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12 かくしごと
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ルートゥが預かっていた魔獣が無事に飼い主のもとへと戻り、ペトラの朝にようやく平穏な時間が訪れた。
ペトラは久しぶりにサンドウィッチを作れることにちょっとした興奮を覚え、気分が高まったままキッチンへと向かう。
(今日は何をサンドしようかなぁ)
それを考えるのが至福の時だった。
ペトラは家にある食材に一通り目を通し、ふむ、と考える。
(やっぱりポテトサラダにしようかな……)
まだ何者でもない余白だらけのパンを見下ろしたペトラ。彼女の脳裏には、ふとあの笑顔が蘇ってくる。
「……………」
またしばらく考え込む。
ちらりとパンから目線を右に逸らすと、そこにはルートゥが買ってきたグレープが置いてある。
「…………よし!」
ようやく本日のメニューを心に決めたペトラは、意気揚々とエプロンを締めた。
**
ひょこっと顔を覗かせたのは、もはやおなじみとなった補佐部隊のフロア。
ペトラは慣れた様子でラドミールのチームがいるエリアに目を移し、彼がまだそこにいることを確認する。
「人事ちゃん!」
「ぎゃぁあっ!」
陽気な声に誘われ、ペトラは思わず悲鳴を上げる。
当たり前のようにそこにいたのは女神だった。以前にもこんなことがあったことを思い出し、ペトラは疲れた様子で彼女を見上げた。
「ラドミールに用事でしょ?」
「は、はい……そうです……」
「ふふっ」
「な、なんですか……?」
ペトラは小首を傾げつつ、彼女が何を考えているのかを察して耳を赤くする。
「だからっ! 違いますからね? これは、人事部として……!」
「はいはい。分かってますから。いいから早く行きなよ。最近のラドミールはちゃんとお昼もとってるから、他の誰かに先に誘われちゃうよ?」
「えっ!?」
ペトラは勢いよくラドミールの方に顔を向ける。
するとちょうど他のチームの女性たちがラドミールに声をかけようとしているところが見えた。
「ああっ!」
ラドミールが空中像を消したところを見て、ペトラは大急ぎで彼のもとへと駆けて行く。
「ペトラさん? あれ? どうしたの?」
素早く飛び込んできたペトラに気づいたラドミールは、息を荒げている彼女のことを見てきょとんとした。
「あ、あの……はぁ……ら、ランチ……どう? かな?」
「え?」
「コホン。サンドウィッチ、新作作ったので、一緒に食べませんか?」
「えっ!? いいんですか!?」
ペトラのお誘いに、ラドミールはガタッと立ち上がる。ペトラは上にいった彼の顔を見上げて、そのキラキラと輝く嬉しそうな笑顔を見てほっとしたように表情を崩す。
「うん。ぜひ食べて欲しい!」
********
前回と同じように、庭のベンチに座ってサンドウィッチを頬張る。
フルーツとクリームを挟んだ甘い香りが鼻を通って食欲を呼び覚まし、ラドミールは柔らかな食感に幸福を実感する。
風に乗って運ばれてくるのは、手元から香るのとはまた違った甘い香り。
微かに髪を揺らしたバニラの香りは、風と共に二人の間を巡っていく。
「ペトラさんのサンドウィッチは絶品ですね」
素直な感想を告げると、隣でサンドウィッチを食べているペトラは照れくさそうにはにかむ。ラドミールが以前も思ったことではあるが、やはり彼女は褒められることに慣れていないようだ。それでも嬉しそうなその表情が彼女の気持ちを伝えてくれる。
時折挟むのは最近終わった遠征の話。ラドミールはまだ遠征に同行したことはないが、いつかは行ってみたいと思っている。
そのことを語ると、ほんわかとしていた彼女の頬がほんの少しの不安を宿して強張ってしまう。
ラドミールはその意味を知っていた。
遠征は騎士の仕事の中でもかなりハードな部類に入る。それに同行するのだから、当然補佐部隊の負担も多い。
ペトラのハラハラとした表情に柔らかに笑いかけ、遠征は噂に聞くよりも自由なのだとラドミールは補佐部隊だけの秘密を話す。
