魔法狂騒譚

冠つらら

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五部

88/深淵

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 ゾマーはダッドレアの腕輪を投げ捨てると、ティーリンに目をやった。床の氷は、だいぶ消えてしまっているようだ。ゾマーは、一歩ティーリンに近づいた。

「おやおや」

 シュタイフォードの声が響いた。蔦の怪物の残骸を踏み越え、こちらに向かって歩いてきた。

「どうやら私が思っていた以上に、君たちは息があっているようだね」
「…………」

 ゾマーとティーリンはシュタイフォードを睨みつける。二人の息が合っているという見解にも、納得はいかなかった。

「もういい加減、大人になって欲しかったがね」

 シュタイフォードは目を光らせ、杖翼を二人に向けて突き出した。

「成長を見られるのもここまでかな」

 ゾマーはごくりとつばを飲み込んだ。これまでは見えていなかったシュタイフォードの明確な殺意が、その瞳から見てとれる。シュタイフォードを覆う蒸気のような魔力が、杖翼を纏っていった。

「ベァハープェルト」

 シュタイフォードの静かな声に導かれるように、杖翼から眩い光が走ってきた。ゾマーとティーリンは、高速で襲ってくるそれをギリギリのところで避けたが、シュタイフォードは再び同じ術を繰り返した。

 -敬愛の別れだ

 ゾマーはぞっとした表情で、反対側にいるティーリンを見た。ティーリンも敬愛の別れに気づいているようで、その表情はシュタイフォードへの憎しみが露わになっている。

 -このままだと不味い…

 ゾマーはどうにか冷静になろうと頭を巡らせた。これまで自らの手で他人を攻撃することを避けていたシュタイフォードが直接二人を狙ってくるとは。どうにも、彼の覚悟は本物のようだ。シュタイフォードが本気を出せば、二人がかりでも厳しいだろう。

 きっともう、シュタイフォードは執政府にも容赦しないだろう。そうなれば、この世界はどうなる。今以上に混沌とし、多くの悲劇を生みだしてしまうことが容易に想像できる。

 表の世界のように、作為を持った淘汰が始まる。

 -そんなの、認められるかよ…!

 ゾマーはシュタイフォードに向かってがむしゃらに攻撃を送った。つべこべ考えている暇はない。無駄でもいい。それでも、今、シュタイフォードを止められるかもしれないのは自分たちだけだ。

 ティーリンも、シュタイフォードに向かって術を撃っていたが、シュタイフォードはそのどちらも涼しい顔をして退けていた。

 しかし二人は攻撃を止めることはなかった。シュタイフォードにいくら跳ね除けられようとも、容赦なくこちらに殺意を向けられようとも、幸いにもまだ足は動いている。

 ほんの僅かなものだとしても、そこにまだ可能性が残っている限り、諦めることなんてできない。どんなに強大な力を見せつけられようとも、皆の希望を打ち砕く選択肢なんてあり得ないのだ。

 シュタイフォードは、無邪気な精霊を二人に向けて飛び立たせた。無邪気な精霊は、その名の通り邪気がない。あまりにもあどけなく、素直すぎるが故に、残酷な行為すら当然のように行う。彼らに悪気はない。ただ、主人の意向に従うだけだ。

 ゾマーは、陽気に笑いながら襲ってくるその小さな精霊を追い払おうとしたが、鼻をかじられ、こめかみ部分を思い切り蹴られる。その衝撃で立ち眩んだ隙に、精霊はバチバチと静電気を帯びてゾマーの顔面に飛びつこうとしてきた。

 咄嗟に避け切れず、ゾマーは衝撃に備えて目を閉じる。しかし、精霊が飛び込んでくることはなかった。ゾマーがゆっくり目を開けると、精霊は目の前できょとんとした顔をして止まっていた。どうやら、全身が固まっているらしい。

 ゾマーがティーリンの方を見ると、精霊を掴んだ手を下ろして、ティーリンは何かに目が釘付けになっている。ゾマーもその視線の先を見ると、シュタイフォードが、茫然とした表情で自分の両手を見ていた。

「……なんだ…?」

 ゾマーは眉をひそめる。シュタイフォードの見つめている両手は、次第に皮膚の内側から紫と青白が混じったような光が透けてきた。手だけではなく、シュタイフォードの全身が、身体の内側から同じような光を放っている。

 ゾマーは背筋が凍るようだった。不気味に発光するシュタイフォードは、その光によって身体の内部から引き裂かれそうになっている。

「どういうことだ…!?」

 シュタイフォードは焦燥した顔で震える手を見つめている。杖翼は、すでに床に落ちた。

「あり得ん…!一体、何が起きている…!?」

 ティーリンは、そんなシュタイフォードを静かに見ている。ゾマーが傍によると、その表情は汗をかいているのが分かった。

「…………」

 ティーリンの口が、誰かの名前を呼んだ気がした。ゾマーは再びシュタイフォードを見ると、シュタイフォードは壊れていきそうな顔を抑え、ふらふらと足元が揺らいできている。

「ああ…!どうしてくれよう!?こんなことでは…私は…私は…!」

 シュタイフォードの断末魔が響く中、彼は紫と青の炎に包まれていった。その身体は次第に引き裂かれ、内側から放たれる光が一層強くなってきた。

「あと少しなのに…!もう少しで、私は…!」

 シュタイフォードの声が業火に焼かれていった。ゾマーはその様子から目が離せなかった。完全に炎と光に飲み込まれたシュタイフォードは、最期までその傲慢さを鑑みることはなかった。

