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1巻
1-2
しおりを挟む第1章
「よしっ」
黒いスーツに白いシャツ。ナチュラルメイクで、肩までの黒い髪をひとつに束ね、私は鏡の前で気合を入れた。
今日は『満腹不動産』への初出勤。ちょっとドキドキだけど、とりあえず仕事が見つかってよかった。
昨日、大学時代の友人『かのちゃん』に電話で、満腹不動産で働くことになった経緯を話した。かのちゃんは大手の不動産会社で売買の担当につき、毎日先輩と一緒に、バリバリ営業にまわっているそうだ。
『小海。それって本当にオイシイ話なの? 私にはアヤシイ臭いしかしないんだけど』
背が高く、モデルみたいに美人なかのちゃんは、童顔で子どもっぽく見られる私のことを、まるでお母さんのように心配してくれる。
『猫の世話だけしていればいい不動産屋なんて、聞いたことないよ。もっとよく考えて決めた方がよかったんじゃないの?』
「でも店長さん、悪いひとじゃなさそうだったし。とりあえず働いてみるよ」
『あんたねぇ……ヤバい仕事させられそうになったら、すぐ逃げるんだよ』
「かのちゃんは大げさだなぁ」
『小海がノー天気すぎるんだよ』
頭の回転が速く、しっかり者のかのちゃんだけど、ちょっと心配性なところがある、と私は思っている。
そんな昨日のやりとりを思い出しながら、私はアパートを出た。
アパートから商店街まで徒歩五分。満員電車に乗ってかよっていた前の会社に比べると、今度の通勤は超楽だ。
「おはようございます!」
スーツ姿で元気よくガラス戸を開ける。しかし店内には誰もいなかった。
「あれ?」
きょろきょろと中を見まわしてみるものの、満腹店長の姿は見えない。
店は開いているのに無人なんて……昨日もそうだったけど、盗難など大丈夫なんだろうか。
心配しながらカウンターの上を見ると、昨日のアパートの写真と、キャットフードの入った袋が置いてあった。
『猫ちゃんたちに、朝のお食事をお願いします』
袋にはやけに丸っこい文字で、そう書いてある。
「……ひとりで勝手にいけってこと?」
写真を手に取って、ガラス戸の外を見る。依然、店長がやってくる気配はない。
するといつの間にか店の中にいた昨日の茶トラが、私の足元に擦り寄ってきた。そしてガラス戸の隙間から、ゆっくりと外へ出ていく。
「もしかしてまた、案内してくれるの?」
立ちどまって振り向いた茶トラは今日も、ついておいでとでも言うように、のろのろと歩き出す。
私はキャットフードと写真を手に持ち、猫を追いかけて店をあとにした。
まだ静かな朝の商店街をとおり抜け、駅前の踏切を渡り、線路の反対側に向かう。
しっぽを立てた茶トラは、時々私を振り向き、ついてきていることを確かめている。もしかして昨日までは猫の餌やりを店長がやっていて、この猫も毎朝こうやって店長と歩いていたのかもしれない。うん、きっとそうだ。
線路を挟んで私のアパートがある南側は、昔ながらの商店街があり賑やかだけど、北側は、新しくできたマンションや一軒家が建ち並ぶ閑静な住宅街だ。
同じ町なのに、なんだか全く違う場所へ迷い込んでしまったような、不思議な気持ちがする。
猫について住宅地をしばらく歩くと、写真どおりのアパートが見えてきた。
新しい家が建ち並ぶ中、この木造二階建てのアパートだけが、時代に取り残されたみたいに昭和の雰囲気を醸し出している。
緑の垣根に囲まれた敷地をのぞいてみると、アパートのベランダに面した狭い庭で、母親らしき三毛猫と、黒色と白色の子猫二匹がのんびりと昼寝をしていた。少し離れた草の上では、母親と同じ毛柄の子猫が三匹、じゃれ合って遊んでいる。
「かわいい!」
茶トラは、垣根の端にあるさびついた門から、慣れた様子で庭へ入っていく。私もそれに続くと、気づいた母猫が起き上がり、同時に子猫たちが私のまわりに集まってきた。
「わぁ……」
にゃーにゃーと一斉に鳴き始める子猫たち。慌ててキャットフードを取り出そうとしたけれど、あっという間に猫たちに囲まれパニックになる。
にゃーにゃー、にゃーにゃー。
足に擦り寄る子、飛びついてくる子、おとなしく待っている子。さっきの茶トラもちゃっかり仲間に加わっている。合計七匹。
「ちょっ、ちょっと待ってぇ」
この子たちにいっぺんにフードをやるって、どうすればいいんだろう。
