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五部
73/来客
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生ぬるい雫が、頬に垂れる。一抹の痛みが、次第に顔の左半分を支配していく。一瞬にして走った閃光は、身体をほんの数ミリ動かす猶予さえ与えず駆け抜けた。
ティーリンは、頬に流れる赤い血を手の甲で拭った。思ったよりもべっとりと、手の甲は血で覆われる。
「こいつは、バルク・ヤーンが私の監視役として配下に置いたやつだ。相も変わらず献金のことを話してくるのでね、反対に研究のことを聞いたよ。こいつは寝返った。私たちの献金は、研究所へと回っていた。あちら側の行っていた献金は、ただのまやかしだ」
シュタイフォードは、左手をズボンのポケットに入れたまま、右手に持った杖翼でティーリンを捉えていた。先ほどの閃光は、シュタイフォードの牽制だろうか。ティーリンはシュタイフォードを睨みつけたまま、その場を動かなかった。
「人の心情などたかが知れている。大勢を煽動できたもの勝ちだ。自分に都合の良いことだけを、人は選択することができる。解釈なんて、ただのこじつけだ」
シュタイフォードは、壁に囚われている元仲間を見る。
「仲間など、そんな幻想を信用してはならん」
「……それは、あなたの意見です」
ティーリンはジンジンと痛む頬と同期して、やりきれない思いが高まってくるのを感じた。
「あなたと同じ思想を捨てた人間は、消してしまえば満足ですか。それでは、バルク・ヤーンと同じだ」
「誑かされ、同調圧力に屈する人間など、どうせ碌でもない。バルク・ヤーンと同じか。そういえばあいつも、そんなようなことを言っていたかもしれない」
「そんなことばかり言って、意思に反してそうせざるを得ない人間はどうすればいいんだ!人は皆、他人と共生するからには思い通りにばかりは生きられない!」
「そんなことを言っているから、学校生活で悪い影響を受けるのだよ、お前は」
シュタイフォードが呆れたように笑った。そして、杖翼を斜め上に軽く上げる。すると、杖翼の羽部分から、強風がティーリンに向かってきた。ティーリンは、両足に力を入れ、踏ん張りながらも杖翼を振り上げて、その風をまいた。
シュタイフォードは、そんなティーリンを見てクスリと笑った。
「あの学校にお前を入れたのはやはり間違いだったのかな?」
「…いいや、感謝している」
ティーリンは鋭い眼光でシュタイフォードを見る。
「あの学校に入れたことは、あなたからの唯一の贈り物だったよ」
そして杖翼を構え、シュタイフォードから一定の距離を取った。
「彼らの小さな勇気に、臆病な僕は救われた」
「…ふん。くだらない。お前の学友とやらも、お前と同じくらい愚かなものだ。ヴィルキィガルデンに入り込み、無駄な血を流すとは」
「…どういうことだ?」
ティーリンは顔を歪めた。シュタイフォードの一言一言が、癇に障る。
「ダニーがお前の学友の相手をしているようだ。彼も不幸だな。しかし私に拾われたことは、この上ない幸運だっただろう。お前と同じで」
「…何を言っている」
「お前に流れる哀れな血も、報われたことだろう」
シュタイフォードの蔑んだ視線と、嘲笑で緩んだ口元が、ティーリンの目にはっきりと入ってきた。ティーリンは、その印象に残る表情に、強烈な拒絶を感じた。怒りが、頭上を越えそうだ。身体に収まりきらない感情が、ティーリンの杖翼を震わせる。
「お婆様たちのことを、お前は嘲笑う権利などない」
ぼそっと、小さく呟いた。シュタイフォードによって引き裂かれたティーリンのもう一つの未来を、彼にだけは触れられたくはなかった。
よくこれまで、この人を前にして冷静でいられたものだ。どこかで諦めていたのかもしれない。これもまた、自らを憐れむために偽っていたのだろうか。そんな悲劇の主人公気取りは、もうたくさんだ。いい加減、自己を取り戻す時だ。
ティーリンは、杖翼を左から右へ大きく振った。
「フィーリガフェイン・グース!」
真っ白な光の波が、シュタイフォードに向かって走っていった。シュタイフォードは杖翼でそれを払ったが、僅かにその光の欠片がシュタイフォードのスーツをかすった。
光がかすめたその裾は、焦げ付いたような痕が残り、布がほつれていった。
「私に、古代魔法で挑もうとでも言うのか?」
