手のひらのしかくい地球

冠つらら

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34 みじゅくもの

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 エヤとミケが直音さんの病気のことを知ってからも、彼女たちは特に変わった様子もなく日常を過ごした。
 直音さんと会話をする機会があっても二人は見事に素知らぬふりを通した。
 彼女たちの態度に称賛を送りつつ、心のどこかでは爪がひっかく。

 確かに二人は人間じゃない。だけど、その小さな姿で秘密を守る様はどこか痛々しくて、気にしたくなくても気分が濁る。
 繰り返す光景が脳裏に焼き付き、開いた英文法の文字も頭に入ってこない。俺は鼻から深い息を吐いて机に肘をつき頭を支えた。

「イタル、頭痛いの?」

 隣で漫画を読んでいたミケは本を下げて俺を見やる。つぶらな瞳はいつ見ても深い。俺は頭を上げて心配をかけないように無理矢理口角を上げた。

「いいや平気だよ。なかなか英語が頭に染みつかなくてさ。ちょっと悲しくなってたところ」
「英語、覚えないとだめなの?」
「だめじゃないけど……知ってた方が、世界が広がるだろ?」
「ふぅん。……われはね、天界に戻ればどんな言語も分かるんだよ」
「すごいじゃないかミケ。俺にもそんな能力が欲しいな」
「イタルが欲しい能力は、そういうのなの?」
「……はは。欲張ったら神様に見放されない?」
「大丈夫。…………たぶんね」

 ミケは最後だけ言葉の責任を放り投げるようにして言い放つと、再び漫画の世界へと舞い戻る。

「たぶん、か。心許ないな」

 ミケの見解に若干の不安を覚えながら、俺ももう一度アルファベットの行列に挑もうと目を移す。すると。

「カシノ、パソコン使ってもいいだすか?」

 自分たちの部屋にこもっていたエヤがいつの間にか出てきていて、こそこそと声をかけてきた。

「いいけど……何するの?」
「現代はインターネットがあればなんでもできると聞いただす。だから、ちょっと探し物をするだす」
「探し物……? 何か失くした?」
「ちがうだすけども。……エヤじゃないだす」
「は?」

 エヤはちらりと目を逸らして両手を背中で組んだ。

「じゃあ何? 何か欲しいものがあるのか?」
「……うん。きっとカシノも欲しいものだす」
「え? なんだろう」

 エヤがやけに言葉を濁すので、集中力が途切れた俺の頭からはせっかく覚えた英単語がはみ出していった。
 ミケは漫画を読みながら黒目だけをエヤに向ける。

「お父さんだす」
「…………は?」

 何を言っているのか分からなくて、無駄に瞼が何度も開閉した。

「な、なんて……?」

 エヤはお父さんが欲しいのか? やっぱ俺じゃ頼りない? たぬきの塾の友だちに影響された?
 いやそうじゃない。落ち着け。そもそも俺は二人の父親代わりじゃないし、二人に親はいない。いても神様? あれ? そういや天界ってどうやって天使とかが生まれてくるんだ?

 突拍子もなさ過ぎた発言に、思考は完全に尾ひれをつけて回り始める。
 本題を見失う前に余計な考えを振り払い、エヤの真意だけに意識を向けることにした。

「お父さん? 誰の?」

 エヤはむんずと唇を結んでから大きく息を吸い込んだ。

「ノトチャンだす」
「…………え?」
「ノトチャンのお父さんが見つかれば、ノトチャンの病気は治るかもしれないだす」

 いつものひょうきんさを一切見せず、エヤは真に迫った表情で俺をぐっと見上げた。
 彼女の大きな瞳に心臓をぐしゃりと鷲掴みされたような緊張感が走り、途端に脈がギシギシと行き詰まる感覚に陥る。

「いや、でも……直音さんは……」
「ノトチャンはまだ生きていられるだす! お父さんを探して、エヤ、一生懸命頭を下げるだす! その人が頷くまで、エヤ、頭は絶対に上げないだす!」
「え、エヤ…………それは……」

 エヤはキリリと眉を上げて拳を握った。

「カシノ! ノトチャンに幸せになって欲しくないんだすか!? ノトチャンの幸せを、潰すんだすかっ!?」

 ごくりと喉仏が波を打つ。
 何も言えない。言いたいけど、上手く言葉が出て来ない。
 エヤの言っていることは間違っていない。直音さんはまだ生きている。可能性はゼロじゃない。
 彼女を知る前の俺だったら、きっとエヤと同じことをして警察に通報されることも厭わずにしつこく彼らにつきまとうだろう。

 だけどそれは、違う。
 正しいとされることが、いつも正しいとは限らない。
 俺は薄情者だ。エヤにはそう見えていることだろう。
 でもこれは、誰に何と思われてもいい。
 例え神様に見放されようとも、俺はその結果を受け入れよう。
 エヤの切実な表情は胸を切り裂く。全身がばらばらになってしまいそうだ。そんな悲しい目をしないで欲しい。
 悲しい想いをさせて、謝罪の言葉すら言えなくて。失望させて、ごめん。

