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本日の目的地に着くなり早速駆け出してどこかに行ってしまいそうになったエヤ。その腕を人の波に消えてしまう前にどうにか捕まえる。
水族館だけではなく小さな遊園地も一緒になっている施設のため、やはり思っていたよりも人は多い。
エヤたちと同じくらいの背の子どもたちもたくさんいて、ミケはその子たちの賑やかな声に少し不安を覚えたのかそっと俺の足の後ろに隠れた。
たぬきの塾に通っているとはいえ、ここまで多くの子どもたちがいつも傍にいるわけではない。小学校にもしばらく通っていない二人にとっては今のこの状況は懐かしくも慣れない環境なのだろう。
「ミケちゃん」
若干足を引きずる形になってしまった俺を見て、足にくっついているミケに気がついた初橋さんがしゃがみこんでミケに笑いかける。
「私、人が多くてはぐれちゃいそう。一緒に歩いてもらってもいいかな?」
「…………うん」
初橋さんが差し出した手をミケは頷きながら握り返す。
「ありがとう、ミケちゃん」
「いいよ」
立ち上がった初橋さんと目が合うと、彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。きっとミケのことを気遣ってくれたのだ。でも手を繋ごう、と誘いかけるとミケが引け目を感じてしまうかもしれないから、彼女は自分のために手を繋いでほしいとお願いした。
「ありがとう」
声には出さずに初橋さんに感謝を伝える。彼女は読唇術で言葉を読み取り、「いいえ」と答えた。
施設の最寄り駅には水族館のポスターがたくさん貼ってあって、駅からは少し歩くけど迷うことなどないくらいに案内があちこちに書かれている。
しつこいほどの道案内も、リニューアル前にしか来たことがない俺にとってもありがたかった。
案内の矢印と人の流れに沿って十一分ほど歩くと、大きなアーチが訪れる人たちの頭上で迎える。
「着いただすー!」
エヤが軽くジャンプをすると、はぐれないように手を繋いでいた俺の腕も一緒になって上にあがっていく。
「カシノ! どこから行くだすかっ? エヤ、エイが見たいんだす!」
「エイ? またなんで」
「だって名前が似てるじゃないだすか! エヤのお仲間かもしれないだすっ」
「…………それはどうだろうな」
まだ入場券も買ってないのにはしゃぎだしたエヤから湧き出るうきうきオーラにはまだテンションがついていけないけど、でもやっぱり楽しそうにしてくれると自然と頬の力が緩んでいく。
「じゃあ入場券買ってくるから、初橋さんと待っててね」
「はーい!」
エヤから手を離し、心寧に教えてもらった割引クーポンをスマホの画面に表示させてからチケット売り場へと向かう。前売りを買っている人も多いから、窓口は案外スムーズに進んですぐにチケットを買うことが出来た。
ベンチに座って待っている三人のもとへ戻る途中、貼ってあったポスターの写真に視線が誘われる。
「…………花火、か」
この水族館では年中閉園前に花火を打ち上げているらしい。
それは別にいいんだけど、この真冬の寒空の下で待つとか結構しんどいだろうな。
そんなことを思いながら、戻ってくる俺に気づいた初橋さんに向かって買ったばかりのチケットを扇子のように広げて掲げて見せた。
ひとまずメイン施設である水族館へと入る。
水族館は照明の関係で少し薄暗い。だから俺は水槽の中を右往左往している生き物たちよりも、目の前であちこちの水槽に興味を示して動きが安定しないエヤとミケの動向にばかり気が向かってしまう。
水族館に来たことがない二人の鑑賞の邪魔はしたくないけど、やっぱ迷子になったりしたら面倒だしな……。
ちらりと初橋さんの方を見ると、ようやく喧騒に慣れてきたミケと一緒にマンボウの行く末を追っていた。
水槽から溢れる光源が暗くなったこちら側にいる彼女の顔を光の波で照らし、彼女の瞳を輝かせていた。
「カシノ! 見て見て! エイ! エイだす!」
ちらちらとした輝きを探していた俺を現実に引き戻すように、エヤの声が響き渡る。
エヤは目の前を泳ぐ大きなエイに目が釘付けになっているようで、どんどんと水槽へと身体が引き込まれていった。
「こら、エヤ、指紋がついちゃうだろ」
念願のエイと対面してべったりと水槽に顔を近づけるエヤを慌ててガラスから引き剥がす。
それでもエヤはただ感嘆の声を上げたまま水の生き物たちを目を揺るがせて見つめ続けていた。
「カシノ、不思議だすなぁ」
「? 何が?」
「だって、エイにも羽があるんだすもん」
「……羽?」
ヒレのこと?