シュタイフォードは、悪い冗談でも聞いたかのように笑った。しかしティーリンは、顔色一つ変えずに再び術を繰り出した。
「あなたに勝てなくてもいい。ここであなたを止められれば、それだけでも、大きな可能性につながる」
ティーリンは、シュタイフォードに聞こえないくらいの声で自分に言い聞かせた。別の場所で、仲間たちも闘っている。それを無駄にすることだけは、絶対に避けなくては。
シュタイフォードは、容赦なく杖翼をティーリンに向けてきた。無数の蔦が、壁から伸びてくる。ティーリンは、襲い掛かってくるその蔦を、次々に切りつけ、どうにか捕らえられないように身をかわし続ける。
「本当に失望した。お前は私に似ていた。類まれない才能を後世に残し、お前は世を率いることができた。やはり自分以外の人間は信用ならない。私がいなくては、何もこの先に期待などできないものなのだな!」
シュタイフォードは、つかつかとティーリンに向かって歩いてくる。その際に、廊下を縦横無尽に暴れる蔦は、シュタイフォードだけは見事に避けていた。
シュタイフォードの瞳に光が宿っている。不気味に、卑しく光るその眼差しは、それでいても気品が崩れなかった。ティーリンは、蔦を切り続けながら、行き場をなくしたその蔦の端に生えた棘をシュタイフォードに向かって杖翼で振りかざした。
シュタイフォードの支配下から離れたその蔦は、シュタイフォードを狙いはしたものの、彼を傷つけることはなかった。
「ティーリン、やはりお前はどこまでも哀れだ」
ティーリンは、棘が腕や足をかすめる痛みも忘れたまま、余裕の表情のまま自分を憐れむふりをするシュタイフォードのことを見る。
「私が拾ったところで、お前は醜いままだったな。私の弱点がようやくわかったよ。私は、どうやら優秀すぎたようだ」
シュタイフォードの言葉を、ティーリンはもう聞かないことにした。リルの言った通り、彼はもう自分のことしか見えていない。ほんの少しの時間だったが、シュタイフォードと過ごした時のことを思い返すと、まだあの時は、彼も狂気の中に正気が残っていた。
彼の心を取り戻せないのは残念だ。しかし、彼がもうそれを望まないのであれば、彼の美学を全うさせてやろう。それがせめてもの敬意だ。
ティーリンは、今にも絡みつきそうな蔦に向かって叫んだ。
「ブレンドゥロガン!」
すると杖翼から、黄色く光る炎が噴き出し、数多の蔦を包み込んだ。蔦は、抵抗を見せながらも、次第に大人しくなり、自然の理に則って燃え尽きていった。
黄色く光る淡い炎だけが、その場に残った。その炎が、シュタイフォードとティーリンの間に、まるで蔦が這うように紋様を描いている。
シュタイフォードの顔が明かりに照らされて、その不機嫌な表情をあらわにした。
ティーリンは息を整えながら、姿勢を立て直した。攻撃が止まると、これまで意識が回らなかった痛みが全身をチクチクと蝕んだ。
シュタイフォードは無傷だ。一体どれくらいの間、彼の足止めをできるのだろうか。
ティーリンの息遣いが廊下に響く中、聞きなれない声がそこに重なった。
「スロックエルディン」
ティーリンとシュタイフォードの頭上から、雪のような粉が降ってきた。その粉は、黄色の炎に降りかかり、火はそのまま消えていった。
ティーリンが振り返ると、そこには屋敷では見慣れない男が立っていた。かきあげた暗い色の髪の毛を流し、少し垂れ目の、彫の深いくぼみに大きな瞳が印象的な男だった。長めのグレーのマフラーを、首に巻かずに垂らしている。
ティーリンは痛みに耐えながら、その男がこちらに向かって歩いてくるのを見ていた。
「ダッドレア…」
シュタイフォードが彼の名を呼んだ。ダッドレアは、シュタイフォードに名前を呼ばれたことの不快感を表情で隠さなかった。
「勝手に上がり込んで、何の用だろうか?」
「シュタイフォード殿、これは失礼いたしました」
ダッドレアは、後ろで手を組み、ゆったりと歩いてきた。ティーリンの横を通り過ぎるとき、流し目でティーリンのことをほんの少しだけ見た。
「どうにも、今朝こちらに来た友人と、連絡が取れないものでしてね」
ダッドレアはそう言うと、不気味に盛り上がった壁の方を見る。
「しかしどうやら、もう探す必要はなさそうだ」
そして壁に近づくと、友人を思いやるように黙祷をした。
「シュタイフォード殿、明日は大事な日でありますが故、問題を起こされてしまうのは、執政府としても困りものではないですかねぇ」
