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エピソード
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彼女の事を知ったのは僕が大学生だったころ。
きっかけは何だっただろう。
その頃はウユニ湖の様に薄く広くチェックするオタクだった。
オタク大好きウユニ湖、超高塩分濃度のあのウユニ湖である。
実行する人は特別な訓練を受けているから、良い子の皆は真似しちゃだめだぞ。
布教活動するでもなく、ライブやイベントに行くでもない。
そんな薄っぺらオタクだった。
ただ日々出てくる膨大な数のアニソンその他楽曲を一通りチェックして日々を潰すような人間だったから、確か曲だったと思う。
歌唱力が特別高いという訳ではなかった。
ブラウンシュガーのようにまだ荒く、完全には精製されていない。
でも、凄く優しい味だ。
金平糖のように、キラキラコロコロした可愛い声で、妙に元気が出る歌声。
何か、自分が求めていたものにカッチリと嵌ったような気がした。
それが始まりだった。
彼女は声優が本業な上にまだ学生だったから、専業の人に比べたらリリース間隔は短くない。
ただし、ソロでもユニットでも音楽活動している。
働き者過ぎるのでは。
高頻度で新曲が出るわけではなくとも、彼女の人気が高まるとともに聴く機会が増えていく。
そして自分のアンテナが彼女を向くほどに、名前を目にする数が増えて行ったように思う。
アニメの出演にも気付くようになる。
といっても、僕にとって物語は専ら小説、ラノベや漫画といった紙媒体で、映像は嗜む程度。
僕には展開が速くて感情が振り回されてしまうのだ。
特に甘酸っぱい展開はすぐにキャパオーバーになってしまう。
映像を止めて、落ち着いてから続きを観るのを繰り返す。
うわっ…私のメンタル、弱すぎ…?
それよりは、自分のペースでチビチビ読むことができる書籍の方が合っていた。
同じように人間関係もあまり深くしない方が合っていた。
感情が制御できなくなるので、誰かに好意を向けられても遠ざけてしまう。
相手がくれた気持ちに十分報いることが出来ず、むしろ迷惑を掛けてしまう生き物だった。
臆病の言い訳だったのかもしれない。
トラブルメーカー体質なのは間違っていないのだけれど。
今日も一日一事故、教育委員会に新鮮な話題をお届けしてしまうぞ。
だからこそかもしれない。
手の届かない位置に居る人ならば、きっとどれだけ応援しても安全だし問題もあるまい。
そう思いついてしまった。
大丈夫だから、彼女の声を直接聴きたいと思うようになっていた。
僕は大学院生になっていた。
なかなか成果が出ないポンコツだったけど、それでも彼女の曲を流すと不思議と元気が出る。
気付けば彼女の曲ばかり聴くようになっていた。
彼女のライブに行ってみたい。
さて、そのためには何が必要だろうか?
グッズを手に入れる?
掛け声を覚える?
ノンノン。
僕が最初に考えたのは保湿だった。
いや、結構マジメに言っているから笑わないで欲しい。
……やっぱり、笑ってもいいよ?
万が一彼女の視界に入っても、出来るだけ不快な思いをさせないようにしなければ。
なにせ、化粧品売り場を通り過ぎると、「ちゃんとケアしないと良くないですよ」と店員に呼び止められてしまうくらい、何もしていなかった。
そこな陳列してある品のターゲット層ではあるまいにそれでも呼び止めるとは、よほど酷い状態であったことは想像に難くない。
当時はあまり考えていなかったが、思い出すほど気になってくる。
まずい。
少なくともおいしくはない。
若干トラウマになっていた。
化粧水に石鹸、日焼け止めなどなど自分の肌で試し始める。
すぐに分かった。
確かに、肌ダメージが蓄積し過ぎていることに。
気になり始めると止まらない。
毛穴が蓮コラか何かのように見え始める。
逆から見ても同じことが言える。
普段気にしていることならば、相手の状態もよく目に入る。
あぁ、世の人々からはこんな風に見えていたのだな。
美容に気を遣っている人から見たらなおさら気になるだろう。
やはり、知らず知らずのうちに相手に不快感を与えるかもしれないというのは間違いではないと思う。
何を使ってもなんか合わない。
特にボロボロ肌における洗顔料と化粧水の組み合わせは、すぐバランスが崩れてしまう。
洗わなければ毛穴が詰まる、洗えば乾燥で脂が噴出する。
肌がすぐに突っ張り、頬テッカテカや!
対応に追われる。
でもやっているうちになんだか楽しくなってきた。
実験と同じ要領だ。
生物系はどうやってパラメータを合わせているのだろう。
ノウハウがないのか予想以上に再現しない。
位相余裕が無くて発振している。
それでも、化粧水に原料を混ぜて調整し始めた頃には、ある程度落ち着くようになった。
全身が保湿されるようになると、なぜか体臭も少なくなってくる。
やったことない人は試した方が良いよ。
昔から凝り始めると止まらない。
せっかくならと、眼鏡もコンタクトに変えて、眉毛も整えるようになる。
センスが無いので、大きく印象が変わるほどは弄れないが。
髪はボサボサだが、だがそれが良いと言う人が居たことがあるので保留にしておこう。
髪型の良し悪しはよく分からないので、昔から適当に切っていた。
もし彼女の好みが分かれば、その時でも間に合うだろう。
よし、参加の準備は整った。
明後日の方向にばかり気合を入れていた。
今日は彼女のユニットが僕の地元でライブする日。
ギリギリにチケットを取ったのでほぼ最後尾だ。
当然ながら知り合いは居ない。
広い会場には気合の入っている人ばかり。
若干の場違いさを感じる。
ここに居ても大丈夫だろうか。
そんな風にキョロキョロと挙動不審に過ごしていた。
まるで保湿しか考えてなかったように思うかもしれないが、ちゃんとグッズも入手したよ?
手元に握るは買ったばかり、ピカピカしているペンライト。
長々と調子を確かめていると、突然照明が暗くなる。
開演だ。
初めて直接見て、想像よりもずっと可愛い人なのだと知った。
画像で見た印象とは全然違う。
小柄な体格と裏腹に、エネルギー溢れるその姿。
バッキバキに踊っている。
綺麗な髪がこちらを誘うかのように靡く。
凄い。
今まで見たこと無いタイプの人だ。
気付けば終わっていた。
10行に満たない感想を読むのと同じくらいの体感時間だ。
狐につままれたようで現実感が無い。
ライブが終わってようやく、確かにそこに居たのだと、そう思えた。
違和感がいつの間にか無くなっていた。
言葉に出来ない感情が少しずつ溜まってきている。
彼女の初ソロライブが開催されると知って、今度は最速で申し込んだ。
初めて応募した最速抽選は、当選していた。
調べてみると、どうも全当だったらしいが、嬉しい事には変わりない。
この時の僕は、ただ周りの流れに乗っているだけになっていて、この先何をしたいのか見えていなかった。
ただ大学で夜中まで研究して、終わったら帰って寝ているだけ。
研究すること自体は楽しくはあったけど、目立った成果を出すほどの力もない。
まだ時間はあると、少しずつ余裕がなくなっていくのを見て見ぬふりをして過ごしていた。
「社畜でも苦しい思いをしたら給料が貰えるのに、苦しい思いをして給料も出ず授業料まで払っているのだから、社畜以下だよね」
そんな風に言う教授もいたなぁ。
これがラボ畜の本懐である。
やりがい以外はもう何も要らない。
研究はいばらの道。
そこで当たったチケットは、想像以上のエネルギーを齎す。
日々の糧になる。
あぁ、沼に沈んでいく。
底はどこ?私は誰?
自意識も失っていく。
夜行バスに乗って、関東へ。
ライブ当日だ。
前回とは比べ物にならないくらいステージに近い。
静かに開演を待つ。
周りと交流の類をするにはまだ百年は早い。
つまり特にやることは無い。
でも、期待に空気を入れているだけですぐに開演の時間は来た。
単独ライブでの彼女は、前観た時と全く振る舞いが違った。
他の誰かに頼ることが出来ない。
そんな状況だからか。
“必死に”と形容するほかない。
とにかく一生懸命で、笑顔を振り撒いていて。
向かってくるエネルギーが尋常じゃない。
このライブに懸ける意気込みが熱波となって、心を焦がしていく。
まるで、戦いの中で一秒一秒成長していくような、そんな風にすら見える。
信じられない。
こんな景色が存在するんだと、初めて知った。
とにかくダンスが可憐で、エネルギッシュに歌っていて。
決して完璧という訳ではない。
でも、彼女はただがむしゃらにパフォーマンスを披露していた。
体感1秒、あっという間に最後の曲に到達してしまう。
あと71時間59分59秒欲しい。
でもそこで緊張の糸が解けたのか、彼女が感極まってしまう。
声が止まってしまった。
「ファイトーッ!!!!」
気付けば息の続く限り声を張り上げていた。
4小節を完全に埋めた。
こう見えても合唱畑出身の人間なので、声だけは多少通る。
周りからはしばしば、声が目立っていると評されたものだ。
バランス崩してどうする。
合わせられなきゃ合唱じゃねえよ。
肺の空気を使い切って声を止めた時、彼女がふわっと笑った様に見えた。
草原に育つ花々が一斉に花弁を開き花畑に変貌したような、そんな笑みだった。
そして彼女は再び歌い始めた。
もう止まらなかった。
自分の声が、気持ちが届いたように感じて、目が離せなくなった。
全身の爪先まで60兆の細胞、例外なく全てが叫んでいる。
これからずっと応援しよう。
それ以外の選択肢があるか?
いやない。
ある訳がない。
文句をいう奴が居たら市中引き回しの上獄門である。
突然の圧政が始まる。
このチケットはどうやら片道切符だったらしい。
生きて、帰って来いよ。
なんとか彼女をもっと応援したい。
そこに至って、彼女の新曲発売時には購入者に向けたリリースイベントなるものが開かれていることに、初めて気づいた。
お渡し会、なんて呼び方もされている。
記念品のブロマイドなどを直接手渡ししてもらって、その時に数十秒ほど彼女に直接言葉を届けられるという。
当選すれば、ね。
業界ではその距離から、接近戦と呼ばれているそうな。
戦うなよ、応援しろ。
了解、宣戦布告!
丁度、彼女の新曲発売が決まっていた。
応募要項を目に穴が開くまで読み、大佐ごっこをしてから、はがきに書いて一通投函する。
目がああああ?!
要項曰く、リリースイベントは全国各地で複数回行われているが、当選は1人1回までらしい。
一番近くの会場を希望して応募した。
絶対に伝えなきゃというほどではない。
キモいとか思われないだろうか。
キモいが気持ちいいの略だったら良かったんだけどな。
残念ながら世間はそう甘くない。
彼女が喜ぶかも分からない。
一か月後、当選のお知らせが届いていた。
後で考えると、1枚だけでよく当選したと思う。
イベントは学会出張から帰ってきた直後なのでバタバタだ。
せっかくだからお土産とか考えておこうかな。
正直浮かれきっていた。
能天気な事を考えていたら、案の定集合時間に遅刻しかけていた。
完璧な計画が………。
元から計画などないのだが。
予定より遅い列車に飛び乗り、降りても走る。
開場ギリギリになんとか滑り込んだ。
直前だったためか、本来の順番ではなく一番最後の席に座ることになる。
僕よりも遅れてきた人が2人座ったところで、開演となった。
いざ自分が話す番になった。
走ってきたせいか、まだ息が整わない。
目の前で見る彼女は、遠くから観るよりずっと可愛い。
ぱちくりとした大きな目で、じっと見てくる。
ちょっと距離を探っているような目だ。
意外と怖がりなのかもしれない。
ちょこんと立っている姿はまるで現実感が無い。
話そうと思ったことは風と共に消え去った。
室内なのに。
とにかく伝えないと。
凄いと思ったこと良かったことをまくし立てるかのように言う。
最後に「これからも応援しています!」と言った時には最敬礼角度でお辞儀をしていた。
……これドン引きじゃねぇの。
最敬礼は謝罪にも使えるからね。
すでに謝っている説まである。
認識した時には既に謝罪を済ませているとは、社会人って恐ろしいね。
まだ学生だけど。
「えっ」
彼女は、そう言ったっきり、何も言わなかったと思う。
元々大きな瞳を、さらに大きく開けて。
彼女の目を見た限りでは、驚いてはいそうだけど嫌そうとまではなってなさそうに見えた。
不快と思っている人は、大抵はもう少し違った目で見てくる。
ぎりぎりセーフだと思いたい。
いっぱいいっぱいだったので、壊れかけの人形みたいにステージを離れた。
「足元に気を付けてください」
そう言うスタッフの声が聞こえたのは、まさにステージから足を踏み外した時だった。
ドカンッと音が響いたが、ぎりぎり踏みとどまる。
彼女がどんな顔をしているか確かめる勇気はない。
振り返らず、速足で会場を去った。
もうほとんど人が残っていなかったのだけが幸いである。
そうだな。
一度にみなまで話そうとしたのが無茶だった。
文字にした方が良い。
そう思い、次のイベントから手紙を出すことを決めた。
そう、失敗は成功の素。
計画より実行。
世はBe Agile。
人より失敗が多いのだから、改善くらいは早くなければ。
どんな内容が良いだろう。
できるだけ面白い内容とか伏線とか仕込みたいよね。
ペンネームで書くか本名で書くか。
どんな文体にしよう。
どんなレターセットが良いだろう。
また拘り過ぎている。
どう考えてもいきなり全部盛りは無理なので、小さく始める。
当面は可能な限り丁寧な文面にしよう。
そして、彼女の態度を見ながら調整していこう。
いきなりフレンドリーな手紙を書いても怖いかもしれないし。
伏線とかは流石に難しいけど、一つだけ仕込みに丁度良さそうなものがあった。
僕の名前は読み方が何通りもあるので簡単にはどれか分からない。
敢えてそれは秘密にしておこう。
本名で通すことになるな。
SNSまで変えるのは面倒なので、そちらは普段使いのハンドルネームのままだ。
まぁ、それで困ることもないだろうが。
次のイベントが近いので手早く準備していく。
うーん、なんか硬すぎてビジネスっぽい香りがしなくもない。
レターセットのデザインも渋すぎるかもしれない。
最初はこんなもんか。
たった2枚の便箋にずいぶん時間を掛けてしまった。
意を決してプレゼントBOXに投函する。
ちゃんと読まれているといいな。
同時期に、彼女の担当しているラジオも聴き始める。
聴けば聴くほど思うのだ。
この子、真面目過ぎでは。
少しだけ口下手な言葉の節々に、そんな雰囲気が見え隠れするのだ。
信じられないくらい頑張り屋で、ストイック。
ファンがどうすれば喜ぶかを一心に考えている。
でも、ちょっと抜けていて、不器用な所もある。
もしかしたら、少々堅いと思う人も居るかもしれない。
あれだけのパフォーマンスには相応の背景が存在するのである。
人気出るはずですわ。
こんな一面を垣間見たらもう止められない。
支えなきゃという本能が無限に刺激されていく。
彼女のユニットのライブツアーが開催されていた。
彼女のソロライブとは少し毛色が違う。
ソロライブがとにかく全力をぶつけるという感じだったのに対し、お祭り感と言うかワチャワチャ感がある。
来てくれているファンをどうやって楽しませようか。
そういう余裕にも似た企みを感じるのだ。
おぬしも悪よのう。
そういうこちらは、ハロウィーンにトリック・オア・トリートされるのを血走った目で待っている人の気分だ。
血走っているのはただの不審者ムーブだ。
次第に自分がこの雰囲気に馴染むように変わっていく。
変な感覚だ。
前よりもパフォーマンスに磨きが掛かって見える。
そう余裕げに彼女の活躍を咀嚼していたのだが、現実の方は世知辛い。
僕は大学院修了要件を満たすタイムリミットが目前に迫ってきていた。
必要な論文数が足りない。
とにかく寝る間も惜しんで実験に次ぐ実験。
だんだん身を振り返る余裕もなくなってくる。
就活もしなければならないがエントリーシートを書く時間すら足りない。
期日に間に合わなかったエントリーシートが出始めたあたりで、既に破綻しかけているのは何となく察していた。
でも、どう抜け出せばいいのか分からない。
立ち止まる時間が惜しくて、方向転換が出来ない。
面接でも修了できないかもと言うと露骨に相手の雰囲気は曇る。
とは言え、あまり隠し事は得意でない。
言える物ならさっさと言ってしまった方が、気が楽。
僅かな重みとは言え、その重みを毎回背負えるほどの余裕もなかった。
社会の潤滑油にはなれそうもない。
人体を圧搾しても、車一台に必要な量くらいしか油が採れないから、巨大な社会を動かすには全然足りないのだ。
物理的にプレスすんな。
僕が迷子になっていたとき、彼女の新たな曲が現れる。
それは、僕にとっては薄明光線のように降りてきた。
彼女の曲は一つの極致に達していた。
誰にも挫けないほどのエネルギーに満ちた新曲は、余りにも眩しい。
それは太陽よりも燦々と輝き、遍く照らし尽くす。
とんでもない熱を持っているのにも関わらず、手を伸ばしても火傷することなく、粉雪のように優しく溶ける。
魔法のような曲だった。
まさに今欲している力が貰える曲と言っても良かった。
こんなタイミングが良い事があるだろうか。
こんなん推すしかないですし。
おすし。
応募は確率を考えるようになる。
イベント会場の推定キャパと推定応募者数から積む枚数を調整していくのだ。
その甲斐もあったか、次のリリイベも無事当選した。
今回当選したのはトークイベント。
直接話す機会はない。
とは言え、近くで姿が観られるだけで十分嬉しい。
トークのネタになる言の葉をアンケートに記載して、始まるのを待つ。
ちょっと雑な内容を書いてしまったかな。
これだけ人数が居るので、まぁ読まれないだろう。
速攻採用されて焦った僕が、生き残ることが出来たかは定かではない。
お察しください。
採用されるなら就活の方にしてくれ。
この新曲のリリースと共に、彼女の初ソロライブツアーが決定している。
今度から全通を目指そうかな。
少しずつイベントへの参加率が上がりつつあった。
全部は当たらなかったが、仕方あるまい。
彼女の人気は確実に上がってきている。
この調子なら、ますます高みに登っていくのだろう。
引き離されないように頑張らねば。
壇上の彼女はますます輝いていた。
蝶のように舞い、蜂のように刺す。
どの部分を切り取っても曲もダンスも刺さる。
完成度は前回の比じゃない。
表情は柔らかくなり、どんどん可憐に華麗になっている。
これを余すことなく覚えておくことが、今の僕の生きる糧だ。
もっと彼女の姿を観たい。
ライブやリリイベ以外のイベントにも行こう。
その調子で、修了にももっと力入れような?
調べてみると彼女は思ったよりもいろいろなイベントに出ている。
そう、彼女の作品は歌以外にもあった。
僕の知らない世界。
アニメ作品のイベントがこれほど多いなんて初めて知る。
にわかな僕が行くのもどうなのと思うのだが、それでも行きたい気持ちの方が大きくなってきていた。
次の新曲リリースが再び近づいてきたころだった。
リリースイベントに加え、次の日にあるイベントも応募してみる。
無事に当選となった。
初めて話したのが一年以上前。
……あまり会話になってなかった気もしなくもないが話したことにさせてくれ。
それ以来、次の機会を待っていたのだ。
でも、目の前にきた瞬間昇華点を超えた。
ゆけっ、エクトプラズム!
