きっと元気出ると思うんだ。芽衣ちゃんの顔見れば」
そんなこと、ありえない。そう思うけど……。
私は肩に掛けたバッグをぎゅっとにぎる。ブサカワ猫のキーホルダーがゆらりと揺れる。
音羽くんが、このキーホルダーを私にくれた。
動けなくなった私に、傘をさしかけてくれた。
私の家に着くまで、ずっと手を引いてくれた。
私は音羽くんに、いろんなものをもらった。だったら今度は私に、何か少しでもできることがあれば……。
「はい。これ」
さくらさんが差し出してきたのは、おじいちゃんとおばあちゃんが大好きだった、あんぱんだ。
「よかったら二階で、音羽と食べてきて」
「はい」
さくらさんがパンを袋に入れてくれた。私はそれを持って、音羽くんのいる二階へ上がる。
胸がどきどきして、ちょっと怖かった。でも私は音羽くんに会いたかった。
だから会いに行くんだ。
階段をのぼりながら、どきどきが激しくなる。二階に着くと、いくつかの部屋があった。
リビングとキッチンと、和室。どこもきちんと整理されていて、とても綺麗。それから一番奥に閉まったドア。あそこが音羽くんの部屋だ。
「……音羽くん?」
ドアを二回ノックする。
「音羽くん。パン……持ってきたよ」
しばらく待っていると、やがてドアが静かに開いた。
木曜日に一度、あのパン屋さんに行ってみた。水曜日以外、さくらさんは他の仕事をしていると言っていたし、音羽くんは学校に行っているはず。だからきっと会えないだろうとは思っていた。
それでも家にいても落ち着かなくて、私はいつもと違う行動を起こしていたのだ。
マスクをして外を歩いた。雨は降っていなかったから、傘はさせない。ひとの目が気になって、自然とうつむきがちになり、足を速める。
坂道をのぼって、さくらさんのお店の前に立った。
『本日おやすみです ごめんなさい』
うさぎがお辞儀をしているイラスト入りのプレートが、ドアにかかっている。
私は小さく息をはき、建物の二階を見上げた。窓もカーテンも閉まっていて、誰もいる気配はない。きっとふたりとも、出かけているのだろう。こんな時間にうろうろしているのは、私くらいだ。
もう一度ため息をついて、来た道を戻った。足取りは、ものすごく重かった。
それから約一週間、ずっと外に出ないで、家で本を読んでいた。もやもやする気分を、少しでも紛らわせたかったのだ。
水曜日。私は朝からそわそわしていた。お母さんを見送って朝食を食べると、トートバッグを肩に掛け、外へ出た。本は入っていなかった。図書館に行くつもりは最初からなかった。
歩道を走って、坂道を駆け上がる。マスクの内側で息をきらしながら、パン屋さんのドアを開ける。
「いらっしゃいませー!」
明るい声が、耳に飛び込んできた。
「さ、さくらさん!」
「あ、芽衣ちゃん。おはよう。早いね」
急いで駆け寄ると、さくらさんは私の聞きたいことをわかってくれたらしく、やさしく微笑んで教えてくれた。
「おじいちゃんだったら、大丈夫だよ」
その言葉に、とりあえずほっとする。
「昨日、お見舞いに行ってきたんだけど、もうピンピンしてて。あんぱん食べたいって言ってた。病院のご飯は、味が薄くておいしくないんだって」
ふふっとおかしそうに、さくらさんが笑う。
「もうすぐ退院できるそうだよ」
「よかった……」
私が言うと、さくらさんは少しだけ顔をくもらせた。
「ただね。おじいちゃん、隣の県に住んでる娘さんの家で暮らすことになったの。一人暮らしはなにかと心配だからって」
「え……」
「だからもう……うちのあんぱんを買いに来てもらえないんだ」
さくらさんが悲しそうな顔で微笑んだ。
そんな……もう今までみたいに、おじいちゃんに会えなくなるなんて……。
「でもやっぱりそれがいいよね。娘さんのそばなら安心だし。今回は大事に至らなかったけど、おじいちゃん持病もあるみたいだし、ね?」
私は黙ってうつむいた。
わかるけど。そのほうがいいんだってわかるけど。
『とってもおいしいんだよ。うちのばあさんの大好物なんだ』
そう言って嬉しそうな顔をしていたおじいちゃん。おじいちゃんもおばあちゃんも、もうさくらさんの作ったあんぱんを、食べることができなくなる。
「ねぇ、芽衣ちゃん」
さくらさんの声に、ゆっくりと顔を上げる。
「お願いがあるの」
「なんですか?」
さくらさんは私に背中を向けて、焼き上がったパンをお店に並べる。
「ちょっと二階に行ってきてくれないかな?」
「え?」
どうして私がさくらさんの家に?