猫に囲まれあたふたとしていたら、突然上から声が降ってきた。
「猫のご飯、持ってきてくれたんですか?」
声の聞こえた方向に顔を上げる。すると二階の真ん中の部屋のベランダから、同い年くらいの男の子が私を見下ろしていた。
自然な黒髪にほっそりとした顔つき。白いTシャツと黒のスウェットパンツの上に、青いパーカーを羽織っている。
「そうです! 猫にご飯をあげにきました!」
キャットフードの入った袋を高く上げると、男の子は「ちょっと待っててください」と、無表情で言って、部屋の中に引っ込んだ。
二階の住人さんかな。もしかして手伝ってくれるのだろうか。期待しながら待っていたら、さっきの子がサンダルを履いて庭に出てきた。
「キャットフード、貸してください」
「あ、はい」
ドライフードを渡すと、その子はどこからか持ってきたふたつの洗面器の中に、それを次々と流し込み、手際よく地面に並べた。
「ほら。ご飯だぞ」
男の子が声をかけると、猫たちは私の足元から離れ、洗面器に群がっていく。
「こうやっておけば、勝手に食べますから」
「あ、ありがとうございます」
「あとこれに、水を入れてあげてください。水道はそこにあります」
「わかりました」
ほっとしながら、私は別の洗面器をふたつ受けとる。
よかった。助かった。愛想はないけど、親切なひとなのかもしれない。
「満腹不動産のひとですか?」
庭にあった水道で洗面器に水を入れて、猫のそばに置くと、男の子にうしろからたずねられる。私は振り向いて、彼を改めて眺めた。
背がひょろっと高く、華奢な体つき。私は背が低いのがコンプレックスなので、ちょっと羨ましい。それによく見ると、なかなか整った顔立ちをしているじゃないか。
「はい、そうです。今日から満腹不動産で働くことになった、一ノ瀬小海と申します」
「こうめ?」
「いえ、小さい海と書いて『こうみ』です」
「なるほど。小海さんですね」
男の子は私のことを、観察するようにじいっと見てから、自分の名前を名乗った。
「僕は202号室に住んでいる、小比類巻日向っていいます」
「こひるいまきさん?」
「ああ、下の名前で呼んでもらって大丈夫です。小比類巻って言いにくいでしょ? だからみんな日向って呼ぶんです」
「え、あ、はい。じゃあ日向さん」
「『さん』づけはちょっと……たぶん僕の方が年下ですよね。二十だから」
ああ、そうなんだ。二十歳か。私より年下なのに、ずいぶん落ち着いている。
「では日向くん、とか?」
「はい。では僕も小海さんって呼ばせてもらいます。その名前気に入ったので」
気に入ったって……冷めた口調でさらっと言うなぁ。まぁ、父のつけてくれた名前を気に入ってもらえるのはうれしいけど。
私は苦笑いを浮かべながら、ちょっと不思議な雰囲気が漂う『日向くん』に聞いてみる。
「あの、日向くんは……ここに住んで長いんですか?」
なんとなく、そんな気がしたのだ。やけにこの場に馴染んでいる感じだし。
「五年半くらいです」
「ご家族で?」
「いや、ずっとひとりです。高校入学と同時に入居して、一昨年の春、高校は卒業しました」
高校生で一人暮らし? あんまり聞かないけど。でもきっとなにか、理由があるのだろう。
気がつくと、キャットフードを食べ終わった猫たちが、それぞれ好きな場所に散っていた。お昼寝をするもの、毛づくろいをするもの、さっそく遊び出すもの。
すると、あの茶トラが日向くんの足元に擦り寄ってくる。日向くんがしゃがみ込んで「よしよし」と頭をなでてあげると、茶トラは気持ちよさそうに、ごろごろと喉を鳴らす。
いいなぁ、猫たちは自由で。そういえばこれから私は、なにをすればいいのだろう。とりあえず、満腹店長を捜さなきゃ。
「それでは私はこれで……」
「満腹さん、店にいなかったでしょ?」
店に戻ろうとした私に日向くんが問いかける。
「え、ええ」
「あのひと、自由人だから。もう少しここにいてもいいんじゃないですか? どうせやることないんだろうし」
日向くんは、そう言って、ごろんと寝転がった茶トラのお腹をなでた。
たしかに戻っても、まだ店長はいない気がする。捜すといっても、どこを捜したらいいのかわからないし。
仕方なく私も日向くんの隣にしゃがみ込む。すると黒い子猫がみゃーみゃー鳴きながら、私のそばに寄ってきた。どうやらこの子は甘えん坊のようだ。白い子猫は、母猫の陰に隠れて近寄ってこない。