じゃない。戻って来い。
ぽそぽそと感謝の言葉を投げると、彼女はうんうんと頷いてくれた。
イベントだとすらすらトークしているけど、素は意外と無口なのかもしれない。
直ぐに時間が終わる、挨拶しなきゃ。
「明日のイベントも楽しみにしています」
「えっ?!」
彼女はずいぶん驚いた顔をしていた。
驚くところそこなんだ。
もしかして曲関連以外では来ないと思っていたのだろうか。
いや、彼女に覚えられるほど現れたことがない。
手紙は出していても、話すときに名乗った訳でもない。
隠しているわけじゃないから、話した内容と手紙の内容を摺り合わせれば分かる可能性はゼロではないが。
考えすぎかもしれない。
もし、たったそれだけで覚えてくれているのなら、凄くファン冥利に尽きる。
そうでなくとも記憶力が良いか、凄く頑張り屋だ。
さて、次の日もイベントだぞ。
ちゃんと作品も履修済みだ。
さて参加してみるが、意外なほど楽しい。
キャストの掛け合いを観ているだけで思ったより楽しい。
楽しそうにしている彼女を観ているのは楽しい。
来ても良かったんだ。
あんな風に笑わせてみたいな。
僕の生活には清涼成分が足りていない。
もっともっと補充しないと。
年が明け、彼女のユニットのライブツアーが始まった。
就職先も決まり、まだ予断を許さないものの、修了の目途も立ちつつある。
連日大学に泊まり込み、そのままライブに向かい、帰ってきたらまた泊まり込む。
そんな生活が続く。
何度観ても、バランスのいいユニットだ。
生まれた時から傍にいるかのように、何も言わずとも自然と呼吸が合っている。
僕には、仲のいい姉妹のように見えていた。
それほど息が合っているから、やんわり言うとこの界隈は強火推しCP関係性オタが多い。
……やんわりだったか?今の例え。
でもそうなる気持ちもわかる。
本当に観ていて気持ちの良いパフォーマンスだ。
絶好調に思えた。
その力を借りるように修了要件を満たし、社会人になることが決まる。
これからは資金力も増えるしもっと応援できる。
そう思った矢先だった。
彼女のユニット活動休止が発表された。
まぁ、そういう事がありうるのは知っていた。
だからこそ推せるうちに推せなんて言葉もあるのだ。
ただ、思っていたよりもずっと彼女の事を何も知らなかったんだなって。
言われて初めて、彼女に落ち込んでいる雰囲気が出ていることに気付いたのだ。
逆にだからこそ、あのライブがまさに星のように光り輝いていたのかもしれない。
もっと知らなければならない。
もっと笑っていて欲しい。
これからのイベントは、全部参加。
SNSは毎回メッセージを残す。
手紙もすべてのイベントで用意しよう。
社会人になって時間が出来たから、それを全力で彼女に向けよう。
既に、就職先すら”応援する余力が最大限高まる”ことを重要ファクターにするくらい入れ込んでいた。
自己満足かも知れないが、やらぬよりは良い。
タイミングよく、彼女のアルバム発売が迫っていた。
いつものようにリリイベを当選させ、いつもより気合を入れてここまでの感謝を手紙に綴っていく。
近くで見る彼女は、落ち込んでいるようにはほとんど見えない。
なんだか、前よりも可愛く笑うようになった気がする。
きっとファンのみんなが元気づけてくれたんだと思う。
話しかけると、勢いよく頷いてくれた。
ほんの数秒で、コロコロと表情が切り替わる。
でもやっぱり他の人のようには盛り上げられない。
次はもっと彼女が喜ぶような話題を考えないと。
他の人はどんなことを話しているのだろう。
よくよくこれまでの会話を振り返ると、「えっ」と「うん」以外ほとんど彼女は話してない。
あれ。
もしかして嫌がっていたりしないよね……?
やや焦った僕とは関係なく、イベントは遅滞なく進行していく。
資金力に余裕が出れば、出来ることも増えていく。
以前は遠かった東京も、気軽に往復できる。
チケットが東京で配布されますと言われても逡巡する必要が無くなった。
とは言え、無尽蔵という訳ではない。
いついかなるイベントがあろうと対応できるよう、余裕があるうちは節約すべき。
チケットが取れなかったときは、当選した人が連番してくれないかを探すようになった。
連番、つまるところペアのチケットを確保した人に、余っている席を譲ってくれないか頼むのだ。
そうすると、リリースイベントなどの当選者本人のみ参加可能なイベントの当選対策や手紙を書くことに集中できる。
この界隈では、先にチケットを確保してから一緒に行く相手を探す人がちょこちょこ居る。
大抵は一回きりの関係だ。
でも、たまに関係が続くこともある。
といっても、偶然会ったら挨拶する程度。
界隈の人間関係が虚無だった頃に比べたら大進歩だな。
夜行バスを駆使してイベントを巡る。
朝は暇なので、銭湯でゆっくりまったり。
バスの疲れをバスで癒すのだ。
はい、今しょうもないことを言いました。
神様仏様、どうかお許しください。
無情にも、場の空気を殺した罪で等活地獄確定演出が出た。
まだこの時は○ャク○ャク様が降臨される前なのでお赦しが出ない。
いや、居てもお赦しは出ねえよ?
てかこの伏せ方では危ないお薬を司る神様になってしまうやろがい。
イベントに行く回数も増えたので、東京近郊の朝風呂が出来る場所は大方コンプ。
風呂マニアっぽいなにかになりつつある。
身支度が終われば手紙の準備だ。
最初は書くのに苦労した手紙も、書くことがスラスラ出てくるようになる。
イベントに多く参加すれば、ネタも相応に増えていく。
彼女は、ただでさえ元から可愛いのに、さらに可愛さが増しているように感じた。
はにかんだような、吸い込まれそうな笑い方をすることが増えたような気がする。
彼女が担当しているラジオを聴いていても、回数を重ねるごとに彼女は明るくなっていく。
無事に癒えたのかもしれない。
正直僕よりも、草葉の陰から見守る人の方が彼女の力になっていると思う。
それでも、ふと油断すると、過剰な自意識が目覚めてしまう。
役に立てたのかなとテンションが上がってしまう。
この日々が永く続くと思っていたある日、それは起きた。
今日は、昼夜二部構成の小さなイベントだ。
先着順でチケット配布だったから、配布開始日に半休取って東京急行したのを覚えている。
席順は当日くじ引きだ。
こう見えてもくじ引きには腕に覚えがある。
おっと、科学の徒としてあるまじき発言。
神罰が下りますね。
そうは思うのだが、直接手でくじを引く時だけ、なぜか当たりが偏るのだ。
実際、昼に至っては最前ゼロオフセット、夜でも二列目、彼女から見てオフセットがゼロの特等席を引いた。
ずっと秘密のままだった名前の読み方をそろそろ明かしてもいいかなと、手紙に書いて出す。
小ネタにしてはちょっと温め過ぎたかもしれない。
腐ってやがる、遅すぎたんだ。
うまく驚いてくれるといいのだけど。
その日の彼女も、抜群にかわいくて、今までにないくらい近かったから、それだけでボルテージが上がっていく。
正直自分には過ぎた夢のよう。
夜の部が始まり、彼女が入場してきたとき、ニンマリとした視線を向けられたような気がした。
お、これは驚かせるのに成功したのだろうか。
ちゃんと確認したわけでもないのにニヤリとしてしまう。
最後のプレゼント抽選も最後の二人まで残っての頂上決戦だ。
普通にじゃんけんするだけなのだが。
勝負は手抜かないが、勝った時により喜ぶのがどちらかというと、対戦相手の方だろうな。
こちらの主目的は彼女に会いに来ることなのだから。
彼女が掛け声を出してくれているので、なるべく長く戦い続けたい。
そんな風に思っていた。
そこの気合が違ったのだろう。
何度もあいこになった末、負けた。
「よっしゃーっ!!!!」
滅茶苦茶喜び叫んどるやん。
想像よりも遥かに喜ぶ姿を視界に収め、思わずこちらも笑うしかない。
こちらとしても、彼女に音頭をとって貰いながら勝負できて満足しかない。
まさにWin-Winの関係。
なんか今日は運が良すぎる気がする。
そんなイベントも終わりに近づき、登壇者が各々挨拶をしているところだった。
挨拶を終えた彼女が、ふとこちらを見た。
目が合った。
いたずらっぽい目でじっと見てくる。
え、待って。
パニックだった。
何この状況。
吸い込まれるような瞳から目を離せない。
いや、離したくない。
エネルギーの塊か何かが容量を超えて流れ込んでくる。
限界。
頭の何かが壊れる音がした。
何秒経った?
そして2分近くが過ぎるまで目を合わせていたところで、彼女は突然ハッとしたように顔を伏せてしまった。
その顔は真っ赤だった。
既に頭は茹で上がっている。
限界を超えていた僕も、そこまで見届けたところで顔を落とした。
よく分からない神経伝達物質とホルモンが狂ったように出ている。
世界が歪んでいるかのように焦点が定まらない。
無理。
退場する姿をちらと確認してみる。
彼女はもうこちらを見ない。
カチコチに見える笑顔で退場した。
いやいや、まさかそんな漫画のテンプレのような展開があるものか。
そうは思ったが頭が幸せに握り潰されていた。
ぼやけている世界は、なんだがすごく綺麗に見える。
他の事が何も考えられない。
アルコールのように、摂取してからしばらく後に来るらしい。
目を離した後の方がくらくらする。
致死量を超えてしまった。
無理無理無理無理耐えられない。
でろっでろの泥酔状態。
まっすぐ歩けているのかすら怪しい。
そんな状態で家路についた。
その日の彼女は、イベントがあったのにいつものSNSに投稿しなかった。
---
誰かと長時間見つめ合うと解離のような症状が出るという研究があるらしい。
危ないお薬を飲んだ人と同じように。
要するに頭が正常に動かなくなる。
○ャク○ャク様の御加護が与えられたってわけだ。
今はまだ降臨の前だっての。
つまり、降臨する前だっていうのに既に前兆が出ていたという事になるな?
神格が上がってしまう。
その頭のネジが粉微塵に吹っ飛んでから数日経過していた。
先行研究とは結果が異なりますね。
その論文にはすぐに症状が消失すると書いてあったのに、そうなる気配がない。
再現性の危機が迫っている。
何か違う現象が起きているような気もする。
早く仮説を立てて症例報告しなきゃ。
素人質問を受けに行かなきゃ。
興奮してきたわ。
あれから毎日1時間半ほどしか眠れない。
寝不足で猛烈に頭が重いのに眠気が来ない。
脳内がトリガーハッピーのお花畑。
頭がガンガンしているのは認識できるのに全く辛さを感じない。
多幸感ばかりが溢れてくる。
SNSへの投稿の通知が来た。
この前のイベントの事が書いてある。
なんだかいつもよりふわふわした内容に感じた。
ちょっと調子が崩れたということが書いてあるのを見て、僕と同じことが起きているのかもしれないと、ポジティブに考えていた。
そう、自分の事が名指しされているかのように喜んでいた。
でも、ちゃんと相手の気持ちを確認したわけではないのだ。
あんなことがあったけど、偶然とは思えない出来事だと思っていても。
それでも勘違いという可能性がゼロとは限らないのだ。
確かめなきゃいけないよな。
でもどうやって。
SNSにメッセージを残したとして、彼女から連絡が来たりするのだろうか。
いやでも今までもメッセージなら書いている。
もしSNS経由で連絡する気があるなら、既に何かアクションしているはずだ。
何か理由があるのかもしれない。
焦らずとも時間はある。
少しずつ確認していこう。
まずは手紙で気持ちを伝えてみよう。
そうは言い聞かせるものの、気が急いていた。
一週間が経過した。
津波のように自分の心を沈めていた多幸感が潮のように引いてくる。
沈んでいた底から再び現れた心には、いつの間にか大穴が開いていた。
まるで”彼女との幸せな出来事”を納めるためと言わんばかりの空間。
我ながら随分気の早い事だ。
塞がる見込みのない傷口からは、脈打つたびに何かが零れ落ちていく。
浜に打ち上げられた魚のように息をしている。
日差しが容赦なく鱗を乾かしていく。
本当にこれは地球の空気なのか。
あの日の出来事を思い出せば少し楽になるが、次第に効かなくなってきている。
ほんの数日前まで路傍の石で構わないと思っていたのに、随分と贅沢になったものだ。
彼女が似たような状態になってないことを祈った。
次のイベントがやってきた。
……プレゼントBOXが無い。
手紙が出せない。
歯を食いしばる。
席も最後方だ。
彼女からは見えないだろう。
開演した直後、彼女は客席の方をキョロキョロと眺めていた。
まるで何かを探すように。
こちらから一方的に見えているということを、無性に謝りたくなってくる。
今のこの状況が酷く歪に見えた。
体を動かせず、金縛りにあう夢でも観ているかのようだ。
何か大きな失敗している気がする。
もっと急がなければならないのではないだろうか。
もうこの頃には、焦りが僕の中を支配していた。
手紙を出せるイベントが次に来たのはさらに数週間後。
既に融け、形が崩れかけた言葉をなんとか手紙という形にまとめる。
ただ、彼女がどう思っているのか確信が持てない以上、あまり下手な事も書きづらい。
調子に乗った文章を書いて、気持ち悪いと思われたりしないだろうか。
スタッフが文章を見て、怪しいと思うことはないだろうか。
スタッフが手紙の内容を確認するだろうという事は、知識としては知っている。
彼女に障るような内容でなくとも排除するだろうか。
明文化はされてない。
ひとまずやってみるしかない。
SNSには反応がない以上、他に伝える手段のあてもない。
想定されるギリギリのラインを探りながら、彼女の気持ちを問う言葉を書いていく。
本文の後、末尾の端っこに連絡先も小さく書く。
こんなに手紙を作るのは怖いものだったのか。
歯に物が挟まったような物言いになっていく文章を少しずつ軌道修正していく。
いつもよりも何倍も時間を掛けたその文字列を、プレゼントBOXに出した。
これで合っているのだろうか。
何も起こらない。
いや、普通に手紙を出したら反応なんてない。
それが普通だ。
何を当たり前のことを言っているのだろうか。
多分、間違えたのだ。
そう思い始めると、嫌な思考が止まらなくなる。
彼女は手紙を読んで幻滅したのではないか、と。
もう二度と手紙が読まれなくなるのではないか、と。
僕のような存在が発生しても、彼女の仕事には邪魔ではないのか、と。
そもそも僕じゃ釣り合わないじゃないか、と。
明日は彼女のライブだ。
どんな顔をして参加すればいいんだろう。
それでも参加しないという選択肢は取りたくない。
どれだけ矛盾に満ちていても、形だけでも、彼女を応援したいという初心を忘れたくない。
結局、モヤモヤしたままライブ当日になってしまった。
手紙だけは何とか書いたが、いつもの様には書けなかった。
ますます袋小路に迷い込んでいる気がする。
考えるのが怖い。
どこに僕の気持ちを着地させればよいのか、方向性すら見えない。
ライブが始まる。
彼女の歌もダンスもキレキレのままだ。
まるであの日の出来事が何もなかったかのよう。
なんだか感覚がおかしい。
物理的には変わってないはずなのに、今までよりもずっと距離を感じてしまう。
織姫と彦星は、実際には年一で会えないくらい遠いという。
その話を聞いた時のように、本当の距離を垣間見てしまった。
それでも、やっぱり綺麗だった。
どこまで行っても、もうここ以外に息が継げる場所はないのだ。
これからどうすればいいのか。
どうせ次に行けるイベントは一か月も先だ。
考える時間だけはたくさんあった。
彼女は何も変わってないように見えた。
あの日の出来事があって、手紙を読んだとして、自分の立場だったらどう感じただろう。
今の彼女のように振舞うだろうか。
どうしても違和感が拭えない。
僕がそう思いたいだけなのかもしれない。
彼女が今の状況を望んでいるなら、彼女の気持ちを尊重するべきだ。
だが、彼女は手紙を読んでいないのではないか。
そんな疑問が次第に大きくなってきていた。
スタッフが、彼女に届く前に捨てたのではないかと。
酷く嫌な想像だ。
彼らには彼らの論理があるのだろうけど。
彼女が不快に感じるような内容にしたつもりはない。
僕から見れば、それが本当なら必要以上に介入しているし、スタッフは彼女を信頼してないと取れる。
更に言うなら、彼女を傷つける行為を取っている。
それを正しい事とは思えないのだ。
手紙が届いてすらいないのであれば、彼女の気持ちは確かめられていない。
彼女がそうしたいという意志以外は考慮に値しない。
彼女の望みを実現したいならば、彼女の意志を第三者が捻じ曲げるという状況だけは阻止しなければならない。
まずはそれを確認する必要がある。
スタッフに伝わらないように彼女に僕の気持ちを伝える手紙を作る。
それが最初のミッションだ。
方針はすぐに固まった。
もしあの日の事が勘違いでないのならば、あの時の続きという形で書けばよいのだ。
上手く使えば、何が起きたか知らない人には言葉の意味が悉くずれて見える文章が出来る。
そうすれば彼女以外には伝わるまい。
あとはそれを自分の考えうる限りの力で文字にするだけ。
今まで、彼女に書いた手紙の中では、「好き」という言葉を使うのを避けていた。
この言葉は距離感をバグらせる。
距離感を保つべきだと思っていたし、僕が書いても拒絶されると思っていた。
要するに、言葉を向けることが怖かったんだと思う。
でも、状況は変わった。
バグるとかそんなことを言っている場合ではない。
もう止める。
ポジティブに考えれば、今まで使ってなかった言葉を向けるのだから、その分だけ言葉に真実味を持たせられるかもしれない。
念を押してさらに効果的な内容にしたい。
今まで見た技法で使えそうなものはないか。
例えば紙の書籍だと次のページが見えないから、ページを捲って最初に見える言葉にインパクトを与えられる。
便箋でも次の紙は見えないから同じ手法が使える。
そこに本命の文章を配置するのだ。
イベントまで長いと思っていたが、手紙が完成したのはイベントの直前だった。
僕自身、会心の出来と思う手紙だ。
久しぶりにイベントで見た彼女は、少しやつれているように見えた。
今まで聞いたことが無いくらい、ネガティブな言葉がポロポロ聞こえてくる。
最近ずっと閉じ込められているような気分だったとか、人にしつこく話しかけられて嫌だったとか。
でも、僕の姿に気が付くと、一気に機嫌が回復しているように感じた。
勘違いだろうか。
彼女ももしかして辛かったのだろうか。
僕の行動が遅いばかりに。
早く何とかしなければ。
そんな焦燥を呑み込んで手紙を出した。
余談だが、この時のイベントでは、演者が触れたと称する道具が露店で売られていた。
許可取っているんだろうか……。
それ以前にこの売り文句はどうなん。
買っていた人も、家宝にするなどと談笑している。
そこで初めて、彼女の周りのファンに警戒心を感じるようになっているのに気付いた。
数週間後、次の機会に現れた彼女は終始挙動不審だった。
それは彼女が会場に入ってきた時から始まる。
入場時に客席に向けて手を振りながら入ってくるが、最前列に構える僕の方向にだけは決して顔を向けない。
首を大きくΩを描いて動かし、視線を僕から華麗に避けてステージ中央に向かっていった。
そのくせイベント中に、チラチラとこちらを見てくる。
視線が合いそうになるとサッと顔を背けるのだ。
尋常じゃなく可愛い。
臨界突破してもう爆発が止まらない。
世の中にこんな可愛い生き物居ないですよ、おやっさん。
おやっさんとは。
少なくとも手紙は無事届いてそうだ。
他の登壇者が「そんなこと言う人でしたっけ」と何度も言うくらい尋常でないハイテンションで話し始める。
作ってよかった。
少なくとも嫌とは思われなかったようだし、むしろ喜んでくれてそうに見える。
多分。
最後に捌けるときも綺麗にΩを描いて避けていった。
もう目元口元がにやつくのを抑えることが出来そうにない。
気持ちジト目で見送らせて頂いた。
さて。
この結果をどう取るべきか。
その前の手紙は捨てられた可能性が大幅に高まってしまった。
スタッフに対する信頼が自由落下していく。
彼女が望んでこうしているなら尊重するが、そうである場合とはどうにも符合しないように見える。
悪寒が加速度的に増していく。
ファンはおろか、彼女の事も全く信用していない。
ただの仮説だったそれが、現実の問題になってきた。
彼女には人権がない可能性が高いらしい。
オタクがよく言う「人権がない」とは次元が違う。
二次元に移住したはずのオタクが三次元に強制送還されてしまう。
ガチな奴だ。
憲法21条2項ってここには適用されないのだろうか。
建前上、スタッフは善意で彼女に届けてくれているだけでしかないから、その方向で攻めるのは難しかろう。
完璧な確証を得たわけではないから、これからも試し続ける必要はあるだろう。
でも、急がなければならない。
ヒトと言うのはコミュニケーションをとる生き物だ。
強い感情を持っているのであれば、相応に相手とコミュニケーションを取らないだけで、傷ついてしまう。
全身全霊をもって相手の事を知ろうとしなければ、伝えようとしなければならないのだ。
コミュニケーションさえ遮断すれば、いつか僕と彼女の関係は勝手に自滅する。
もし彼女の気持ちが僕の想像通りなら、彼女が致命的に傷つくのは時間の問題だろう。
仲違いさせたいのであればこれ以上の手段はない。
急がなければいけないのに、どうすればいいのか分からない。
ルールすら分からず相手に握られている状況では勝負以前の問題だ。
何度かイベントが過ぎていく。
彼女に送った手紙は届いているのだろうか。
彼女からの新たな反応はない。
なんの成果も得られませんでしたでは、困る。
壁外調査は死屍累々。
なんだったら壁を越えることすら出来ていない。
フィードバックすらできない。
トライアンドエラーもあったもんじゃない。
SNSのメッセージにも連絡先を書いてみる。
だんだん形振り構わなくなってきていた。
案外SNSなど、そこら辺の落書きと同じで誰も興味を持っていない。
多少突っ込んだことや個人情報を書いても問題は起きなかった。
でもこうやって直接的な行動を取れば取るほど大きなダメージが跳ね返ってくる。
能動的に、拒絶された時の気分を味わいに行く行為。
自分で自身の胸にナイフでも突き立てるかのよう。
ドMでなければ耐えられない。
自分にその才能がない事を嘆く日が来るとは思わなかった。
数回試して効果がない事を確認しただけで疲れ果て、SNSでの連絡は諦めの境地に至ってしまった。
SNSの情報の一つ一つは塵芥と同程度。
皆その雰囲気を感じて油断しているのだろう。
ネット上に転がっている文章をちゃんと精査して繋げていくと意外と大きな情報が得られる。
普段は、見知らぬ他人からでも情報収集できて大きな武器になるのだが。
実際に僕がその一粒でしかないという事実を思い知らされた。
いつまでこうやって手がかりを探し続ければよいのだろうか……。
暗闇の中で全力疾走しているような気分だ。
いつ崖に落ちるのかも、壁に衝突するのかも分からない。
しかし足を止めるわけにはいかない。
あっという間に魂が濁る。
ほんの数か月で心象風景は砂漠か凍原か。
荒れ果てた大地の上で燃料切れである。
近くに野生のQBでも大量に集まっているんじゃないか。
もし居たら、細かくちぎって投げているところだ。
あれをちぎっても意味ないんだっけ。
心臓に杭が刺さっているかのような痛みは治まる気配がない。
健康診断で心電図に軽い異常を指摘されたので、どうやらこの痛みは幻とも言い切れないらしい。
人体は不可思議である。
急に抜け毛が増え始めた。
髪を洗うたびにゾッとするくらい髪が抜ける。
このまま髪の毛を喪ってしまったら、彼女に捨てられてしまうかもしれない。
笑い事じゃないんよフフフ。
男の人の事は髪型しか見てないってラジオでも言ってたし……。
何が彼女の琴線に触れたのか分からない以上、知らず知らずのうちに僕の何かが変わって毀損してしまうかもしれない。
あらゆる要素において、僕は変わらないようにしなければならない。
何事も予防が大事、ガンだってステージが上がる前に処置すれば予後が良いのだ。
早く対処を始めないと。
全身に禿が転移する前に。
まぁ、理論上は秒速400兆回ヘドバンすれば、どんな頭でも光り輝く。
所詮は気休めなのかもしれない。
気分は人間アンジュレータ。
放射光を放つのが専用機器の専売特許ではないことを教えてやる……!