「あいにく、私は執政府の人間ではないもので」
ティーリンは、よそよそしく話す二人の様子をよく観察していた。そして、少し後ろに下がり、こっそりと足首の傷を治す術を唱えている。右足首に、骨に到達しそうなほど刻みつけられた傷があったことに、ティーリンはようやく気付いたのだ。
二人に気づかれぬように、ティーリンは急いで応急手当を施した。
「あなたは、研究所を離れていていいのですか?明日は大事な日なのでしょう?」
「そうですが、あちらにも優秀な者はおりますのでね。少しくらいであれば支障もない。それよりも、大事なこともありますからね」
ダッドレアは愛想笑いをした。
「明日の実験、それこそ邪魔が入ってはなりますまい。それに、執政府が多忙なところ、誰かが益を横取りするとも限らない。私は、そちらの方面にも気をかけていないと」
「…なるほど、それで私に忠告をしに来てくれたと?」
シュタイフォードも愛想笑いを返した。
「そういうことです。あなたは脅威だ。私にとっても」
「それは光栄だな」
「…………」
ティーリンは、二人の気味が悪い会話を居心地悪く聞いていた。研究所を空けているということは、ロドリーたちと出くわすことはないだろう。しかし、それでも彼らの状況が気になった。代表が不在になっているということは、反対に、警備は強化されているかもしれない。
それに、レティたちのことも、ダニーがいるのが気になる。きっとダニーは、手加減しないだろう。
「しかしそれではご存知なさそうですな」
「何をです?」
シュタイフォードの馬鹿にしたような口調に、ダッドレアは眉をひそめる。
「脅威とは、自分の目の届かないところからくるものです。眼中にないことほど、注視していなくては。不意打ちにやられてしまいますよ」
ティーリンは嫌な予感がした。シュタイフォードのことを、憎悪の眼差しで見る。
「どういうことです?」
「あなたたちが軽んじている危険因子が、静寂を乱す」
「……?」
ダッドレアは本当に心当たりがないらしく、首を傾げる。
「かくいう私も、今日、二人もの人間に裏切られましてね」
シュタイフォードの視線がティーリンを向いた。ダッドレアもその視線を追い、ティーリンのことを見た。ティーリンは応急処置を止め、杖翼を握り直した。
「“彼ら”の無謀な勇気だけは、称えてあげないとね」
シュタイフォードの暗い瞳が光り、二人は再び睨み合った。
ティーリンは、頬に流れる赤い血を手の甲で拭った。思ったよりもべっとりと、手の甲は血で覆われる。
「こいつは、バルク・ヤーンが私の監視役として配下に置いたやつだ。相も変わらず献金のことを話してくるのでね、反対に研究のことを聞いたよ。こいつは寝返った。私たちの献金は、研究所へと回っていた。あちら側の行っていた献金は、ただのまやかしだ」
シュタイフォードは、左手をズボンのポケットに入れたまま、右手に持った杖翼でティーリンを捉えていた。先ほどの閃光は、シュタイフォードの牽制だろうか。ティーリンはシュタイフォードを睨みつけたまま、その場を動かなかった。
「人の心情などたかが知れている。大勢を煽動できたもの勝ちだ。自分に都合の良いことだけを、人は選択することができる。解釈なんて、ただのこじつけだ」
シュタイフォードは、壁に囚われている元仲間を見る。
「仲間など、そんな幻想を信用してはならん」
「……それは、あなたの意見です」
ティーリンはジンジンと痛む頬と同期して、やりきれない思いが高まってくるのを感じた。
「あなたと同じ思想を捨てた人間は、消してしまえば満足ですか。それでは、バルク・ヤーンと同じだ」
「誑かされ、同調圧力に屈する人間など、どうせ碌でもない。バルク・ヤーンと同じか。そういえばあいつも、そんなようなことを言っていたかもしれない」
「そんなことばかり言って、意思に反してそうせざるを得ない人間はどうすればいいんだ!人は皆、他人と共生するからには思い通りにばかりは生きられない!」
「そんなことを言っているから、学校生活で悪い影響を受けるのだよ、お前は」
シュタイフォードが呆れたように笑った。そして、杖翼を斜め上に軽く上げる。すると、杖翼の羽部分から、強風がティーリンに向かってきた。ティーリンは、両足に力を入れ、踏ん張りながらも杖翼を振り上げて、その風をまいた。
シュタイフォードは、そんなティーリンを見てクスリと笑った。
