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【第二章 十六歳】
アランがエリーゼを女性として、妻として微塵も興味を持つ事がないまま月日は流れ、エリーゼは既に十六歳となっていた。
騎士であるアランは元々、仕事で遠征に行く等の理由で家を空ける事も多いが、エリーゼも今年は社交シーズンまで実家に帰ると執事を介して夫に告げた。
つまり、屋敷の主人夫妻が揃っていなくなる日が生まれるわけだが、社交シーズンでなければ特に問題はない事をエリーゼは知っていた。エリーゼの父である、リュシドール伯爵もまた多忙のため、王都の邸を空ける事が多い。現在は長男のフェルナンドが、リュシドールの邸を取り仕切っている。が、そもそもエリーゼは実家で父親の顔を見た事がほとんどなく、母もエリーゼの婚約と前後して亡くなったため、当主夫妻が不在の伯爵家が問題なく運営出来ていた事を、実感として知っているのだ。
アランも興味のない妻が家にいるよりはと、エリーゼの不在を喜んでさえいた。
コルベール家には実家に帰省中と言付けているエリーゼだが、王都にはいるものの、実際は別の場所に滞在中である。十歳才上の姉であるルイズの嫁ぎ先である、ラガルド侯爵家の邸宅に身を寄せていた。
ラガルド家の邸にあるサロン。日当たりのいい窓際の椅子に腰掛け、エリーゼは刺繍に専念していた。
「エリーゼお姉ちゃま~、このご本を読んでっ」
金髪の幼い女の子が、サロンに入った途端、エリーゼを見つけて駆けてくる。本を手にしたこの幼女は、ラガルド家の令嬢であり、ルイズの娘フィリア。天使のように愛らしい姪に、エリーゼは顔を向けて微笑んだ。
「ちょっとだけ待ってね、もうすぐ刺繍が完成するから。ほら」
完成間近の薔薇の刺繍を施したハンカチを、姪のフィリアに見せてやった。途端、フィリアはサファイアの瞳を輝かせる。
「とっても綺麗ね!」
「今度フィリアにも作ってあげるわね」
「本当⁉」
「えぇ、フィリアはどんな花が好きかしら? 動物とかのほうがいい?」
エリーゼの問いに、フィリアはわずかに考えた後、元気よく声をあげた。
「う~んと、毛虫!」
「け、毛虫⁉」
(それは果たして動物に分類してもいいのかしら⁉ い、いえ、昆虫よね⁉)
思い掛けない回答に、戸惑いを隠せないエリーゼと、キラキラとした無垢な瞳で刺繍を見つめるフィリア。
そんな二人に向かって、たった今やって来たフィリアの兄、ユリアンが呟いた。
「う~ん、フィリアが好きなのって毛虫だっけ? 青虫じゃなかった?」
「お兄ちゃま、あの緑のヤツって青虫だっけ?」
「青虫だね」
「じゃあ、青虫!」
二人の会話を、黙って見守っていたエリーゼは恐る恐る確認をする。
「む、虫が好きなのね……フィリアは」
どちらにしても結局虫なのか。フィリアはどうやら虫が好きらしい。虫ならせめて、蝶とかでは駄目なのかと思ったが、口を噤んだ。
フィリアが希望しているのは青虫なのだ。
大切な姪の注文である。やはり現実味を追求した青虫より、可愛らしくデフォルメしたほうが喜ぶだろうかと、エリーゼは青虫の刺繍を頭の中で思い描いた。
(葉っぱに乗った青虫の刺繍……案外可愛いかもしれないわ。周りにお花の刺繍も添えて華やかにしつつ……)
嫁ぎ先のコルベール家にいる時は、侍女達と刺繍をして過ごす事が多い。アランが家にいてなかなか部屋からエリーゼが出られない時も、侍女のレナが刺繍に付き合ってくれる。そして美味しいお茶を用意して、二人で刺繍をしながら、楽しくお喋りをして暇を潰すのが日課となっていた。
そのおかげで元々得意だった刺繍の腕を、エリーゼは更に上げていった。
刺繍は楽しく暇を潰す事が出来、満足のいく仕上がりとなった時の達成感を味わえるのが好きだ。そして何より、完成品は孤児院が併設された教会へと、寄付する事が出来る。刺繍とは実益も兼ねた、無駄のない素晴らしい趣味だとエリーゼは思っている。
エリーゼは、このラガルド侯爵家では甥と姪の、家庭教師のような役割もしていた。
姉ルイズは幼くして嫁いだ妹をとても心配し、しばらくの間自身の側に置く事を考えた。
そして子供達はとてもエリーゼに懐いている。家庭教師を任せる事で、エリーゼが気兼ねなくラガルド邸に滞在出来るようにしていた。また、この件に関して、当主であるラガルド侯爵も大いに賛成している。
侯爵夫妻がここまでエリーゼの身の振り方に介入するようになったのは、エリーゼが姉に自分の日々のドレスについて、切実な悩みを相談した事がきっかけだ。成長期であったエリーゼは、コルベール家で用意されたドレスでは、とっくに身体と合わないようになっていた。一度はアランに用立てて貰えないのかと尋ねてきたルイズだが、そもそもコルベール邸において、エリーゼの身の回りの物を揃えるのに使われる費用は、僅かな額に減らされているらしいと知り、ルイズにとっても兄であるフェルナンドに妹の窮状を伝えると同時に、夫に頼んで社交シーズンまでエリーゼを屋敷に招いて留め置く許可を貰ってくれたのだ。