「あの、この猫たち、おじいさんがお世話していたそうですね」
「はい。でも死んじゃったんです。友朗さん」
友朗さんっていうのか、101号室に住んでいたおじいさんは。もしかしておじいさんが亡くなったのを発見したのも、日向くんなのかもしれない。なんとなくそんな気がした。
「日向くんは……友朗さんと、仲がよかったんですか?」
黒猫をなでながら聞いてみる。
「はい。猫好きの、やさしいおじいさんでした。いつも猫たちのことを心配してて……わしがいなくなったら、誰がこの子たちの世話をしてくれるんだろうって、口癖のように言っていました」
「大丈夫です。私がちゃんとお世話しますから」
私は力強くうなずいて、そう口にした。
そのために私は雇われたのだから。
足元の黒猫が「にゃあ」と鳴く。日向くんは茶トラをなでながら、ほんの少し微笑む。
「友朗さん、きっと喜んでます。小海さんがきてくれて」
そう言ってもらえると、この仕事もやりがいがある。
茶トラがのんびりと立ち上がり、首をぷるぷると振って、庭から出ていく。
「あ、帰るのかな」
私も一緒に立ち上がる。やっぱり店長が帰っているかもしれないから、店に戻らないと。
そのとき一階の窓に人影が見えた。このアパートは下の階にファミリータイプの部屋がふたつ、上の階に単身者向けの部屋が三つある。人影が見えたのは、一階の奥、102号室だ。
窓からこちらを見つめていたのは、ボブカットで黄色い花柄の服を着た、四、五歳くらいの小さな女の子だった。女の子は私の視線に気づくと、シャッとカーテンを閉めてしまう。
「恥ずかしいのかな……あの子」
女の子の様子を見てつぶやいた私に、日向くんはちょっと驚いたような表情を向ける。
「小海さん」
「はい?」
「見えたんですか?」
見えたって……そんな、幽霊みたいな言い方しなくても。
「ええ。カーテンの陰から女の子がのぞいてました。私の顔を見たら、びっくりしたのか隠れちゃいましたけど」
一瞬黙り込んだ日向くんが、「そうか」とつぶやく。
「その子、102号室のミウちゃんです」
「ミウちゃんっていうんですね。今度挨拶してみます」
恥ずかしがり屋さんなのかもしれない。
「それでは、私はこれで。また夕方にきますね」
「はい、待ってます」
そう口にして、日向くんは小さく微笑んだ。
「あ、小海さん。連絡先を教えてもらえますか? この先、知っていた方がなにかと便利だと思うので」
思い出したように言うと、彼はポケットからスマホを取り出した。
「ええ、いいですよ」
私はうなずいて自分のスマホを手に持つ。連絡先を交換している間、日向くんって、なにをしているひとなんだろうと考える。
高校を卒業したって言ってたから、やっぱり大学生なのかな? 大学生はまだ夏休みだっけ? なんとなく社会人ではないような気がする。あ、もしかしたらフリーターってやつ? 猫みたいに自由な感じがそれっぽい。
とりとめもなく考えながら、連絡先を交換し終え、私は庭を出ようと歩き出す。
「小海さん」
すると、門の前に差しかかったところで、日向くんに呼びとめられた。
「はい?」
「小海さんって」
日向くんは真面目な顔つきのまま続ける。
「霊感は強い方なんですか?」
「は?」
突拍子もない質問に、私は思わず頓狂な声を上げた。
「霊感。幽霊とかおばけとか、そういうの、よく見えちゃうひとですか?」
質問された意図はわからなかったけれど、私は首を横に振り、答える。
「いいえ。怪談話やホラー映画は、大の苦手です」
「あ、そうなんですか」
「それが……なにか?」
ドキドキしながら聞く。
「いや、なんでもないです」
日向くんは、ちょっと意味深に口元をゆるめた。
なんでもないって言われても、そんなこと聞かれたら気になるじゃない。このアパートで亡くなったっていうおじいさんのこともあるし……なんか怖い。
そのとき、私を呼ぶように茶トラが鳴いた。見ると、門を出たところで立ちどまり、私のことを待っている。
「じゃ、じゃあ、また」
「はい。また」
足元に猫を何匹かまとわりつかせながら、日向くんが言う。
私はぺこりと頭を下げて、歩き始めた茶トラのあとを追いかけた。
店に戻っても、満腹店長はまだいなかった。
仕方なくカウンターに座って店番をするが、お客さんがくる気配は全くない。