時を同じくして、彼女のSNS投稿が急に減り始めた。
投稿に写っている彼女が本当に笑っているのか分からなくなってくる。
顔色が少しずつ悪くなっているように見えるのだ。
既に手遅れなのかもしれない。
ただ自分の知恵不足と無力さを嘆くよりほかなかった。
最近の彼女は、ラジオやSNSで将来の事を話すことが増えていた。
家庭を持ったら何にこだわりたいとか、相手に求める事とか。
そうでなくとも、僕と同じ髪型を指して、いいよねって言ってくれたり。
そんな些細な事を拾っては、自分を鼓舞するしかない。
自分に向けられている言葉かは分からないけれど。
そんなちょっとした言葉を、霞をゆっくり啜るように取り込んで、日々を耐えていくのだ。
霞を食べて生きるという仙人は、どんな健康法を用いて、栄養不足に打ち克つのだろう。
彼女の気持ちを知る情報源は限られているから、書かれている一言の意図を考え過ぎてしまう。
SNSは信用してないと言っていたから、メッセージを残して頑張るのは止めた方がいいんだろうか。
同業の人と付き合うのはちょっとと言っていたから、彼女の居る業界に飛び込むのは止めた方が良いだろうか。
選択肢が浮かんでは潰れていく。
何もできないまま年を越した。
年明けと共にライブツアーが始まり、流れるように参加していく。
心配なんて杞憂だったんじゃないかと思うストイックなパフォーマンス。
動きはむしろ先鋭の度合いを増していた。
ストイック過ぎるんじゃないかと思うほどに。
いや、むしろ張り詰めすぎて糸が切れるんじゃないかと思うほどだ。
そうして観ていると、歌っている途中で目が合って、その一瞬歌声が止まる。
偶然かもしれないけど、心臓が跳ね上がった。
参加している瞬間だけは今の問題を少しだけ忘れられる。
でも終わった瞬間に、一気に現実に引き戻される。
彼女には輝いていて欲しい。
でも箱が大きくなるにつれて、より遠くに行ってしまう、そんなイメージに恐怖を感じ始める。
気持ちの天秤があまりよくない揺れ方をしている。
矛盾だらけだ。
彼女は、時々手紙に書いたことを話題にしてくれているように見えた。
最初は偶然かもと思ったが、手紙に書いたマイナー顔文字が直後の投稿で使われているのを見て、それなりの確度を持つんじゃないかと思い始めた。
それだけでも凄まじく嬉しい。
思わず酸欠の鯉のように口をパクパクさせてしまう。
実際のところ、偶然なのか判別が付かないことが多いが、それでも手紙を見てくれている感じがして安心できる。
常にはっきり書いてあるのなら、逆に内容が取り上げられなかった手紙は届いてないとまで判別できるのだが。
深宇宙との非常用通信ほどの信頼性はないのが泣き所だ。
あれから話す機会がなかなか訪れない。
男性の共演者と楽しそうに話しているのをむくれて眺めていた。
じとーと視線を向けていたら、ハッとこちらに気付いてくれて嬉しい。
アワアワしているのがまた可愛い。
それで笑うとまたツンっと顔を逸らすのだ。
ますます可愛い。
少し充電できたから、もう少し頑張れそうだ。
そうして待ちに待った彼女の新曲が発表されたときには、あの日から半年が過ぎようとしていた。
彼女は、また別のポテンシャルを開花させようとしていた。
彼女の歌声は前にも増して透明感を増し、氷細工かのような凛とした雰囲気を湛えるようになった。
可愛いだけじゃなく、惚れ惚れするような強さ、美しさを見せるようになったのだ。
僕が停滞している間も、彼女は前に進んでいた。
本当に頑張り屋。
誇らしくもあり、少し寂しさもある。
付随してリリイベもやってくる。
とてもじゃないが半年だったとは思えない。
本当は十年以上経ったのではないかと問いたいくらいだ。
余りにもこの日を希求していたせいか、2回分当選通知が来た。
当選は1人1回までじゃないんかい。
設定ミスか、抽選システムのバグかな?
まぁ、バグでもいいや、ありがたい。
正直、渡りに船だ。
とは言え、合計1分もない。
幸運ではあるのだが、話したいことがオリンポス山よりも高く積もっているのだ。
とてもじゃないが話す時間が足りない。
イベントの当日になっても、まだ話すことを決めきれなかった。
間近で見る彼女は、やはり窶れているように見える。
彼女を目の前にして、声が喉に痞える。
時間が無いのに、前よりもさらに伝えられてない。
直ぐに時間が来てしまう。
焦りもピークに達する。
思わず叫んだ。
「大好きですからね!」
が、少し悲しそうな眼をした彼女は無言だ。
声が思いっきり響いてしまったので、会場からの痛々しい視線も突き刺さる。
たったこれだけしか伝えられないのか。
手を伸ばせば届く距離なのに、酷く遠い。
今まで気付かなかった透明な分厚い壁がそこにはあった。
じゃあ2回目はいっそ目だけで伝えた方が良いかもしれない。
目は口ほどにとは言うが、”ほど”では余りにも過小評価だ。
僕は、目の方が口よりも遥かにお喋りだと思っている。
だから次は話しかけるなり、目を合わせて欲しいと、お願いしてみた。
「えっ!…もちろんいいよ」
しばし深呼吸し、えいっと目を合わせてくるのがいじらしくて可愛くて仕方がなかった。
少し震える瞳を見ているだけで、思ったより充電できそう。
でも最後にありがとうと言って離れた時、彼女は泣きそうな顔になっていった。
僕も変な顔をしていたかもしれない。
それでも3日くらいは苦しさが治まったので、彼女には感謝してもしきれない。
それからしばらくして、彼女はSNSに全く投稿しなくなる。
気持ちの投げ方が強過ぎたかも。
でも、その心配と同時に、仄暗い喜びがうっすらと浮かんでくるのが分かった。
もしかしたら彼女が僕の事を気にしてくれているのかもしれない。
この状況をそう捉えてしまうのか。
僕の心は腐り始めているらしい。
最悪な生き物が生まれようとしている。
好きな人に対してこんな感情を向けるべきではない。
理性が感情を否定する。
このままならいつか僕は静かに腐り落ち、壊れたものが何なのかも知覚できなくなるかもしれない。
きっとそんなことは叶わないが。
物語のように分かりやすく発狂できたらどんなに楽だろう。
猶予がどれほどあるのかは分からない。
でも、そうなる前には決着を付けなければならない。
不安を打ち消すように、次の手紙は努めて明るい内容にした。
彼女が元気になるように、そして、愚かな自分を封印するように。
偶然か必然か、手紙を出した直後にSNSは復活した。
自分を責め過ぎたというようなことが書かれていたので、彼女が悩んでいたのは確からしい。
もっとも、それが僕のことであるという証拠はないが。
ほっとした感情と同時に、別の危惧が湧いてくる。
何も解決しないまま、今の状態が固定化されてしまうのではないか。
彼女がそれを望むのならば、とは思うが。
仮に彼女が僕の想像通りの事を思っていたとして、それでも今の状態を望むなら、受け入れることはできると思う。
でもそれは、話し合うなり、相手の意志を理解し、ちゃんと納得したうえであって欲しい。
そこまで望むのは贅沢かもしれない。
でも今の状態は、相互理解とはあまりにも程遠い。
今を溝に捨てているように見えてしまう。
自分の行動は本当にこれで良かったのか、何か取り返しのつかないことをしたのではないか。
自分で書いたくせに、そんな惧れを抱いていた。
愚かな考えをできるだけ遠ざけるためにも、欠かさず彼女を観に行き、補給したエネルギーを以って蓋をするしかない。
祈りが通じたのか否か、新曲のMV撮影にエキストラとして参加できることになる。
推定倍率約100倍、積むこともできないので奇跡的だ。
まだ、僕にも多少は運が残っていたらしい。
いつもは確率だけを信じるようにしているが、こういうことがあると分からなくなる。
すべての常識を疑うのは科学者の始まりだぞ。
閑静な住宅街、その中にひっそりと、指定のスタジオはあった。
集まったのは男女半々100人ほど。
以前、一度連番したことがある人が来ていて、話しかけられる。
「連番したこと忘れてたでしょ」と言われるが、流石にそんなことはない。
あまり話しかけても迷惑だろうし、積極的に絡もうとしてないだけだ。
流れの説明を受けた後、撮影セットの中に人が組み込まれていく。
イベントと比べるとずっと長丁場となる撮影。
何度もセットの配置、エキストラの位置を変更してはカメラが回る。
彼女は実に生き生きと踊っている。
合間に突然猫踏んじゃったを弾き始める姿は、心の底から楽しそうだ。
ステージを離れるときにこちらの方をちらっと見る仕草が可愛くて、少しだけ以前の気持ちを思い出せたように思えた。
でも、彼女の傍に行くことはできない。
撮影中につまづいてしまったときには、近づくことさえできないのが、ひどく辛かった。
日が没したころに撮影は終わった。
彼女はこれで終わりではなく、今日のうちに更にもう一本撮るという。
想像はしていたが、恐ろしいほどの忙しさだ。
やっぱり、僕が何か余計に足掻いても負担になるだけではないのか。
いつか分かると信じて、彼女を待つべきなのではと。
もう一度考え直そうとした。
でも、それは僕には無理だったのだ。
自身が腐り始めていることは気付いていたのに。
しばらくして、彼女の写真集が間もなく出ることがアナウンスされた。
だが、写真集が出るとの一報を聞いて初めに感じたのは、何とも言えない靄に覆われるような感覚だ。
彼女の事は応援しなければならないのに、なにか変なのだ。
水着姿が載っていると示唆されたころ、何を恐れ、どういう気持ちを抱いていたのかはっきりと自覚してしまった。
……嫌だ。
狂飆が吹き荒れている。
見ないように蓋をしていたはずの火がいつの間にか目の前一面に広がっていた。
大火。
もう自分では消し止められない。
肌が直火で炙られているのではないかと錯覚するほどの嫉妬と独占欲。
身勝手で理不尽な憤り。
彼女は一年くらい前に、「水着はちょっと」と言っていたから、何か心変わりすることがあったのかもしれない。
もしかしたらという心当たりは絶対にない。
やんわりとそういう売り方はして欲しくないということを書いたこともあったけど、彼女に伝わったかどうかは定かではない。
そもそも僕一人がそんなことを言ったところで変わる訳がないのは分かるが。
スタッフの考えとは真逆だろうから、今考えるとそもそも届かなかった可能性もあるだろう。
ただ少なくとも、彼女はファンを喜ばせようとしてこうしているのだ。
ファンが何をすれば喜ぶのか、彼女はいつも考えていて、とても深く理解している。
それに対して、僕は。
色めき立つファンたちに怯える。
拡散されて流れてくる言葉が彼女に向けられていること恐怖する。
今まで生きてきて覚えが無いほど不快に感じる。
僕だって男なのだから、彼らの心境は心の底から理解できる。
そう思っても仕方ないというのも分かる。
だが関係ないのだ。
いや、むしろだからこそか。
自分が何を言われても「それな」としか思わないのに、彼女に向けられる言葉は1ミリたりとも許容できない。
知り合いだったら、そんな言葉投げたりしないだろうと。
頼むからそんな目で見ないで欲しい。
晒すようなことをしないで欲しい。
痛い、嫌だ、いやだ!