現在は主に実家の兄による手配から、身の回りのものを揃えて貰っている。それとは別に先日は、家庭教師のお給金で自分のドレスを仕立ててみた。
働いたお金で遣り繰りしながら、自分好みにドレスを仕立てるのは、実に新鮮な感覚だった。この点に至っては、エリーゼはむしろ楽しんですらいる。
エリーゼと姉の子供達が戯れている様子は、その場に光が差したように輝いていた。
ちなみにユリアンが八歳で、フィリアが四歳になったばかりだ。三人共金髪に青い瞳という、同じ色素を持ち、叔母であるエリーゼはまだ十六歳である。側から見ると、甥と姪というより三人は姉弟のように映る。
まるで天使のような三人の様子に、ラガルド家の使用人達は、眼福の眼差しで見守っていた。
フィリアに本を読んでいると、ラガルド家の執事がエリーゼを呼びに来た。
実家から、兄のフェルナンドがエリーゼを訪ねて来たのだという。
執事の案内の元、兄の待つ部屋に向かい、その扉を開ける。部屋の中にいたフェルナンドが笑顔で出迎えてくれた。
リュシドール家の兄弟は三人共とても仲がいい。
フェルナンドの向かいの席に腰をかけると、一枚の手紙が目の前に差し出された。
「手紙だよ。コルベール家のエリーゼの夫からだ」
「私に夫などいたかしら?」
『夫』という単語に、エリーゼは顔をしかめた。
実家に届いたエリーゼ宛の手紙は、こうやって兄が届けに来るようになっている。
姉のルイズがこのラガルド侯爵家に嫁いだ事で、リュシドールとの共同で立ち上げた新事業がある。その事業とはリュシドール側は伯爵ではなく、フェルナンドが取り仕切っている。
事業の打ち合わせのため、フェルナンドがこちらを訪れる事も多く、ついでにエリーゼに手紙などを届けたりもしている。
「はぁ」
フェルナンドから手紙を受け取り、内容を確認した途端、思わずエリーゼの口から溜息が漏れた。
そんな物憂げな表情でさえ、今のエリーゼの姿はとても絵になる。
十六歳となったエリーゼは身長が伸び、すらりとした長い手足。美しく括れた細い腰を持っているにもかかわらず、胸も豊かに膨らんでいる。
そして艶やかな光り輝く金糸の髪。髪と同じ金色の長い睫毛に縁取られた宝石のような青い瞳。薄桃色の頬に薔薇色の唇。滑らかな鼻梁。
エリーゼは見事な美少女へと、成長を遂げていたのだった。
鬱々たる気分で、手元から視線を逸らすエリーゼ。手紙は、近日王宮で開かれる夜会に、妻として同伴するようにとの事が書かれてある。
アランからの手紙は、用件のみが書かれた実にシンプルな物だった。
最低限しか、エリーゼと関わる気のないアランらしい手紙。
再び溜息を吐いた、エリーゼを見ながらフェルナンドが口を開く。
「手紙の内容って、次の王宮で開かれる夜会の件かな?」
「ご名答です」
目の前のフェルナンドから『夜会』とはっきり口にされ、更に憂鬱な気分になる。
社交シーズンが到来し、コルベールの邸に帰らなくてはいけない現実を直視しなければ。
エリーゼにとって、夜会自体は別に嫌いではない。
会場の絢爛な雰囲気も、美味しい料理やスイーツ、華やかな人々。
着飾った衣装や宝飾品を眺めながら、流行を把握して次に流行りそうな物を予想するのも楽しい。
このような部分だけは、自分に流れる『商売で成り上がったリュシドール家』の血が色濃いのだと自覚してしまう。
本来ならば心を躍らせる気持ちを、アランのエスコートが打ち消してくる。会場への行き帰りの馬車内で、アランと二人きりになる時間が特に苦痛だった。
そして問題は夜会に限らない。夜会以前に社交シーズンの到来は、コルベール邸への帰宅を意味する。自分でそう期限を決めていた。再びあの邸での生活が始まるのは実に億劫だ。
末妹の様子にさもありなんと笑いながら、フェルナンドはリボンが掛けられた箱をエリーゼに差し出した。
「それと、約束していた今回の夜会用ドレスが、出来上がったよ」
夜の帳が下りた頃。
ラガルド家で用意して貰っている客間の一室。傍らの手燭を頼りに、エリーゼは今まで読んでいた本を閉じた。読んでいたのは昆虫の図鑑。
フィリアへ、プレゼントするための刺繍の図案が決まると、そろそろ就寝時間となっていた。
灯した明かりと、月明かりが差し込む静かな室内でこれまでの事や、これからの未来について、様々な思いが頭の中を駆け巡る。夜は自然と考え込んでしまう事が多くなる。
ラガルド家にいる間、とても穏やかな時間を過ごす事が出来た。