確かに常に騎士たちと一緒で気も張るし、油断などはできない。しかし騎士たちだって気さくな人間が多く、皆、好きなように仕事に取り組んでいる。
遠征は、上役の監視もないある意味でのびのびとできる環境になるためだ。
だから補佐部隊も昼寝だってするし、騎士たちと一緒に遊んだりもする。
皆が思うよりも、旅行みたいな感覚で楽しめてしまうものなのだ。
その事実を知ったペトラの表情に安堵が戻り、ラドミールは目元を綻ばせる。
「あ、そうだラドミールさん。魔力の調子はどう? 順調?」
ペトラが思い出したようにこちらを向く。
「はい。調子いいですよ。この前騎士に魔力のことを聞かれて、戻ったら騎士にならないかって言われたんだけど、俺はしばらく補佐部にいますって答えました」
「そうなんですか?」
「はい。確かに騎士もいいけど。俺は今の仕事が気に入っちゃって」
「ふふふ。なるほど」
ペトラは女神と大男のことを思い浮かべたのだろう。納得したように頷く。
「ラドミールさんの魔力が戻ったら、一回どんなものか見てみたいなぁ」
「ははっ。そんな大層なものじゃないですよ」
「えー。でも、魔法管理局にいたんでしょう? 強大な魔力を間近で見る機会は少ないからなぁ……」
「期待に応えられるか不安ですね」
「あはははっ。大丈夫大丈夫! どんな魔法も私のものよりずーっと強力だから!」
ペトラはそう言ってサンドウィッチにかぶりついた。
ラドミールは自虐する彼女のことを見て微かに唇を和らげるも、心を優しく絆してくるバニラの香りに意識を傾ける。
瞼を閉じ、ラドミールはその香りに心を浸らせた。
ラドミールはこの香りの正体を知っている。
魔力が弱いことにコンプレックスを抱いているペトラ。この香りは、そんな彼女の髪から香る彼女の魔法だった。
シエナのキャンディのように、感情を意識的にコントロールするなどといった、そんな壮大な魔法でもない。
彼女の魔法は、ただ彼女の気分に共鳴して甘い香りを放つのだ。
しかもそれはどんな感情にも対応しているわけではない。
彼女の気分が高揚した時。楽しかったり、嬉しかったり、幸せに思える時に髪は甘い香りを揺らす。
ペトラはこの自分の魔法があまり好きではなかった。他の微弱な魔法と比べても他者にとって何の役にも立たないからだ。自分の魔法に期待などしていない彼女は物心つくころにはそう感じていた。
幸いにも、魔力の弱いものが持つ特異魔法はあまり有名になることはない。だからペトラのこの香りの秘密を知る者は家族と専門家くらいなものだ。シエナにすら恥ずかしくて打ち明けたことはない。
だからこそペトラは、時折自分の髪から甘い香りがしようと気にもしていなかった。だって誰も分からないのだから気にする必要がない。
だがペトラのそんな考えは少し間違っていたようだ。
今、彼女の隣でサンドウィッチを食べている青年、ラドミール・ヴィーカは、魔法管理局で数多くの魔法に触れてきた。
おまけに彼は調べ物が好きで、管理局にいるときは暇があれば世にある魔法のすべてを調べていた変わり者だ。
ラドミールは瞼を開け、にこにこしながらサンドウィッチを頬張るペトラを横目で見やる。
自分がこの魔法に気づいていることを彼女は知らないだろう。
ひとさじの罪悪感を胸に抱きながらも、ラドミールは青い空を見上げる。
(…………まぁ、まだ、いいかなぁ)
手に持っていたサンドウィッチの欠片をすべて口に放り込み、ラドミールはグレープとクリームが混ざり合う芳醇な味で口内を満たす。
すると空間を包み込む心地の良い香りと混じり合い、陽だまりが大きく見えた気がした。
隣ではちらちらとペトラが時計に目を向けている。
ラドミールは彼女がそろそろ終わりを迎える昼休みの時間を気にしているのだと察した。
「ペトラさん」
「うん? どうしました? ラドミールさん」
ラドミールが声をかけると、時計から目をパッと離してにこりと笑うペトラ。ラドミールは彼女が動くたびに香るバニラに頬を緩ませ、ふふ、といたずらに笑う。
「ちょっとだけ、居眠りしますね」
「えっ?」
ラドミールの突飛な発言に、ペトラの手に持っていたサンドウィッチが膝にぽとりと落ちる。