例え仕事であっても、彼女と一緒に過ごしているスタッフに嫉妬の目を向けてしまう。
彼女との時間を彼らに奪われているような感覚に襲われる。
そしてそう考える自分自身が気持ち悪い。
なんで、知り合いですらない相手にそんな感情を向けようとしているのか。
どの口で最恵国条項を求めると言うのか。
何の権利があるというのか。
たかが写真に何でそこまで拘るのか。
余りにも滑稽すぎる。
発売の日はすぐにやってくる。
彼女の姿は可愛い。世界で一番かわいい。
でも、撮影風景を想像したらだめだった。
カメラマンがそこに居ることを思い浮かべるだけで、気持ち悪くなってしまう。
胸に力を入れ、手で口を力の限り押さえる。
これじゃあ、まるで浮気写真でも見ているかのようじゃないか。
世の男は皆、好きな人にこんな感情を向けているのだろうか。
可愛い女の子の姿は無邪気に喜んでも、好きな人が同じことをしたら真逆になってしまうのか。
こんな形で見たくなかったって思ってしまうのか。
こんなのはファンではない。
少なくともファンと名乗るべきではない。
もし、僕がもっと余裕のある人間だったら、この程度何ともなかったのだろうか。
残念ながら僕の器は小さすぎた。
彼女の言う” ファン”の範囲に含めるべきではないのかもしれない。
そう、言葉を向けられる資格自体がない。
彼女のファンと積極的に距離を取るようになった。
そりゃそうだ。
こんな異物が、どんな顔してファンの輪に混じるというのか。
とは言え、元々絡むことは少なかった。
今までとそこまで変わることは無い。
逆に僕がこの程度の事すら耐えられないというのであれば、僕自身が相応の対価を払わなければフェアじゃない。
彼女と過ごす時間が一番となるように僕は気を付けなければならない。
彼女との時間が増やせないというのなら、他の人との交流を減らすべきなのだ。
最低限そのくらい出来なければ自分を許せそうになかった。
そう考えるようになると、実際に彼女がファンに向ける言葉が僕に向いてないように聞こえ始める。
人間って不思議。
そして僕にはお似合いの状態だ。
ただ、副作用は大きい。
次第に、SNS投稿の通知に怯えるようになる。
次はどんな写真が載っているのだろうと、見るのが怖くなってしまった。
手紙を読んだ痕跡が残っているかもしれない、見ない訳にはいかない。
でも、一呼吸おいてからでないと開くことが出来ない。
もう、彼女から離れた方が良いのではないか。
賢明な人ならそうするのだろう。
でも、彼女を悲しませるのは嫌だな。
仮に終わってしまうのなら、彼女がそう望んだ時にしたい。
サイン会がやってきて、彼女の前に立つ。
本の感想はほとんど言えないし、手紙にも書けなかった。
ファンとしての言葉を探そうとしても、どこか嘘っぽい言葉が浮かぶだけ。
なんだか彼女も言葉少な、どこか悲しそうな顔をしたままだ。
これじゃ、前回と変わらない。
これからも同じようにできるだろうか。
残念ながら僕は隠し事が得意ではない。
いつか馬脚を露すだろう。
腐りかけた僕の心には早くも蛆が湧き始めていた。
---
彼女の誕生日が近づいてきていた。
せめてバースデープレゼントくらいは喜んでもらえるように頑張らねば。
何なら彼女は喜んでくれるだろうか。
彼女は、コスメの話を頻繁にしていた。
鉄板だし、一番喜ぶものと言えばそれだろう。
でも、こういう場合は意外とリスクもある。
釈迦に説法、孔子に論語。
何だったら彼らと初対面でいきなり肩を組んで、「良い本読んでんじゃん」と聞くくらい勇気が要る。
どんなシチュエーションだよ。ねえよ。
逆にわかってないなと思われることも多いという。
もっと無難なものにすべきか。
食品系は普通なら無難な選択肢のうちに入らないでもないが。
不特定多数からは受け取らない人も多い。
なんだったらこれも彼女の目に触れる前に処分されてしまう。
今回は届くことが最低条件だ。
リスクが高いうえに届いても無難なものはお呼びでない。
それすら知らない頃は入れてしまったこともあったが……。
まぁ、僕は机の上に見知らぬお菓子が置かれていたら確認せずに食べてしまうがね。
簡単に毒殺されちゃう。
ウェルカム暗殺者。
ダーウィ○賞を狙うにはちょいとばかりインパクトが足りないのが難点。
次だと金券類とか。
届きはするし、多少は喜びもするだろうが。
淡白すぎる。
最低でもゲーミング札束風呂ができるくらい突っ込まなければインパクトが無い。
想像してみたが天国じゃねえなこれ。
流石に万札を何十万枚と召喚できるような手札もない。
やっぱりもっと喜んで欲しい。
巡り巡ってやはりコスメかな。
上手く当たれば喜んでくれる可能性は高いのだ。
彼女の事をほとんど何も知らないのだから、ハイリスクは今に始まったことではない。
ブランドも商品も星のようにあるが、彼女が普段使っているブランドを調べればある程度絞り込めるだろう。
ただ狙いすぎると既に持っているアイテムを拾ってしまうかも知れない。
なるべく持ってなさそうな新商品、それも数量限定品にしてみよう。
この界隈でも新商品発売時にそういった限定版が出るのはお決まりらしい。
気に入った限定コスメなら二個買いするする人も珍しくないらしいので、被っても致命傷で済むかもしれない。
し、死んでる……。
新製品の発売日一覧はあちこちにまとめがある。
片っ端から調べていく。
こういうの調べ始めると止まらん。
情報が欲しい、情報が欲しい。
情報に触れると無限に興奮してしまう。
完全に情報中毒者なんだよなぁ。
いつか「お前は知りすぎた」と言われるのが将来の夢だ。
いくつかの候補の中から、良さげなものをピックアップしていく。
迷いながらも、その中で僕自身が綺麗だなって思う品が見つかった。
マーブル模様が綺麗なリップグロスだ。
直感に賭ける。
ここまで準備したのだから必ず手に入れなければ。
出来ませんでは良心がない。
はい、必ずや……。
発売開始と同時に突撃するしかあるまい。
秒針を眺め、打ち上げ五分前。
時計のズレ確認ヨシ。
通信状況確認ヨシ。
アカウントの登録ヨシ。
前の人がチェックしただろうからヨシ。
全システムオールグリーン。
結果からすると、意外とあっさり手に入った。
確かにすぐに売り切れたが、チケット争奪戦に比べたらぬるま湯や。
有料会員になったのに無情にもアクセスが集中していますの表示がされるなんてこともない。
気合を入れてラッピングする。
まぁ、スタッフが中身確認するときに身包み剥がされるだろうから自己満足だが。
「良いではないか良いではないか」
「あ~れ~!」
いつもより多く回しております。
手紙と共にプレゼントBOXに入れて、今回の必殺おしごと人は完了だ。
しばらく後、最近のお気に入りとしてSNSに載っていた。
すわっ。
この世から言語の概念が消え失せてしまう。
好きな人に喜んでもらえる以上の喜びなどないのだ。
そのためだったらどんな犠牲も厭わないだろう予感がある。
定期的にコスメを贈ることにする。
蜜の味を覚えてしまった。
楽園追放の日は近い。
彼女は初めて海外のイベントに出るらしい。
行先は台湾。
トークイベントだ。
確実に行かねば。
なんだったら毎月海外遠征があっても大丈夫な想定で資金計画しているのだ。
気が早すぎる。
ただ、チケットは現地の会場内で先着販売なのでかなりハードル高いな?
流石に台湾まで行って空振りは全米が泣く。
事前調査だけは念入りに。
当日の動線と手順を何パターンか検討していく。
早朝には並ばなければならないはずなので、前入りで現地へと飛んだ。
昼に下見に行くと、既に翌日の開場を待つ列が出来始めている。
ん?!
目を疑った。
相当気合が入っている。
日ノ本の国では時の将軍により禁止令が出され、失われたはずの文化だ。
レッドリストに載せて保護しなければ。
検疫措置を通してないのにうっかり触れてしまった。
バレたらイベント前なのに隔離されてしまう!
もしや僕も並ばねばならないのだろうか…。
会場は複数の入り口があり、チケットの販売ブースは入場したすぐ先だ。
販売ブースから1番目と2番目に近い入口に列が形成されている。
列に残って維持してくれるような知り合いもいない以上、今から待つのは難しい。
ぎりぎりを攻めるしかないか。
夕方に再度確認し、列形成の速度と配置の関係を再確認。
2番目に近い入口の列の伸びが遅い。
そこに朝5時に並ぶのがチケットを確保できる限界と見積もる。
始発でも間に合わないのでタクシーだな……。
残念ながらわが社には、タクシーチケット制度がない。
そこまで検討できたら残りできることはあまりない。
天命を待つのみ。
検討に時間を使いすぎたので観光は出来そうにないが、のんびり過ごす。
体力が無ければチケットも取れまい。
翌朝。
列待ちが始まった。
列の増え方は予想通り。
まずは第一関門をクリア。
手早く予定の列に並ぶ。
始発の時間を過ぎたころ、日が昇ってきた。
やはり南国は違う。
思ったより日差しがきつい。
まだ開場まで何時間もあるのだ。
先にバテてしまっては困る。
こちらでは日傘の所持率が日本より高いようだ。
たまらず僕も折り畳み傘を展開する。
開場の時間が迫ってくるころには、こちらからはもう見えないくらい列が出来ている。
こんな人数が一か所に殺到したら大混乱だ。
彼らが別の何かを狙っていることを祈る。
時間丁度に入口は開いた。
ゆっくりと人が流れ込んでいく。
まだ大丈夫だろうか。
計算通りではあるものの、待っている時間がもどかしい。
逸る気持ちを抑え入場の順番を待つ。
チケットを確認してもらって、会場に飛び込む。
ここにはダッシュ禁止というルールはない。
弱肉強食と焼肉定食の世界である。
台湾の焼肉定食普及率について想いを馳せながら、ブースに向けて一直線。
近づくと既に人が群がっているのが見えた。
いや、なにかが近づいてくる。
列だ。
列がこちらに向けて鞭打つように向かってくる。
なんだあれは。
列の形成速度が速すぎる。
人が走る速度よりも速いんじゃないか?!
末尾に人が加わると、たまたま新たな末尾の最も近くにいた人が次に並べるのだ。
目の前で重合反応が連鎖発生している。
ヒトが励起してブラウン運動している。
怖っ。
僕は、ちくわの中身を覗いてしまったらしい。
助けて大明神。
でもある意味チャンスかもしれない。
列が向こうからやってくるのだ。
一瞬の逡巡の間に、目の前に迫ってくる……!
ええいままよ!
激突。
逆方向から列を追いかけていたら詰んでいただろう。
日本海の荒波にもまれながらも、無事にチケットを手に入れた。
台湾だが。
まぁ、日本海の水は台湾の方からも流れてくるのだ。
似たようなものだろう。
汗が迸っている。
さすがにこの状態でイベント参加はちょっときついので、一旦ホテルに戻って整える。
周りに日本人らしき人影は少ない。
ちょっと日本語で声を上げたらキラキラした目が一斉にこちらを向き、「今なんて言ったの」的な雰囲気でまくし立てられる。
この国の人は明るいなぁ。
済まないが中国語はさっぱり。
通じるか分からないが下手くそ英語で返す。
「Kugelschreiberの事で頭がいっぱいで、話す余裕がないんだ」と。
流石にそんなことは言わない。
そんなこと言ったら変人だよ。
イベントの終わりは少しだけ話す時間が貰えるという。
突然のアナウンスに場が沸く。
トークイベントにしては大盤振る舞いだ。
ちょっと遅いけど「お誕生日おめでとう」と、直接言えてなかった言葉を伝える。
彼女は無言だったけど、驚いている表情が見られただけで十分だ。
もしかして引いただろうか。
ともかく、彼女が明るい顔をしていられるように頑張らねば。
イベント後は特にやる事もない。
ふらふらと歩いていると、目の前にタピオカミルクティーの店が現れる。
そういえば巷ではタピオカとか流行っていたなと、せっかくなので頼んでみる。
本場だし。
ウッ?!
_人人人人人人人人_
> 突然のタピ <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
こうして初の台湾イベントはつつがなく終わった。
MV撮影に協力した曲が世に放たれる日が近づいていた。
それは即ちリリースイベントが近づいてきていることを意味する。
いつもの様に応募し、いつもの様に当選する。
いつもの様に会場へ向かい、いつもの様に待っていた。
でもいつもと少し違った。
会場付近で時間を待っていると、ある女の子が近づいてきたのだ。
以前抽選から漏れた時に、たまたま連番してもらった子だ。
思えば、最初に連番したときからちょっと変わっていた。
僕が毎回手紙出していると知っただけで、「推せる」って呟いてきたり。
なんで?
思わず「やめた方がいいですよ」と真顔で返してしまったのを覚えている。
それ以来、どこからか僕を見かけると話しかけてくる。
だいたい人に囲まれているから、ただ交友が広いタイプの人なのかなと思っていた。
「好きです」
え、何で。
判断が早い。
僕が誰に会うためにここに来ているのか知っているはずなのに。
そもそもほんの数回しか絡みが無い。
というか最近はほぼ誰とも話してない。
逆に、だからこそだったりするのだろうか。
でもこれ以上の無い、僕には勿体ない言葉だ。
人に好意を向けられて嫌だと感じるほど捻くれてはいない。
でも今の僕の気持ちをどう説明すればよいのか。
やめた方がいいと慌てて言ってみるものの、頑として引かない。
どうしよう。
こんな宙ぶらりんな僕の事を、言ったら信じてくれるのだろうか。
そんな迷いがあったのが良くなかったのか、ふと相手の目を伺ってしまった。
必死に、真っ直ぐに向けた視線がふるふると揺らいでいる。
目が合って、瞳の色が変わっていく。
あの日の彼女と同じ熱を帯びている。
本気の目だ。
それに、触れてしまった。
冗談扱い、出来なくなってしまった。
それ以上冷たく返すことができず、ごまかしてしまう。
ヘタレの目覚め。
きっちりしておかないと後に尾を引いてしまうだろう。
古今東西あらゆる先人が伝えてきた、同じ轍を踏む。
そんな予感。
「好きです」以上のことは何も言ってこなかった。
それを免罪符にしようとしている自分に、酷く腹が立った。
自己嫌悪が増していく。
これ以上近づいたら、弱っている心に忍び込んで来かねない。
今の僕はセキュリティーホールだらけなのだ。
せめて、そこだけはきちんとしないと。
開場とともに別れるが、頭をすぐに切り替えるのは難しかった。
ごまかすかのように、努めて明るく彼女に話しかけていた。
彼女は少しずつ変わってきていた。
半年前よりずっと明るくなってきた。
以前はあわあわと目をぐるぐるさせながら「えっ」と「うん」と応答してきていたのが、少しずつ彼女の方から話しかけてくるようにもなった。
じっと目を合わせて充電していく。
このまま、他のファンと同じような会話をするだけになってしまうのかなと、妙な寂しさを感じる。
このまま何もなかったことになってしまうのだろうか。
彼女の活躍の場は広がっていく。
海外のライブイベントにも彼女は出演するようだ。
もちろん現地へと飛ぶ。
日本語が通じないだけでやる事は変わらない。
彼女のパフォーマンスはいかなる場所でも変わらない。
ステージ上で眩しいほどに輝いている。
行き着く先は宇宙で最も輝く存在か、はたまた宇宙の道標か。
この瞬間が一番輝いていると、そう主張するようなエネルギー。
客席の熱気。
言葉は通じずとも、気持ちは伝わっている。
人は簡単に分かり合えずとも、こうやって奇跡のように繋がる瞬間が創れるのだ。
いつか、完全に届かないところに行ってしまうのかもしれない。
でも今だけは、それを忘れていたい。
そう思いながらステージを眺めていた。
イベントは終わった。
特にすることもない。
怪しい人が現れることもない。
まぁ、僕が一番挙動不審だからな。
そこだけは誰にも負けるわけにはいかない。
僕はプライドが高いんだ。
無警戒に近づいてくる人もいないだろう。
近づいてくるとしたらお巡りさんの方だね。
こっちですよ。
帰りの飛行機を待っているとき、それは起こる。
何かがおかしい。
いつの間にかおばあちゃんの集団に囲まれていた。
妙だな……。
気配を全く感じなかった。
そんな能力は持っていない。
そして、その中の一人が永久に何事か話しかけてくる。
さっぱり分からない。
言葉が通じてないと見るやスマホで翻訳し始める。
見せられた画面には「どこに住んでるの?」「何歳?」そんな言葉が踊っていた。
おやぁ?
若さを吸収しに来たのカナ?
眺めていると文章が無限増殖していく。
濁流に溺れる。
これは控えめに申し上げてヤバいのでは。
遠のく意識の中、根負けしてぽそぽそ返信し始めた。
とてもキャーキャー喜んでいる。
心が若い。
比べて儂、おじいちゃんなのでは。
おじいちゃんだからよく分からない。
席を離れようとしてもすごい勢いで服を引っ張って止めてくる。
アイエエエ!ナンデ?!
これ間違えて蓬萊に迷い込んでないよね?!
解放されたのはフライトの直前。
まぁ、時間はつぶれたから良かった……のか……?
おばあちゃんっ子だからついガードが緩んでしまったぜ。
手紙のネタくらいにはなるだろう。
書いたら妬いてくれないかな。
目まぐるしくイベントはやってくる。
でも、充電端子は接触不良。
距離が遠いともう充電できなくなっていた。
彼女から見えない位置に居ると、忘れられてしまうのではないかとすら思えてくる。
必然とチケットの取り方も余裕がなくなる。
より前の席のチケットを余らせている人を探す。
必要そうならスクリプトも組む。
でも、こんなことをしても終わるのを先延ばしするだけ。
時間は彼女に費やしたいのに、虚しい作業ばかりが増えていく。
そしてまた年が明けた。
進捗ゼロで一年を重ねてしまった。
イベントに向ける目そのものがおかしくなってきていた。
彼女が他の演者と話しているだけで、見えない真綿が絞まっていく。
呼吸が苦しい。
嫉妬が次第に強くなってきている。
汚れていく。
もはや、彼女と目が合う瞬間の為だけにイベントに行っているような状態だ。
例外はライブだけだ。
彼女が歌って踊っているのを近くで観ている時だけは、不思議と一体感のようなものがある。
本当はこの中に混じる資格なんてないのに。
でも、もうこの魔法が掛っている瞬間が無ければ、僕を維持することが出来そうにない。
成れ果ててしまう。
考えたら恐ろしくなるから、ただ前に走り続ける。
それしかなかった。
停滞している中でも少しずつ周りは変わっていく。
起こる出来事で、僕の劣化は加速していく。
ある冬の夜に、祖母が亡くなった。
母の代わりに僕を育ててくれた人だった。
僕は母に会った記憶がない。
物心つく前に事故が起きたそうだ。
唯一残っている形見がM○X2。
なぜパソコンだけ残した。
残すなら他にあるだろう。
まぁ、小学校入って間もなくマイ半田ごてを手にしていたから、案外血は争えないのかもしれない。
月に一度くらいは指か床を焦がしていたから、小さな子に与えて問題ない代物なのかは考えた方が良いと思うぞ。
ひらがなもまともに書けない知識水準だから、まともな設計も出来ない。
今考えると動く訳がない回路を、呪物のように量産していた。
怖い。
金銭面では比較的余裕がある家だったから物質的に何か困った記憶はない。
でも、物心が付いたころはあまりよい空気ではなかったと思う。
特に多感な時期の姉は大荒れで、不安定だった。
いつも泣いていて、そして怒っていた。
それが母を喪った為であると想像できるようになったのは遥か後の事。
僕はそれを全く理解できない。
物語ではしばしば記憶を失くした人が出てくるが、多分似たようなものだ。
概念自体が無くなってしまうのだ。
悲しいと思う事すら出来ず、共感できない。
感情が見つからない。
母の話題が出ると、会話の輪に入れなくなる。
自身が異物であるような感覚すら覚えてしまう。
バブみとかオギャるとかいう奇語の解釈も合っているのか分からない。
解釈違いは戦争の始まりを呼ぶ。
バブみ戦争とかこの世の地獄であるな。
すまんな、僕が解釈を間違えたばかりに無益な血が流れる。
もっと積極的に知ろうとしていれば、何ともないことだったのかもしれない。
ハリネズミよりも臆病だった僕には出来なかった。
むしろその話題を積極的に避けてすらいたかもしれない。
結果、母の名前を認識したのもここ数年のことだったりする。
当時の僕は、理解できない姉の事を畏れていたと思う。
笑わせようとしてみたこともあったが、おかしい奴を見る目で見られただけだった。
センスが全くかみ合っていない。
いとおかし。
周りには笑ってくれる人もいるが、家族は笑わせることが出来ない。
であれば避けることしか出来なかった。
なるべく視界に入らないようにしていたし、足音も立てないようにしていた。
アニメを観たいときも、姉がリビングで観ているのを廊下から、扉の隙間から覗いていた。
何年かしたところで落ち着いたものの、普通の距離感というものは既に分からなくなっていた。
別にもう仲が悪いとかそういうことは無いけど、未だに連絡先も知らない。
スマホを持っているのが姉と僕だけなので、家族とのLI○Eは都市伝説と化した。
ちょっと憧れがある。
結果として遊び相手に飢えていたわけだが、いつも家に居る祖父の周りを羽虫の如く飛び回っていた。
しかも目や口に入ってくる系のやつだ。
控えめに言って最悪なので早く誰か止めてくれ。
おかげさまで祖父には「あっち行け」以外の言葉を掛けられた記憶がない。
家から出ないという事は足腰が弱っていたのだ。
事故が起きるのは時間の問題だった。
とうとうある日、押した拍子に転ばせ、骨盤を折ってしまう。
病院で会った時も、退院した後も、祖父はもう何も言ってこなかった。
まともに謝る事すら出来なかったのに。
結局、退院してすぐに亡くなってしまった。
子供であっても、二度と消えない形で自らが汚れてしまったのは理解できた。
それでも根気よく育ててくれたのが祖母だった。
掃除洗濯は適当だったりしたが、あまり主張することが無く控えめ、そしてとても忍耐強い人だった。
嫌な顔をするのは、猫が膝に飛び乗ってくる時くらい。
猫様は着地時に容赦なく爪を立ててしまうから、薄手の服だととても痛い。
いつも気苦労ばかり掛けた。
しばしば事故を起こすし、周りからは浮きやすい。
これらから導き出される事実は、つまり、僕はヘリウムの生まれ変わり…ってコト!?