エヤに言われて俺も思わずエイのことを目で追いかける。
「尻尾は、なんだかミケのお友だちみたいだすねっ」
確かに、細長い尾はまるでイラストとかで見る悪魔のイメージと似ているけど……。
エヤのうずうずとした感情が抑えきれていない表情を見やると、彼女はたいそう嬉しそうに唇で弧を描いた。
「やっぱり! エイはエヤたちのお仲間だすなっ!」
姿も形も生態も何もかも違うけど。
でも、確かに同じ時代に生きているってことは仲間だろうな。
エヤの思考に引っ張られた俺は妙な納得感に包まれる。
…………毒されすぎ?
誰かに頭の中を読まれたわけでもないのにちょっと恥ずかしくなった俺は小さく首を横に振る。
ああもう。エヤたちといると本当にペースが狂う。
「樫野さん、あの、ミケちゃんがイルカショーが見たいんですって。……行ってもいいでしょうか?」
腕を組んで気を取り直していた俺に対し、初橋さんがミケと手を繋いだまま尋ねてきた。
ハッとした俺は、すかさず腕を解く。
「はい。ぜひ行きましょう。エヤ、イルカショー見るか?」
「もっちろんだす!」
エヤはエイに手を振り名残惜しそうにお別れをすると、身体だけ二歩先に歩き始めた俺の後をそそくさとついてきた。
エヤがちゃんと隣に来たことを確認し、なんとなく水槽の向こうにいるエイに視線だけを向けてみる。すると雄大な姿をした彼は、まるで俺たちのことを見送るようにガラスのすぐそばまで寄ってから、華麗に天へと昇るように泳いでいった。
イルカショーが行われるシースタジアムへと入ると、既に半分以上の座席が埋まっていて、不自然に空いている前方の座席以外の中央部分はほとんど人が座っていた。
「ねぇカシノ! いっちばん前が空いてるだすよ!」
エヤは目ざとく前方の席を指差す。
「ショーの演出の都合で濡れるからね。皆そこは避けてるんだよ」
事前に調べた情報の通り、見事に水しぶきがかかってしまう三列目付近までは空席が目立つ。スタジアムは半分外だし、濡れたら普通に寒い。だから俺もそこは止めようかと他の空いている席を探す。
しかし。
「迫力ありそう。イタル、あそこでいいと思う」
「えっ? 一番前!?」
ミケが真顔のままエヤと同じ席を指差して俺を見上げてきた。
いや寒いよ。
俺はちらりと初橋さんに助けを求める視線を送る。
「私は一番前でも大丈夫です。樫野さん、あの、私がミケちゃんに付き添うので……」
いやいやいや、そんな言葉に甘えられるわけないだろう。
「じゃあ、あそこに座りましょう」
たぶん眉はハの字になっていたと思う。でも初橋さんだけに世話を押し付けるわけにもいかないし。
だけど、本当に容赦なく水がかかってくると思うけど大丈夫だろうか。
「あの、本当に大丈夫ですか? 洋服、濡れちゃいますけど……」
座席に向かって我先にと駆けて行くエヤとミケの後ろを追いかけながら、初橋さんに控えめに声をかける。
彼女はくすっと笑って振り返りながら微かに肩をすくめた。
「ふふ、せっかくだから、いいかなって」
「……すみません。あ、俺ビニールシート借りてきますよ」
遠くにスタッフの人を見つけた俺は、そういえば無料で水しぶきから身を守れるように借りられるビニールシートの存在を思い出す。
「えっ。そんな、私行ってきますよ……?」
「いえいえ。初橋さんは先に席に行っていてください。もうこうなったら、一番いい席で見てしまいましょう。他の人にとられないように、センター確保お願いしますね」
「……ふふ。はい! そうですねっ」
入口の方からまた一段と人の波が入ってきたのが見え、俺は初橋さんに席取りをお願いしてスタッフの人のもとへと早歩きで向かった。
八割ほど座席が埋まったところでショーの開始時間となった。
こちらも借りてきたビニールシートを膝の上に乗せて準備万端。イルカたちが目の前で盛大にジャンプをしようとこのシートで防いでやる。
ショーが始まった時、俺はそう意気込んでいた。
しかし実際にショーが始まると、イルカたちの俊敏な動きやド派手な技に魅せられてすべての水しぶきを受け止めきることはできなかった。
油断しているところで水が飛んでくるものだから、もう途中からは諦めの境地に入り、真冬だというのに水遊びをしたみたいに濡れてしまった。