優しい姉と義兄に、可愛いユリアンとフィリア。ラガルド家の人々には感謝してもしきれない。
姉夫婦のような家庭を持つ事に憧れていたけれど、決して自分には得られそうもない。
ならば代わりに、いつまでもラガルド家の人々が幸せな日々を過ごせますようにと。エリーゼはそう願わずにはいられなかった。
お祈りを済ませて手燭の明かりを消すと、エリーゼは寝台に入り、眠りについた。
翌朝、コルベールの邸に向かうための馬車の用意が整い、ユリアンとフィリア、そして姉のルイズがエリーゼを見送ってくれる事になった。
「エリーゼお姉ちゃま、行っちゃヤダ!」
自分のドレスにしがみ付き、駄々を捏ね始めるフィリアを見て、愛しさが込み上げてくる。それに、エリーゼ自身寂しくもあった。
「フィリア、エリーゼお姉様を困らせては駄目だ」
ユリアンはやんわりと窘めながら、エリーゼのドレスを握っていたフィリアの手を取り、自分の手と繋ぎ合わせる。
兄らしく、そして紳士的なユリアンの対応に感心しつつ、エリーゼは微笑ましい思いで小さな兄妹を見つめていた。
すると、不意にユリアンが無垢なサファイアの瞳で、エリーゼを見ながら口を開く。
「またしばらくしたら、この邸に帰って来てくれるのでしょう?」
「え、えぇっと……」
確かにこの邸での暮らしは、とても穏やかであり、安らぎを与えてくれるものだった。
エリーゼとて叶う事なら、もっとここにいたいと思ってしまう程に。
それでもエリーゼは、コルベール家に嫁いだ現実と向き合わなければならない。
コルベール家では、相変わらずの日常が待っているのか、帰宅する事で何かが変わるのか。未来の事は分からない。
何せエリーゼは、夫の事が何一つ理解出来ないのだから。今後、どのような関係を構築していくかなど、検討もつかない。
(もしかしたら、またラガルド家でお世話になる可能性もあるけれど……でも、甘えてばかりではいられないわ)
ユリアンの明るい声が、エリーゼの思索を断ち切る。
「そうだ、エリーゼお姉様に教えてもらった本、とっても面白かったです。読み始めたら止まらなくて、一気に読んでしまいました」
「まぁ、あの本をもう読んでしまったの?」
「はい、またおススメの本があれば教えてください」
「そうね、何冊かリストアップした物を手紙に認めるわ」
「お手紙、楽しみにしています。僕も必ず書きます」
「ありがとう、私も楽しみだわ。それと、ユリアンも刺繍の柄が決まったら教えてね。
「はい、馬か猫か犬で悩んでいまして……」
顎に手を当て、真剣に思案し始めるユリアンを見て、エリーゼは微笑んだ。ユリアンは動物が好きらしく、昨日から悩み中だ。
三つくらいなら全て引き受けてもいいが、まずは最初のモチーフを決めて貰おうと思う。そして誕生日には、お勧めの本も贈ろう。フィリアにはどんな贈り物がいいだろうか。
右手はユリアンと、左手はフィリアと手を繋いだエリーゼは、改めて自身の姉、ルイズに向き合った。
「お姉様、とてもお世話になりました」
「こちらこそ、子供達の面倒を見て貰えてとても助かったわ。何かあったら、すぐに知らせてね」
「はい」
別れを惜しむ気持ちに背を向け、笑顔で姉親子に改めて挨拶と共に感謝を述べ、馬車に乗り込んだ。
車窓から流れる景色を眺め、少しずつ近づく現実が、心に影を差していく。
エリーゼを乗せた馬車が門を潜る。目を背けていた嫌な記憶と感覚が、より鮮明に目覚めていくように思えた。
コルベール邸の前で馬車が停まると、エリーゼは降り立ち、改めて邸の外観を視界に映した。
玄関ポーチに一歩踏み出して邸の扉前に立つと、すぐに両開きの扉が開き、邸がエリーゼを迎え入れる。玄関ホールに入ると、コルベール家の執事を始めとする、使用人達は揃ってエリーゼの帰りを心待ちにしていたかのように出迎えた。
夫のアランはまだ家督を譲り受けておらず、父親のコルベール侯爵は、家の財政を立て直すため領地で奮闘している。ちなみにアランの母であるコルベール侯爵夫人は、既に亡くなっている。
アランも騎士の仕事のため、邸を不在にする事も多い。アランが不在時には必ずコルベール家に戻り、エリーゼは邸の女主人として少しでも出来る事を探して務めてきた。コルベール領にある、孤児院への刺繍の寄付もその一つである。
若く美しい女主人が帰宅すると、邸はそれだけで華やかさと明るさが増した。
ちなみに使用人達はアランの愛人を、決して女主人のような扱いはしない。
エリーゼの帰宅に気付いたのか、アランがエントランスまで出迎えに来た。サロンでわざわざエリーゼが帰宅するのを、待っていたらしい。
ただ、夫として妻の帰宅を心待ちにしていた、という訳では当然なさそうだ。
単に用があるから、それだけを伝えにきたのだ。