「あの学校にお前を入れたのはやはり間違いだったのかな?」
「…いいや、感謝している」
ティーリンは鋭い眼光でシュタイフォードを見る。
「あの学校に入れたことは、あなたからの唯一の贈り物だったよ」
そして杖翼を構え、シュタイフォードから一定の距離を取った。
「彼らの小さな勇気に、臆病な僕は救われた」
「…ふん。くだらない。お前の学友とやらも、お前と同じくらい愚かなものだ。ヴィルキィガルデンに入り込み、無駄な血を流すとは」
「…どういうことだ?」
ティーリンは顔を歪めた。シュタイフォードの一言一言が、癇に障る。
「ダニーがお前の学友の相手をしているようだ。彼も不幸だな。しかし私に拾われたことは、この上ない幸運だっただろう。お前と同じで」
「…何を言っている」
「お前に流れる哀れな血も、報われたことだろう」
シュタイフォードの蔑んだ視線と、嘲笑で緩んだ口元が、ティーリンの目にはっきりと入ってきた。ティーリンは、その印象に残る表情に、強烈な拒絶を感じた。怒りが、頭上を越えそうだ。身体に収まりきらない感情が、ティーリンの杖翼を震わせる。
「お婆様たちのことを、お前は嘲笑う権利などない」
ぼそっと、小さく呟いた。シュタイフォードによって引き裂かれたティーリンのもう一つの未来を、彼にだけは触れられたくはなかった。
よくこれまで、この人を前にして冷静でいられたものだ。どこかで諦めていたのかもしれない。これもまた、自らを憐れむために偽っていたのだろうか。そんな悲劇の主人公気取りは、もうたくさんだ。いい加減、自己を取り戻す時だ。
ティーリンは、杖翼を左から右へ大きく振った。
「フィーリガフェイン・グース!」
真っ白な光の波が、シュタイフォードに向かって走っていった。シュタイフォードは杖翼でそれを払ったが、僅かにその光の欠片がシュタイフォードのスーツをかすった。
光がかすめたその裾は、焦げ付いたような痕が残り、布がほつれていった。
「私に、古代魔法で挑もうとでも言うのか?」
シュタイフォードは、悪い冗談でも聞いたかのように笑った。しかしティーリンは、顔色一つ変えずに再び術を繰り出した。
「あなたに勝てなくてもいい。ここであなたを止められれば、それだけでも、大きな可能性につながる」
ティーリンは、シュタイフォードに聞こえないくらいの声で自分に言い聞かせた。別の場所で、仲間たちも闘っている。それを無駄にすることだけは、絶対に避けなくては。
シュタイフォードは、容赦なく杖翼をティーリンに向けてきた。無数の蔦が、壁から伸びてくる。ティーリンは、襲い掛かってくるその蔦を、次々に切りつけ、どうにか捕らえられないように身をかわし続ける。
「本当に失望した。お前は私に似ていた。類まれない才能を後世に残し、お前は世を率いることができた。やはり自分以外の人間は信用ならない。私がいなくては、何もこの先に期待などできないものなのだな!」
シュタイフォードは、つかつかとティーリンに向かって歩いてくる。その際に、廊下を縦横無尽に暴れる蔦は、シュタイフォードだけは見事に避けていた。
シュタイフォードの瞳に光が宿っている。不気味に、卑しく光るその眼差しは、それでいても気品が崩れなかった。ティーリンは、蔦を切り続けながら、行き場をなくしたその蔦の端に生えた棘をシュタイフォードに向かって杖翼で振りかざした。
シュタイフォードの支配下から離れたその蔦は、シュタイフォードを狙いはしたものの、彼を傷つけることはなかった。
「ティーリン、やはりお前はどこまでも哀れだ」
ティーリンは、棘が腕や足をかすめる痛みも忘れたまま、余裕の表情のまま自分を憐れむふりをするシュタイフォードのことを見る。
「私が拾ったところで、お前は醜いままだったな。私の弱点がようやくわかったよ。私は、どうやら優秀すぎたようだ」
シュタイフォードの言葉を、ティーリンはもう聞かないことにした。リルの言った通り、彼はもう自分のことしか見えていない。ほんの少しの時間だったが、シュタイフォードと過ごした時のことを思い返すと、まだあの時は、彼も狂気の中に正気が残っていた。
彼の心を取り戻せないのは残念だ。しかし、彼がもうそれを望まないのであれば、彼の美学を全うさせてやろう。それがせめてもの敬意だ。
ティーリンは、今にも絡みつきそうな蔦に向かって叫んだ。
「ブレンドゥロガン!」
すると杖翼から、黄色く光る炎が噴き出し、数多の蔦を包み込んだ。蔦は、抵抗を見せながらも、次第に大人しくなり、自然の理に則って燃え尽きていった。
