水曜日のパン屋さん

水瀬さら

文字の大きさ
上 下
8 / 44
第1章 雨とマスクとクリームパン

5月2日(水) 晴れ 2

しおりを挟む
 試作パンを食べたあと、音羽くんはパンの包み方や、レジの使い方を教えてくれた。
「パンの値段も全部覚えろよ。まぁそんなに種類多くないから、余裕だろうけど」
「はい」
 私は音羽くんの隣に立って、棚に並んでいるパンをながめる。それぞれに値札がついてあって、かわいいイラストが描いてある。
「このイラストかわいい。さくらさん、絵が上手いんですね?」
「え、そうかぁ?」
 なぜだかあわてて、顔をそむける音羽くん。どうしたんだろう。そんな私たちの背中に声がかかった。

「ああ、それ私じゃないんだ。音羽が描いたの」
「ええっ!」
 びっくりして、声を上げてしまった。だって女の子が喜びそうな、とってもかわいいイラストだったから。
 ちらりと横を見ると、音羽くんは逃げるようにカウンターの向こうへ行ってしまった。耳がちょっと赤くなってる。
「びっくりしました。音羽くん、絵、上手いんですね」
「まぁ昔から、手先だけは器用かもね。手先だけはね」
「うるさい。だまれ」
 言い返す力が弱い。音羽くん、照れてるみたい。ふたつ年上の男の子だけど、なんだかかわいいと思ってしまった。

 カランとベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
 さくらさんと一緒に声を出す。
「あら、芽衣ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
 いつもクロワッサンを買いにくるおばさん、中村さんだ。私の名前を覚えてくれてる。
「さくらさん、クロワッサン焼けた?」
「ええ。焼けてますよ!」
 さくらさんが取りに行く。
「五つちょうだいね」
 おばさんが私に笑いかけて言う。
「はい。五つですね」
 いつのまにか私もこんなふうに、お客さんと会話できるようになっていた。

 さくらさんの焼いたパンを並べたり、お客さんが買ったパンを袋に入れたりしていたら、また時間が過ぎていた。私はあわててさくらさんに言う。
「すみません。私、もう帰らなきゃ」
「ああ、ごめん。遅くなっちゃったね。手伝ってくれてありがとう」
 私はエプロンをはずすと、レジの前にお金を置いた。
「あの、今日は私のおこづかいでパンを買って帰ります」
「あら、いいの?」
「お母さんとお父さんに、買ってあげたいんです」
 先週、さくらさんにもらったパンを、お母さんたちにも食べてもらった。そして私が、パン屋さんでお手伝いさせてもらったことも話した。
 ふたりとも美味しいと言ってくれて、なんだか私までうれしくなった。
 私はクリームパンとあんぱんとカレーパンをトレーに取って、レジの前に差し出した。
「ありがとうございます」
 さくらさんがそれを袋に入れてくれる。
「また来週も、お店やってるから」
「はい」
「来れたら、おいで」
 私はさくらさんの前で笑ってうなずく。

 パンを持って外へ出た。空はオレンジ色に染まっていた。
 いけない、遅くなっちゃった。
 早足で帰ろうとしたら、私の隣に誰かが並んだ。
「さくらさんに、買い物頼まれた」
「え?」
 私の隣を歩いているのは、音羽くんだった。音羽くんは前を見たまま、面倒くさそうに言う。
「坂の下まで一緒に行く」
「……うん」
 私は肩に掛けたトートバッグをぎゅっとにぎる。
 背の高い音羽くんと、坂道を歩く。夕陽が私たちの背中を照らしていて、道の先にふたりの長い影が伸びる。

 そのとき前から歩いてくる人影に気がついた。私は咄嗟にマスクで顔を覆って、下を向く。おしゃべりしながら向かってくるふたりの女の子は、私の中学校の制服を着ていた。
 身体がこわばる。背中に嫌な汗がにじむ。手の震えを隠すために、私はもっと強くバッグをにぎる。
 女の子たちの笑い声が近づいてきた。私のことを笑っているような気がして、心臓の音が激しくなる。
 怖い。もう嫌だ。いますぐ走って逃げ出したい。
「なにそれ、マジでぇ?」
「ね? ヤバいっしょ?」
 笑い声がすぐ近くで聞こえたあと、女の子たちの声は遠ざかった。私はうつむいたまま、歩き続ける。

「……大丈夫だよ」
 そんな私に、音羽くんの声が聞こえた。
「誰も、見てなかったから」
 うつむいたまま、深く息をはく。
「……うん」
 聞こえないほど小さな声で答えたら、私の震える手を、音羽くんがにぎりしめた。
「家まで送ってやる。だからお前はずっと下向いてろ」
「え……」
 ほんの少し顔を上げたら、音羽くんが私を見て、ちょっとだけ笑った。
「みなみ町だろ、お前んち。あのへん、だいたいわかるから」
「……うん」
 私はまた下を向いた。音羽くんが私の手を引いて歩き出す。
 こんなことして歩いていたら、逆に目立ってしまいそうだけど……でもひとりで帰る勇気もなかった。