一例を挙げると、朝が起きられず毎日集団登校に置いていかれるくらいのマイペースさ具合だった。
問題意識くらいはあったのだが。
起きられないのは仕方がない。
仕方ないわけがないんだよなぁ。
大音量なら起きられるか試したこともあったが、聴力の方がお別れの言葉を述べてきただけだった。
何より鈍い。
周りと軋轢が生じてもなかなか気付かず、爆発するまで気付かない。
ハインリッヒの法則に従うならそれまでに300回くらい何かやらかしていそうなものなのだが覚えがない。
まぁ、やらかしたやつは大体「何もしてないのに壊れた」って言うからね。
度し難い。
もっともこの鈍さのおかげで、色々あった割には学生生活を普通にエンジョイしていた訳だが。
でも、卒業式の日に思わせぶりに呼び出してきたと思ったら、「みんなと一緒に色々壊してごめんね」とかカミングアウトするのは止めてくれ。
知らないままで居たかったわ。
微塵粉メンタルだったらトラウマになるところだ。
危ない危ない。
既に砕けているんだよなぁ。
別に期待とかしてなかったけど!
自分がどうも珍獣扱いされているらしいことも義務教育の間は気付かなかった。
義務教育の敗北!
「そういう奴だから」って甘やかすと学習しないから良くないよ!
既に諦められているんだよなぁ……。
こんな調子だから、もしかしたら母の事故も自分に原因があるのではないかと考えたこともある。
本当だったら怖いので訊くことは出来なかったが。
でも、人に近づき過ぎてはいけないという感覚がうっすらと根を張っていたのは否定できない。
そうやって、心労を掛け過ぎてしまったのだろう。
小学校に入ってしばらくした頃には認知症の症状が出始めていた。
鍋物を焦がす。
具材を入れ忘れる。
そんなことから始まり、僕の出来ることが増えていくのと対比するように、少しずつ出来ないことが増えていく。
因果関係が無いのは分かっているのだが、まるで吸い取っているみたいだと思っていた。
そして、僕が中学に入ったころに、家事全般から引退していった。
その頃には噛む力が弱くなって、肉々しい肉類が食べられなくなっていたから、柔らかく分厚いオーブン焼きハンバーグを作ったときには凄く喜んでくれたのを覚えている。
レシピに書いてある通りに作っただけなんだけど。
でもそんな時間がもう戻ってこないと思い至ったのは、最近の事だ。
半年ほど前に、僕の事を忘れてしまった。
気力のようなものも一緒に喪われてしまったのか、あっという間にほとんど骨と皮だけになっていた。
「誰?」
訊かれた時の衝撃は何とも形容しがたい。
手足を動かそうとしても動けない。
何かおかしいと思って見てみると、身体中があちこち欠けているのだ。
そこでようやく痛みに気付く。
――――っ。
叫ぶことすらできない。
それと同じことが心に起きるのだ。
物語の中だけの表現だと思っていた。
相手の心から欠けると、己の心も欠ける。
さながら量子もつれとなっているかのように。
物語でよく大切な人が記憶を失くしてしまうシーンが出てくるが、こういう感覚なんだな。
もし母が生きていたら僕はこんな気持ちにさせてしまうのか。
誰が言ったか、推せるときに推せ。
それと本質的には似たようなものだ。
それが比喩ではなく、現実の恐怖が塗りたくられた言葉に変質していく。
かといって、何か手が動くわけでもない。
ただただ手足が竦んでいる。
全てを投げうって介護しようと思うでもなく、より良い施設を探そうとするでもない。
覚悟なんて無かった。
無責任に当てもなく嘆いているだけ。
病院のベッドで動くことも出来ない。
ただ「帰りたい」とだけ何度も言う。
応えられていない自分は、空虚で、どこか滑稽だった。
周りは大往生だった、天寿を全うしたと言うけれど。
最期の姿を見ていてそんな風には思えなかった。
折り合いの付け方が分からない。
ただ後悔だけが尾を引く。
「良かった」とか「安らかだった」と思えるような終わり方とは如何なるものなのか。
そんな人は居るのだろうか。
終わり良ければ総て良しとは云われるけど、そんな物語は一体どこにあるのだろう。
彼女ともいつ話す機会すら失うかわからないのだ。
いつか彼女に悲しい顔をさせてしまうかもしれないのだ。
だから、もっと頑張らないと。
---
春といえばアルバムの季節だ。
なぜかって?
彼女のアルバムが出るのはだいたい春だからだ。
心頭滅却すればいついかなる時であっても春。
私が決めた。
そんな春の期待に違うことなく、彼女の最新アルバムは発表された。
作曲者も彼女の歌声の強みに対する理解度が上がっている。
さらに洗練され、より魅力を引き出すものになっている。
透明度の高い彼女の声は、ほんの少しの味付けで驚くほどの鮮やかさになる。
砂糖細工のアソートのような煌きだ。
彼女のパフォーマンスを鮮烈にするお洒落なダンスナンバー、ビターな曲から甘々な曲まで隙が無い。
彼女のファンにとって大満足の出来だろう。
もちろん、リリイベもやってくる。
僕にとってはこれを逃す手はない。
だがこれは、これまでに多くの人を屠ってきたという、危険なミッションだ。
せやろか?
せやせや。
今回のそのイベントには、いつもと違う男性が司会として現れた。
あまり慣れてないのだろうか、今日ここに来るまでに彼女としたことを自慢げにつらつら並べていく。
Oh…こちらを蚊帳の外にしていくじゃあないか。
オタクは繊細なんだぞ。
あまり馴れ馴れしく話しているとヘイト向けられますよ?
え、僕?
怒ってないよ?本当だよ?
こんな些細な事で怒るなんて心が狭いよ全く、HAHAHA。
でも、ちょっと口を滑らせてもいいよね?
そんなことは無いのだが、余計な事を口走った。
「最後に一つ訊いてもいい?」
「えっ、もちろんいいよ?」
「何歳くらいに結婚したい?」
「えっ」
口走った瞬間に失敗を悟った。
口走る前に気付けよ。
これは気持ち悪いですね。
誰かに文句を言う資格はない。
見知らぬ人にこんなこと言われたら恐怖だろう。
幻滅される一秒前。
彼女は目をまん丸にして数秒フリーズした後、絞り出すように返してきた。
「考えたことない…」
ああ、終わった。
困らせてしまった。
視界が一気に歪んでもうなにも目に入らない。
ふらふらとステージから離れる。
その時だった。
「また来てねっ!」
会場全体に響く大声で彼女が叫んでいた。
振り返って見た彼女は目を疑うほどの必死な形相で身を乗り出している。
スタッフもファンもぎょっとしている。
会場が完全に凍り付いている。
状況に心が追いつかない。
でも彼女がここまでしてくれたのだ。
とにかく、安心させなきゃ。
笑顔を見せなきゃ。
出来る限りの笑顔で頷いて、会場を後にした。
やってしまった。
でもまだ、終わってはいなかったらしい。
思い返してみれば、話す度に少しずつ、彼女の口調が”普通の対応”に近づいている気がするのを、内心不安に感じていた。
いつ冷えた鉄に戻ってしまうのか。
いつの間にかそのことばかりを気に掛けていた気がする。
まだ熱は残されているようだ。
後日、旧知に僕が質問した内容をどう思うか訊いてみたら、「キッッッッッッッモ」とお応え頂いた。
うんうん、やっぱりそう思うよね!
実家に帰ったかのような安心感がある。
何の利害関係もない人からの意見は実に貴重だ。
今後は気を付けよう。
次のイベントは一週間後。
流石に気まずい。
どんな顔して居ればいいのだろうか、とは思うが、行かないと言う選択肢もない。
果たして彼女は、バツの悪そうな顔でステージに入ってきた。
目が合いそうになって、露骨にツンっと目を逸らされる。
申し訳ないが可愛すぎる。
気持ち悪い笑みを浮かべてしまいそう。
ステージが終わるときには自然な様子に戻っているように見えたから、思っていたよりは気にしてないのかもしれない。
それだけしか効果が無いなんてちょっと物足りない、なんて贅沢な考えが過ぎったのは秘密だ。
次に話す機会は既に決まっていた。
彼女のフォトブックが出るのだ。
すっかり写真が見られなくなっていた僕だが、それでもサイン会に行くために山のように積む。
傍から見たら、僕はどれほど滑稽なのだろうか。
感想を書こうと開いてみるも、すぐに閉じてしまう。
言葉を紡ぐのに時間が掛かる。
サイン会に行っても、「どうだった?」と聞かれて「かわいかった」と返すのが精一杯だった。
かわいいとは思っているのだ。
その気持ちに変化もない。
それを楽しめなくなった自分がおかしいだけ。
もし、僕がそんなことを思っていると知ったら、彼女を悲しませてしまうだろうな。
彼女に言いたくないことが増えていく。
良くない兆候だったが、どうすべきか分からなかった。
貴重な時間を割いて訊いてみる。
「最近、手紙読んでくれてる?」
「もちろん読んでるよ?」
曇りなき眼でこちらを見てくる。
不思議そうな顔だ。
頭にはてなが浮かんでいる顔はそれはそれで可愛いのだが、それを喜んでいる余裕がない。
少なくともある程度の数は届いているらしい。
でも、何かを見落としているような悪寒はあの日から消えたことが無い。
彼女は今の状況をどう思っているのだろうか。
幸いイベントは次々やってくる。
準備を念入りにしていれば、余計な事を考えずに済む。
彼女の努力、活躍、人気が好循環を奏でている。
ライブツアー、ライブフェス、誕生日のイベント。
そのおかげで、僕はまだギリギリ頑張れる。
落ちるときは落ちる。
全てのイベントを網羅はなかなか難しい。
でもそういう時は、調べると何かイレギュラーな事が起きていることが多い。
確率計算して積んだのに、蓋を開けてみれば複数積んだ人はほぼ全員落ちていたなんてこともある。
そんなルール知らんがな。
書いてないし。
ディスプレイを炙れば浮き出てくるのかな?
予め書いてあるなら、ある種公正と言えるかもしれない。
でもサイレントでそれをやってしまったら、「積むような人は落ちても次も来るからいいよね」と考えていると捉えられかねない。
そこには公正さはない。
抽選方法の開示はどこに要求すればいいんですか。
景品表示法の改正要望を出したい。
こちとら遊びじゃないんだぞ。
こういうところから、ファンとスタッフの軋轢は生じるのだろう。
実際、リリイベで積む数が多すぎると必ず落選するなんていう都市伝説も真しやかに流れてくる。
有意と言えそうなデータを得られたことがないので、これについて僕はまだ懐疑派なのだが。
ただ少なくとも、今の仕組みを不安に思うファンの心境が表れているのは確かだと思う。
多少の問題があろうと、まだ次があると思えるから、些事とすることができていた。
既に脆くなっているから、ちょっとしたことで大きく割れてしまうのだが。
次のリリースイベントのルールが変わっていた。
“質問禁止”
まさか、前回僕が余計な質問したからじゃなかろうな?
明確な証拠がある訳ではない。
とはいえ、会場をあっと驚かせる事をしでかしたわけであるから、順当に考えれば関係ありそうなものだ。
ただ、このルールは許せない。
これは彼女を守るものではなく、むしろ彼女に負担を強いるルールだ。
会話っていうのは、相手と言葉を交換しあう。
前に受けた言葉から次の言葉が紡がれる。
言い換えれば、人に向ける言葉と言うのは少なからず質問の意を含むのだ。
それが一切ない言葉を常に相手に向けるというのは、言葉を寸断させて攻撃するか、話を終わらせたいという場合くらいしかない。
当然会話は膨らまない、盛り上がりにも欠ける。
短い時間とはいえ、そんな応答しか出来ない人たちに、一方的に話しかけ続けなければならない彼女は大変だ。
会場には彼女に話しかけたい人が集まっているのだ。
本来なら、鷹揚に構え、仁王立ちしているだけで勝手に話しかけては喜んで帰っていくはずなのだ。
それはそれで彼女のキャラが崩壊してしまうが。
何度考えても、僕を呼び止めたあの時の彼女はこの結果を望んでいるとは思えなかった。
スタッフの意志なのだろうか。
彼女は望んでいないのに、スタッフに唆されているのだろうか。
話をするなという意図だとしか僕には解釈できない。
「金は欲しいが彼女には近づけたくない」という発想以外でこの解法が出てくる道筋が、僕にはどうしても想像つかないのだ。
元々僅かな時間だからいいってものじゃない。
これを決めた人は、こちらが人語を解する生物と思っていないのだろうか。
僕は生物だからあながち間違ってはいない。
すぐにくさくさするからね。
そんなに深く考えて決めたわけではないかもしれない。
それはそうだろう。
いつでも彼女と話せる人が、年にわずか数分、ないしは数十秒しか話せない生物の気持ちを知る由もない。
その時間を代えの効かない鎹と思うだなんてありえないと思うだろう。
その頭のおかしい狂った何かがここに居ること自体がバグだ。
そもそも話せること自体がおまけサービスでしかない。
どんな制約を付けられても文句を言う権利はない。
恐らく悪気すらない。
それだけなのだ。
ただ、彼女を守るよりも、彼女の商品価値を守ることの方がずっと大事なんだなと、認識してしまった。
僕もそれ以外も全て、人ではなくただの危険因子のように思っているかのような対応をするのを、目の当たりにしてしまった。
スタッフの全員が全員そうだとは思わないが、僕からは区別できないのだ。
彼らに対する僕の信用は現時点を以って売り切れてしまった。
彼女の意志を確かめなければいけないとは思うのだが、糸口が見つからない。
このルールでは彼女の意志を知ることが出来る見込みはゼロだ。
仮にルールを無視したとしても、衆目環視の中では正確な結果を得られまい。
あらゆる正確な測定には相応の測定環境が必要なのだ。
さもなくば、いくらでも彼女の意志を勝手に解釈できてしまう。
これまでですら糸口がなかったのだ。
それに、それを知ったところでどうするというのだろうか。
失敗したうえに次の機会が奪われる可能性を考えるとこの手は使いづらい。
これ以上彼女を悲しませる結末にはしたくないのだが。
だが、僕は好奇心のかまたり。
仮説を立ててしまえばあら不思議、証明するまで止まれない狂信者なのだ。
健康の為なら死んでもいいという人と同種の狂気が神経系を侵している。
今日も当てどなく、手は止まらない。
ちなみに僕の名前はかまたりではない。
会えるだけで僥倖だと思うしかない。
彼女は以前よりも話しかけてくれる。
それだけでもやはり嬉しい。
ただ、歯に物が詰まったような応答しか出来なくて、苦しかった。
当然であるが、彼女は仕事に関すること以外は話さない。
話題が選べない。
ただのファンという形の器に押し込められていく。
普通の知り合いのような会話がしたい。
今まで気付かなかったが、きっと自分はそれを望んでいたのだろう。
填め込まれて潰れていく。
僕の形が歪んでいく。
息が苦しくなっていく。
目の前の分厚い壁が、さらに分厚くなっていく。
これが、身代金を要求されたときに大金を払う人の気持ちという奴なのだろうか。
知らなくてもいい感情を覚えてしまった。
年の瀬が近づいてきたころ、テレビ番組のエキストラに招集があった。
今年はちょっと色々あったがそれはそれ、これはこれ。
たまには忘れさせてくれ。
当然ながら、どんな予定が入っていても向かう。
如何にも何か予定入ってそうな思わせぶり発言をするのは日本人の責務であるが、当然予定などない。
そうでなくとも僕は、「行けたら行く」って言ったのに本当に来てしまうタイプの人間だからね。
呆れられるのも愉しみの一つだ。
ついつい言葉が踊ってしまう。
それ以前に、この高倍率の中なんでまた当選しているんでしょうねえ。
そこはくじ運に感謝しかない。
選ばれた曲は彼女の魅力を一番凝縮している曲の一つだ。
今までに彼女の曲のバリエーションは増え、湿っぽい曲も静かな曲も十二分に歌いこなすようになっている。
でも自分にとっての原点は、太陽より目映いほどの明るい芯を、暖かい雪がしんしんと降り注ぐように遍く届け温めていく、そんな曲なのだ。
1曲しか撮らないなら、それを体現している曲を流して欲しい。
うむうむ、プロデューサーはわかり手であるな。
そんな顔をしていたかもしれない。
エキストラの配置を決め、各々が配置につく。
撮影セットの上に登っていく。
今地震が来たらさよならバイバイだぁ。
簡単な流れの説明を受ける。
ここには彼女をあまり知らない人もいるから、全員とコールを予習していく。
ライブ感を最大限出したいという事か、リハーサルはなく一発撮り。
収録が始まる。
彼女が入ってきた。
今日の衣装も抜群に似合っている。
カメラが近いからか、いつもより目に力が入っている。
流れるように指先、そして全身が舞い始める。
それに引っ張られるようにペンライトを振っていく。
正しくこれはライブだ。
何度観ても綺麗だ。
1番のサビが過ぎたところで、いつもと違う間奏が流れてきた。
ってえええ、ショートバージョンじゃないか。
慌てて合わせようとするが間に合わない。
ああ、トップオタさん助けて?!
そんな存在が居るのかは知らないが。
残念、撮り直しになってしまう。
時間が増えたからむしろラッキーなのか……?
テイクツー。
同じミスを二度はしない。
今度は全員しっかりついていく。
確認OKが出て、お役目は終わりだ。
今年も終わりだ。
進捗なしです。
このままヨボヨボになってもあの日の事を彼女に訊く機会はないのかも知れない。
諦観にも似た感覚を持つようになっていた。
でもイベントがある限りは、頑張らないと。
年明けはすぐにファンクラブイベントがある。
昼夜公演で、片方のチケットだけ手に入ったので、もう一方は当日券狙い。
いつも通り夜行バスで現地に向かい、列に並ぶ。
前日から少し熱っぽかった。
でも今日は話す時間があるから、休みたくない。
ただ、早朝から外で並んでいたせいか寒気は悪化する一方。
チケットを確保して、とにかく体を温めなければと銭湯に向かう。
すでにグロッキーで体が動かない。
ふと目が覚める。
気が付けば開演が迫っていた。
汚い叫び声を上げそうになる。
「ああああ゛?!」
上げてんじゃねえか。
タクシーを探して駆け回り、開演時間が過ぎた会場に滑り込んだ。
やや冷たい視線を浴びながら席に座る。
肩身が狭い。
そう、ここは彼女がファンに向けて作り上げたイベント。
その当日券をもぎ取った猛者の巣窟席。
ファンのための席。
やはり僕はここから出ていくべきなのではないかと思う。
違和感を強く感じるようになって、自意識過剰なのかもしれない。
そんな僕とは関係なく、彼女は可憐に、可愛くを体現していた。
公演が終わった後にもう一度、中へと舞い戻る。
今回のイベントは、当選者に追加で話す機会があるのだ。
もう声も完全に枯れて、頭も痛い。
せめてマスクくらい持ってくればよかったか。
準備不足甚だしい。
いざ目の前に行くと彼女は、いの一番に訊いてきた。
「また来てくれる?」
「絶対に行く」
初めて約束が出来た。
あの日の事は分からなくても、彼女との約束さえあれば、きっと頑張っていける。
たった一言で、こんなにも安心するのだ。
そこで、忙しい彼女に風邪をうつすわけにはいかないと、気持ちが傾いた。
まだ時間は来ていなかったが、そこで一歩引いた。
彼女は悲しそうな顔に変わってしまう。
後悔が一気に込み上げてきたが、もう戻れない。
でもきっとまた話す機会はやってくる。
朦朧とした頭で思っていた。
この時はそう思っていた。
直ぐに後悔することになる。
パンデミックが猛威を振るい始めていた。
僕はいつも考えが甘すぎる。
先々のイベントが次々に消滅していく。
ロックダウンが迫る。
もうだめかと思われるタイミングに、彼女の新曲発売が予定されている。
リリイベがなんとか無くならないようにと毎日のように祈っていた。
バレンタインデーに合わせたリリイベは、無事に開催されることになった。
本当はチョコを手渡してもらえる予定だったらしいが、予め席に配られている。
話すタイミングもない。
それでも開催してくれただけありがたい。
マスク着用でのミニライブで声を届ける。
新曲は、今までの曲の中でも特に破壊力が高いラブソングだ。
彼女が練り上げた詩はとても真っ直ぐな気持ちが綴られていて貫通力が高い。
こんな威力の気持ちを向けたら世界最大のダムにだって穴が開くだろう。
大惨事だ。
無論僕は土左衛門になっていた。
気を抜くと自意識過剰になってしまう。
何を考えて歌詞を書いたとか想像してしまい頭が沸騰してしまう。
そんなことは無い、そのはずだ。
前まではいつも満員だった高速バスも今はまばら。
運転手がいつもはない長い感謝を告げるのを聞きながら、帰途に就いた。
以後のイベントは残らなかった。
それでも、バレンタインにチョコが貰えたら、お返しをせねば気が収まらない。
返報性の原理には抗えない!