 炎の光が消えると、そこにはボロボロになったシュタイフォードが倒れている。目は見開いたまま、その表情は志半ばで悔やんでいるようにも見えた。

 ゾマーは、そっと横にいるティーリンに目をやった。なんと声をかけたらいいのか分からなかった。仮にも、シュタイフォードはティーリンの祖父だ。ゾマーは、黙ってシュタイフォードを見ているティーリンの表情が読み取れず、もどかしい気持ちになった。

 すると、どこからともなく、白い線で描かれたような人型の何かが現れ、シュタイフォードに寄り添っているのが見える。

「……なんだ?」

 ゾマーの声に、その人型の線は顔を上げた。よく見ると、シュタイフォードに似ている顔をしている。彼よりも、皺が多く、年を取っているように見えるが。

「やぁ二人とも、これは失礼したね」

 人型の線は、穏やかに微笑んだ。それを見て、ティーリンの顔つきが変わった。

「君たちのおかげかな。ようやく、彼に会えた」
「…あなたは」
「ティーリン、君に会うのは、私ははじめてだね」

 人型の線は嬉しそうにそう言った。

「ずっと会いたかった。君は、お父さんに似て頑固なようだね。だが、私はそこがいいと思っているよ。頑固さは、言い換えれば芯がある。意志の強い、素晴らしい子だよ」

 人型の線は目を細める。

「孫娘も立派に成長をして、孫に恵まれたものだねぇ。君たちの美しさが、私は嬉しいよ。その姿形じゃない。その頭で考えている、君たちの人間としての美しさを、見習うべきだったんだ」
「リルのことを……」

 ティーリンはぐっとこぶしを握った。もどかしそうに、切ない眼差しをしている。

「あの子は、本当に素敵な子だ。君もそうだが、私にとっても最後の贈り物だった。あの子は息子に似ていた。そのせいで、顔を見てもらえなかったようだが、本当は、抱きしめたくてたまらなかっただろう。愛は愁思だ。愛おしくなるほどに、その存在を失うのが怖くなる。息子のように、あの子を失うのが怖かったのだろう。自分を誤魔化そうとしていたのだね。くだらない見栄よりも、愛を正面から伝えることの方がなんと楽なことか…。そんな後悔など、悲しすぎる」

 人型の線はシュタイフォードを同情するような目で見る。

「会いたい時に会えることの幸福さを、彼は忘れてしまったのかねぇ」
「…………」

 ティーリンは口をつぐんだ。人型の線は、すっとティーリンに目をやった。

「君は、本当に逞しい。だが一方で、まだまだ脆い。自分を過信しすぎていないことが救いだ。君はこれから、どんな道をも歩める。君の望む未来が、いつか、誰かの希望を切り開く。君にできることを、君が望むことを、突き詰めればいい。きっと、周りも君を見ている。表面だけではなく、その素晴らしい内面をね」

 人型の線はティーリンを指差してウインクをした。お茶目な表情のその老人は、ゾマーを見ると、ゆっくりと頷いた。

「君には、感謝している。彼を自由にしてくれた。ようやく、私も帰れる」
「……え?」

 ゾマーは、何が何だか分からずきょとんとしていた。一体、この老人は何なんだ。ティーリンは何かを察しているようだが、ゾマーには今の状況が飲み込めなかった。ただ、老人の幸福そうな表情を見ていると、悪い気はしなかった。ゾマーは軽く会釈をして、頬を緩める。

 老人も会釈を返すと、そっとシュタイフォードの身体に触れた。すると、泡がはじけるような音がして、老人はそのまま消えてしまった。

「……なんなんだ?」
「あれはきっと、シュタイフォードの消えてしまった心だ」
「…は?」
「シュタイフォードは、自分の心を消した。その時に、ダニーに預けたんだ…その、彼の心を。感情は弱点となり得る。シュタイフォードは、自らの弱点を隠して、葬り去っていたんだ」

 ティーリンが淡々と答える。ダニーという名前に、ゾマーの表情は曇った。ようやく理解した。墓守は、主人と一心同体だ。それは、命を共有しているということだ。

 ゾマーは、血の気が引いていくのが分かった。

 シュタイフォードにとどめを刺したのは、ダニーだ。彼が、自らの命とともにシュタイフォードの暴走を止めたのだ。彼にしかできない、唯一の反抗だ。

「……ティーリン」

 ゾマーの呼びかけに、ティーリンは伏せた目を開ける。

「……彼のことは、僕が葬らせやしない。彼は、ともに生きていたんだ」
「…………」

 ゾマーは口をつぐんだ。何も言えない。ゾマーとティーリンは友達ではない。今更、取り繕ったような言葉は聞きたくないだろう。ただ一つ、確実に言えることは、彼の友人を敬いたいということだけだ。

「まだ終わってはいないぞ」

 その時、二人の背後から低い声がした。二人が振り返ると、そこには見慣れた大男が立っている。

「…校長?」

 見間違いようがなく、その男はダンだった。マフィアのボスのような風格は、この場にいるとより威厳があるように見えた。二人は、緊張の面持ちでダンのことを観察した。
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