「……ごめんなさい」
 マスクの中でつぶやく。
「謝るなよ」
 音羽くんのかすれるような声が聞こえる。
「お前はなにも、悪いことしてないんだから」
 涙が、出てきそうだった。
 友達に無視されてしまったのも。
 教室に居づらくなったのも。
 学校に行けなくなったのも。
 ひとりで歩くのが怖くなってしまったのも。
 全部自分が悪いと思っていたから。

 自分の足元だけを見つめて、音羽くんに手を引かれて歩く。視界にちらりと中学の制服が映って、すぐに視線をそらす。それでも誰かの笑い声は聞こえてきて、耳を覆いたくなる。
 そのたびに音羽くんは、私の手をぎゅっとにぎってくれた。私が不安になる瞬間を、音羽くんはわかっていた。
 なんとか家まで着くと、音羽くんの手が私から離れた。
「じゃあ」
 目と目が合った音羽くんに、私はなにも言うことができなかった。なにか口に出したら、涙も一緒にあふれてしまいそうだったから。
 今来た道を、音羽くんがひとりで帰って行く。音羽くんの背中は、きれいなオレンジ色に染まっていた。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

黄昏は悲しき堕天使達のシュプール

Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・  黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に  儚くも露と消えていく』 ある朝、 目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。 小学校六年生に戻った俺を取り巻く 懐かしい顔ぶれ。 優しい先生。 いじめっ子のグループ。 クラスで一番美しい少女。 そして。 密かに想い続けていた初恋の少女。 この世界は嘘と欺瞞に満ちている。 愛を語るには幼過ぎる少女達と 愛を語るには汚れ過ぎた大人。 少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、 大人は平然と他人を騙す。 ある時、 俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。 そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。 夕日に少女の涙が落ちる時、 俺は彼女達の笑顔と 失われた真実を 取り戻すことができるのだろうか。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

ぼっち陰キャはモテ属性らしいぞ

みずがめ
恋愛
 俺、室井和也。高校二年生。ぼっちで陰キャだけど、自由な一人暮らしで高校生活を穏やかに過ごしていた。  そんなある日、何気なく訪れた深夜のコンビニでクラスの美少女二人に目をつけられてしまう。  渡会アスカ。金髪にピアスというギャル系美少女。そして巨乳。  桐生紗良。黒髪に色白の清楚系美少女。こちらも巨乳。  俺が一人暮らしをしていると知った二人は、ちょっと甘えれば家を自由に使えるとでも考えたのだろう。過激なアプローチをしてくるが、紳士な俺は美少女の誘惑に屈しなかった。  ……でも、アスカさんも紗良さんも、ただ遊び場所が欲しいだけで俺を頼ってくるわけではなかった。  これは問題を抱えた俺達三人が、互いを支えたくてしょうがなくなった関係の話。

Black Day Black Days

かの翔吾
ライト文芸
 日々積み重ねられる日常。他の誰かから見れば何でもない日常。  何でもない日常の中にも小さな山や谷はある。  濱崎凛から始まる、何でもない一日を少しずつ切り取っただけの、六つの連作短編。  五人の高校生と一人の教師の細やかな苦悩を、青春と言う言葉だけでは片付けたくない。  ミステリー好きの作者が何気なく綴り始めたこの物語の行方は、未だ作者にも見えていません。    

元おっさんの幼馴染育成計画

みずがめ
恋愛
独身貴族のおっさんが逆行転生してしまった。結婚願望がなかったわけじゃない、むしろ強く思っていた。今度こそ人並みのささやかな夢を叶えるために彼女を作るのだ。 だけど結婚どころか彼女すらできたことのないような日陰ものの自分にそんなことができるのだろうか? 軟派なことをできる自信がない。ならば幼馴染の女の子を作ってそのままゴールインすればいい。という考えのもと始まる元おっさんの幼馴染育成計画。 ※この作品は小説家になろうにも掲載しています。 ※【挿絵あり】の話にはいただいたイラストを載せています。表紙はチャーコさんが依頼して、まるぶち銀河さんに描いていただきました。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

oldies ~僕たちの時間[とき]

ライト文芸
「オマエ、すっげえつまんなそーにピアノ弾くのな」  …それをヤツに言われた時から。  僕の中で、何かが変わっていったのかもしれない――。    竹内俊彦、中学生。 “ヤツら”と出逢い、本当の“音楽”というものを知る。   [当作品は、少し懐かしい時代(1980~90年代頃?)を背景とした青春モノとなっております。現代にはそぐわない表現などもあると思われますので、苦手な方はご注意ください。]

処理中です...