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⑩息子として
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イズマルへの襲撃から一週間が経った。
僕は部屋で新聞を読みながら、疲れ切った目頭を押さえた。昨日、チェルダーシェの民による平和宣言が告げられた。そのためか、基地の役職持ちたちはてんやわんやだ。
幸いにも僕はその限りではないから、朝から部屋にこもりっぱなしだ。
じきに、チェルダーシェの王に対する審判が下される。
イズマルへ連合軍が侵攻していたちょうどそのころ、チェルダーシェでは民で形成された反乱軍による革命が起こっていた。それを指揮していたのは、連合軍のスパイだ。
イズマルを重要視する王は、軍もすべてそちらへと注力させていた。そのため、手薄になった城内に、スパイをはじめとした反乱軍が乗り込み、普段は反乱勢力に交わらない民衆までをも巻き込み、壮大なる抵抗運動が行われた。確かにこれも策の一部だった。だが民衆が立ち上がることは想定していなかったことだ。
これまで静かにしていた民衆たちも、今回の事態を好機と見たのだろう。
イズマルに意識を向けすぎていた王は、その隙をつかれ、あっけなく捕らえられた。どう配慮しても結論として処刑される王は、今も幽閉されている。
イズマルでは、これまでにないほどの被害が出た。それは敵も味方も関係なく、多大なる犠牲だった。
僕らラジタリア軍は、そんな戦士たちを弔い、しばらくの喪に服す。意識したわけではないが、僕は今も黒いシャツを着てしまっている。
その勇敢なる者たちの中には、ラモーナもいる。僕は彼女の家族が基地に来て先輩の軍医たちにお礼を言っている姿を見かけた。ラモーナのように朗らかな人たちで、その目には涙が浮かんでいた。
僕はそれを見ていられなくて、たまらず逃げ出してしまったのだが。
ベッドに横になった僕は、ラモーナの家族の姿を再び思い浮かべる。
「家族……か……」
僕には縁が遠くなってしまった言葉を口に出してみると、ある日のラモーナの声が聞こえてくる。
“もしまだ間に合うのなら、一度会ってみたら?”
彼女の的確なアドバイスに、僕は瞼を閉じて更にそこに手の甲で蓋をする。
両親たちは、今何をしているのだろうか。
僕が軍人になったことを知ったら何を思うのか、僕には想像することすらできなかった。
のどかな鳥のさえずりに、木々の間から差し込む柔らかな日差し。すっかり忘れてしまった清らかな空気に包まれ、僕は少し気分が悪くなって顔をしかめる。
車を走らせやってきたのは、家出するまで僕が過ごしていた街。ここは相も変わらず豊かな日常を送っているようで、人々の賑やかな声と活気のある表情が視界に飛び込んでくるたび、違う世界に来てしまったのかと錯覚する。
ガルガンタス家はこの辺りの土地を所有している。侯爵家とはいっても、隣国は古来より連合国で、彼らが闘うことなどない。名前だけの権威のそれは、ただ貴族社会で見栄を張るためにしか使えない。
お飾りだけの彼らの称号だが、軍に入った僕にとって、ふとそれは必然的なことだったのだと納得してしまった。
ひときわ広い土地に聳え立つ久しぶりに見た屋敷は、出て行った時と変わらずよく手入れされた植物たちに囲まれて、優雅に僕を迎えてくれた。
僕が車から降りると、庭の掃除をしていた従者の一人が幽霊を見たかのように飛び上がり、箒を放り出して家の中へと駆けて行った。
「卿! 大変です! 卿ー!!」
彼の叫び声を浴びながら、僕はちょうどいいと思い、開けておいてくれた玄関に手をかけ、数年ぶりに実家へと足を踏み入れる。
ばたばたと騒がしい音がするかと思えば、階段から髪を乱した母が下りてくる。ちょうどヘアセットをしていたところだったのだろう。部屋着というには優雅すぎるワンピースに身を包み、僕と目が合うと、母はわなわなと口を震わせ、出てこない言葉を探している。
「……ロチェスター」
そこに厳格な声が僕の視線を奪う。
現れたのは、青くなっている従者を背後に連れた父だ。
「……お久しぶりです」
表情を変えずに、僕は小さく頭を下げる。以前と変わらない怖い顔をした父は、少しだけ皺が出てきたように見える。それでもその威厳は変わらない。
僕が来ている庶民的な黒いコートをなめるようにみた父は、目配せをして僕を奥へと招き入れる。僕のコートを受け取ろうとする従者に断りを入れ、僕は自分の手にコートをかけた。
来客用の応接間で、僕はソファに座り、机を挟んで父と母が僕の方を見て座る。
「……いままで何をしていた」
父の声は軍隊の上官よりも低く、心臓まで響いてくる。彼が指揮を執ったら、さぞ皆が震えあがることだろう。
「ご迷惑をおかけし申し訳ありません」
僕は再び頭を下げた。眉をピクリとも動かさずに表情一つ変えない父とは違い、母は放心状態のまま僕の顔を食い入るように見ている。
記憶よりも顔色が良く見えるのは気のせいだろうか。とりあえず、平穏な生活は送れているようだ。
「誘拐犯が捕まったと、ニュースで見た。家に届いた手紙と同じ事件の犯人だ」
「……はい」
ぐっと、思わず膝に置いた手に力が入る。父は気づいているのだろう。僕がただ家出をしただけだということを。叱られるのは覚悟している。勘当だって当然だ。……いや、もうしているつもりかもしれないが。
「…………ロチェスター」
父がゆっくりと口を開く。
確かに以前に比べて怒号にもなれたし、自分がしたことの浅はかさも理解している。それでもやはり、親の雷が落ちるときには、それなりの心構えがいるものだ。
僕は目を伏せ、気まずさに顔をしかめる。
「……よく、戻ってきた」
「…………え?」
想定していなかった父の言葉に、僕は顔を上げて間の抜けた顔をする。今、何て言ったんだ?
「お帰り、ロシュ! ずっと待っていたんだから……!」
母の目に涙が浮かび、手に持ったハンカチでそれを拭っている。初めて見る母の嬉しそうな表情に、僕はすっかり戸惑ってしまった。
「お前のことは、知っていた」
「……は?」
父は後ろに控える従者をちらりと見ると、僕に視線を戻し、少し前のめりになる。
「お前が家を出てから、その行方をずっと探していたんだよ。そしてようやく見つけた時、お前はロチェスター・ジェファーソンとして軍に入隊していた。当然、軍は身元を調べるだろう? 私たちが知らないはずがない。気を遣って知らせてくれた友人がいてね……気は乗らなかったが、思うままにやらせてみることにした」
「…………」
まさかの回答に、僕は息をのんだ。
両親は僕のことを知っていたのだ。確かに、父の言っていることは正しい。がむしゃらだった当時には気がつかなかったことだが、まったくおかしな話ではない。
「この前のイズマル戦にも、お前は行ったのか?」
戦争とは無関係のこの地域でも、流石に戦況は把握しているみたいだ。僕は黙って頷く。
「そうか……。大変な惨状だったと聞く。策が上手くいったことだけが救いだな」
父の隣で、母がまた大粒の涙を流す。しゃくりをあげて、肩を震わせている。
「お前が無事で何よりだ。母さんも、気が気じゃなかったんだからな」
「……すみません」
また母が声をあげて泣く。僕はどうしていいかわからなくなって、目が回りそうな心境の中、立ち上がって母の隣に座り直した。その肩をさすると、母は僕の肩に顔をうずめる。
「母さん……ごめん……」
「いいの……っ! でも、でも……どうして軍人なんかに……!」
母は怒っているのだろうか。悲しんでいるだけなのだろうか。僕は申し訳なくなり、その細い身体を抱きしめた。
「でもまぁ……戦争も終わったことだ。今はロシュの無事を喜ぼうじゃないか」
「ええ。ええ、そうね……。本当に、心配したわ……!」
父が母の肩を叩くと、少し落ち着いた母は僕から離れて父に向かって微笑みかける。
「お前の兄たちは今出ているが、きっとお前の無事を喜ぶだろう」
「……はい」
本当にそうだろうか。
今、目の前にいる両親はともかく、兄たちも僕のこと、そんなに好きじゃなかった記憶だが。
僕は改めて向かいのソファに座り直し、紅茶を飲んでいる母を横目にコホンと咳払いをした父を見る。
「ところでロチェスター。お前は家に戻る気はないのか?」
「え?」
むしろ、戻ってきて欲しいと思うのか?
それでも父の顔に冗談の色は見えない。
「兄さんたちもいるし……僕はもう、必要ないだろ……?」
世継は十分足りている。そもそも、家出しなくともいずれは平民になっていた身だ。僕は眉をひそめて父の意図を読み取ろうと試みる。
「必要ない人間などいない。軍で鍛えられたお前は、粗暴な奴だと思われるかと思いきや、意外と需要があるんだ。特にラジタリアの軍人は品行方正だからな」
「……は? 需要?」
久しく貴族社会から離れていたから、僕にはその意味がよく分からなかった。
「そうだ。お前をぜひ婿にと、いくつかの声がかかっている。どれも名家ばかりだ。娘たちも皆、美しく慈愛に溢れ、教養のある素晴らしい人たちだ」
「……えっと……それって……」
ようやくその意味を掴めそうだった。思いがけない両親の態度にすっかり参っている僕は、動かない頭を必死で働かせる。
「ロシュ、お前、婚約しないか? そうすればまた、貴族社会に戻れるぞ」
「……え」
やっぱりそうだったか。
父の言葉に、僕は頭が真っ白になった。せっかく働かせた脳が鈍ってしまう。
「いや……僕は……」
動悸が止まらなくなる。なんとか冷静を装おうにも、乱雑に縫った心の傷が開いてしまいそうで集中できない。
「ねぇロシュ、どうかしら? もう十分、軍人としての経験は積めたと思うわ。ロシュも十分満足したんじゃないかしら?」
母の声は明るい。まさかではあるが、僕に戻ってきて欲しいのだろう。
だが僕の心が浮かぶはずがない。
確かに、きっと相手は素晴らしい娘たちなのだと思う。厳しい父がそこまで言うのであれば。彼女たちに非はないし、両親の善意であることも承知している。
それでも僕にはその申し出は受け入れがたい。
「……僕は、そんな資格はない」
「資格? 資格なんていらないわよ。ロシュ、あなた自己評価が低すぎるのよ?」
「いや、違う……そうじゃなくて」
僕は姿勢を正して、ぐっと両親を見据える。ピンとした背筋に、動揺していた心がしゃんとしたのが分かった。
「僕にはもう、愛する人がいますので」
凛とした迷いのない声が出た。自分でも驚くほどにはっきりとしていた。
母は目を丸くして、父もきょとんとしている。そんな顔、これまで見たことはないな。
「え……ロシュ、それって、どういうこと? もう婚約しているの?」
「……いいえ。そうではありませんが」
思わず目を伏せてしまう。何て言えばいいのだろう。彼女がもういないことを告げたら、きっと強引にでも縁談を持ち込んでくる。
「すみません……僕には、もうその人以外を愛することができません。それでは、相手を傷つけてしまう」
「ロシュ……」
息子の決意に、母は瞳を潤ませた。正直に話せないのが後ろめたかった。それでも、お互いのためにこれが一番なんだ。
「……分かった。ロチェスター」
父がゆっくりと頷いた。
「お前は、随分と逞しくなったものだな」
そう言って笑う父の眼差しは、思い上がりかもしれないけど、僕のことを誇らしそうに見てくれていた。
その後、帰ってきた兄とも少し話すことができて、久しぶりの家族の会話をした。
僕の軍人生活に興味があったようで、思いのほか兄弟の会話は弾んだ。
帰りの頃になると、両親も僕が軍に誓った忠誠を認めてくれていた。何よりも息子の願いが大事なのだと言ってくれた二人の柔らかな微笑みに、奇しくも僕はラモーナを思い出す。
そのせいなのか、感傷的になった僕は心を埋めるために街で花束を買った。車を走らせ、チェッタジリアに戻ろうとする僕は、途中で美しい夕陽の見える丘に寄った。
遠くに見えるのは僕の生まれ故郷だ。チェッタジリアまではまだ時間がかかる。
だからこの夕陽を瞳に収めておきたかったんだ。
「……ラモーナ、綺麗だろ?」
いるはずのない彼女に語り掛け、自嘲するように笑みを浮かべる。
手に握った花束の香りを嗅ぐと、あまりにも清楚で戦場では決して味わえない安らぎを与えてくれた。すると、最後に見た彼女の微笑みが僕の胸を焦がす。
ぽろぽろと、無意識のうちに涙をこぼしていた。
「ラモーナ、君が恋しいよ」
独り言を呟き、止まりそうにない涙を止めたくて左手で目元を覆った。それなのに、まったく言うことを聞かない涙腺に、僕は次第に声をあげて泣き出してしまう。
右手に持った花束は下を向き、膝を落として僕はその場に泣き崩れる。
ああ、どうしてなんだ。
ラモーナ、君を失う覚悟なんて、臆病で傲慢な僕にはあるはずがないだろう。
それに、イズマルで消えてしまった君は、その身に安寧を与えることすらできなかった。
誰もいない丘の上で、沈みゆく夕陽に照らされ一人泣き声を上げる僕のことを慰めるように、柔らかな風が懸命に生きる雑草を揺らす。
墓すらないなんて、それなら、この花をどこに贈ればいい。
花を供えて償いをしたくても、花を贈ることすら出来ない。
ああ違う。それもまた僕の我が儘なのか。
償いなんかではない。僕が、ただ君に会いたいだけなんだ。
花束を握りしめ、僕はそこで夕陽が完全に沈むまで堰を切ったように涙が枯れるまで泣き続けた。
僕は部屋で新聞を読みながら、疲れ切った目頭を押さえた。昨日、チェルダーシェの民による平和宣言が告げられた。そのためか、基地の役職持ちたちはてんやわんやだ。
幸いにも僕はその限りではないから、朝から部屋にこもりっぱなしだ。
じきに、チェルダーシェの王に対する審判が下される。
イズマルへ連合軍が侵攻していたちょうどそのころ、チェルダーシェでは民で形成された反乱軍による革命が起こっていた。それを指揮していたのは、連合軍のスパイだ。
イズマルを重要視する王は、軍もすべてそちらへと注力させていた。そのため、手薄になった城内に、スパイをはじめとした反乱軍が乗り込み、普段は反乱勢力に交わらない民衆までをも巻き込み、壮大なる抵抗運動が行われた。確かにこれも策の一部だった。だが民衆が立ち上がることは想定していなかったことだ。
これまで静かにしていた民衆たちも、今回の事態を好機と見たのだろう。
イズマルに意識を向けすぎていた王は、その隙をつかれ、あっけなく捕らえられた。どう配慮しても結論として処刑される王は、今も幽閉されている。
イズマルでは、これまでにないほどの被害が出た。それは敵も味方も関係なく、多大なる犠牲だった。
僕らラジタリア軍は、そんな戦士たちを弔い、しばらくの喪に服す。意識したわけではないが、僕は今も黒いシャツを着てしまっている。
その勇敢なる者たちの中には、ラモーナもいる。僕は彼女の家族が基地に来て先輩の軍医たちにお礼を言っている姿を見かけた。ラモーナのように朗らかな人たちで、その目には涙が浮かんでいた。
僕はそれを見ていられなくて、たまらず逃げ出してしまったのだが。
ベッドに横になった僕は、ラモーナの家族の姿を再び思い浮かべる。
「家族……か……」
僕には縁が遠くなってしまった言葉を口に出してみると、ある日のラモーナの声が聞こえてくる。
“もしまだ間に合うのなら、一度会ってみたら?”