汗が止まらず瞳孔は開き、脈が早鐘のように鳴っている。
それは早く病院に行った方がいい。
人類はかくも強欲なのだ。
イベントがない以上事務所に直接送るしかあるまい。
事務所に送ると彼女に届くまで時間が掛かると聞いていたので今まで敬遠していた。
イベントは無くなったがホワイトデーの配信はある。
それに間に合うよう張り切ってコスメを見繕い、手紙と共に送っていた。
配信当日。
贈ったコスメを自慢げに画面に大映ししていた彼女の姿があった。
滅茶苦茶可愛い。
プレゼントを受け取って彼女が喜んでいる顔を初めて直視してしまう。
その威力たるや……あれ……?
語彙さん、待って、置いて行かないで。
語彙さーん!!?
一気に満たされた。
大満足。
かのロングセラー商品とは関係ない。
他の何かでは絶対にここまで充足しないだろう。
会えないならもっとこちらを強化していくしかない。
死ぬ気で頑張る。
現世の時が止まるのとは裏腹に、彼女の新曲発表ペースはかつてないほどの頻度になっていた。
彼女の曲が増えていくのが心地よい。
彼女はファンと話す機会を保ちたいと思っているのだろう。
イベントの代わりに、当選者は通話できる特典が付いていた。
枠は少ない。
だが、当てられないほどではない。
週間ランキングを変えてしまうことも辞さない。
今までのイベントでも、予想される当選確率をベースに積む枚数を決めている。
おおよそ当選確率7、8割になる枚数がいつもの最低ラインだ。
計算上は、今までより一桁積み増せば同程度の当選確率を確実なものとできよう。
どうせ彼女以外にお金を使う当てもないのだ。
やる以外の選択肢はあるまい。
応募の事考えてなかったわ。
永久にシリアルナンバーを取り出す作業が続く。
おっと、紹介が遅れました。
私の名前はシュリンク・オープナー。
オープナー家の三男坊。
CDの包装を撲滅するのが仕事だ。
今後お見知りおきを。
……終わらないよう……。
せめて応募フォームの入力くらいは楽しませう。
適当に画像認識のサンプルコードを拾ってきて、シリアルを読み込ませてはオートで応募を済ませていく。
急造なので割と読み間違えるが、手打ちよりは速い。
なんとか応募は済みそうだ。
抽選の日、彼女は配信中に手ずからくじを引き、当選者を決める。
一人、また一人と名前が呼ばれていく。
流石にリアルタイムで見守るのは緊張する。
あっさりと名前が呼ばれた。
あまり実感はないが、賭けに勝ったらしい。
思わず気が抜けてしまう。
後から思うと、注意していればこの時点で違和感に気付けたと思う。
彼女から電話が来るなら相応の準備が必要だ。
考え過ぎだと思う。
スマホ内蔵のマイクとスピーカーでは不足だろう。
速やかにマイクとヘッドホンを用意する。
動作確認ヨシ。
スマホの非通知ブロックも解除していく。
いくつも設定がある。
何でこんな面倒なことになっているんだ。
絶対に非通知を拒否するという強い意思を感じる。
非通知での通話テストヨシ。
雑音になる部屋の機械類も全て電源を落とす。
準備万端である。
電話が鳴る。
画面に踊る非通知の表示。
スマホで電話をするなんて流言飛語の類だと思っていたよ。
数コールののち、応答した。
話し始めると、すぐにいつもと雰囲気が違う事に気付いた。
戸惑っているような、はたまた拒絶されているような。
言葉の節々が刺々しく感じる。
どうして。
何か彼女を不快にさせるような事を言ってしまっただろうか。
表情が見えないので細かい事が読めない。
このまま話していいのだろうか。
迷いながら話していると、決定的な一言が出てくる。
「えっ、コスメを贈ってくれたこともあるの?!」
漸く違和感の正体に気付いた。
余りにも遅すぎた。
彼女は僕と話していることに気付いていないんじゃないか?
そう、距離感が違ったのだ。
まずい。
ここで焦って変な事を言って、スタッフに怪しまれないだろうか。
出禁にされる未来まで一瞬で想像する。
何を話せば伝わるだろうか。
背筋が凍るような感覚の中、慌てて、今までどのコスメを贈ったのかを伝えていた。
「えっ…」
彼女はそう言ったあと、完全に言葉が途絶えた。
無情にもそこで時間切れを告げる声が聞こえる。
考えうる限り最悪のタイミングだった。
今まで手紙では自分の本名を書いていた。
でも、今回の抽選は放送で名前が呼ばれるから、ハンドルネームで応募する必要があった。
つまるところ、彼女は僕のハンドルネームを知らなかったらしい。
ただ、これまでの手紙の中で、自分のハンドルネームを何度か書いていた。
名前の由来に始まり、SNSのメッセージやラジオへの投稿など、話のネタにしたことが何度もあったから。
どうも油断していたらしい。
もしかして彼女は手紙を読んでなかったのだろうか。
それともそれもどこかで検閲コードに触れてしまっていたのか。
少なくとも、今までのSNSのメッセージやラジオへの投稿は、一つも彼女に認識されることはなかったらしい。
思い返してみれば、手紙で書いたことに関連したことがSNSに書かれていることはあっても、SNSのメッセージに対してはそういうのはなかったな。
全てが無駄になっていた。
フォローのタイミングも当面ない。
電話口の向こう側の最後の声音がリピートする。
彼女を傷つけてしまった。
すぐに何か書いて届けなきゃと思っているのに、筆が全く動かない。
何か、致命的なモノが壊れてしまった。
投稿に「ありがとう」とか、ほんの一言書こうとするだけで、心臓が捻じられているような感覚を覚える。
彼女の投稿にメッセージを残すのが遅れるようになる。
酷い時は落ち着くまで半日以上も。
文字数もガクッと減ってしまった。
今までどうやって書いていたのか思い出せない。
こんな文章ではどちらにせよ彼女は喜ばないだろう。
負のスパイラルだ。
ますます書けなくなっていく。
特に何か状況が変わることもない。
ないと言い聞かせているのに、心のどこかで期待してしまうのだ。
アカウント名が伝わったのだから、何らかの手段で連絡が来る可能性があるんじゃないかと。
最初に思っていたはずの、全て僕の勘違いなのかもしれないという考えが、いつの間にか掻き消えていた。
心の熾火が制御できなくなっているのだ。
期待すればするだけ傷つくことは分かっているのに、鍋の隙間から吹きこぼれては焦げていく。
おこげおいしい。
グリセロールの甘みが口の中いっぱいに広がる。
これもしかして、おこげじゃなくてキ○ワイプでは?!
そもそも彼女は「SNSは信用してない」と一時期何度も言っていた。
それを覚えているのに。
心底自分が気持ち悪い。
彼女のラジオが聴けなくなった。
他の人の投稿が読み上げられていくのを聴くだけでダメになってしまった。
配信もSNSもますます直視できなくなった。
輪の外に居るという感覚が先鋭化していく。
カメラの前でファンに語りかけているのを観るのすら耐え難くなっていく。
ファンの皆は話しかけてもらえて羨ましいな。
もうこんなの完全に終わっている。
でも彼女もファンを喜ばせたいと思って行動しているはずなのだ。
しぶとくここに残る僕は一体どれほど愚かなのだろう。
いつもヘビロテしていたはずの曲ですら、少しずつ聴く気力が無くなっていった。
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時はパンデミック真っ盛り。
外に出なくなると、何のために働いているのか分からない。
まさに仕事のために仕事をしている。
イベントが無くなった代わりに、仕事が最高に忙しくなっていた。
仕事をすると、他の事は何も考えなくていい。
日々の辛さを忘れさせてくれるのはお前だけだぜ。
というか、もう何も考えたくない。
仕事楽しいしごとたのしい。
土日祝日も仕事のことで頭がいっぱい。
残業規制限界まで働きまくるんじゃ。
ぐへへへ。
彼女に会う事が出来ないのに、他の人と会うのも不公平だろう。
猫と話す時間ばかり増える。
ここの公用語は猫語である。
にゃあ。
不快感を減らすため、いい感じのバリトンヴォイスで脳内再生してください。
我が家の猫様はとても甘え上手だ。
サバトラの拾い猫にして、尾曲がりの幸運猫。
僕が振り撒く不幸のかなりの部分を中和してくれている徳の高い猫様だ。
小さく、体重も3kgを切っていて、既に高齢猫のはずなのにその細い毛はつやっつや。
今でもどこか子猫のような雰囲気を醸し出している。
自分の名前を憶えているのか、構って欲しい時は「ニャッニャ」と変わった鳴き方をする。
猫の口でも促音を真似るのはいけるらしい。
うい奴め。
猫に名付けるときは猫が喋りやすい名前を付けるといいぞ。
今日も今日とて膝の上に乗ってきてはなにもせずともゴロゴロし始める。
そしてだんだん口が弛緩してよだれが止まらなくなり、服がベトベトになる。
汚い。
……そんなことは些末事なくらいかわいい子だ。
こんなこともあろうかと、膝の上に来そうなときは予めティッシュがスタンバイしている。
だが、寝室への勝手な出入りは禁止。
だからといって部屋から出すと、それはもうボコボコに虐待しているかのごとく低い声で鳴きまくる。
多少は慣れた今でも心が抉られる。
こんなエグイ鳴き方をする猫に育てた覚えはありませんよ?
いったいどこで覚えたんだ。
少し扉を開けてみる。
キラキラとお目々を見開いた猫が、ニッコニコで首を滑り込ませてくる。
さっきまでの鳴き声は何だったのか。
小悪魔め。
誰なんだろうね甘やかしたのは。
不思議だなぁ。
だがそれが良い。
体まで滑り込む前に、扉を少し閉める。
少し嫌そうな顔をしながら、首をひねらせて引っ込める。
すかさず脚を出してきて爪を引っかけ扉を開けようとする。
むっとした顔も可愛いぞ。
扉の開閉と連動する瞳孔の開き具合を眺めながら、また少し扉を開けるのだ。
無限ループがやめられないとまらない。
電話から一年が経とうとしていた。
猫様と戯れることが最後の防波堤になっていた。
あれから、何度か手紙もプレゼントも送ってはみたが、反応らしきものが観測できなくなった。
探せどもカケラも見つけることが出来ない。
そもそも今は手紙類を受け付けているのだろうか。
事務所のホームページには送るなとは書いてない。
送れば事務所までは届くし、受け取られもする。
けど、あちこちのイベントでは、”ご遠慮ください”となっているとも聞く。
果たして彼女には届いているのだろうか。
それとも、もう彼女には見限られたのか。
何も補充できないと、自分自身の思考回路が刺々しく作り変えられていくのが分かる。
どうもテセウスは同じ部品ではなく仕様の違う部品で補修している。
恐怖!人体の不具合混入。
早くリコールしてくれ。誰か。
そこ、廃品回収の間違いではとか言わない。
元々細かった人間関係が清算されるのも一瞬のこと。
僕に告白してきた子も辛いことばかりつぶやくようになって、とうとうアカウントごと消えてしまった。
少なくとも、声を掛けなければならなかった。
言い訳のしようもない。
あのとき自分の気持ちを何も伝えられず、そのままずるずる放置しておいて。
話しかけて来る度にますます瞳に熱が籠っていくのに、気付かない振りをして。
仕舞いにはこれだ。
僕は肝心な時にいつもなにもしない。
彼女の放送も刺々しい雰囲気が見え隠れしているように見える。
一時期の彼女のようなネガティブ発言が多くなっていた。
「なんでこんなことしてるんだろう」
放送中に言われたファンが喜ぶ発言ではないだろう。
でも、それを聴いた僕は、救いに近い感情を覚えてしまったのだ。
僕と同じような気持ちになってくれている、と。
まるで共感してもらっているかのように。
やっぱり僕の思考回路は、もう壊れている。
彼女の新曲が出る日が近づいていた。
この一年間ずっと待ち続けていた。
彼女の声の透明感を最大限に引き出した曲だ。
すごく良い曲なのに。
聴くのが苦しいのが申し訳ない。
でも、久しぶりに電話の機会がやってくる。
それだけで、消えかけた炉にもう一度火が付いた。
前回と同じ手順を踏むだけ。
至極簡単に通話の権利は手に入った。
でも、いざ電話に出てみると、時の経過を否応にも認識することになる。
前回までの彼女が嘘のように、静かな敬語で話しかけられた。
ともすれば事務的とすら思えるほど。
その声は珠のように綺麗で、確かに彼女に違いない。
普通には話している。
いやむしろ今までよりもずっと普通に話しているのだが、感情が読み取れない。
声音の揺れが掴めない。
今まで彼女に敬語で話しかけられたことが無かったから違和感があるだけ、なのだろうか。
はたまた、気持ちが離れてしまったのだろうか。
そうでなくとも彼女の心境に変化があったのか。
人と言うのは各々考えているし、変わっていく生き物だ。
それはもちろん悪い事ではない。
でも突き放されたような気分になってしまう。
何の心の準備もしていなかった。
彼女と話せるだけで贅沢なのかもしれないが。
感情が読み取れなかったら、自分の言ったことを彼女がどう受け取ったのか判断できない。
自分は次に何を話せばいいのか分からない。
怖い。
彼女に何が起きて今に至ったのか分からない。
何も分からない。
彼女はすらすらと話しかけてくる。
ここまで困惑している僕がおかしいのだろうか。
そうしているうちに通話が終わってしまった。
まるで、狐に化かされたような気分だ。
ほんの数分。
刑務所だったら、月に2回以上30分の面会が確保されるのだが、残念ながらここは刑務所ではない。
そもそも世間でいう”知り合い”にすら該当しないのだから、面会許可が下りるわけがないのだが。
これで次の機会はまた何か月も先だ。
直接会うことが出来れば、分かるのだろうか。
最近はぼやくばかりだ。
そうしてまた一年が過ぎる。
ウイルスへの対抗手段を社会が身に着け、皆が恐怖を忘れてきたころ、ついに次の機会が復活を果たす。
何年振りかのリアル対面イベントだ。
もっともっと積み増して、確実に、取らねば。
あっさり落ちた。
あれれぇおかしいなぁ?
ここまで何年もあってリリイベで全落したのは初めてだった。
積んだ枚数を考えると、計算上、全会場全落の可能性は0.1%以下。
あぁ、3σ超えてしまった。
これは新粒子きたな。
まだ兆候は満たせても発見には届いてないのだが。
えっ、もっと積めと?
あっはい、がんばります……。
悪い方の宝くじにでも当たったとでも考えればいいのか、果たして。
今までの事を考えると、人為的な要因が絡んでないかを考えてしまう。
何度も手紙を送り続けているのが良くないのだろうか。
それとも何かまずい事でも話しただろうか。
ここでは推定無罪の原則は適用されない可能性が高い。
冤罪の可能性があっても、容疑者に浮上した段階で処分されうる。
僕の話ではないがそれが疑われることが起きた人は知っている。
以前、当たりを送ると景品が手に入る彼女のグッズが売られたとき、その人は幸運にも複数口当たりを手にしたのだという。
期待値的には、恐らく日本人の平均月収くらいの額を積まないとその結果は得られない。
でもその当たりを全て送ったら、その人だけが希望の賞を落とされた。
何らかの不正を疑われたのではなかろうかと。
同じ轍を踏むのは避けたいので、こういった例を見かけたら後から確認する。
SNS上で後から捕捉できたのは当選者の半分強。
確かに、この人以外に希望が通らなかった人は見つからなかった。
今回の件も”偶然”と言われたらそれまでだけど。
僕はもう彼らに対する信用度がゼロ。
かといって、客観性を担保できる追跡可能性を確保しろなんて、ハードルが高いだろう。
でも透明性が欲しい。
法律さんには本当に頑張って欲しいのだが。
それ以前に、そういう不満を訴える人はまず居ない。
わざわざこんなことを情報収集している人は多数派ではなかろうから、疑問自体抱かないことも多いだろう。
それ以上に、深く推していればいるほど、余計な事を言って「じゃあもうイベントしません」とか「出禁」とか言われるのを最も恐れるようになる。
全員がそうではないのかもしれないが。
推しは替えがきかない。
だから、せいぜいSNSや掲示板で不平不満が流れてくるくらいだ。
不健全な関係と言えば実際そうなのだろう。
誰でも大好きなら、そんな不安も少ないのかもしれないが。
至極羨ましい。
僕にはそんな風に複数を推せるほどの甲斐性がない。
自分の手で抱えられる分だけ。
どちらにせよ、今となっては彼女以外に目を向けることはもう無いのだが。
このままでは、彼女に対する気持ちが天に召されてしまう。
もうこうなったら現地推しでも何でもいいや。
ほんの少しでも残滓があれば。
そんな気持ちで会場の最寄り駅に降り立っていた。
意趣返しのつもりが無かったかと言えば否定はできない。
正直怒っていたのは確かだ。
駅に降り立ち、お土産屋の前で流れゆく人をぼーっと眺めていた。
そろそろイベントが終わったころ。
立っていても通りがかる保証などない。
この場所なら動線に入る可能性があるかも、くらいだ。
いったい自分は何をしているのだろうか。
やっぱり嫌がられるのでは。
気持ち悪いと冷静に諫める声がぶり返してきた。
こんなことして意味があるのだろうか。
でももしかしたら。
そんな風にぐるぐると考えていた時だった。
ふと、遠目に駅に入ってくる人が見えた。
その一点が輝いているように見えたのだ。
彼女だった。
続いてスタッフらしき人が3人。
古に語られるお姫様とその付き人のように、数歩後ろを歩いている。
そこだけが別の世界のように浮世離れしていた。
流石彼女はべっぴんさんである。
これだけの雑踏の中なのに一瞬で分かるくらいなのだから。
そんなことを思っていたら彼女がこちらを見た。
慌てて顔を逸らした。
そのまま、僕の居る方に向きを変えて、まっすぐこちらに近づいてくる。
え、嘘でしょ。
すぐ後ろにスタッフ居るよ?!