「大丈夫ですか? 樫野さん」
ショーが終わると、俺よりは攻撃を免れていた初橋さんが心配そうな顔をしてこちらを見る。その横では、体格的にビニールシートでの防備の恩恵を俺たちよりも受けていたエヤとミケがイルカの真似をして手遊びをしていた。
「大丈夫です。そのうち渇くと思います」
多分ね。室内に居れば暖房で多少は渇くだろう。
前髪の先から雫がぽとりと落ちていくので、持っていたタオルで拭いていく。
初橋さんは近くを通ったスタッフの人にビニールシートを返し、雨上がりのように地面に溜まった水の跡を見下ろした。
やっぱり外気の中に居ると濡れた場所がちょっと寒いな。
タオルをしまっていると、襲ってきた寒気にふいに身体が震えを覚える。
「樫野さん」
すると、初橋さんの声と共にふわりと優しい肌触りの布が頬を通り過ぎて首元を包み込んでいく。同時に鼻通りの良い石鹸の香りが通り過ぎていった。
「これで温まってくださいね」
「……ありがとうございます。すみません、お借りしちゃって」
「いいえ。風邪ひいてしまったら、エヤちゃんたちも悲しみます」
「はは。そうですね。ありがとうございます」
首元にかけられたのは彼女が持っていたストールだった。
夜、寒くなるだろうと見越した彼女は鞄の中に入れて持ってきていたのだそう。
ストールのおかげか、少し寒気も落ち着いてきた。
「エヤ、ミケ、次はどこ行きたい?」
ありがたくストールで身体を包み込みながら、腕全体を使ってイルカのジャンプを再現していた二人に次の行き先を聞く。ショーの前に水族館の半分は見終わっていた。ここは広いから、他にもやりたいことはいっぱい出てくることだろう。
「イルカ、とってもかわいかっただす! ねぇカシノ、エヤたちもトレーナーさんたちみたいに皆と触れ合うことってできないんだすか?」
エヤは椅子に座ったままの体勢で顔だけこちらを覗き込んでくる。
「そういえば、ふれあいコーナーがありますよね。イルカは、いなかったと思いますけど……」
間に座っている初橋さんが施設のマップを頭に思い描いているのか、斜め上を見ながら呟く。
「ああ! 確かにありましたね! エヤ、イルカは無理だけど、他の子たちとならふれあえるかもよ」
「本当だすかっ!?」
「うん。行ってみる?」
「はいはい! 行きたいだす!」
「ミケは?」
「…………ヒトデ、触りたい」
「じゃあ決まりな」
身体に巻いていたストールを首元にかけ直し、勢いをつけて立ち上がる。
「よし! 少し身体も冷えたことだし、ふれあい広場まで早歩きで競争だ!」
「はーーーーっい!」
ショーの間ずっと座っていたエヤは、身体を動かしたくてうずうずしていたのだろう。俺の掛け声が言い終わらないうちに元気よく立ち上がり、腕を回して気合いを入れる。
「仕方ないからつきあう……」
ミケはそう言いながらも小さなガッツポーズをして闘争心を燃やしていた。
「それじゃあ初橋さん、審判お願いしますね」
「はい。大役ですね。しっかり努めます!」
「走るのは禁止だすよ! あ! あとカシノは背が高いから大股禁止だす! ノトチャン、厳しく見てやってくださいだす!」
「まったく……ルール違反しないってのに……手厳しいなぁ」
「ふふふふ。ズルは見逃しませんからね?」
「……初橋さんまで」
「イタル、信用がない」
横並びになったところでミケがぼそっと声をこぼした。
初橋さんはそんなミケの言葉にまたくす、くすと楽しそうに笑いながらも眉尻を下げて俺のことを気遣うように見る。
「がんばってください」
彼女の唇がそう動いた後で、応援するように両手の拳をチアリーダーたちがポンポンを持っているかの如く軽く揺らしてくれた。
俺が頷くと、初橋さんは見計らったようにスタートのサインを出す。
「れっつごー!」
俺が不意打ちに気づき出遅れた時には、エヤとミケは出来る限りの大股でせかせかと動き始めていた。
水族館だけではなく小さな遊園地も一緒になっている施設のため、やはり思っていたよりも人は多い。
エヤたちと同じくらいの背の子どもたちもたくさんいて、ミケはその子たちの賑やかな声に少し不安を覚えたのかそっと俺の足の後ろに隠れた。
