手のひらのしかくい地球

冠つらら

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17 とつげき

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 買い物が終わると、ゲームの話を中心として他愛もないことを話しながら駅まで歩いていく。さっき買ったチョコレートの話から初橋さんの会社の話も聞くことが出来た。
 どうやら彼女は前の部署ではなかなかにハードな日々を過ごしていたようだった。残業も当たり前で、終わらない業務が次々と積み重なり、地獄のようだったと彼女は懐かしそうに語る。
 けれど今は上司にも恵まれ、以前とは全く違う和やかだけど適度に忙しい部署で働いていると嬉しそうに話してくれた。
 普通の会社で働いたことのない俺は、友人たちから聞くのとはまた違う彼女の話が新鮮で、もっと彼女の話が聞きたいという欲が出てきた。でも駅まであと少し。話を聞けるのもあと五分くらいだけだ。名残惜しいけど、俺も夕飯の支度があるし……。

 ふと星を見上げる。
 エヤたちはもう帰ってるかな。
 意識したわけじゃないけど歩幅が狭くなっていた俺は二人のことを思い浮かべる。気をつけてはいるけど、万が一仕事が遅くなっても文句を言うことは少ない二人。だけど今日は残業したわけじゃない。私情であんまり遅く帰るとエヤたちもお腹を空かせて悲しむだろう。

「初橋さん」

 駅が見えてきたところで俺はいつの間にか少し後ろを歩いていた初橋さんを振り返る。

「あっ、はい……なんでしょう」

 微かに俯いていた初橋さんは慌ててぱっと顔を上げる。

「……大丈夫? 体調……あ、寒いから……。すみません、気が利かなくて……」

 もしや気分が悪いのではと、俺は咄嗟に暗がりで見にくい彼女の顔色を見ようと近くに寄った。

「だ、大丈夫ですっ! す、すみません……っ!」
「いえ……それなら、良かったですが」

 初橋さんは急いでにこっと笑うと、反射的に断りの言葉を口走る。確かに顔色は問題なさそうだけど、その焦りようが少し気になった。本当にこのまま一人で電車に乗せて問題ないだろうか。
 彼女の抱えている病気、あるいは怪我について俺は知らない。
 聞こうとしなかったから当然だが、彼女もそれを言おうとはしなかった。きっと言いたくないのだと思う。だからあまり踏み込めなくて、俺はその場で答えのない勝手な問答を続けた。

「あの、樫野さん……ちょっと、聞いても、いいですか……?」
「ん? なんでしょうか」

 二人の奇妙な沈黙に、初橋さんがおどおどと隙間をつくる。

「樫野さん、って……一人暮らし、です、か?」
「……え?」

 途端に緊張の糸が身体中に張り詰めていった。
 初橋さんには一人暮らしであることを既に話していた。なのになぜ今、そんなことを聞いてくるのか。
 もしや。
 握りしめたエコバッグを見やり、心を温めていた熱を含めて体温が一気に引いていった。

「買い物かご……あの、一人分、には、見えなくて……。その、ごめんなさいっ。こんなこと聞いて……。でも、もし、私、迷惑だったら……その……ゲームとか、お誘いするの控えた方が、いいかな、と……」

 初橋さんは自分のエコバッグを握りしめて、俺の目を見ることもなく視線を低いところで泳がせた。
 ……やっぱり。

 スーパーで買った材料はエヤたちの分も含めて三人分。でも、二人は子どもだから見ようによっては大人二人分。彼女は勘違いしている。今の俺にはあり得ない答えに辿り着いているはずだ。
 でも俺としても動揺してしまって適切な返答が思い浮かばない。
 それでも、今の俺にただ一つ言えること。
 自分がはっきりと彼女に伝えたいことなら分かる。

「迷惑じゃありません。初橋さん。俺、初橋さんとゲームするの、いつも楽しいです。初橋さんの方こそ迷惑じゃなければ、もっと一緒にやりたいくらい」
「……え?」
「……あ。すみません。いつも俺の方からログアウトしてるのに……」

 彼女の瞳が上に上がると、言葉とは裏腹な自分の行動のちぐはぐさを思い出して眉尻が下がった。

「えっと……そうですね……その……ゲーム、もっとやりたいんですけど、本当は」

 なんて言えばいいのか分からなくて言葉に詰まる。
 ああ情けない。初橋さんもきょとんとしちゃって、反応に困ってるじゃないか。
 ぐっとこぶしを握り締め、俺は下がった眉尻を上げて気を取り直す。

「俺は確かに一人暮らしです。なので周りに気にせずに全然ゲームはやりますし、ゲームのお誘いは全く迷惑じゃないです。ただ、今、少し、事情がありまして……」
「…………事情?」