そして相変わらず彼の傍には、愛人であるタニアの姿もあった。
「ふん、帰ったか」
第一声がこれだった。
嫌悪感を微塵も隠そうとしないブレない態度に、エリーゼはむしろ感心してしまいそうになる。しかしそんな不機嫌な夫アランは、エリーゼの姿をほんの少し視界に入れた途端、その目を驚きで見開かせた。
挙句キョロキョロと辺りを見渡し、エリーゼを二度見するという奇妙な行動をとり、ついに声を荒らげた。
「⁉ ……なっ、だ、誰だっ⁉」
とうとう顔も忘れたのかと、エリーゼは呆れを通り越して、無の境地に到達しつつある。
エリーゼの帰宅を待っていた癖に、本人を前にして「誰だ」とは、彼の頭の中はやはり理解不能だった。
「コルベール侯爵家で、形だけの妻をさせて頂いております、エリーゼと申します。別に忘れて頂いても結構ですが」
アランの「誰だ」と言った発言に合わせて、エリーゼも久々に会う夫に、わざと初対面のような挨拶をした。
そのエリーゼの声は凛としていて涼やかで、とてもよく通る。昔、アランに萎縮してボソボソと、呟くように話していたのが嘘のように。
(それにしても、私の顔を忘れてしまうほど頭が悪いのかしら? そんな事で、これから貴族の社交をこなせるというの? それとも、それほどまでに私に興味がないという事かしら)
しかしエリーゼにとっても、アランは最早どうでもいい存在となっているので、どっちでも良かった。むしろ興味を持たれるほうが、迷惑とも言える。
互いに興味がないといった点のみが、この夫婦の共通する部分かもしれない。
その唯一の共通点が、今この瞬間のアランに限っては崩れそうになっていた。彼の先程の奇妙な行動の理由は、目の前の美少女が、成長したエリーゼという事実に確信が持てなかったからだ。もしかしたら後ろに本物が隠れているのでは、といった可能性に対してのものだった。その落ち着きない視線と仕草は、実に挙動不審そのものである。
そして陰鬱な子供としか思っていなかった、妻エリーゼの見事な成長ぶりに、アランは未だ度肝を抜かれて、絶句中だった。
子供の成長とは早いものである。特にここ最近のエリーゼに至っては。
この三年、エリーゼはアランと邸で少なからず顔を合わす事もあるが、極力彼とは関わりたくはないので、アランがいる時は部屋に引きこもる事が多かった。たまにすれ違ったとしても、エリーゼからは話す事もなく、またアランから嫌味を言われないように顔を伏せるのが習慣付いていた。おかげでまともに顔を見るのも今日が久々だった。何か用があれば使用人を挟めばいい事なのだから。
そんなアランの内心等知る由もないエリーゼは、未だ言葉を失っている夫に不審そうに首を傾げ、不躾でない程度に周囲を見る。
現在石像のように固まっている彼の後ろには、恋人であるタニアの姿もあった。
二十七歳になった元踊り子のタニアはとっくに踊るのを辞め、ひたすら贅沢な暮らしや旅行、美味しい食べ物、スイーツ、酒に夢中になり、移動は専ら侯爵家の馬車となっている。豊満で魅力的な身体は更に進化を遂げていた。
つまり三年前よりかなり太っていた。
定期的に、わざわざ直接嫌味を言いに来るタニアは、アランよりも頻繁に顔を合わせる機会が多い。おかげで、どんどん膨らんでいく過程を確認していたが、エリーゼがラガルド家にいる間に更に肥大した気がする。
毎日顔を合わせていては気付かない変化でも、久々に目にすると違いが明白になる。
前回会った時に比べてエリーゼは縦に伸び、タニアは更に横に伸びていた。
夫に愛情があれば、愛人の堕落はある種の喜びを生むのかもしれないが、現在のタニアの姿を見たエリーゼは、無性に悲しくなってしまった。あんなにも魅力的な身体を持って生まれたのにもかかわらず、欲と怠惰で美しさを手放してしまうなんて、と切なくなる。
人の美しさ、素晴らしさは何も外見に限った事ではなく、本質である内面こそが重要だと思っているが、それでも体型管理などは、貴族社会においても重要な部分である。そもそもタニアの場合、健康的なふくよかさとは違い、カロリーの高い食事を摂取し続け、働きもしなければ大して歩きもしない、移動の大半が馬車という結果が招いた、非常に不健康な生活の現れなのだ。
美とは健康の上に成り立つものとも言うらしい。いかにタニアが苦手とあっても、率直に健康面がかなり心配になってきているし、悪印象があって尚、魅力的な外見だと素直に思えたほど美しかったタニアが、まだ二十代にもかかわらず、それを手放してしまった事を、純粋にもったいないと感じてしまった。
加えてエリーゼには、今更な夫の不貞やタニアの嫌味より、もっと許せない事があった。それはタニアの化粧だ。他人に不快感を与えない美的感覚はマナーの一つである。