たぬきの塾に通っているとはいえ、ここまで多くの子どもたちがいつも傍にいるわけではない。小学校にもしばらく通っていない二人にとっては今のこの状況は懐かしくも慣れない環境なのだろう。
「ミケちゃん」
若干足を引きずる形になってしまった俺を見て、足にくっついているミケに気がついた初橋さんがしゃがみこんでミケに笑いかける。
「私、人が多くてはぐれちゃいそう。一緒に歩いてもらってもいいかな?」
「…………うん」
初橋さんが差し出した手をミケは頷きながら握り返す。
「ありがとう、ミケちゃん」
「いいよ」
立ち上がった初橋さんと目が合うと、彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。きっとミケのことを気遣ってくれたのだ。でも手を繋ごう、と誘いかけるとミケが引け目を感じてしまうかもしれないから、彼女は自分のために手を繋いでほしいとお願いした。
「ありがとう」
声には出さずに初橋さんに感謝を伝える。彼女は読唇術で言葉を読み取り、「いいえ」と答えた。
施設の最寄り駅には水族館のポスターがたくさん貼ってあって、駅からは少し歩くけど迷うことなどないくらいに案内があちこちに書かれている。
しつこいほどの道案内も、リニューアル前にしか来たことがない俺にとってもありがたかった。
案内の矢印と人の流れに沿って十一分ほど歩くと、大きなアーチが訪れる人たちの頭上で迎える。
「着いただすー!」
エヤが軽くジャンプをすると、はぐれないように手を繋いでいた俺の腕も一緒になって上にあがっていく。
「カシノ! どこから行くだすかっ? エヤ、エイが見たいんだす!」
「エイ? またなんで」
「だって名前が似てるじゃないだすか! エヤのお仲間かもしれないだすっ」
「…………それはどうだろうな」
まだ入場券も買ってないのにはしゃぎだしたエヤから湧き出るうきうきオーラにはまだテンションがついていけないけど、でもやっぱり楽しそうにしてくれると自然と頬の力が緩んでいく。
「じゃあ入場券買ってくるから、初橋さんと待っててね」
「はーい!」
エヤから手を離し、心寧に教えてもらった割引クーポンをスマホの画面に表示させてからチケット売り場へと向かう。前売りを買っている人も多いから、窓口は案外スムーズに進んですぐにチケットを買うことが出来た。
ベンチに座って待っている三人のもとへ戻る途中、貼ってあったポスターの写真に視線が誘われる。
「…………花火、か」
この水族館では年中閉園前に花火を打ち上げているらしい。
それは別にいいんだけど、この真冬の寒空の下で待つとか結構しんどいだろうな。
そんなことを思いながら、戻ってくる俺に気づいた初橋さんに向かって買ったばかりのチケットを扇子のように広げて掲げて見せた。
ひとまずメイン施設である水族館へと入る。
水族館は照明の関係で少し薄暗い。だから俺は水槽の中を右往左往している生き物たちよりも、目の前であちこちの水槽に興味を示して動きが安定しないエヤとミケの動向にばかり気が向かってしまう。
水族館に来たことがない二人の鑑賞の邪魔はしたくないけど、やっぱ迷子になったりしたら面倒だしな……。
ちらりと初橋さんの方を見ると、ようやく喧騒に慣れてきたミケと一緒にマンボウの行く末を追っていた。
水槽から溢れる光源が暗くなったこちら側にいる彼女の顔を光の波で照らし、彼女の瞳を輝かせていた。
「カシノ! 見て見て! エイ! エイだす!」
ちらちらとした輝きを探していた俺を現実に引き戻すように、エヤの声が響き渡る。
エヤは目の前を泳ぐ大きなエイに目が釘付けになっているようで、どんどんと水槽へと身体が引き込まれていった。
「こら、エヤ、指紋がついちゃうだろ」
念願のエイと対面してべったりと水槽に顔を近づけるエヤを慌ててガラスから引き剥がす。
それでもエヤはただ感嘆の声を上げたまま水の生き物たちを目を揺るがせて見つめ続けていた。
「カシノ、不思議だすなぁ」
「? 何が?」
「だって、エイにも羽があるんだすもん」
「……羽?」
ヒレのこと?