「天気がいいから、すごく気持ちが良くて……ふぁ、なんだか眠くなっちゃいますよね」
「えっ……で、でも……いいんですか……?」
ペトラはサンドウィッチを落としたことも気にせずにもう一度時計を見やる。
「はい。あと少しだけ」
「……わ、分かりました」
ラドミールはベンチに頭を預け、そっと瞼を閉じた。ペトラはその横顔を少し戸惑いながら見つめ、穏やかにそよぐ風に髪を揺らす。幸福な香りが彼の心をほかほかと包み込み、自然と意識はまどろんでいく。
時計の秒針は、ちょうど昼休みの終わりを告げた。
ペトラは落としたサンドウィッチを拾いながら、そーっとラドミールの寝顔を窺った。
すやすやと、微かに彼の寝息が聞こえてくる。
(本当に寝ちゃった…………)
残ったサンドウィッチを食べながら、ペトラは彼の静かな寝顔をじっと観察する。
瞼を閉じていると、彼の輝きに満ちた瞳が隠されてしまう。表情筋が豊かな彼。常に動き回る表情に気を取られ、起きている時には分からない彼の洗練された輪郭からは、築き上げた落ち着いた気配だけがその場を漂う。
(…………まだまだ、きっとお疲れだよね)
マシになったとはいえ、彼の余命を伸ばす作戦はまだ達成されたとは言えない。
ペトラは本部の建物を見やり、もうしばらく彼を起こさないことを自分に許した。
ラドミールの方に視線を移し、ペトラは無意識に柔らかな笑みを浮かべる。
(とりあえず……昼休み延長作戦は効果あるかもしれないね)
ペトラはようやく上手くいった自分の策に自信をつけ、空になったランチバッグをゆっくり片付ける。
夢か現か。
ラドミールはまどろむ意識の中で、すぐそばにある甘い香りがふわりと舞い上がるのを感じた。
仕事をさぼってしまうという本来なら叩いてでも起こされそうな状況の中、彼女はそれを望んでいる。ラドミールはもうとっくに彼女の目論見を悟っていた。
彼女の目的は知っている。
けれどラドミールはそんな彼女の意図からは外れたところから、意識することもなく自然に仕事との向き合い方が変わっていった。
なのに肝心の彼女はまだ気がついていないようだ。
ラドミールは夢の中であどけなく笑う。
何よりも効果的なのは、ペトラさん、貴女の存在だというのに。
ペトラは久しぶりにサンドウィッチを作れることにちょっとした興奮を覚え、気分が高まったままキッチンへと向かう。
(今日は何をサンドしようかなぁ)
それを考えるのが至福の時だった。
ペトラは家にある食材に一通り目を通し、ふむ、と考える。
(やっぱりポテトサラダにしようかな……)
まだ何者でもない余白だらけのパンを見下ろしたペトラ。彼女の脳裏には、ふとあの笑顔が蘇ってくる。
「……………」
またしばらく考え込む。
ちらりとパンから目線を右に逸らすと、そこにはルートゥが買ってきたグレープが置いてある。
「…………よし!」
ようやく本日のメニューを心に決めたペトラは、意気揚々とエプロンを締めた。
**
ひょこっと顔を覗かせたのは、もはやおなじみとなった補佐部隊のフロア。
ペトラは慣れた様子でラドミールのチームがいるエリアに目を移し、彼がまだそこにいることを確認する。
「人事ちゃん!」
「ぎゃぁあっ!」
陽気な声に誘われ、ペトラは思わず悲鳴を上げる。
当たり前のようにそこにいたのは女神だった。以前にもこんなことがあったことを思い出し、ペトラは疲れた様子で彼女を見上げた。
「ラドミールに用事でしょ?」
「は、はい……そうです……」
「ふふっ」
「な、なんですか……?」
ペトラは小首を傾げつつ、彼女が何を考えているのかを察して耳を赤くする。
「だからっ! 違いますからね? これは、人事部として……!」
「はいはい。分かってますから。いいから早く行きなよ。最近のラドミールはちゃんとお昼もとってるから、他の誰かに先に誘われちゃうよ?」
「えっ!?」
ペトラは勢いよくラドミールの方に顔を向ける。
するとちょうど他のチームの女性たちがラドミールに声をかけようとしているところが見えた。
「ああっ!」
ラドミールが空中像を消したところを見て、ペトラは大急ぎで彼のもとへと駆けて行く。