黄色く光る淡い炎だけが、その場に残った。その炎が、シュタイフォードとティーリンの間に、まるで蔦が這うように紋様を描いている。
シュタイフォードの顔が明かりに照らされて、その不機嫌な表情をあらわにした。
ティーリンは息を整えながら、姿勢を立て直した。攻撃が止まると、これまで意識が回らなかった痛みが全身をチクチクと蝕んだ。
シュタイフォードは無傷だ。一体どれくらいの間、彼の足止めをできるのだろうか。
ティーリンの息遣いが廊下に響く中、聞きなれない声がそこに重なった。
「スロックエルディン」
ティーリンとシュタイフォードの頭上から、雪のような粉が降ってきた。その粉は、黄色の炎に降りかかり、火はそのまま消えていった。
ティーリンが振り返ると、そこには屋敷では見慣れない男が立っていた。かきあげた暗い色の髪の毛を流し、少し垂れ目の、彫の深いくぼみに大きな瞳が印象的な男だった。長めのグレーのマフラーを、首に巻かずに垂らしている。
ティーリンは痛みに耐えながら、その男がこちらに向かって歩いてくるのを見ていた。
「ダッドレア…」
シュタイフォードが彼の名を呼んだ。ダッドレアは、シュタイフォードに名前を呼ばれたことの不快感を表情で隠さなかった。
「勝手に上がり込んで、何の用だろうか?」
「シュタイフォード殿、これは失礼いたしました」
ダッドレアは、後ろで手を組み、ゆったりと歩いてきた。ティーリンの横を通り過ぎるとき、流し目でティーリンのことをほんの少しだけ見た。
「どうにも、今朝こちらに来た友人と、連絡が取れないものでしてね」
ダッドレアはそう言うと、不気味に盛り上がった壁の方を見る。
「しかしどうやら、もう探す必要はなさそうだ」
そして壁に近づくと、友人を思いやるように黙祷をした。
「シュタイフォード殿、明日は大事な日でありますが故、問題を起こされてしまうのは、執政府としても困りものではないですかねぇ」
「あいにく、私は執政府の人間ではないもので」
ティーリンは、よそよそしく話す二人の様子をよく観察していた。そして、少し後ろに下がり、こっそりと足首の傷を治す術を唱えている。右足首に、骨に到達しそうなほど刻みつけられた傷があったことに、ティーリンはようやく気付いたのだ。
二人に気づかれぬように、ティーリンは急いで応急手当を施した。
「あなたは、研究所を離れていていいのですか?明日は大事な日なのでしょう?」
「そうですが、あちらにも優秀な者はおりますのでね。少しくらいであれば支障もない。それよりも、大事なこともありますからね」
ダッドレアは愛想笑いをした。
「明日の実験、それこそ邪魔が入ってはなりますまい。それに、執政府が多忙なところ、誰かが益を横取りするとも限らない。私は、そちらの方面にも気をかけていないと」
「…なるほど、それで私に忠告をしに来てくれたと?」
シュタイフォードも愛想笑いを返した。
「そういうことです。あなたは脅威だ。私にとっても」
「それは光栄だな」
「…………」
ティーリンは、二人の気味が悪い会話を居心地悪く聞いていた。研究所を空けているということは、ロドリーたちと出くわすことはないだろう。しかし、それでも彼らの状況が気になった。代表が不在になっているということは、反対に、警備は強化されているかもしれない。
それに、レティたちのことも、ダニーがいるのが気になる。きっとダニーは、手加減しないだろう。
「しかしそれではご存知なさそうですな」
「何をです?」
シュタイフォードの馬鹿にしたような口調に、ダッドレアは眉をひそめる。
「脅威とは、自分の目の届かないところからくるものです。眼中にないことほど、注視していなくては。不意打ちにやられてしまいますよ」
ティーリンは嫌な予感がした。シュタイフォードのことを、憎悪の眼差しで見る。
「どういうことです?」
「あなたたちが軽んじている危険因子が、静寂を乱す」
「……?」
ダッドレアは本当に心当たりがないらしく、首を傾げる。
「かくいう私も、今日、二人もの人間に裏切られましてね」
シュタイフォードの視線がティーリンを向いた。ダッドレアもその視線を追い、ティーリンのことを見た。ティーリンは応急処置を止め、杖翼を握り直した。
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