「音羽がね。学校休んでるんだ、もう一週間」
「一週間も? 具合でも悪いんですか?」
私はこの前の、音羽くんの青白い顔を思い出す。
さくらさんは振り返って、ちょっといたずらっぽく言う。
「そうだね。昔の病気が再発しちゃったかなぁ。『学校行きたくない病』」
私は黙ってさくらさんを見る。
「あの子、あれで意外と繊細だからさ。市郎さんが倒れてたの見て、ショックだったんじゃないのかな。父親を亡くしたときのこと、思い出しちゃったかもしれないし」
そういえば、音羽くんのお父さんも、病気で倒れて亡くなったって聞いていた。
「芽衣ちゃん、話し相手にでもなってあげてよ。一週間も部屋に引きこもってるからさ、そろそろ暇してると思うんだ」
「でも……私なんか……」
私なんかじゃ、音羽くんの気持ちを、きっとわかってあげられない。
「大丈夫。きっと元気出ると思うんだ。芽衣ちゃんの顔見れば」
そんなこと、ありえない。そう思うけど……。
私は肩に掛けたバッグをぎゅっとにぎる。ブサカワ猫のキーホルダーがゆらりと揺れる。
音羽くんが、このキーホルダーを私にくれた。
動けなくなった私に、傘をさしかけてくれた。
私の家に着くまで、ずっと手を引いてくれた。
私は音羽くんに、いろんなものをもらった。だったら今度は私に、何か少しでもできることがあれば……。
「はい。これ」
さくらさんが差し出してきたのは、おじいちゃんとおばあちゃんが大好きだった、あんぱんだ。
「よかったら二階で、音羽と食べてきて」
「はい」
さくらさんがパンを袋に入れてくれた。私はそれを持って、音羽くんのいる二階へ上がる。
胸がどきどきして、ちょっと怖かった。でも私は音羽くんに会いたかった。
だから会いに行くんだ。
階段をのぼりながら、どきどきが激しくなる。二階に着くと、いくつかの部屋があった。
リビングとキッチンと、和室。どこもきちんと整理されていて、とても綺麗。それから一番奥に閉まったドア。あそこが音羽くんの部屋だ。
「……音羽くん?」
ドアを二回ノックする。
「音羽くん。パン……持ってきたよ」
しばらく待っていると、やがてドアが静かに開いた。
10
お気に入りに追加
57
あなたにおすすめの小説
黄昏は悲しき堕天使達のシュプール
Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・
黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に
儚くも露と消えていく』
ある朝、
目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。
小学校六年生に戻った俺を取り巻く
懐かしい顔ぶれ。
優しい先生。
いじめっ子のグループ。
クラスで一番美しい少女。
そして。
密かに想い続けていた初恋の少女。
この世界は嘘と欺瞞に満ちている。
愛を語るには幼過ぎる少女達と
愛を語るには汚れ過ぎた大人。
少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、
大人は平然と他人を騙す。
ある時、
俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。
そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。
夕日に少女の涙が落ちる時、
俺は彼女達の笑顔と
失われた真実を
取り戻すことができるのだろうか。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ぼっち陰キャはモテ属性らしいぞ
みずがめ
恋愛
俺、室井和也。高校二年生。ぼっちで陰キャだけど、自由な一人暮らしで高校生活を穏やかに過ごしていた。
そんなある日、何気なく訪れた深夜のコンビニでクラスの美少女二人に目をつけられてしまう。
渡会アスカ。金髪にピアスというギャル系美少女。そして巨乳。
桐生紗良。黒髪に色白の清楚系美少女。こちらも巨乳。
俺が一人暮らしをしていると知った二人は、ちょっと甘えれば家を自由に使えるとでも考えたのだろう。過激なアプローチをしてくるが、紳士な俺は美少女の誘惑に屈しなかった。
……でも、アスカさんも紗良さんも、ただ遊び場所が欲しいだけで俺を頼ってくるわけではなかった。
これは問題を抱えた俺達三人が、互いを支えたくてしょうがなくなった関係の話。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
元おっさんの幼馴染育成計画
みずがめ
恋愛
独身貴族のおっさんが逆行転生してしまった。結婚願望がなかったわけじゃない、むしろ強く思っていた。今度こそ人並みのささやかな夢を叶えるために彼女を作るのだ。
だけど結婚どころか彼女すらできたことのないような日陰ものの自分にそんなことができるのだろうか? 軟派なことをできる自信がない。ならば幼馴染の女の子を作ってそのままゴールインすればいい。という考えのもと始まる元おっさんの幼馴染育成計画。
※この作品は小説家になろうにも掲載しています。
※【挿絵あり】の話にはいただいたイラストを載せています。表紙はチャーコさんが依頼して、まるぶち銀河さんに描いていただきました。
想いの宿る箱
篠原 皐月
ライト文芸
引っ越し作業をしながら、ふと思いついたあれこれを整理してみたら、楽しかったり良かったことを拾い上げられた。
それは結構、幸せなことだったのかもしれない。
これから不安や挫折も詰め込むかもしれないけど、今は夢と希望を詰めていく。
カクヨムからの転載作品。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる