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2話 油断
しおりを挟む午後の授業が終わりを告げると、類香は足早に教室を出る。今日はバイトもないし、最近改装された駅前のビルでも見て帰ろう。この後の予定を雑に組み立てた類香は肩にかけた鞄をぎゅっと握った。
しかし先を急ぐ類香の前に、線香花火ほどの熱を放つ二人の女子生徒が立ちはだかる。二人ともクラスは違うが学年は同じだ。ネクタイの色が同じだから、きっとそのはずだ。類香は曖昧な知識だけを頼りに鬱陶しそうに二人の顔を交互に見た。
「瀬名さん、ちょっと話があるんだけど」
凪のようなパーマをかけた髪の毛を二つ結びにしている一人が類香を見て眉をひそめる。
「何……?」
「ちょっとこっちに来てよ」
「ここじゃだめなの?」
類香はこの先の面倒そうな展開を察知し、きゅっと唇を噛んだ。
「ここは嫌」
しかしもう一人のサイドテールの女子生徒がぴしゃりと彼女の要望を跳ね除ける。
承知してくれると期待はしていなかったが、やはりだめだった。
どうにかこの場を去りたい類香は盾を探すために周りを見回す。今は授業が終わりたての放課後。三人が対峙する廊下には多くの生徒が行き交っていた。類香はため息を吐き、強い眼差しで二人を見る。
「ここで話して」
「はぁ? なんでよ」
「話を聞くのは私でしょう? 私の都合も考慮してよね」
「何を言ってるの? 本当、協調性がないよね」
二つ結びの生徒が呆れたように首を振った。その瞳は類香への軽蔑を隠さない。
「いいでしょう? 私に話を聞く義務なんてないもの」
類香はくすっと笑う。別に笑うつもりなどなかった。だが敵意丸出しの彼女の眼差しが可笑しかったのだ。類香はそのまま二人の睨みなど気にもせずに、自分たちの近くで立ち話をしている男子生徒をちらりと見た。三人で話している平均身長高めなそのグループは、類香のことを先程からちらちらと見ていたのだ。廊下の真ん中で面白そうなことが起こっているのだから、気にならないはずがない。
また彼らと同じく、類香が自分に向けられる注目に気がつかないはずもない。
密かにほくそ笑んだ類香は一度瞼を閉じた後で瞳を潤ませ、目の前の二人ではない誰かに話しかけるかのように甘えるような声を出した。いつも淡々と低い声を出す彼女の印象が瞬く間に色を変える。
「それとも、私のこと、どうにかするの?」
肉食動物に狙いを定められ足をくじいた小鹿のような類香の様子に、彼女たちの動向を観察していた男子生徒たちはひそひそと何かを話しだす。類香はちらりと横目で彼らを見やると、しゅん、と顔を落とした。
彼らは僅かな状況証拠だけで結論を導き出したようだ。三人のうちの二人が類香を同情するように他の二人の女子生徒を責めるような目で見る。
クリーム色のセーターを着た一人だけは、赤茶色の瞳を薄めて微かに首を傾げていた。
「何よ、またそうやって……」
サイドテールの生徒は男子生徒のチクチクとした視線を避けるように姿勢を変えると、目の前の類香の態度にいらいらした様子で彼女を睨みつける。
「おい」
すると、瞳を潤ませたままの類香の前に長い手が伸びてきた。二人の女子生徒から彼女を守るように、ついさっきまでこちらを見ていた男子生徒の一人が間に割って入ってきたのだ。今日は少し肌寒いというのにシャツ一枚だけで涼し気な格好の彼はむっとした声を出す。
「困ってるだろ。やめとけよ」
「ちょっと……! 邪魔しないでよ……!」
割って入ってきた男子生徒にすかさず二人は文句を言った。
「瀬名だってきっと急いでるんだよ」
「何? あんたには関係ないじゃない」
「関係なくても、そんな怖い顔してると気になるだろ。ここ廊下だし、空気悪くなる。そういうのやめろよ」
「正義面しちゃってさ……放っておいてよ!」
「放っておけるかよ」
三人が言い合っているのを類香はそっと男子生徒の後ろから覗き込む。まるでもう彼女はこの話し合いには関係ないと言ったような表情で。
冷静に状況を見直してみれば、どうやら二人の女子生徒は相当頭にきているようだ。類香にはそれが滑稽に見えた。
「もういい! 瀬名さん、また今度ね」
結局、邪魔をされ分が悪くなった二人は類香との対話を諦めたのか、腕を組んでその場を去って行った。去りゆく嵐を静かに見送っていた類香は庇ってくれた男子生徒がこちらを振り返るので、ハッとしたように意識を取り戻す。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
類香は男子生徒を見上げ、ついでにはにかんでみせる。
男子生徒は類香と目が合った途端、呼吸のリズムがほんの僅かに乱れていった。
「ふふふ。助かっちゃった」
その変化に気づいた類香は追い打ちをかけるように上目遣いでそう続けると、今度はにっこりと笑った。
「そ、そっか……良かった」
完全に標的となった男子生徒は、彼女の笑みに一気に耳を赤くして照れたように頭を掻く。
狙い通りの反応。何の面白みもない類香はその様子をにこにことした表情で見た後で、そのまま挨拶をして歩き出した。
貼り付けた笑顔を校舎を出るまで保っているだけで、次第に頬が引きつってくる。
頬の筋肉が痛み、類香は顔を横に振って深呼吸をした。ようやく解放される。毎日毎日、この瞬間を待ちわびているのだ。もうここを出たら無理に笑う必要もない。
類香が安堵の表情で門を出ようとしたとき、不意に背後からポンッと背中を叩かれた。
「類香ちゃん!」
教室で毎日振りまいている愛嬌たっぷりの笑顔。ほんわかとした声が銃声にすら聞こえる。
和乃だ。
彼女を認識した類香の表情が固まった。
「どうして……」
「一緒に帰ろう? 私、類香ちゃんともっとお話ししたいんだ」
まるでお化けを見たような反応をしているにもかかわらず、和乃は相変わらず無邪気に笑っている。
「なんで……? そんな必要ある?」
「あるよ!せっかく同じクラスなんだもん!」
戸惑う類香に、和乃はさも当然のことを話すようにあっさりと頷く。
「……あ! それとも、今日は用事があったりするかな?」
「ううん。駅ビル見ようと思っていたけど……」
「いいね! 私もみたいなぁ」
咄嗟の嘘がつけなかったことを後悔した。類香が我を取り戻した時、和乃の瞳はもう輝いていたからだ。
「ついて行ってもいいかな?」
「……勝手にして」
「じゃあ一緒に行こう!」
類香は隣で跳ねるように歩く和乃を見て思わず眉を下げた。
そんなに無邪気に笑われたら、今更一人で行きたいだなんて言い難い。
でも、私と一緒にいたら、だめなんだけどな。
声にならない願いだけが胸の鼓動に緊迫をもたらした。
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