彼女の的確なアドバイスに、僕は瞼を閉じて更にそこに手の甲で蓋をする。
両親たちは、今何をしているのだろうか。
僕が軍人になったことを知ったら何を思うのか、僕には想像することすらできなかった。
のどかな鳥のさえずりに、木々の間から差し込む柔らかな日差し。すっかり忘れてしまった清らかな空気に包まれ、僕は少し気分が悪くなって顔をしかめる。
車を走らせやってきたのは、家出するまで僕が過ごしていた街。ここは相も変わらず豊かな日常を送っているようで、人々の賑やかな声と活気のある表情が視界に飛び込んでくるたび、違う世界に来てしまったのかと錯覚する。
ガルガンタス家はこの辺りの土地を所有している。侯爵家とはいっても、隣国は古来より連合国で、彼らが闘うことなどない。名前だけの権威のそれは、ただ貴族社会で見栄を張るためにしか使えない。
お飾りだけの彼らの称号だが、軍に入った僕にとって、ふとそれは必然的なことだったのだと納得してしまった。
ひときわ広い土地に聳え立つ久しぶりに見た屋敷は、出て行った時と変わらずよく手入れされた植物たちに囲まれて、優雅に僕を迎えてくれた。
僕が車から降りると、庭の掃除をしていた従者の一人が幽霊を見たかのように飛び上がり、箒を放り出して家の中へと駆けて行った。
「卿! 大変です! 卿ー!!」
彼の叫び声を浴びながら、僕はちょうどいいと思い、開けておいてくれた玄関に手をかけ、数年ぶりに実家へと足を踏み入れる。
ばたばたと騒がしい音がするかと思えば、階段から髪を乱した母が下りてくる。ちょうどヘアセットをしていたところだったのだろう。部屋着というには優雅すぎるワンピースに身を包み、僕と目が合うと、母はわなわなと口を震わせ、出てこない言葉を探している。
「……ロチェスター」
そこに厳格な声が僕の視線を奪う。
現れたのは、青くなっている従者を背後に連れた父だ。
「……お久しぶりです」
表情を変えずに、僕は小さく頭を下げる。以前と変わらない怖い顔をした父は、少しだけ皺が出てきたように見える。それでもその威厳は変わらない。
僕が来ている庶民的な黒いコートをなめるようにみた父は、目配せをして僕を奥へと招き入れる。僕のコートを受け取ろうとする従者に断りを入れ、僕は自分の手にコートをかけた。
来客用の応接間で、僕はソファに座り、机を挟んで父と母が僕の方を見て座る。
「……いままで何をしていた」
父の声は軍隊の上官よりも低く、心臓まで響いてくる。彼が指揮を執ったら、さぞ皆が震えあがることだろう。
「ご迷惑をおかけし申し訳ありません」
僕は再び頭を下げた。眉をピクリとも動かさずに表情一つ変えない父とは違い、母は放心状態のまま僕の顔を食い入るように見ている。
記憶よりも顔色が良く見えるのは気のせいだろうか。とりあえず、平穏な生活は送れているようだ。
「誘拐犯が捕まったと、ニュースで見た。家に届いた手紙と同じ事件の犯人だ」
「……はい」
ぐっと、思わず膝に置いた手に力が入る。父は気づいているのだろう。僕がただ家出をしただけだということを。叱られるのは覚悟している。勘当だって当然だ。……いや、もうしているつもりかもしれないが。
「…………ロチェスター」
父がゆっくりと口を開く。
確かに以前に比べて怒号にもなれたし、自分がしたことの浅はかさも理解している。それでもやはり、親の雷が落ちるときには、それなりの心構えがいるものだ。
僕は目を伏せ、気まずさに顔をしかめる。
「……よく、戻ってきた」
「…………え?」
想定していなかった父の言葉に、僕は顔を上げて間の抜けた顔をする。今、何て言ったんだ?