エヤに言われて俺も思わずエイのことを目で追いかける。
「尻尾は、なんだかミケのお友だちみたいだすねっ」
確かに、細長い尾はまるでイラストとかで見る悪魔のイメージと似ているけど……。
エヤのうずうずとした感情が抑えきれていない表情を見やると、彼女はたいそう嬉しそうに唇で弧を描いた。
「やっぱり! エイはエヤたちのお仲間だすなっ!」
姿も形も生態も何もかも違うけど。
でも、確かに同じ時代に生きているってことは仲間だろうな。
エヤの思考に引っ張られた俺は妙な納得感に包まれる。
…………毒されすぎ?
誰かに頭の中を読まれたわけでもないのにちょっと恥ずかしくなった俺は小さく首を横に振る。
ああもう。エヤたちといると本当にペースが狂う。
「樫野さん、あの、ミケちゃんがイルカショーが見たいんですって。……行ってもいいでしょうか?」
腕を組んで気を取り直していた俺に対し、初橋さんがミケと手を繋いだまま尋ねてきた。
ハッとした俺は、すかさず腕を解く。
「はい。ぜひ行きましょう。エヤ、イルカショー見るか?」
「もっちろんだす!」
エヤはエイに手を振り名残惜しそうにお別れをすると、身体だけ二歩先に歩き始めた俺の後をそそくさとついてきた。
エヤがちゃんと隣に来たことを確認し、なんとなく水槽の向こうにいるエイに視線だけを向けてみる。すると雄大な姿をした彼は、まるで俺たちのことを見送るようにガラスのすぐそばまで寄ってから、華麗に天へと昇るように泳いでいった。
イルカショーが行われるシースタジアムへと入ると、既に半分以上の座席が埋まっていて、不自然に空いている前方の座席以外の中央部分はほとんど人が座っていた。
「ねぇカシノ! いっちばん前が空いてるだすよ!」
エヤは目ざとく前方の席を指差す。
「ショーの演出の都合で濡れるからね。皆そこは避けてるんだよ」
事前に調べた情報の通り、見事に水しぶきがかかってしまう三列目付近までは空席が目立つ。スタジアムは半分外だし、濡れたら普通に寒い。だから俺もそこは止めようかと他の空いている席を探す。
しかし。
「迫力ありそう。イタル、あそこでいいと思う」
「えっ? 一番前!?」
ミケが真顔のままエヤと同じ席を指差して俺を見上げてきた。
いや寒いよ。
俺はちらりと初橋さんに助けを求める視線を送る。
「私は一番前でも大丈夫です。樫野さん、あの、私がミケちゃんに付き添うので……」
いやいやいや、そんな言葉に甘えられるわけないだろう。
「じゃあ、あそこに座りましょう」
たぶん眉はハの字になっていたと思う。でも初橋さんだけに世話を押し付けるわけにもいかないし。
だけど、本当に容赦なく水がかかってくると思うけど大丈夫だろうか。
「あの、本当に大丈夫ですか? 洋服、濡れちゃいますけど……」
座席に向かって我先にと駆けて行くエヤとミケの後ろを追いかけながら、初橋さんに控えめに声をかける。
彼女はくすっと笑って振り返りながら微かに肩をすくめた。
「ふふ、せっかくだから、いいかなって」
「……すみません。あ、俺ビニールシート借りてきますよ」
遠くにスタッフの人を見つけた俺は、そういえば無料で水しぶきから身を守れるように借りられるビニールシートの存在を思い出す。
「えっ。そんな、私行ってきますよ……?」
「いえいえ。初橋さんは先に席に行っていてください。もうこうなったら、一番いい席で見てしまいましょう。他の人にとられないように、センター確保お願いしますね」
「……ふふ。はい! そうですねっ」
入口の方からまた一段と人の波が入ってきたのが見え、俺は初橋さんに席取りをお願いしてスタッフの人のもとへと早歩きで向かった。
八割ほど座席が埋まったところでショーの開始時間となった。
こちらも借りてきたビニールシートを膝の上に乗せて準備万端。イルカたちが目の前で盛大にジャンプをしようとこのシートで防いでやる。
ショーが始まった時、俺はそう意気込んでいた。
しかし実際にショーが始まると、イルカたちの俊敏な動きやド派手な技に魅せられてすべての水しぶきを受け止めきることはできなかった。