アランがエリーゼを女性として、妻として微塵も興味を持つ事がないまま月日は流れ、エリーゼは既に十六歳となっていた。
騎士であるアランは元々、仕事で遠征に行く等の理由で家を空ける事も多いが、エリーゼも今年は社交シーズンまで実家に帰ると執事を介して夫に告げた。
つまり、屋敷の主人夫妻が揃っていなくなる日が生まれるわけだが、社交シーズンでなければ特に問題はない事をエリーゼは知っていた。エリーゼの父である、リュシドール伯爵もまた多忙のため、王都の邸を空ける事が多い。現在は長男のフェルナンドが、リュシドールの邸を取り仕切っている。が、そもそもエリーゼは実家で父親の顔を見た事がほとんどなく、母もエリーゼの婚約と前後して亡くなったため、当主夫妻が不在の伯爵家が問題なく運営出来ていた事を、実感として知っているのだ。
アランも興味のない妻が家にいるよりはと、エリーゼの不在を喜んでさえいた。
コルベール家には実家に帰省中と言付けているエリーゼだが、王都にはいるものの、実際は別の場所に滞在中である。十歳才上の姉であるルイズの嫁ぎ先である、ラガルド侯爵家の邸宅に身を寄せていた。
ラガルド家の邸にあるサロン。日当たりのいい窓際の椅子に腰掛け、エリーゼは刺繍に専念していた。
「エリーゼお姉ちゃま~、このご本を読んでっ」
金髪の幼い女の子が、サロンに入った途端、エリーゼを見つけて駆けてくる。本を手にしたこの幼女は、ラガルド家の令嬢であり、ルイズの娘フィリア。天使のように愛らしい姪に、エリーゼは顔を向けて微笑んだ。
「ちょっとだけ待ってね、もうすぐ刺繍が完成するから。ほら」
完成間近の薔薇の刺繍を施したハンカチを、姪のフィリアに見せてやった。途端、フィリアはサファイアの瞳を輝かせる。
「とっても綺麗ね!」
「今度フィリアにも作ってあげるわね」
「本当⁉」
「えぇ、フィリアはどんな花が好きかしら? 動物とかのほうがいい?」
エリーゼの問いに、フィリアはわずかに考えた後、元気よく声をあげた。
「う~んと、毛虫!」
「け、毛虫⁉」
(それは果たして動物に分類してもいいのかしら⁉ い、いえ、昆虫よね⁉)
思い掛けない回答に、戸惑いを隠せないエリーゼと、キラキラとした無垢な瞳で刺繍を見つめるフィリア。
そんな二人に向かって、たった今やって来たフィリアの兄、ユリアンが呟いた。
「う~ん、フィリアが好きなのって毛虫だっけ? 青虫じゃなかった?」
「お兄ちゃま、あの緑のヤツって青虫だっけ?」
「青虫だね」
「じゃあ、青虫!」
二人の会話を、黙って見守っていたエリーゼは恐る恐る確認をする。
「む、虫が好きなのね……フィリアは」
どちらにしても結局虫なのか。フィリアはどうやら虫が好きらしい。虫ならせめて、蝶とかでは駄目なのかと思ったが、口を噤んだ。
フィリアが希望しているのは青虫なのだ。
大切な姪の注文である。やはり現実味を追求した青虫より、可愛らしくデフォルメしたほうが喜ぶだろうかと、エリーゼは青虫の刺繍を頭の中で思い描いた。
(葉っぱに乗った青虫の刺繍……案外可愛いかもしれないわ。周りにお花の刺繍も添えて華やかにしつつ……)
嫁ぎ先のコルベール家にいる時は、侍女達と刺繍をして過ごす事が多い。アランが家にいてなかなか部屋からエリーゼが出られない時も、侍女のレナが刺繍に付き合ってくれる。そして美味しいお茶を用意して、二人で刺繍をしながら、楽しくお喋りをして暇を潰すのが日課となっていた。
そのおかげで元々得意だった刺繍の腕を、エリーゼは更に上げていった。
刺繍は楽しく暇を潰す事が出来、満足のいく仕上がりとなった時の達成感を味わえるのが好きだ。そして何より、完成品は孤児院が併設された教会へと、寄付する事が出来る。刺繍とは実益も兼ねた、無駄のない素晴らしい趣味だとエリーゼは思っている。
エリーゼは、このラガルド侯爵家では甥と姪の、家庭教師のような役割もしていた。
姉ルイズは幼くして嫁いだ妹をとても心配し、しばらくの間自身の側に置く事を考えた。
そして子供達はとてもエリーゼに懐いている。家庭教師を任せる事で、エリーゼが気兼ねなくラガルド邸に滞在出来るようにしていた。また、この件に関して、当主であるラガルド侯爵も大いに賛成している。
侯爵夫妻がここまでエリーゼの身の振り方に介入するようになったのは、エリーゼが姉に自分の日々のドレスについて、切実な悩みを相談した事がきっかけだ。成長期であったエリーゼは、コルベール家で用意されたドレスでは、とっくに身体と合わないようになっていた。一度はアランに用立てて貰えないのかと尋ねてきたルイズだが、そもそもコルベール邸において、エリーゼの身の回りの物を揃えるのに使われる費用は、僅かな額に減らされているらしいと知り、ルイズにとっても兄であるフェルナンドに妹の窮状を伝えると同時に、夫に頼んで社交シーズンまでエリーゼを屋敷に招いて留め置く許可を貰ってくれたのだ。
