手のひらのしかくい地球

冠つらら

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41 かじかむ

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 中庭に出ると、寒い今の時期は陽が出ているとはいえ流石に人が少なかった。
 だから私服を着ている人々の中では彼の服装はどうしても目立つ。
 白い光を反射させた背中がベンチの向こうに見え、俺は彼の名前を呼びながらついに駆け出す。

「風見先生! ちょっと、お話が……!」

 俺の声が聞こえたんだろう。先生は歩いていた足を止め、ポケットに手を入れたままこちらを振り返る。
 息を切らしながら先生の前で立ち止まると、彼は複雑な表情を弧を描いた口元に隠した。

「至くん。君も休憩?」

 わざとらしく穏やかな声でそう問いかけ、切羽詰まった俺の瞳を見た彼は滑らかに視線を流す。

「先生……っ! あの……っ! 突然、すみません……っ」

 まだ息が整わない。走ったせいじゃなくて、脈が乱れていくせいだ。これから聞くこと。彼が答えてくれるかは分からない。でも、少なくとも彼は何かを知っているはずだ。

「あの……彼女……、直音さん、は……?」

 彼女の名前が俺の口から出て行くと、先生はやっぱり、といった様子で微かにため息を吐く。

「……まぁ、遅かれ早かれ君には聞かれるだろうと思っていたけど」

 先生は空に視線を向けた後で、今度は真逆の地面を見やる。

「先生、俺……彼女と連絡が取れなくて……。メッセージを送っても、もう返事はないし……仕事だって言ってましたけど、そんなの、彼女は、それで無視するような人じゃない」
「ああ。そうかもしれないね。至くん」
「直音さんは、その……まだ、会うことはできるんですか?」
「…………会う、ね」

 伏せた目。落ちた声。先生がそこまで神妙な雰囲気を放っているところなんて見たことがない。嫌でも最悪の結末を思い描いてしまい、俺は正気を失いそうになる。
 ひんやりとしたバケモノが容赦なく骨を砕いていく。そんな感覚に覆い潰されそうだった。
 比喩でもなんでもなく、乾いた冷気が肺を締め付けるのだ。

 待ってくれ。

 まだそんな。

 そんな事実を突きつけないでくれ。

 覚悟なんて出来ていない。
 俺は、まだ彼女の声を聞きたいと願ってしまうんだ。

「風見先生! お願いします……っ! なにか、なにか知っていることを教えてください……!」

 大きく頭を下げて懇願する。みっともなくたっていい。どんなにかっこ悪く見えても、そんなのどうだっていい。見栄なんていらない。彼女の答えが聞けるなら、土下座だってなんだってする。

「至くん……」

 まだ信じていたい。
 彼女の声をまだ聞けるのだと。
 先生を困らせていることは分かっている。彼だってプロなのだから。
 でも、俺は頭を上げる気なんてなかった。
 どれくらい秒針が過ぎただろう。きっと思うより長くはない。
 俺の肩に先生の手が触れる。優しいその手は、緊張で凍えていた俺の心を慰めるように温かかった。

「本当は、内緒だよって言われてたんだ」

 先生に促されて俺は顔を上げる。

「でもやっぱり、君には教えるべきだろう。彼女も本当はまだ君に会いたいはず」
「……直音さん……まだ、会えますか……?」
「ああ」

 先生が頷く。その動きを視線が捉えると、途端に全身から力が抜けそうになった。でもすでに先生に迷惑をかけた手前、身に従うまま崩れるわけにはいかないからどうにか地面を踏み込む。

「彼女……どこに……」

 思ったよりも声に力が入らない。彼女に会える。この事実だけで、俺は奇跡を目の当たりにしたように錯覚していた。

「初橋さんは今、別の病院に入院している。ここに入院すればいいといったが。……彼女も強がりだね」

 先生はちらりと俺を見た後で、やれやれと首を横に振った。

「至くん。君には後悔を背負って欲しくないから教えたんだ。彼女はもう長くない。残された時間と、きっちりと向き合って、彼女との時を過ごして欲しい」

 ポケットから手を出した先生は張りのある声でしかと俺にそう伝える。

 もう長くない。

 先生に言われると、分かっていたつもりになっていた時よりも現実味が増して胸に迫って来る。
 それでも、その僅かな時間。俺は彼女に会うチャンスを得たんだ。

「先生。ありがとうございます」

 俺はもう一度彼に向かってしっかりとお辞儀をする。

「与えられた時間を、無駄にはしません」

 俺の目を見た先生は、微かに口角を緩めた後で踵を返して散歩へと戻る。
 直音さんは、敢えて別の病院に入院することを選んだらしい。
 その理由も、もうなんとなく分かってしまう。自惚れだとしても、彼女は俺と会うことを避けたかったのだろう。
 そんな彼女の意志を無下にしてしまうような気もした。
 だけどこの彼女のさいごの希望だけは守ることが難しそうだ。
 彼女の声が聞こえないまま希望を手放すことなんて、俺はしたくないから。



 最寄りの駅から六つ隣。普段たまにしか降りないこの駅を出ると、降り始めた雪のせいか真新しい街へ来た気分になった。

「きゃー! 寒い寒いだすなぁっ」

 今日は天気予報で雪が降るとは言っていたけど、夕方以降じゃなかったっけ。
 予定よりも早く降り始めた粉雪を被りながら、ちょこまかと駆けまわるエヤと冷静に雪を見上げているミケと共に目的地へと向かう。
 積もるほどにはならないはずのささやかな降雪。軽やかな粒が睫に引っ掛かっても払う気すら起きない。
 念のためにスマホで行く道が正しいかを再度確認する。
 ポケットから手が外に出れば、あっという間に指先が真っ赤になっていった。

「イタル。何かお土産買っていった方がいい? 差し入れって言うの?」

 ミケが地図を確認している俺を見上げて首を傾げた。

「そうだな……」
「お花? お花って飾っていいの?」
「いや。たぶん駄目だと思う。消耗品……飲み物とかのほうが向こうも気楽でいいかな」
「そっか。じゃあ温かいもの買おうね」
「ああ。そうしよう」

 ミケは正面に顔を戻して前ではしゃいでいるエヤに視線を移した。
 エヤのしっかり巻いたマフラーの隙間から白い霞が汽車のように舞っていく。

「エヤ、あんまりはしゃぎすぎると転んじゃうぞ」
「んふふふふ。カシノ! エヤをみくびっちゃだめだすよっ」

 忠告すら笑って受け流しながら、コンビニに着くまで彼女はひたすらに元気を振りまき続けた。
 差し入れがコンビニで買ったドリンクってのもなんか微妙かもしれない。けど、二人が真剣に何にしようか悩んでいる姿を見ると、買った場所なんてどうでもいいと思わなくもない。
 それに彼女はきっとそんなこと気にしない。
 まず差し入れとかそういうものに意識が向かうのかどうか……。

「カシノ! これがノトチャンにはいいと思うだす!」
「ん? はは……いいね。二人ともありがとう」

 エヤが満面の笑みで差し出してきたのはホットチョコレートだった。

「前にノトチャン、すごく嬉しそうに飲んでただすー」

 エヤのワクワクとした声を背後にドリンクを受け取りレジへと向かう。
 会計の間、俺も多分エヤと同じ光景を思い出していた。
 目的地まではあと少し。
 直音さんは、突然見舞いに来た俺たちのことを受け入れてくれるだろうか。
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