 初橋さんは俺の目を見て小さな口を開いた。

「はい……その……」

 どうしたものか。
 彼女は真実を話すのを待っている。
 それなのに喉元まで来た覚悟がここに来て怯えだしている。
 近所の人みたいに、親戚の子を預かっていると言えばいいだけ。
 でもそんなこと言って彼女に信じてもらえるだろうか。
 この前のイベントで軽く触れたとはいえ、その子たちを無期限で預かっているなんて変な話だと思うだろうに。

 いや色んな事情がある人がいるし、彼女だって凝り固まった決めつけなんてしない人だとは思うけど……。
 でも、もし、万が一、彼女に嫌われたら……。

 …………嫌われたら?

 それがどうして怖いんだろう。
 あれ、どうしてだ? ……なんで、こんなに臆病になるんだ……?
 指先が震えているような錯覚がして、思わず指先を見やる。でも震えてない。どうして。なぜ……。

 あれ…………?

「樫野さん……?」

 口を閉じてしまった俺の耳に、月のような静かな声が届く。
 その声に誘われるようにして彼女と目を合わせると、真空の心にぽとりと雫が落ちた気がした。
 一秒もないその瞬間。
 風船が割れた時のような空間を駆け巡る音。まさにそんな声が反対側の道から飛んでくる。

「あーーーーっ! カシノだぁーっ!!」

 いきなり現実に戻された俺は慌てて振り返った。するとそこには小さな二人の姿がある。
 少し遠くの方から、こちらを指差して嬉しそうに手を振っていた。

「今帰りだすかー? カシノー!」
「エヤ、声が大きいよ」

 どったどったと駆けてくるエヤの後ろからはミケがプロのマラソン選手のような乱れのない動きで追いかける。

「カシノー! ただいまだすー!」
「まだ家じゃないよエヤ」
「んふふふふ。カシノとミケがいればそこが家だす!」
「…………じゃあ、ただいまイタル」

 両手を広げて走ってきたエヤは、俺の足に抱き着きながらミケにどや顔でそう言ってふにゃりと笑う。
 ミケは冷静に俺の顔を見上げてから目の前にいる初橋さんの方を見やる。
 二人とも朝と同じリュックを背負っているから、たぬきの塾の帰りのようだった。
 いや、待ってくれ、嘘だろ。

 まさかの展開に俺の思考は完全に仕事を放棄した。
 真っ白になった頭の中では、何もまともに考えられない。

 何よりもまず、今日帰るの遅くないか二人とも。暗いから危ないだろ。もっと早く帰りなさい。
 いやそうじゃなくて、え? じゃあなんだ?
 おまけに冷静さすら欠いてしまいそうだった。
 だけど驚きのあまり動けなくなってしまったから、喉も絞まって出る声もない。

「……え? ……この子たちは……。樫野さんの……えっと……」
「こ、子どもじゃないから……!」
「あっ」

 最初に出た言葉がそれとは、我ながら情けなさすぎる。初橋さんは目を丸くしたまま、開いた口がふさがらなくなっていた。
 エヤはそんな彼女の方までご丁寧に歩いていき、探検隊のようにピッと敬礼をする。

「はじめましてだす! 私はエヤ! こっちはミケ!」
「なんでいっつもエヤが先なの」
「えっとー……こっちはミケ! 私はエヤ!」
「再放送しなくていいから……」

 二人のやり取りに、思わず途方もないため息とともに言葉が出ていった。
 エヤは、んふんふ笑ったまま俺を見上げて頭を掻く。
 エヤたちの自己紹介には不思議な力でもあるのだろうか。心寧と同じく、訳が分からないままの初橋さんも自然と自己紹介を返す。

「……初橋、直音です。えっと、樫野さんの……」
「親戚の子です。前に話した……。諸事情があって預かっているんです」

 情報を補足して、寒いと言って足にくっついてくるミケに離れるように伝える。

「あっ! この子たちが……! そうだったんですね!」

 初橋さんは手を叩いて納得したように声のボリュームを上げた。

「預かっていたんですね! すみません、知らなくて……余計なことを……っ!」

 そして恥ずかしそうに耳を赤らめて頭を下げた。

「いえいえいえ! 俺の方こそ何も言わなくて申し訳ないです! 気を遣わせてしまってすみません!」

 俺も慌てて頭を下げる。

「なんで謝ってるだすか? 二人……」
「分かんない。赤べこみたいでおもしろい」

 エヤとミケの呑気な声が聞こえてくると、同時に顔を上げた俺と初橋さんは思わず吹き出してしまった。

「ふふふふっ。はじめて会った時みたい……。ふふ、たしかに、おかしいですね」
「そうですね……ははは、悪い癖かなぁ?」

 顔を見合わせて、なんだか互いに気恥ずかしくなる。だけど初橋さんの表情がすっきりして見えるし、俺としても胸のつかえが取れた気がする。真実を言えないとはいえ、言ってしまうとこんなに気が軽くなるものなのか。
 お気楽な様子で首を傾げている二人の乱入に今は感謝しなければならない。あのチョコレートは二人のものだな。