現在は主に実家の兄による手配から、身の回りのものを揃えて貰っている。それとは別に先日は、家庭教師のお給金で自分のドレスを仕立ててみた。
働いたお金で遣り繰りしながら、自分好みにドレスを仕立てるのは、実に新鮮な感覚だった。この点に至っては、エリーゼはむしろ楽しんですらいる。
エリーゼと姉の子供達が戯れている様子は、その場に光が差したように輝いていた。
ちなみにユリアンが八歳で、フィリアが四歳になったばかりだ。三人共金髪に青い瞳という、同じ色素を持ち、叔母であるエリーゼはまだ十六歳である。側から見ると、甥と姪というより三人は姉弟のように映る。
まるで天使のような三人の様子に、ラガルド家の使用人達は、眼福の眼差しで見守っていた。
フィリアに本を読んでいると、ラガルド家の執事がエリーゼを呼びに来た。
実家から、兄のフェルナンドがエリーゼを訪ねて来たのだという。
執事の案内の元、兄の待つ部屋に向かい、その扉を開ける。部屋の中にいたフェルナンドが笑顔で出迎えてくれた。
リュシドール家の兄弟は三人共とても仲がいい。
フェルナンドの向かいの席に腰をかけると、一枚の手紙が目の前に差し出された。
「手紙だよ。コルベール家のエリーゼの夫からだ」
「私に夫などいたかしら?」
『夫』という単語に、エリーゼは顔をしかめた。
実家に届いたエリーゼ宛の手紙は、こうやって兄が届けに来るようになっている。
姉のルイズがこのラガルド侯爵家に嫁いだ事で、リュシドールとの共同で立ち上げた新事業がある。その事業とはリュシドール側は伯爵ではなく、フェルナンドが取り仕切っている。
事業の打ち合わせのため、フェルナンドがこちらを訪れる事も多く、ついでにエリーゼに手紙などを届けたりもしている。
「はぁ」
フェルナンドから手紙を受け取り、内容を確認した途端、思わずエリーゼの口から溜息が漏れた。
そんな物憂げな表情でさえ、今のエリーゼの姿はとても絵になる。
十六歳となったエリーゼは身長が伸び、すらりとした長い手足。美しく括れた細い腰を持っているにもかかわらず、胸も豊かに膨らんでいる。
そして艶やかな光り輝く金糸の髪。髪と同じ金色の長い睫毛に縁取られた宝石のような青い瞳。薄桃色の頬に薔薇色の唇。滑らかな鼻梁。
エリーゼは見事な美少女へと、成長を遂げていたのだった。
鬱々たる気分で、手元から視線を逸らすエリーゼ。手紙は、近日王宮で開かれる夜会に、妻として同伴するようにとの事が書かれてある。
アランからの手紙は、用件のみが書かれた実にシンプルな物だった。
最低限しか、エリーゼと関わる気のないアランらしい手紙。
再び溜息を吐いた、エリーゼを見ながらフェルナンドが口を開く。
「手紙の内容って、次の王宮で開かれる夜会の件かな?」
「ご名答です」
目の前のフェルナンドから『夜会』とはっきり口にされ、更に憂鬱な気分になる。
社交シーズンが到来し、コルベールの邸に帰らなくてはいけない現実を直視しなければ。
エリーゼにとって、夜会自体は別に嫌いではない。
会場の絢爛な雰囲気も、美味しい料理やスイーツ、華やかな人々。
着飾った衣装や宝飾品を眺めながら、流行を把握して次に流行りそうな物を予想するのも楽しい。
このような部分だけは、自分に流れる『商売で成り上がったリュシドール家』の血が色濃いのだと自覚してしまう。
本来ならば心を躍らせる気持ちを、アランのエスコートが打ち消してくる。会場への行き帰りの馬車内で、アランと二人きりになる時間が特に苦痛だった。
そして問題は夜会に限らない。夜会以前に社交シーズンの到来は、コルベール邸への帰宅を意味する。自分でそう期限を決めていた。再びあの邸での生活が始まるのは実に億劫だ。
末妹の様子にさもありなんと笑いながら、フェルナンドはリボンが掛けられた箱をエリーゼに差し出した。
「それと、約束していた今回の夜会用ドレスが、出来上がったよ」
夜の帳が下りた頃。
ラガルド家で用意して貰っている客間の一室。傍らの手燭を頼りに、エリーゼは今まで読んでいた本を閉じた。読んでいたのは昆虫の図鑑。
フィリアへ、プレゼントするための刺繍の図案が決まると、そろそろ就寝時間となっていた。
灯した明かりと、月明かりが差し込む静かな室内でこれまでの事や、これからの未来について、様々な思いが頭の中を駆け巡る。夜は自然と考え込んでしまう事が多くなる。
ラガルド家にいる間、とても穏やかな時間を過ごす事が出来た。
優しい姉と義兄に、可愛いユリアンとフィリア。ラガルド家の人々には感謝してもしきれない。