なにもしないままでいるのは落ち着かなくて、私は店の中からほうきと雑巾を見つけ、掃除をすることにした。狭い店内にはカウンターと椅子、書類や新聞が積み重なった事務机と電話、小さなコピー機があり、あとは本棚に難しそうな本がたくさん並んでいる。
床をほうきで掃いて、カウンターや机の上を雑巾で拭く。書類や本を整理してから、お店の顔であるガラス戸もピカピカに磨いた。
それでも店長は現れない。大丈夫だろうか……このお店。
綺麗になった店内をぼんやりと眺めると、『優麗荘』と背表紙に書いてあるファイルを戸棚に見つけたので、取り出してみる。中には賃借人と交わした契約書が挟んであった。
「101号室、小豆友朗さん……例のおじいさんか……」
椅子に座ってじっくり見てみると、最初の契約書は友朗さんのものだった。その契約書を確認してから、次の契約書を見る。
202号室。賃借人名、小比類巻正。日向くんの……お父さんだろうか。ひとりで住んでいるって言っていたけれど、父親名義で借りているのかもしれない。
「あれ?」
ぱらぱらとページをめくっていたら、おかしなことに気づいた。他の部屋の契約書がないのだ。少なくとも102号室には女の子の家族が住んでいるはずなのに。
「契約書、交わしてないとか?」
いい加減そうなお店だから、そういうのもありえるかも。
「ああ、小海ちゃん。おはようございます」
突然かけられた声に顔を上げると、昨日と同じ満面の笑みを浮かべた満腹店長が店に入ってきたところだった。
「おはようございます」
「ご飯、あげてくれたんですね。猫たちも喜んでましたよ」
ん? どうして私が餌を与えてきたことを知っているんだろう。あ、もしかして、店長もあのアパートに寄ってきたのかな?
「あれ、ひょっとして掃除もしてくれました?」
店長は店の中をきょろきょろ見まわす。
「はい。することがなかったので」
「ありがとう、ありがとう。本当に助かります」
そう言ったあと、店長はふうっと一息ついて椅子に座った。
「お茶、淹れましょうか?」
「いいんですか? それではお言葉に甘えて。でも温めでお願いします。猫舌なものでね」
「はい」
私はくすっと小さく笑って立ち上がる。店の隅にお湯を沸かせるポットと、急須や湯呑みなどのセットがあるのは、さっき掃除をしたときに確認済みだ。
「小海ちゃんも勝手に飲んでかまわないですから。足りないものがあったら買ってきてくださいね。あ、領収書も忘れずに」
「わかりました」
お茶の用意をしながら、あとでコーヒーを買ってこようと、心の中でちゃっかり決める。
「あ、店長。さっき202号室のひとに会いました」
私の渡した湯呑みを両手で持って、ふーふーと慎重に息を吹きかけている満腹店長に言う。
「ああ、日向くんですね。なかなかイケメンだったでしょ?」
店長の言葉を聞いて、私は彼の姿を思い出した。
……確かに。
女の子にキャーキャー言われるタイプでは決してないけれど、ひそかに陰で見守る隠れファンがいるような、そんな感じ。
「でもあの子、若いのに覇気がないっていうか……なんか落ち着き過ぎちゃってるっていうか……」
私の言葉を聞いて、店長がははっと笑った。
「高校生のころから、あそこにひとりで住んでいるって言ってましたけど」
「あの子もいろいろと苦労してるんです」
お茶をすすりながら、店長はしみじみと言う。
『いろいろと』が気になったけど、深く突っ込むのはやめておいた。
「それよりあのアパート。他にも入居者さん、いらっしゃいますよね?」
私は優麗荘のファイルを手にして聞いてみる。店長はぎょっとしたように、丸い目をさらに丸くして、それから私の顔をじっと見つめる。
「日向くんに……聞いたんですか?」
「いえ、102号室の女の子を見かけたので」
「小海ちゃんが……見かけたんですね?」
「はい。でも契約書、ないみたいですけど?」
そう言って詰め寄る私に、店長が苦笑いで答える。
「ああ、そのへんは適当なんです。口約束で借りているひともいますしね」
やっぱり。いい加減な管理会社だ。オーナーさんは、それでよいのだろうか?
「あの、優麗荘の大家さんって」
「それは私です」
「え?」
「私が大家なんです」
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