逸らした視界の端に映る彼女は、真っ直ぐにこっちを見ていた。
目を見開いて、いつかの時のようにガン見してきていた。
まるで吸い寄せられているかのよう。
直ぐ近くまで来た彼女の顔は、今まで見たことないくらいニマニマとした笑みを浮かべていた。
余りにもかわいすぎる。
三途の川中から奇跡の復活を遂げたはずの語彙さんがまた集中治療室に緊急搬送されていく。
そして、手が届くくらいの距離まで近づいてきた彼女は、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎて行った。
まぁ、そりゃそうだよね。
でもあの顔を見られたなら十分かな。
そう思って、嬉しさ半分虚しさ半分、そそくさとその場を離れた。
それが多分、最大のミスだった。
帰る前に名残り惜しさか、さっき居た場所を振り返って見て、目を疑った。
彼女が居た。
さっき僕が居たお土産屋に戻ってきていた。
スタッフの姿はない。
想定外の状況に頭が混乱していた。
いまからでも行くべきなのでは。
でも、スタッフは本当に居ないのか?
のこのこ出て行ったところでお縄になったりしないだろうか。
これで今後のイベントから締め出されたら、終わりだ。
なんて話しかけよう。
今まではファンのような言葉しか彼女には伝えてこなかった。
もし、今までのことを全部話したときに、本当の僕を知って嫌いになったりしないだろうか。
どうやったら彼女が喜んでくれるか、考えていなかった。
いますぐ行けと言う声と、行ったら終わりだという声が交互に聴こえてくる。
それは数十秒だったのか、それとも数分だったか、彼女はレジを過ぎて行ってしまった。
最後までスタッフは現れなかった。
だというのに僕は動けなかった。
ただただ謝り続ける声が頭の中を木霊する。
僕がこれほどの大馬鹿者だったとは流石の僕も予見していなかったよ。
SNSに、お土産の写真が載っていた。
「なんで居なかったの」と怒られているような気がした。
訳もなく叫びだしそうな衝動に囚われる日々が、始まった。
覚悟を決めた。
こんな失敗を繰り返していたら、何年たっても終わりは来ない。
彼女があれほど喜ぶ顔をするなら、会いに行くべきであると考えることにする。
やるときは徹底的に。
迷っても絶対に手を止めない。
役に立たなかったブレーキなんて壊れてしまえ。
どんな手を使ってでも彼女に会いに行くと決めた。
いやもしかしたら、決めすぎてしまったのかもしれない。
やりすぎて怒られることは昔からよくあった。
オンオフが上手くいかない。
集中し過ぎて視野が狭くなってしまう。
でもそれくらいのリスクは甘受しなければ彼女にはたどり着けない。
本当は慎重さも残さなければならない。
だがこう見えて、僕はかもしれない運転が得意なのだ。
車は出てこないかもしれないことに賭けるぜ。
彼女に会いに行くつもりであるなら、急ぐ必要がある。
これ以上僕の気持ちが壊れてしまったら、彼女に会わせる顔が無くなってしまう。
そうなるよりは、やり過ぎて彼女に嫌われてしまった方がまだましだと思える。
全てのイベント終わりに待ってみることにした。
すぐに分かったことは、前回彼女が現れたのがどれほど奇跡的だったのかという事だ。
貴重なビギナーズラックを消費してしまっていた。
そもそも動線の予測自体が難しい。
複数の動線が考えられることも多いし、その場合は運任せ。
実際、7割程度は待っていても誰も何も1bitたりとも現れない。
前回彼女が通り過ぎた場所も、何度待っても彼女が再び現れることは無かった。
いつまで居ればいいのかも分からない。
かといって集中を切らすわけにもいかない。
帰りのタイムリミットぎりぎりまで待つと、それだけで体力がごっそり削られてしまう。
ご飯を食べる時間もない。
残りの3割にしたって、車が通り過ぎるのが見られる程度だ。
彼女の姿はまず見えない。
いっそ車を追いかけられるかも検討するが、乗っているかも分からない段階では追いかけても仕方がない。
そもそも、そんな都合よく追いかけられない。
仮に追いかけるとしてもそれが出来そうなタイミングは一瞬。
すぐ手元に車が要るが、待っているときは傍にあると邪魔なのだ。
東京には置く場所がない。
人海戦術が使えるならともかく、単独では限界があった。
結局、もっといい情報が得られないかを待つことになる。
あまりにも徒労だ。
イベントで多少回復したとしても、エネルギー収支は赤字。
こんなことを彼女が望んでいる訳ではないのかもしれないが。
ただ、蜘蛛の糸だろうが何だろうが掴めないか、それだけを考えていた。
何もなかったことになってしまうということに対する恐怖だけが僕の手を動かしている。
あまりに体力を食うので、疲れの取れない夜行バスはほぼ卒業。
今の行動が合理的とは思えない。
でも、ずっと暗闇の中に居たのに、微かでも希望を幻視してしまったら、もうそれしか目に入らない。
道で佇んでいると、意外と人が話しかけてくる。
年齢、性別、陰陽ともばらばらだ。
陰陽で分けんな。
でも傾向としては、女性の場合は一言二言話して、こちらが上の空なのを察するとすっと居なくなる。
一方、男の場合はあの手この手で連絡先交換しようとしてくる人が多かった。
中でも、初手「LI○E交換しませんか」と聞いてきた中年男性には流石に驚いた。
レベルが高すぎる。
そもそも男の連絡先なんて聞いて何するんだ。
粽にでもするのか。
美味しく食べられてしまう。
それを言うなら簀巻きな。
キャー怖い。
本当の化け物は僕の方なんだよなぁ。
そうしているうちに、彼女がレーベルを変えるというニュースが飛び込んでくる。
僕は純粋に彼女に祝福できる気持ちを、既に持てていなかった。
もしかしたらスタッフが変わればこんな状況が変わるかもしれないという微かな期待と、次に話せる機会が遠のくこと危惧が、空を曇らせていた。
イベントで待つのは全く捗らない。
こんなことするより、東京都市圏を丸ごと探す方が早いのではないか。
そんなプランが過ぎった。
荒唐無稽ではあるが、このまま電池が切れるのを待っているよりは良い考えに思えてくる。
思い立ったが百年目。
運の尽きである。
終わってんじゃねえか。
早速その日から行動を開始する。
ウェブの海に住まい、ネットの隅から隅まで情報を探し始める。
どうせならウェブよりも宇宙望遠鏡で星の海でも眺めている方がいいのだが。
徒労に終わるかもしれない。
とは言え他にやる事もないのだ。
道の中で佇んでいるよりはずっとましだった。
三ヶ月が過ぎた。
理論上は彼女に届く方法を見つけつつあった。
ただし、月に探せるのはほんの数km2。
東京と言う砂漠は想像以上に広い。
誰だ日本最大の平野に都市を作ろうなんて考えたのは。
残念ながら必然でしかない。
このままでは100年かけても終わらないだろう。
しかも、あくまで机上の話。
間違っていた時も気付くのは何十年と先だ。
寿命が尽きる前に探せるだろうか。
そのころには儂もおじいちゃんじゃ。
まぁ、今際の際にたどり着くというシチュエーションも一種のロマンはあるのだがね。
ロマンだけだ。
望んでその結末に辿り着く人など居ない。
効率化を進める必要がある。
可能性の高い所から重点的に調べる。
そのために条件を絞り込み、手順も簡略化する。
何か手掛かりになりそうなものが見つかれば、現地に向かって実地で検証する。
必要な資料や機材があれば次々に購入していく。
ようし、ついでに最新GPUや有機ELディスプレイも買うぞ。
最早調査とは関係ねえ。
うおお、コマンドラインシェルの黒が滅茶苦茶締まっている。
黒背景に踊る文字たちがこんなにも美しいものだったとは……!
今までこんなに出費が増えたことは無かった。
遠征やグッズ費用よりも遥かにお金が飛んでいく。
とはいえ必要経費を絞って失敗しては元も子もない。
財布のひもは千切ってしまった。
この際本職の人にも相談を掛けてみる。
どうせ門前払いだろうと思って今まで保留にしていたのだが。
今までの事を洗いざらい話してみたら、思っていたのとだいぶ違う言葉が返ってきた。
「まるで探偵みたいですね」
「情熱的ですね」
え、あれ、そういう反応なんだ。
というかそんなワクワクしている目で見ないでくれ。
もうちょっとワークワークしている事務的な目線が欲しい。
僕はこれを良い手とは思ってないのだから。
セールストークってやつかなぁ?
相談員は親身で、少し過激派だった。
まぁ、依頼を掛けてみても結果は出なかったわけだが。
それでも、味方など居ないと思っていた僕を延命するのには、それなりに役立った。
彼女を探し始めてから一年ほど経ったころ、レーベル移籍後初の新曲が発表された。
彼女の近くに行ける機会がようやく回ってくる。
今回のリリースイベントでは、感染症対策で話すことはできないが、紙に書いたメッセージを伝えられる。
レーベルが変わったことによりルールが変わり、当選回数の制限も緩和されるようだ。
当てれば複数回会いに行ける。
話せないのは正直辛いが、それでも言葉が伝えられる機会だ。
その機会を無駄にしないように、メッセージを書いていく。
この時の僕は、どこか、パンデミック以前の様に話しかけてくれることを期待していたのだ。
顔がよく見えてないからオンラインだと話し方が違っている。
それだけではないのかと。
「ありがとうございます」
彼女の前に出てメッセージを見せた時の彼女の反応は、電話で話した時と同じ。
そうか、通話だったからじゃなくて、彼女の心持ちが変わったのか。
勝手に期待して勝手に落ち込んで、何をやっているんだろう。
人の気持ちは変えられないし、変わるのを止めることもできない。
自分自身ですら簡単には制御できないと分かっているはずなのに。
どんな顔をすればいいのか分からない。
お礼を言ってくれたのだから、笑わなきゃいけないのに。
笑い方を思い出せない。
これは駄目かもわからんね。
でも今回のリリイベは2回分当選している。
すぐに次がやってくる。
でも、次何を書けばいいのか分からない。
彼女への文章を書く機会が少なかったせいだろうか。
それとも。
せめて僕の気持ちはまだ向いているって、なるべく伝えてみよう。
その「好きです」という気持ちを書いて次の回に臨んだ。
曲の感想とか書いてないけど大丈夫かな。
彼女の前に行く前のメッセージチェックで、スタッフが「えっ」と戸惑った顔をした。
あぁ、やっぱりライン超えなんだなこれ。
でも数秒迷った上で通してくれた。
優しい人で助かった。
僕がまさしく彼らが懸念しているような人物であるということは申し訳ないが。
彼女はこちらの反応を伺うように、言葉を返してきた。
「ありがとね」
前回とは少し口調が違っていた。
なんだか気を遣わせてしまったかもしれない。
彼女の表情もこちらを探るようで、心なしかぎこちない。
また以前みたいな笑顔を見るためにはどうすればいいのか、そればかり考えてしまう自分が居る。
どうしても、目の前の壁が過去最大に分厚くなっていくような感覚が抜けない。
そうしてまた今日もイベントが終わる。
いつもの様に終わったイベント会場を眺めていたとき、会場から出てくる人影が見えた。
暗くて良く見えないが、彼女とスタッフではなかろうか。
だとすれば1年振りだ。
また彼女に見つけてもらえれば、もうこんなことを終わりにできる。
そう思ってふらふらと付いていく。
なんだか見られているような気がする。
暗くてはっきりとは見えない。
でもこれを逃したらまた年単位で機会がないかもしれない。
迷いながらも付いていく。
そうして近づいた先に待っていたのは、スタッフだった。
親の仇でも見るかのような目をしてこちらの方を睨んでいた。
やってしまった。
でも、いつかこんな日が来ると思っていた。
自分も似たような目で彼らを見ていたのだ。
今まで、仕方ない、仕方ない、彼らも仕事を忠実にこなしているだけなのだと、そう言い聞かせながら。
心の奥底で憎悪と嫉妬の醜い感情を集中砲火していた。
人を呪わば穴二つ。
こんなことまで頭が回らないほどになっていたらしい。
これで出禁になったらいよいよ終わりだな。
ついに導火線に火が付いてしまった。
この線が繋がっている先はまだ見えないが、恐らくは全ての終わりだろう。
鏡に映る自分という醜悪な生き物を眺めながら、接触する前に、逃げるように帰った。
そんなことをしていたせいだろうか。
猫を病院に連れて行くのが遅れたのは。
すっかりご飯を食べなくなっていた。
最近、猫用の暖房の調子が悪いのだ。
体調を崩してしまったのかもしれない。
見た目はそう見えないが高齢猫。
早く病院に連れて行かなければ。
病院でもすぐには原因が分からない。
人と違って症状を教えてくれたりはしない。
症状からしらみつぶしに調べるしかない。
高齢猫だと真っ先に腎臓病を疑うところだが、そちらの数値は良好らしい。
一体どこが悪いのだろうか。
キャリアケースに入れて待っていると、お得意のスキルを活かして「ここから出せ」と鳴きまくる。
相変わらず堪えがたい鳴き声だ。
ご飯は食べないのに鳴き声はまだ元気だった。
大人しくしているなら膝の上でも良いと言っていただいたので、蓋を少し開ける。
液体がにゅるんとすり抜けてくる。
実は液体金属製のアンドロイドと言われても納得できそうだ。
いつか人類は猫に支配されるであろう。
膝の上なら落ち着いている。
さっきまで胡乱な目で見てきた隣の人も、この子が出てきた瞬間目の色が変わっていた。
どうです、うちの子はかわいいでしょう。
そしてどうも怪しい人です、すみません。
よほど深刻な顔をしていたのか、「20歳までは生きてもらわなきゃ」と励まされてしまった。
この子ともいつも話しているようで、僕は何にも知らないのだ。
ちゃんと知ろうとしないからこんな事になってしまった。
医者も数値とこの子の様子を交互に見ながら頭を捻って考えている。
そうしているうちに、呼吸音がおかしいことに気付いたようだった。
肺炎になっていた。
通常は黒く写る肺のレントゲンは、死に装束の様に真っ白だ。
ほとんど機能していない。
何かといつも不満を訴えて表情豊かなように錯覚するが、それはご飯と遊びのことだけ。
自分の体調は全然顔に出さないのだな。
「今日から毎日通ってください」
そう言われた。
本当は入院したほうがいいくらいの症状に思えたが、この子のストレスを考えると難しいのだろうと納得することにした。
やはりもっと早くに連れてこなければならなかった。
帰り道。
鳴けば出してもらえると覚えると、キャリアケースには入らなくなる。
運転中だろうがずっと膝の上だ。
どうせ猫用の安全装置はないから、どこに居てもいいけどさ。
少しでもストレスを与えないに越したことは無い。
それから数日経ったある日の晩のことは妙によく覚えている。
これまでにも増して僕から離れようとしなかった。
彼女のバレンタインデー生配信の前日だったっけ。
何時間も膝の上でなでていても、やめようとすると、「もう終わり?」というような顔をして見てくるのだ。
なんだか眠るのが怖かった。
翌朝、朝起きて真っ先に確認したが、ちゃんと息をしていた。
杞憂だった。
落ち着きを取り戻し、仕事を始めた。
仕事を終えて、もう一度様子を見に行った時、猫部屋の暖房が止まっていることに気付いた。
血の気が引く音が聞こえた。
いつもの定位置に居ない。
どこかに震えて隠れていたりしないのか。
油が切れた機械の様に周りを見回した僕の目に、こてんと横たわる姿が映った。
もう硬くなっていた。
こんなになってもまだ全然可愛いまま、まだ動くんじゃないかってそんな風に見えた。
前から暖房の調子が悪いのは分かっていたのだ。
配線が接触不良になっているだけなのは軽く調べて分かっていた。
すぐに根本的に直さなかったからこんなことになった。
少なくともあと何日かは生きられた。
奇跡的に治ってまた元気な姿を見られるかもしれなかった。
自分の瑕疵で潰してしまった。
会えなくなってからでは遅いのだ。
もう謝ることもできない。
この子を犠牲にしてしまったのに、探すことすら失敗するなんていうのは最早許されない。
ここ何年も、恐怖ばかりが重くなっていく。
嫌な事がある度に、彼女に会えなくなる恐怖が増していく。
いつ会えなくなるか分からないのだ。
いつか忘れられてしまうのが怖い。
常に睡眠時間を削って調べているようになったから、とうとう彼女の作品をチェックする時間すらほとんど無くなった。
自分の心境とは関係なく、イベントはやってくる。
彼女の新作フォトブックの発売が次月に迫っていた。
何事か起きることは無く、発売日を迎える。
もしかしたらもう当たらないかとも思ったが、サイン会にも当選していた。
本当なら、もはや完全にイベントに来る資格がないだろう僕は、どうしてここに居るのだろうか。
こんなに後ろ向きな気分で応募したことがあっただろうか。
終わりが近づいてくる焦燥を忘れることができない。
まだ会話も解禁されない。
「楽しんでくれましたか」
目の前に立った時、彼女はそう言った。
彼女は身振りだけで返せる言葉を選んでくれているようだ。
でも、ずっと避けてきた話題が出てしまった。
写真は、見るのが辛くなっていた。
その症状は、月日が経てば経つほど悪化していた。
高く積まれた本は、とうとう一度も開くことなく、今日まで仕舞ったままだ。
でもNoだなんて返したくない。
悲しませたくない。
せっかく彼女が頑張って作り上げた本に対して、読む前から否定するようなことを言いたくない。
山ほど隠している事がある癖に、決定的な嘘をついてしまうのは嫌だった。
本当に、なんでここに居るんだろう。
時間はほんの10秒ほどしかない。
いっそ言葉で返してしまおうかとも思ったが、言葉を探す時間もない。
曖昧に視線を泳がせているだけで時間切れ。
終わってしまった。
最近はすれ違ってばかりだ。
まだぎりぎり、挽回が間に合うかもしれない。
まだこのときはそう思っていた。
でもこのイベントを最後に、全ての応募が外れるようになった。
何枚積もうとも、明らかに全当らしき場合であっても。
なんらかの手段で僕の事を特定したのかと思ったのだが、どうやら他にも同じ状態の人が同時発生しているらしい。
ただの偶然なのか。
まさか疑わしいと思われる全員を出禁にしたのか。
もしそうだとしたら、魔女狩りと変わらない。
彼らには確証を得るすべがないから泣き寝入り確定だ。
以前、彼女のリリイベからサイレント出禁を食らった人のブログに遭遇した時は、絶対何かやっただろうと思ったものだが。
案外、無差別虐殺の被害者だったのかもしれないな。
さようなら、平時法。
ハロー、戦時法。
顕現するは青き六芒星の国もかくやの大量報復戦略。
一方の僕は、文民の中に紛れるゲリラ哉。
…どう考えても血を血で洗う結末にしかなりえない。
まぁ、状況証拠ばかりで決定的なモノがないのだ。
この推測が正しいとは限らないし、すべては闇の中。
無実なんじゃないかと僕が思っている人達には心の中で謝る事しか出来ない。
かなり積んだだろうに、当たることのない状態にさせて申し訳ない。
諸悪の根源のくせに、どの口が言っているんだか。
謝ったところで赦されるわけがない。
お前が言うなという奴だな。
一般販売が存在するイベントなら行けないこともないのだが、今後イベントで彼女と話す機会が来ることは無いだろう。
彼女が全ての経緯を知った時、彼女はどちらの味方をするだろうか。
多分、幻滅されて終わりだろうな。
これまで危ういバランスを保っていた天秤が、ゆっくりと傾き始めた。
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最初は100年以上掛かると思われた特定作業も、1年以内に丸ごと探せるくらいに効率化が進んでいる。
僅かでも前提条件を間違えていたらやり直しだが。
実際に作業中に誤りに気付いて、何度かゼロからやり直している。
他に誤りがなければ、見つかるまであと少しのはずだ。
数か月後、とうとう痕跡が出てくる。
探していた情報と一致する。
あぁ、見つかってしまった。
そんな馬鹿な、実在していたのか。
細かい住所まではまだ分からない。
でも、大まかな住所が合っていれば郵便が届く可能性はあるらしい。
急がなければと、手紙を書こうとした。
あれ、言葉が出てこない。
何を書けばいいんだろう。
あんなに沢山伝えたいことがあったのに。
伝えるべき時期を逸した話、旬を過ぎた話題。
頭が錆びついて、壊れたロボットのように腕が空を彷徨う。
何を書こうとしても文が途切れてしまう。
今までの経緯を何と説明すればいいのだろう。
それを知った時、彼女は多かれ少なかれ悲しむだろう。
あまりに時間が経ちすぎ、重い話になり過ぎた。
そんな文章を一方的に投げつけていいのか。
文章だと細かいニュアンスが伝わらない。
直接話せるのであれば、反応を見ながら軌道修正できるかもしれないが。
そもそも、彼女は自分の文章なんて今も望んでいるんだろうか。
こんな化け物に成り果てた者の文章だ。
既にスタッフから僕の事について説明を受けているなら、もう忘れたいと思っているんじゃないだろうか。
書けないなら書けないなりの文章で臨むしかない。
どうせ時間は残ってないのだ。
遅くなればなるほど失敗の確率は上がっていく。
最低限必要な事だけを書いて、もし彼女が味方をしてくれたら、直接すべてを話そう。
そうしてポストに投函した。
数日後、追跡ステータスはお届け済みになっていた。
届きはしたが、何も起きなかった。
しまった。
これでは届け先が合っているかすら区別がつかない。
仮に合っていても既に引っ越し済みというパターンだってありうるのだ。
そもそも、後で話せばいいなんて誤りだった。
僕は「これまでの経緯を全て知った上で、彼女が取る選択肢を知りたい」と思っていた。
そう思っていたことに今頃気付いた。
気付くのが遅すぎた。
こうなる可能性が見えていたならば、全部書ききらずに送るなんて選択肢は即却下しなければならなかった。
どうしよう。
手紙には「待ってる」と書いてしまった。
である以上、追加で何か送るのは流石にナンセンスなように思う。
何かわかるまではこのままで待つしかない。
迷っているうちに次のイベントがやってくる。
会場に登壇した彼女は、入ってくるなり何度か悲しげな目線を向けてきた。
多分、手紙が原因だ。
嫌だったのだろうか。
それとも手紙に確証が持てないのか。
スタッフに止められているのか。
それとも他に理由があるのか。
流石に目線だけでは分からない。
一言でいい。
彼女が考えていることが知りたい。
でも実際のところ、その目を見た時に直感はあったのだ。
恐らくもう希望は残っていない。
賭けに負けたのだと。
既に心が終わりに備え始めていた。
彼女がどんな結末を望んでいるのか、せめてそれだけでも知って、区切りを付けたい。
コンコルド効果が、超音速で身を蝕むのを感じる。
このままでは埒が明かない。
もう返事が無くても良いよう、全てを書ききった手紙を1通出そう。
宛先不明で返ってきた。
あくまで届けてくれるのは善意だというのを忘れていた。
一度ならうっかりミスかも知れないが、二度連続ならわざとか知らない奴だ。
届けてはくれない。
可能性が高そうな住所に一か八か送ってみるか?