「お帰り、ロシュ! ずっと待っていたんだから……!」
母の目に涙が浮かび、手に持ったハンカチでそれを拭っている。初めて見る母の嬉しそうな表情に、僕はすっかり戸惑ってしまった。
「お前のことは、知っていた」
「……は?」
父は後ろに控える従者をちらりと見ると、僕に視線を戻し、少し前のめりになる。
「お前が家を出てから、その行方をずっと探していたんだよ。そしてようやく見つけた時、お前はロチェスター・ジェファーソンとして軍に入隊していた。当然、軍は身元を調べるだろう? 私たちが知らないはずがない。気を遣って知らせてくれた友人がいてね……気は乗らなかったが、思うままにやらせてみることにした」
「…………」
まさかの回答に、僕は息をのんだ。
両親は僕のことを知っていたのだ。確かに、父の言っていることは正しい。がむしゃらだった当時には気がつかなかったことだが、まったくおかしな話ではない。
「この前のイズマル戦にも、お前は行ったのか?」
戦争とは無関係のこの地域でも、流石に戦況は把握しているみたいだ。僕は黙って頷く。
「そうか……。大変な惨状だったと聞く。策が上手くいったことだけが救いだな」
父の隣で、母がまた大粒の涙を流す。しゃくりをあげて、肩を震わせている。
「お前が無事で何よりだ。母さんも、気が気じゃなかったんだからな」
「……すみません」
また母が声をあげて泣く。僕はどうしていいかわからなくなって、目が回りそうな心境の中、立ち上がって母の隣に座り直した。その肩をさすると、母は僕の肩に顔をうずめる。
「母さん……ごめん……」
「いいの……っ! でも、でも……どうして軍人なんかに……!」
母は怒っているのだろうか。悲しんでいるだけなのだろうか。僕は申し訳なくなり、その細い身体を抱きしめた。
「でもまぁ……戦争も終わったことだ。今はロシュの無事を喜ぼうじゃないか」
「ええ。ええ、そうね……。本当に、心配したわ……!」
父が母の肩を叩くと、少し落ち着いた母は僕から離れて父に向かって微笑みかける。
「お前の兄たちは今出ているが、きっとお前の無事を喜ぶだろう」
「……はい」
本当にそうだろうか。
今、目の前にいる両親はともかく、兄たちも僕のこと、そんなに好きじゃなかった記憶だが。
僕は改めて向かいのソファに座り直し、紅茶を飲んでいる母を横目にコホンと咳払いをした父を見る。
「ところでロチェスター。お前は家に戻る気はないのか?」
「え?」
むしろ、戻ってきて欲しいと思うのか?
それでも父の顔に冗談の色は見えない。
「兄さんたちもいるし……僕はもう、必要ないだろ……?」
世継は十分足りている。そもそも、家出しなくともいずれは平民になっていた身だ。僕は眉をひそめて父の意図を読み取ろうと試みる。
「必要ない人間などいない。軍で鍛えられたお前は、粗暴な奴だと思われるかと思いきや、意外と需要があるんだ。特にラジタリアの軍人は品行方正だからな」
「……は? 需要?」
久しく貴族社会から離れていたから、僕にはその意味がよく分からなかった。
「そうだ。お前をぜひ婿にと、いくつかの声がかかっている。どれも名家ばかりだ。娘たちも皆、美しく慈愛に溢れ、教養のある素晴らしい人たちだ」
「……えっと……それって……」
ようやくその意味を掴めそうだった。思いがけない両親の態度にすっかり参っている僕は、動かない頭を必死で働かせる。
「ロシュ、お前、婚約しないか? そうすればまた、貴族社会に戻れるぞ」
「……え」
やっぱりそうだったか。
父の言葉に、僕は頭が真っ白になった。せっかく働かせた脳が鈍ってしまう。
「いや……僕は……」
動悸が止まらなくなる。なんとか冷静を装おうにも、乱雑に縫った心の傷が開いてしまいそうで集中できない。
「ねぇロシュ、どうかしら? もう十分、軍人としての経験は積めたと思うわ。ロシュも十分満足したんじゃないかしら?」