「ねぇねぇ、ノト、って、ノート?」

 ミケが初橋さんの顔をじーっと見た後で俺に確認してくる。

「うん。そうだよ。ゲームのNOTEさん。初橋さん、この子もたまにゲームをしてるんです。装備も、ミケが勝手に変えてて……」
「そうなんですか! なるほどです! ミケちゃん、すごくセンスがいいんですね」

 初橋さんは体を屈めてミケに笑いかけた。ちょうどそうするとミケの髪も良く見えるのだろう。ミケのつけているヘアゴムに気づき、彼女は嬉しそうに目を細めた。

「ありがと、ノト。ノトのキャラクターも、かわいくてすき」
「ふふふ。ありがとう、ミケちゃん」
「ミケ、よく初橋さんのこと分かったな」
「わかるよ。ノト、ノート。同じだもん」
「ふふっ。そうだね。安直すぎたかなぁ」

 初橋さんはミケがこくりと頷くのを見て、また朗らかに笑った。
 ミケと初橋さんが和やかに話すのを横目に、エヤが俺の腕を引っ張る。

「カシノ、この前イベントに行ったお相手だすか?」
「……そうだけど、それがどうかした?」
「どうかするだす。エヤもカシノのお友だちと遊びたいだす」
「はぁ? なんでそうなる」
「修行のためだす」

 それを言われると何も言い返せないのはずるい。
 俺が口ごもると、エヤは満面の笑みで両手を上げて初橋さんの傍まで駆け寄っていく。

「ねぇ! ノトチャン! エヤたちと一緒にお出かけしないだすかっ?」
「え? お出かけ……?」
「はいだす! エヤもノトチャンとお友だちになりたいだす!」

 ぽかんとする初橋さんは、エヤを見ていた瞳をそのまま俺に向けた。

「……もし、初橋さんが良ければ……。この子たちも、人が多い方が退屈しないだろうし」
「…………そっか……そう、ですね」

 初橋さんはエヤとミケの顔を交互に見て何かをひらめいたように真剣な様子で頷く。
 もしかして深刻な事情を想定させてしまっただろうか。子どもを預かるなんて、あんまり理由が思いつかないもんな。いや俺たちはそういうのじゃないけど。
 彼女の凛とした使命感に満ちた眼差しに、俺はまた身を縮める。

「うん。エヤちゃん、ミケちゃん。ぜひ一緒にお出かけしたいです」
「ほんとだすかっ!? やったぁー!」
「わーい」

 ミケも小さく両手を上げて万歳する。ミケがそんなことをするのは珍しい。
 もしかしたら本当に、二人にとっては良い刺激になるかも。

「申し訳ないです、初橋さん。ありがとうございます」
「いいえっ。樫野さん、もし大変なこととかありましたら言ってください。何か協力できるかもしれませんので。……頼りないかも、ですが……」
「そんなっ! すごく頼もしいです!」
「ふふふ……っ。あ、それじゃあ、私はそろそろ帰りますね」
「はい。バタバタしてしまって……時間、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です。……あ、今日、ゲームできそうですか?」
「もちろんです」
「そうしたら、また後で……」
「はい。気を付けて帰ってくださいね」

 エヤとミケに手を振り返し、初橋さんは駅へと向かって歩いていった。
 こちらも家に帰ろう。
 三人で歩き出し、ふと先ほどのミケの珍しい反応の理由が気になってきた。
 だから前を歩く二人の小さな背中に声をかけてみる。

「……ミケ」
「なぁに?」
「初橋さんと遊ぶの楽しみ?」
「うん。だってゲーム、イタルより上手だし。いろいろ話したい」
「…………そっか」

 ちょっと寂しいけど、的を得ている。
 しかしながら、うまいこと二人がきっかけをつくっていくものだ。
 一段と気温が下がってきた空の下でうっすらと白い息が浮かび上がる。

 寒い。

 寒いけど、寒くない。

 それにしても、今度はどこに行こうか。
 先に見える約束が蝋燭となって灯をともし続け、体温が温まっていくのは気のせいだろうか。
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