「ペトラさん? あれ? どうしたの?」
素早く飛び込んできたペトラに気づいたラドミールは、息を荒げている彼女のことを見てきょとんとした。
「あ、あの……はぁ……ら、ランチ……どう? かな?」
「え?」
「コホン。サンドウィッチ、新作作ったので、一緒に食べませんか?」
「えっ!? いいんですか!?」
ペトラのお誘いに、ラドミールはガタッと立ち上がる。ペトラは上にいった彼の顔を見上げて、そのキラキラと輝く嬉しそうな笑顔を見てほっとしたように表情を崩す。
「うん。ぜひ食べて欲しい!」
********
前回と同じように、庭のベンチに座ってサンドウィッチを頬張る。
フルーツとクリームを挟んだ甘い香りが鼻を通って食欲を呼び覚まし、ラドミールは柔らかな食感に幸福を実感する。
風に乗って運ばれてくるのは、手元から香るのとはまた違った甘い香り。
微かに髪を揺らしたバニラの香りは、風と共に二人の間を巡っていく。
「ペトラさんのサンドウィッチは絶品ですね」
素直な感想を告げると、隣でサンドウィッチを食べているペトラは照れくさそうにはにかむ。ラドミールが以前も思ったことではあるが、やはり彼女は褒められることに慣れていないようだ。それでも嬉しそうなその表情が彼女の気持ちを伝えてくれる。
時折挟むのは最近終わった遠征の話。ラドミールはまだ遠征に同行したことはないが、いつかは行ってみたいと思っている。
そのことを語ると、ほんわかとしていた彼女の頬がほんの少しの不安を宿して強張ってしまう。
ラドミールはその意味を知っていた。
遠征は騎士の仕事の中でもかなりハードな部類に入る。それに同行するのだから、当然補佐部隊の負担も多い。
ペトラのハラハラとした表情に柔らかに笑いかけ、遠征は噂に聞くよりも自由なのだとラドミールは補佐部隊だけの秘密を話す。
確かに常に騎士たちと一緒で気も張るし、油断などはできない。しかし騎士たちだって気さくな人間が多く、皆、好きなように仕事に取り組んでいる。
遠征は、上役の監視もないある意味でのびのびとできる環境になるためだ。
だから補佐部隊も昼寝だってするし、騎士たちと一緒に遊んだりもする。
皆が思うよりも、旅行みたいな感覚で楽しめてしまうものなのだ。
その事実を知ったペトラの表情に安堵が戻り、ラドミールは目元を綻ばせる。
「あ、そうだラドミールさん。魔力の調子はどう? 順調?」
ペトラが思い出したようにこちらを向く。
「はい。調子いいですよ。この前騎士に魔力のことを聞かれて、戻ったら騎士にならないかって言われたんだけど、俺はしばらく補佐部にいますって答えました」
「そうなんですか?」
「はい。確かに騎士もいいけど。俺は今の仕事が気に入っちゃって」
「ふふふ。なるほど」
ペトラは女神と大男のことを思い浮かべたのだろう。納得したように頷く。
「ラドミールさんの魔力が戻ったら、一回どんなものか見てみたいなぁ」
「ははっ。そんな大層なものじゃないですよ」
「えー。でも、魔法管理局にいたんでしょう? 強大な魔力を間近で見る機会は少ないからなぁ……」
「期待に応えられるか不安ですね」
「あはははっ。大丈夫大丈夫! どんな魔法も私のものよりずーっと強力だから!」
ペトラはそう言ってサンドウィッチにかぶりついた。
ラドミールは自虐する彼女のことを見て微かに唇を和らげるも、心を優しく絆してくるバニラの香りに意識を傾ける。
瞼を閉じ、ラドミールはその香りに心を浸らせた。
ラドミールはこの香りの正体を知っている。
魔力が弱いことにコンプレックスを抱いているペトラ。この香りは、そんな彼女の髪から香る彼女の魔法だった。
シエナのキャンディのように、感情を意識的にコントロールするなどといった、そんな壮大な魔法でもない。
彼女の魔法は、ただ彼女の気分に共鳴して甘い香りを放つのだ。
しかもそれはどんな感情にも対応しているわけではない。
彼女の気分が高揚した時。楽しかったり、嬉しかったり、幸せに思える時に髪は甘い香りを揺らす。
ペトラはこの自分の魔法があまり好きではなかった。他の微弱な魔法と比べても他者にとって何の役にも立たないからだ。自分の魔法に期待などしていない彼女は物心つくころにはそう感じていた。