母の声は明るい。まさかではあるが、僕に戻ってきて欲しいのだろう。
だが僕の心が浮かぶはずがない。
確かに、きっと相手は素晴らしい娘たちなのだと思う。厳しい父がそこまで言うのであれば。彼女たちに非はないし、両親の善意であることも承知している。
それでも僕にはその申し出は受け入れがたい。
「……僕は、そんな資格はない」
「資格? 資格なんていらないわよ。ロシュ、あなた自己評価が低すぎるのよ?」
「いや、違う……そうじゃなくて」
僕は姿勢を正して、ぐっと両親を見据える。ピンとした背筋に、動揺していた心がしゃんとしたのが分かった。
「僕にはもう、愛する人がいますので」
凛とした迷いのない声が出た。自分でも驚くほどにはっきりとしていた。
母は目を丸くして、父もきょとんとしている。そんな顔、これまで見たことはないな。
「え……ロシュ、それって、どういうこと? もう婚約しているの?」
「……いいえ。そうではありませんが」
思わず目を伏せてしまう。何て言えばいいのだろう。彼女がもういないことを告げたら、きっと強引にでも縁談を持ち込んでくる。
「すみません……僕には、もうその人以外を愛することができません。それでは、相手を傷つけてしまう」
「ロシュ……」
息子の決意に、母は瞳を潤ませた。正直に話せないのが後ろめたかった。それでも、お互いのためにこれが一番なんだ。
「……分かった。ロチェスター」
父がゆっくりと頷いた。
「お前は、随分と逞しくなったものだな」
そう言って笑う父の眼差しは、思い上がりかもしれないけど、僕のことを誇らしそうに見てくれていた。
その後、帰ってきた兄とも少し話すことができて、久しぶりの家族の会話をした。
僕の軍人生活に興味があったようで、思いのほか兄弟の会話は弾んだ。
帰りの頃になると、両親も僕が軍に誓った忠誠を認めてくれていた。何よりも息子の願いが大事なのだと言ってくれた二人の柔らかな微笑みに、奇しくも僕はラモーナを思い出す。
そのせいなのか、感傷的になった僕は心を埋めるために街で花束を買った。車を走らせ、チェッタジリアに戻ろうとする僕は、途中で美しい夕陽の見える丘に寄った。
遠くに見えるのは僕の生まれ故郷だ。チェッタジリアまではまだ時間がかかる。
だからこの夕陽を瞳に収めておきたかったんだ。
「……ラモーナ、綺麗だろ?」
いるはずのない彼女に語り掛け、自嘲するように笑みを浮かべる。
手に握った花束の香りを嗅ぐと、あまりにも清楚で戦場では決して味わえない安らぎを与えてくれた。すると、最後に見た彼女の微笑みが僕の胸を焦がす。
ぽろぽろと、無意識のうちに涙をこぼしていた。
「ラモーナ、君が恋しいよ」
独り言を呟き、止まりそうにない涙を止めたくて左手で目元を覆った。それなのに、まったく言うことを聞かない涙腺に、僕は次第に声をあげて泣き出してしまう。
右手に持った花束は下を向き、膝を落として僕はその場に泣き崩れる。
ああ、どうしてなんだ。
ラモーナ、君を失う覚悟なんて、臆病で傲慢な僕にはあるはずがないだろう。
それに、イズマルで消えてしまった君は、その身に安寧を与えることすらできなかった。
誰もいない丘の上で、沈みゆく夕陽に照らされ一人泣き声を上げる僕のことを慰めるように、柔らかな風が懸命に生きる雑草を揺らす。
墓すらないなんて、それなら、この花をどこに贈ればいい。
花を供えて償いをしたくても、花を贈ることすら出来ない。
ああ違う。それもまた僕の我が儘なのか。
償いなんかではない。僕が、ただ君に会いたいだけなんだ。
花束を握りしめ、僕はそこで夕陽が完全に沈むまで堰を切ったように涙が枯れるまで泣き続けた。
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