姉夫婦のような家庭を持つ事に憧れていたけれど、決して自分には得られそうもない。
ならば代わりに、いつまでもラガルド家の人々が幸せな日々を過ごせますようにと。エリーゼはそう願わずにはいられなかった。
お祈りを済ませて手燭の明かりを消すと、エリーゼは寝台に入り、眠りについた。
翌朝、コルベールの邸に向かうための馬車の用意が整い、ユリアンとフィリア、そして姉のルイズがエリーゼを見送ってくれる事になった。
「エリーゼお姉ちゃま、行っちゃヤダ!」
自分のドレスにしがみ付き、駄々を捏ね始めるフィリアを見て、愛しさが込み上げてくる。それに、エリーゼ自身寂しくもあった。
「フィリア、エリーゼお姉様を困らせては駄目だ」
ユリアンはやんわりと窘めながら、エリーゼのドレスを握っていたフィリアの手を取り、自分の手と繋ぎ合わせる。
兄らしく、そして紳士的なユリアンの対応に感心しつつ、エリーゼは微笑ましい思いで小さな兄妹を見つめていた。
すると、不意にユリアンが無垢なサファイアの瞳で、エリーゼを見ながら口を開く。
「またしばらくしたら、この邸に帰って来てくれるのでしょう?」
「え、えぇっと……」
確かにこの邸での暮らしは、とても穏やかであり、安らぎを与えてくれるものだった。
エリーゼとて叶う事なら、もっとここにいたいと思ってしまう程に。
それでもエリーゼは、コルベール家に嫁いだ現実と向き合わなければならない。
コルベール家では、相変わらずの日常が待っているのか、帰宅する事で何かが変わるのか。未来の事は分からない。
何せエリーゼは、夫の事が何一つ理解出来ないのだから。今後、どのような関係を構築していくかなど、検討もつかない。
(もしかしたら、またラガルド家でお世話になる可能性もあるけれど……でも、甘えてばかりではいられないわ)
ユリアンの明るい声が、エリーゼの思索を断ち切る。
「そうだ、エリーゼお姉様に教えてもらった本、とっても面白かったです。読み始めたら止まらなくて、一気に読んでしまいました」
「まぁ、あの本をもう読んでしまったの?」
「はい、またおススメの本があれば教えてください」
「そうね、何冊かリストアップした物を手紙に認めるわ」
「お手紙、楽しみにしています。僕も必ず書きます」
「ありがとう、私も楽しみだわ。それと、ユリアンも刺繍の柄が決まったら教えてね。
「はい、馬か猫か犬で悩んでいまして……」
顎に手を当て、真剣に思案し始めるユリアンを見て、エリーゼは微笑んだ。ユリアンは動物が好きらしく、昨日から悩み中だ。
三つくらいなら全て引き受けてもいいが、まずは最初のモチーフを決めて貰おうと思う。そして誕生日には、お勧めの本も贈ろう。フィリアにはどんな贈り物がいいだろうか。
右手はユリアンと、左手はフィリアと手を繋いだエリーゼは、改めて自身の姉、ルイズに向き合った。
「お姉様、とてもお世話になりました」
「こちらこそ、子供達の面倒を見て貰えてとても助かったわ。何かあったら、すぐに知らせてね」
「はい」
別れを惜しむ気持ちに背を向け、笑顔で姉親子に改めて挨拶と共に感謝を述べ、馬車に乗り込んだ。
車窓から流れる景色を眺め、少しずつ近づく現実が、心に影を差していく。
エリーゼを乗せた馬車が門を潜る。目を背けていた嫌な記憶と感覚が、より鮮明に目覚めていくように思えた。
コルベール邸の前で馬車が停まると、エリーゼは降り立ち、改めて邸の外観を視界に映した。
玄関ポーチに一歩踏み出して邸の扉前に立つと、すぐに両開きの扉が開き、邸がエリーゼを迎え入れる。玄関ホールに入ると、コルベール家の執事を始めとする、使用人達は揃ってエリーゼの帰りを心待ちにしていたかのように出迎えた。
夫のアランはまだ家督を譲り受けておらず、父親のコルベール侯爵は、家の財政を立て直すため領地で奮闘している。ちなみにアランの母であるコルベール侯爵夫人は、既に亡くなっている。
アランも騎士の仕事のため、邸を不在にする事も多い。アランが不在時には必ずコルベール家に戻り、エリーゼは邸の女主人として少しでも出来る事を探して務めてきた。コルベール領にある、孤児院への刺繍の寄付もその一つである。
若く美しい女主人が帰宅すると、邸はそれだけで華やかさと明るさが増した。
ちなみに使用人達はアランの愛人を、決して女主人のような扱いはしない。
エリーゼの帰宅に気付いたのか、アランがエントランスまで出迎えに来た。サロンでわざわざエリーゼが帰宅するのを、待っていたらしい。
ただ、夫として妻の帰宅を心待ちにしていた、という訳では当然なさそうだ。
単に用があるから、それだけを伝えにきたのだ。
そして相変わらず彼の傍には、愛人であるタニアの姿もあった。
「ふん、帰ったか」
第一声がこれだった。