「エヤ、俺は……」

 神経が肌から飛び出たくらいに空気が触れるだけでヒリヒリとする気がした。
 エヤは俺の言葉を真摯な眼差しで待っている。
 幸せを願うエヤ。天使である君には、俺の本心はお見通しなのか。
 恐る恐る口を開こうとした瞬間、違う声が俺を通り過ぎてエヤへと届く。

「だめだよ、エヤ。ノトの病気はもう治らない。治せないよ」

 淡々としたその残酷な言葉は、エヤの瞳を大きく揺らがせた。

「ど……っ、どうしてそんなことを言うだすか! ミケ! ミケはノトチャンが嫌いなんだすか!?」

 エヤの声が爆発したように大きくなる。
 ミケは漫画を膝の上に置くと、冷静な眼差しでエヤを見やった。

「嫌いじゃないよ。でもそれとこれは関係ない。ノトは病気なの。ほかのにんげんと同じように、ノトは死ぬ」
「…………! ミケ!!」

 エヤが力いっぱいに握った拳を振り下げてミケを怒鳴りつけた。

「そんなことないだす! だってまだ方法はあるんだすから! ノトチャンは、まだまだそんな必要なんてないだす!」
「必要とかじゃない。にんげんは死ぬんだから。これは変えられないでしょ」
「でも!」

 エヤは一度つばを飲み込んでからまた大きく息を吸う。

「お父さんを探せば……! エヤたちが幸せのお手伝いをできるだす……! エヤは……っ、ただ、ノトチャンを救いたいんだす……! もっと、もっともっともーっと笑っていて欲しいんだす!」

 エヤの頬に大粒の涙が流れていった。うぐうぐと息を荒げながら、エヤは表情一つ変えないミケをギラリと見つめた。

「ミケは悪魔だから……! だからそんなことを言うんだす……っ!」
「……! …………そうだよ。われは悪魔……だよ……」

 ミケは頭を下げてそう呟いた後に、ばっと顔を上げてエヤのことを真っ直ぐに見た。

「お父さんは探さない! エヤ、勝手なことばっかりしないで!」
「…………っうっ……うう……っ。どうして……どうしてだすか…………」

 ミケがぴしゃりと言い放つと、エヤは力を失いその場にへたりと崩れた。

「どうして……だめなんだすか…………」

 溢れ出てくる涙を両手で拭って、そのままエヤは顔を覆いながら項垂れていった。
 肩を震わせて泣きじゃくるエヤ。ミケは漫画を手にしたままスタスタと立ち去り、自分たちの部屋へと閉じこもった。

「ううっ……ミケのばか…………。エヤも……ばか……」

 エヤは泣きながら小さな声をこぼした。

「エヤ……」

 丸くなって涙を流し続けるエヤの姿が痛ましくて、二人の言い合いを止めることすらできなかった自分を叱責する。エヤの肩に触れると、彼女はわぁっと一段と大きな泣き声を上げて抱き着いてきた。

「ううううう……カシノ、エヤ、ばかだす……! ミケのこと、悪魔だからなんて言っちゃっただす……! エヤだって出来損ないのくせに……!」

 ミケは確かに悪魔だ。だけどそれを理由に罵倒のするようなことを言ってしまったと気にしているのだろう。
 エヤはわんわんと泣きながら自分を責め続けた。

「ノトチャンに幸せになって欲しいだけなのに……どうしてみんな、反対するだすか……っ」

 エヤの小さくて脆い背中を撫でながら、彼女の吐露に胸が限界まで締め付けられていく。
 もう酸素の通り道すら塞がれそうだ。
 エヤは悪くない。
 責められるべき人なんて、きっとどこにもいない。

「カシノ……カシノもノトチャンのこと、きらいなんだすか……?」

 その先の言葉を拒むように、エヤの背中で止まった指先が微かに跳ねた。

「…………そんなわけないだろ」
「うぅ…………っ」

 俺の返事にエヤはしゃっくりを上げる。静々と泣き続けるエヤ。徐々に彼女の呼吸は整っていき、泣き声も小さくなっていく。

「カシノ……」
「うん?」
「ミケ……怒ってるかな……?」
「…………どうかな」

 まだしゃっくりが出るエヤ。それをなだめようとして再び彼女の背中を撫でる。
部屋に消えていった後ろ姿を思い返す。でも悪魔の感情は俺には分からない。もちろん、この天使の心だって。
 けど確実に言えるのは、少なくとも俺より二人は互いの事情を知っているはずということ。

「大丈夫。きっとすぐに仲直りできるよ」
「うん…………」

 エヤは弱弱しい力で俺の服を握りしめ、落ち着いたように頷いた。
 彼女の背中を撫でる手を止めた頃には、エヤは泣き疲れて眠ってしまっていた。
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