幸いにも、魔力の弱いものが持つ特異魔法はあまり有名になることはない。だからペトラのこの香りの秘密を知る者は家族と専門家くらいなものだ。シエナにすら恥ずかしくて打ち明けたことはない。
だからこそペトラは、時折自分の髪から甘い香りがしようと気にもしていなかった。だって誰も分からないのだから気にする必要がない。
だがペトラのそんな考えは少し間違っていたようだ。
今、彼女の隣でサンドウィッチを食べている青年、ラドミール・ヴィーカは、魔法管理局で数多くの魔法に触れてきた。
おまけに彼は調べ物が好きで、管理局にいるときは暇があれば世にある魔法のすべてを調べていた変わり者だ。
ラドミールは瞼を開け、にこにこしながらサンドウィッチを頬張るペトラを横目で見やる。
自分がこの魔法に気づいていることを彼女は知らないだろう。
ひとさじの罪悪感を胸に抱きながらも、ラドミールは青い空を見上げる。
(…………まぁ、まだ、いいかなぁ)
手に持っていたサンドウィッチの欠片をすべて口に放り込み、ラドミールはグレープとクリームが混ざり合う芳醇な味で口内を満たす。
すると空間を包み込む心地の良い香りと混じり合い、陽だまりが大きく見えた気がした。
隣ではちらちらとペトラが時計に目を向けている。
ラドミールは彼女がそろそろ終わりを迎える昼休みの時間を気にしているのだと察した。
「ペトラさん」
「うん? どうしました? ラドミールさん」
ラドミールが声をかけると、時計から目をパッと離してにこりと笑うペトラ。ラドミールは彼女が動くたびに香るバニラに頬を緩ませ、ふふ、といたずらに笑う。
「ちょっとだけ、居眠りしますね」
「えっ?」
ラドミールの突飛な発言に、ペトラの手に持っていたサンドウィッチが膝にぽとりと落ちる。
「天気がいいから、すごく気持ちが良くて……ふぁ、なんだか眠くなっちゃいますよね」
「えっ……で、でも……いいんですか……?」
ペトラはサンドウィッチを落としたことも気にせずにもう一度時計を見やる。
「はい。あと少しだけ」
「……わ、分かりました」
ラドミールはベンチに頭を預け、そっと瞼を閉じた。ペトラはその横顔を少し戸惑いながら見つめ、穏やかにそよぐ風に髪を揺らす。幸福な香りが彼の心をほかほかと包み込み、自然と意識はまどろんでいく。
時計の秒針は、ちょうど昼休みの終わりを告げた。
ペトラは落としたサンドウィッチを拾いながら、そーっとラドミールの寝顔を窺った。
すやすやと、微かに彼の寝息が聞こえてくる。
(本当に寝ちゃった…………)
残ったサンドウィッチを食べながら、ペトラは彼の静かな寝顔をじっと観察する。
瞼を閉じていると、彼の輝きに満ちた瞳が隠されてしまう。表情筋が豊かな彼。常に動き回る表情に気を取られ、起きている時には分からない彼の洗練された輪郭からは、築き上げた落ち着いた気配だけがその場を漂う。
(…………まだまだ、きっとお疲れだよね)
マシになったとはいえ、彼の余命を伸ばす作戦はまだ達成されたとは言えない。
ペトラは本部の建物を見やり、もうしばらく彼を起こさないことを自分に許した。
ラドミールの方に視線を移し、ペトラは無意識に柔らかな笑みを浮かべる。
(とりあえず……昼休み延長作戦は効果あるかもしれないね)
ペトラはようやく上手くいった自分の策に自信をつけ、空になったランチバッグをゆっくり片付ける。
夢か現か。
ラドミールはまどろむ意識の中で、すぐそばにある甘い香りがふわりと舞い上がるのを感じた。
仕事をさぼってしまうという本来なら叩いてでも起こされそうな状況の中、彼女はそれを望んでいる。ラドミールはもうとっくに彼女の目論見を悟っていた。
彼女の目的は知っている。
けれどラドミールはそんな彼女の意図からは外れたところから、意識することもなく自然に仕事との向き合い方が変わっていった。
なのに肝心の彼女はまだ気がついていないようだ。
ラドミールは夢の中であどけなく笑う。
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