嫌悪感を微塵も隠そうとしないブレない態度に、エリーゼはむしろ感心してしまいそうになる。しかしそんな不機嫌な夫アランは、エリーゼの姿をほんの少し視界に入れた途端、その目を驚きで見開かせた。
挙句キョロキョロと辺りを見渡し、エリーゼを二度見するという奇妙な行動をとり、ついに声を荒らげた。
「⁉ ……なっ、だ、誰だっ⁉」
とうとう顔も忘れたのかと、エリーゼは呆れを通り越して、無の境地に到達しつつある。
エリーゼの帰宅を待っていた癖に、本人を前にして「誰だ」とは、彼の頭の中はやはり理解不能だった。
「コルベール侯爵家で、形だけの妻をさせて頂いております、エリーゼと申します。別に忘れて頂いても結構ですが」
アランの「誰だ」と言った発言に合わせて、エリーゼも久々に会う夫に、わざと初対面のような挨拶をした。
そのエリーゼの声は凛としていて涼やかで、とてもよく通る。昔、アランに萎縮してボソボソと、呟くように話していたのが嘘のように。
(それにしても、私の顔を忘れてしまうほど頭が悪いのかしら? そんな事で、これから貴族の社交をこなせるというの? それとも、それほどまでに私に興味がないという事かしら)
しかしエリーゼにとっても、アランは最早どうでもいい存在となっているので、どっちでも良かった。むしろ興味を持たれるほうが、迷惑とも言える。
互いに興味がないといった点のみが、この夫婦の共通する部分かもしれない。
その唯一の共通点が、今この瞬間のアランに限っては崩れそうになっていた。彼の先程の奇妙な行動の理由は、目の前の美少女が、成長したエリーゼという事実に確信が持てなかったからだ。もしかしたら後ろに本物が隠れているのでは、といった可能性に対してのものだった。その落ち着きない視線と仕草は、実に挙動不審そのものである。
そして陰鬱な子供としか思っていなかった、妻エリーゼの見事な成長ぶりに、アランは未だ度肝を抜かれて、絶句中だった。
子供の成長とは早いものである。特にここ最近のエリーゼに至っては。
この三年、エリーゼはアランと邸で少なからず顔を合わす事もあるが、極力彼とは関わりたくはないので、アランがいる時は部屋に引きこもる事が多かった。たまにすれ違ったとしても、エリーゼからは話す事もなく、またアランから嫌味を言われないように顔を伏せるのが習慣付いていた。おかげでまともに顔を見るのも今日が久々だった。何か用があれば使用人を挟めばいい事なのだから。
そんなアランの内心等知る由もないエリーゼは、未だ言葉を失っている夫に不審そうに首を傾げ、不躾でない程度に周囲を見る。
現在石像のように固まっている彼の後ろには、恋人であるタニアの姿もあった。
二十七歳になった元踊り子のタニアはとっくに踊るのを辞め、ひたすら贅沢な暮らしや旅行、美味しい食べ物、スイーツ、酒に夢中になり、移動は専ら侯爵家の馬車となっている。豊満で魅力的な身体は更に進化を遂げていた。
つまり三年前よりかなり太っていた。
定期的に、わざわざ直接嫌味を言いに来るタニアは、アランよりも頻繁に顔を合わせる機会が多い。おかげで、どんどん膨らんでいく過程を確認していたが、エリーゼがラガルド家にいる間に更に肥大した気がする。
毎日顔を合わせていては気付かない変化でも、久々に目にすると違いが明白になる。
前回会った時に比べてエリーゼは縦に伸び、タニアは更に横に伸びていた。
夫に愛情があれば、愛人の堕落はある種の喜びを生むのかもしれないが、現在のタニアの姿を見たエリーゼは、無性に悲しくなってしまった。あんなにも魅力的な身体を持って生まれたのにもかかわらず、欲と怠惰で美しさを手放してしまうなんて、と切なくなる。
人の美しさ、素晴らしさは何も外見に限った事ではなく、本質である内面こそが重要だと思っているが、それでも体型管理などは、貴族社会においても重要な部分である。そもそもタニアの場合、健康的なふくよかさとは違い、カロリーの高い食事を摂取し続け、働きもしなければ大して歩きもしない、移動の大半が馬車という結果が招いた、非常に不健康な生活の現れなのだ。
美とは健康の上に成り立つものとも言うらしい。いかにタニアが苦手とあっても、率直に健康面がかなり心配になってきているし、悪印象があって尚、魅力的な外見だと素直に思えたほど美しかったタニアが、まだ二十代にもかかわらず、それを手放してしまった事を、純粋にもったいないと感じてしまった。
加えてエリーゼには、今更な夫の不貞やタニアの嫌味より、もっと許せない事があった。それはタニアの化粧だ。他人に不快感を与えない美的感覚はマナーの一つである。
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