油断しているところで水が飛んでくるものだから、もう途中からは諦めの境地に入り、真冬だというのに水遊びをしたみたいに濡れてしまった。
「大丈夫ですか? 樫野さん」
ショーが終わると、俺よりは攻撃を免れていた初橋さんが心配そうな顔をしてこちらを見る。その横では、体格的にビニールシートでの防備の恩恵を俺たちよりも受けていたエヤとミケがイルカの真似をして手遊びをしていた。
「大丈夫です。そのうち渇くと思います」
多分ね。室内に居れば暖房で多少は渇くだろう。
前髪の先から雫がぽとりと落ちていくので、持っていたタオルで拭いていく。
初橋さんは近くを通ったスタッフの人にビニールシートを返し、雨上がりのように地面に溜まった水の跡を見下ろした。
やっぱり外気の中に居ると濡れた場所がちょっと寒いな。
タオルをしまっていると、襲ってきた寒気にふいに身体が震えを覚える。
「樫野さん」
すると、初橋さんの声と共にふわりと優しい肌触りの布が頬を通り過ぎて首元を包み込んでいく。同時に鼻通りの良い石鹸の香りが通り過ぎていった。
「これで温まってくださいね」
「……ありがとうございます。すみません、お借りしちゃって」
「いいえ。風邪ひいてしまったら、エヤちゃんたちも悲しみます」
「はは。そうですね。ありがとうございます」
首元にかけられたのは彼女が持っていたストールだった。
夜、寒くなるだろうと見越した彼女は鞄の中に入れて持ってきていたのだそう。
ストールのおかげか、少し寒気も落ち着いてきた。
「エヤ、ミケ、次はどこ行きたい?」
ありがたくストールで身体を包み込みながら、腕全体を使ってイルカのジャンプを再現していた二人に次の行き先を聞く。ショーの前に水族館の半分は見終わっていた。ここは広いから、他にもやりたいことはいっぱい出てくることだろう。
「イルカ、とってもかわいかっただす! ねぇカシノ、エヤたちもトレーナーさんたちみたいに皆と触れ合うことってできないんだすか?」
エヤは椅子に座ったままの体勢で顔だけこちらを覗き込んでくる。
「そういえば、ふれあいコーナーがありますよね。イルカは、いなかったと思いますけど……」
間に座っている初橋さんが施設のマップを頭に思い描いているのか、斜め上を見ながら呟く。
「ああ! 確かにありましたね! エヤ、イルカは無理だけど、他の子たちとならふれあえるかもよ」
「本当だすかっ!?」
「うん。行ってみる?」
「はいはい! 行きたいだす!」
「ミケは?」
「…………ヒトデ、触りたい」
「じゃあ決まりな」
身体に巻いていたストールを首元にかけ直し、勢いをつけて立ち上がる。
「よし! 少し身体も冷えたことだし、ふれあい広場まで早歩きで競争だ!」
「はーーーーっい!」
ショーの間ずっと座っていたエヤは、身体を動かしたくてうずうずしていたのだろう。俺の掛け声が言い終わらないうちに元気よく立ち上がり、腕を回して気合いを入れる。
「仕方ないからつきあう……」
ミケはそう言いながらも小さなガッツポーズをして闘争心を燃やしていた。
「それじゃあ初橋さん、審判お願いしますね」
「はい。大役ですね。しっかり努めます!」
「走るのは禁止だすよ! あ! あとカシノは背が高いから大股禁止だす! ノトチャン、厳しく見てやってくださいだす!」
「まったく……ルール違反しないってのに……手厳しいなぁ」
「ふふふふ。ズルは見逃しませんからね?」
「……初橋さんまで」
「イタル、信用がない」
横並びになったところでミケがぼそっと声をこぼした。
初橋さんはそんなミケの言葉にまたくす、くすと楽しそうに笑いながらも眉尻を下げて俺のことを気遣うように見る。
「がんばってください」
彼女の唇がそう動いた後で、応援するように両手の拳をチアリーダーたちがポンポンを持っているかの如く軽く揺らしてくれた。
俺が頷くと、初橋さんは見計らったようにスタートのサインを出す。
「れっつごー!」
俺が不意打ちに気づき出遅れた時には、エヤとミケは出来る限りの大股でせかせかと動き始めていた。
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