再び宛先不明で返ってきた。
なんだったら最初に届いたはずの手紙も一緒に宛先不明で返ってきた。
焦っていた。
負け犬根性が侵食してくるにつれ、やる事が雑になってきている。
最初に送ったのも戻ってきたってことは誤配達したってことか?
であれば、そもそも間違った住所に送ったのだろうか。
でも最初のは開封した跡がある。
誰かが読んだのだろうか。
間違っていたのだとしたら前回の彼女はどうしてあんな顔をしたのか。
勘違いだったのだろうか。
考えることが多すぎる。
一旦最初から見直そう…。
そもそも見つけた場所が誤りならば、やり直しだ。
でも、何が間違っているか分からない。
その状態で今から全てやり直せるほどの気力も時間も残っていない。
他に何か見つけられるようなものはないだろうか。
彼女の実家なら見つかるだろうか。
東京全域よりは狭いし、この一年で身につけた知識があれば、案外できるかもしれない。
見つけたところで何をするんだとは思うが…。
勝算はないが、糸口くらいは見つかるかもしれない。
やってみよう。
あっという間に見つかった。
あ、これはヤバい。
無駄に腕を磨き過ぎた。
こんな気軽に見つかってしまうのは危険すぎる。
というか身に着けとうなかったわこんな技。
必要だと思ったからとはいえ…。
ドン引きだ。
とは言え、貴重な糸口だ。
直接、話しに行ってみようか。
そんなことをふと思った。
より有効な手もない。
そう思った週末。
電車とレンタカーを乗り継ぐこと半日。
小雨の降る中、勢いで彼女の実家にやってきていた。
インターホンを押すと、ニコッと笑顔をした男性が現れる。
その笑い方が、彼女に似ている。
多分、彼女の父だろう。
彼女の数年前のライブTシャツを着ていた。
新品の様に綺麗な状態だ。
僕のは既に、色落ちが目立っている。
どんな風に洗濯したらその状態を維持できるのだろう。
っと、それを話に来たわけではないのだ。
「ご家族の方でしょうか」
単刀直入に聞いた。
雨を吹き飛ばしていた顔が、一気に翳った。
あぁ、また人を困らせてしまった。
彼女と似た雰囲気があるからなおさらダメージが来る。
彼女に言伝してくれないかと言ってはみたものの、頷いてはくれない。
当然だよなという思いもある。
今日は、説得できないことを確認しに来ていたのだ。
心が最初から負けていた。
僕は話術の類はからっきしなので、これ以上は出来る見込みがない。
「彼女に何か言われたんですか」
僕は既に諦めかけていたが、彼はもう一言だけ踏み込んできてくれていた。
何か事情があるのかもしれないと、そう思ってくれたのかもしれない。
彼女の関係者から受けた言葉の中では、今までで一番優しい言葉かもしれない。
これがスタッフだったら、彼女に近づこうとしていると認識した瞬間に対話モードが停止してしまうから、速やかに退散するほかなくなる。
でも、彼女には直接的に何か言われたわけではないのだ。
好きだと言われたわけでもない。
探して欲しいと言われたわけでもない。
こうすべきだと思ったから来ただけなのだ。
「僕が勝手にそう思っているだけです」
そう答えるほかなかった。
そこで初めて、今までの経緯を説明することすら出来ていなかったことに思い至った。
でももう、遅い。
既に気力を使い果たしていた。
「名前を教えて欲しい。せめて名前くらいは憶えておきます」
帰る直前にそう言われた。
それに意味があるのか、僕にはもう考える力がなかったけど。
それでも彼なりの誠実さが表れているのだと、そう目が語っているように見えた。
次のライブは、端の方で観ていた。
彼女のライブはやはり輝いている。
でも、なんだか何百億光年も遥か彼方の世界を眺めているような、そんな気分だ。
ここにきて、久しぶりにプレゼントBOXが復活していた。
復活することが分かっていたら、言葉を伝えることを諦めてなかったかもしれない。
今となってはただのぼやきだ。
念のため出してはみたが、もう届くとは思えない。
周りにいる人は自分が来ることを望んでないのだ。
楽しむこと自体許されない。
僕は、どうすればいいのだろう。
会場に来てもそれは分からなかったが、消えたと思っていた燃えカスが、少しだけ熱を取り戻してしまっていた。
もう一度、探してみようという気になる。
このままの状態を維持しても碌な結果にはならない。
残る手がかりは、最初に見つけた場所だけだ。
もう合っている可能性は低い上に、間違っていた時の金銭的ダメージが大きいので保留にしていたが、候補となる範囲の全ての家の情報を調べよう。
本当にあの場所が間違っていたのか確認しよう。
空振りの可能性は高いが、他の方法よりはまだ確率が高い。
幸か不幸か、資金余力だけはあった。
調べてみたら、可能性は低いだろうとの予想は外れ、あっさりと見つかる。
当初の想定とは少し違う場所ではあったが。
恐らく、最初の手紙は届いていた。
つまり。
今度は、少なくとも彼女には届くだろう。
内容も決まっている。
もう不要なら無視するように、不安なら通報するようにと書き加えていく。
ただ、彼女の目に届きさえすれば。
そう思って手紙を出した。
当然ながら、今度も返事はない。
もし彼女が手紙を読んでいれば、この結果を選択したのだ。
これで終わりだろう。
最後に配達状況を確認してみる。
受け取り拒否になっていた。
でも自分の元には届いてない。
誰か何かしたのか、それともただのミスか。
何でこんなタイミングで。
結果が不明確になってしまった。
それ以前に。
読まれない可能性が頭から抜けていた。
前回は開けてくれただろうからと、何も考えず同じことをしていた。
まるで実験のパラメータを少しずらして再試行するように行動していた。
相手は普通の女の子なのに。
機械でも同じことをして同じ結果が返ってくるとは限らないのに、何をしているのか。
人の気持ちを何も考えられていない。
どうすれば想像できるのかもう分からない。
何もかも行動が一手遅い。
もういいや。
直接聞きに行こう。
最悪でも僕が身を以って贖うことになるだけだろう。
失って困るものが他にない。
こんな状況を続けるよりははっきりと決着をつけた方が彼女にとっても後腐れがないだろうと、理論武装していく。
もし、彼女が「帰って」と言ってきたら、それ以上の言葉を投げてきたら、僕は対応できるだろうか。
彼女が何を望んでいたとしても、せめてそれは叶えなければならない。
考慮したのは一瞬、問題はなさそうだった。
彼女の望まないことをしている可能性が高いのだ。
自分の身命程度で供託金が足りるかの方が不安だった。
正しい事なのか分からない。
僕は肝心な時に空気が読めないから。
でも、確認するまで、僕の手は止まらない。
心臓がただただ悲鳴を上げている。
できるだけ彼女の仕事がなさそうな日の朝に行くことにした。
夜行バスを降り、身支度を整え、彼女の家に着く。
正直、十中八九「帰って」と言われて終わりだろう。
意を決してインターホンを押すと、「はーい」と言う声と共にエントランスの扉が開いた。
彼女の声だ。
扉が開いた。
この時点で今日のプランは崩壊した。
間抜けにもなんでと問い返す僕の声は、恐怖と驚愕で完全に裏返っていた。
返事はない。
けど、手招きする警備員を視界の端にみて、吸い込まれるように敷地内へと入った。
入ってしまった。
部屋に着き、恐る恐るインターホンを押してみる。
反応はない。
一方の僕も虫の鳴くような声しか出てこない。
手の震えが止まらない。
仮に聴いていても聞こえやしないだろう。
居ない?
さっきのはなんだったんだ。
これからどうすればいいんだろう。
彼女の意志を知ることはできるのだろうか。
しばらくすると目の前の給湯器が稼働し始める。
ただ無視されているだけなのだろうか。
状況に理解が追いつかない。
恐らく二度目の機会はない。
次に何をすればいいんだ。
後から考えれば能天気にも、考え始めた。
気が付けば5時間近く玄関前に突っ立っていた。
いつまで経っても声が出せるようになる気配もない。
出待ちに慣れ過ぎて時間感覚がおかしくなっていたのかもしれない。
流石にもうあきらめよう。
一言、書置きだけ残そうとペンを執った。
この期に及んでまだ、「ネガティブな話題を書いたら嫌がられるかもしれない」なんて考えていた。
まさに悪いニュースを今日話そうとしていたはずなのに。
僕がここに居ること自体がまさに悪いニュースだろうに。
良い事探しをして、今日嬉しかったことを書き加えようとしていた。
何かあっただろうか。
敷地内に入れてもらえたことかな。
支離滅裂な文章が出来る。
そんな羅列しか出来なかった。
人語を解さない生き物がそこに居た。
でも、何も残さないよりはましだと、そう思う事にした。
置いて去ろうと歩き出した直後だった。
人の好さそうなおじさんが目の前に近づいてきた。
「ここで、何をしてるんですか」
警察官だった。
余りにもタイミングがぴったりで笑ってしまうかと思った。
誰かが通報したようだ。
彼女が通報したのなら良いのだけど、100%ではない。
他の人かも分からない。
ここまでやっておいて、彼女の意志を確かめることにすら失敗した。
手際よく手荷物を調べられていく。
旅行用品ばかり大量に出てくるので、旅慣れてますねという感想を頂いた。
それが終わってしばらくすると、続々と警官が集まってくる。
何かを調べている人、どこかと連絡を取っている人。
ぼんやりと眺めていると、背の高いお兄さんがどうやって入ってきたのか聞いてきた。
「彼女が入れてくれましたよ」
「嘘つけーっ!!!!」
怒ってしまった。
僕自身想定外だったからね、そう思うよね。
こんな時、口で上手く説明が出来ない。
相手が冷静になるのを待つ以外の方法を知らない。
待てば相手と自分の温度差が自然と均衡するのだ。
あまり温度差が大きいと突沸することもあるけど。
何度か同じ言葉を返すと、それ以上は返してこなかった。
宅配と間違えたとかそんなところだろうとも思うが、真相は彼女しか知りえない。
現地での調査が終わると署に行くことになる。
とりあえず、これまであったことをかいつまんで話してみたが、「で、それで?」とか「何言ってんだこいつ」という感じの反応だ。
まぁ、気持ちは分かる。
僕が何も知らない第三者で、同じように言われたところで、納得することは難しいだろう。
自分すら納得させられないものを他人に納得させられるわけがない。
特にある女性の警官は怒髪天を衝くかの如く怒っていた。
「自分だけは特別だとでも思っているの」
「まだファンで居られるとでも思っているの」
「彼女のような人があなたの事をどうこう思う訳がないでしょ」
周りから見たらそんな風に見えるのだろうか。
僕は多分もう壊れているだろうからよく分からないが、それが正しいのかもしれない。
彼女の気持ちに寄り添う優しい人だ。
でも正直、自分自身の感覚とは噛み合っていなかった。
自分が特別だなんて思っているなら、何年も待ったりしない。
こんな泥臭い方法も取ってない。
足りない頭で考えて、例え非難されても、これが一番ましだと思う方法を採ろうとしたはずだった。
頭が悪すぎて結局最悪の結果になった訳だが。
僕に魅力が無いなんてことは自分自身が一番分かっているのだ。
釣り合うとは最初から思っていない。
それは別にいい。
でも、特別だから人を特別な人しか好きにならないというような風に言うのは、価値観が相容れない。
僕の事を置いておいたとしても。
“特別だから”好きにならないのか?
そんなわけがない。
彼女は人一倍頑張り屋の、普通の女の子だ。
特別という分かりやすい言葉の枠に填め込んで、彼女の気持ちを量ろうとしないで欲しかった。
まぁ、無理に開けようとしてしまった僕が言うのは説得力がないどころか顰蹙しか買わないだろう。
やっぱり反論を返す資格はないな。
考えは浮かんでも、感情がまるでついてこない。
神経に無効電力しか流れていない。
こんな重箱の隅をつついても、その後の処理には関係がない。
”知人でない人間が会いに来た”という事実さえ合っていればあとは勝手に処理が進む。
そこは事実通りで反論の余地はない。
それ以外の枝葉を直したところで自己満足でしかない。
ここは必要な事実を明らかにする場であるべきだ。
感情を燃やそうとしても仕方ない。
最初に話しかけてきたおじさんだけは妙に同情的で、時々フォローしようとしてくれていたのが、僕にとっては救いだったかもしれない。
もろもろの処理が終わると、夜中には家に帰れた。
朝から何も食べてないはずだが食欲もない。
何もする気が起きない。
物語で例えるならこんなところだろうか。
過ぎた力に手を出したら力に呑まれ、気が付いた時には守りたかったものも全て破壊しつくしていたのだった。
現実世界は意外とダークファンタジーに近いのかもしれない。
果たして僕が正気であるのかは定かではない。
彼女が、あまり落ち込んでなければいいのだけれど。
そんなわけがないだろう。
気が狂っている。
一週間後、もう見ない方がいいとは思いつつ、生放送を映してみた。
放送中だと言うのに、彼女は茫然とした表情を浮かべていた。
すぐに観るのが耐えられなくなった。
何もする気が起きない。
ただひたすら胸が痛い。
ネットもほとんど見なくなった。
でも、何も変わっていない。
ファンクラブすら退会にならない。
現実感が無いので試しにチケットを買ってみたら、ちゃんと警察から電話が来た。
「絶対に来ないでください」
「チケット代金は諦めてください」
警察の方には手間を掛けさせてしまった。
元々捨て金だからお金は気にしてないのだけど。
どうやらスタッフは仕事しているらしい。
気がつけば、半年近く経っていた。
頭を常に曲が流れている。
彼女の音楽が消えない。
もう止めたいのに止まらない。
最低限の外出すら体を引き摺るような感覚が纏わりついてくる。
でも、多少は体が動かせそうになってきた。
最後に放送で見た顔が忘れられない。
結局、彼女の意志を確かめられなかった。
最後に彼女の今の意志だけは確認したい。
もう、何もするべきでないのは分かっているはずなのに。
スタッフへの信頼はとうの昔に失われている。
彼らが何とアナウンスしても僕の求める情報とはならない。
どうしてもスタッフを介さずに確かめる必要があった。
せめて、彼女にとって最小限の手間で済むものを。
それでも身勝手と言われれば釈明のしようがない。
一通、手紙を出す。
すぐに警察から連絡がきた。
彼女が通報したのだ。
今回はもう疑念の余地がある事柄はない。
彼女の行動を確かめることが出来た。
彼女の意志を確認できた。
最悪な方法ではあるけど、これで終わり。
今の状況が彼女の望みであることは確かであるらしい。
何年間も探し続けた答えをようやく手にすることが出来た。
数日後、手紙の件で警官がやってきた。
ムードメーカーのお兄さんと、草臥れた雰囲気だが眼光は鋭いおじさん、二人組だ。
ドラマで出てくる警官コンビのような見事なバランス、そんなイメージだ。
「どうして送っちゃうかなー」
「どうしてこうなったのか分からなかったからですかね」
その返答を聞いたおじさんは呆れていた。
自分で言っていてたしかに呆れるような返答なのだが、一言にまとめるならそういうことだった。
それでもこれまでの経緯について、そういう事もあるかもしれないねくらいの理解をしてくれた。
万が一彼女が読んでくれたらという体にはしていたが、実際のところ第三者しか読まないだろうと思って手紙の内容を書いていた。
口ではだめでも、文章ならある程度の説得力を持たせることが出来るらしい。
でも、全然足りない。
「仮に彼女がそう思っていたのだとしても、スタッフの方に従わなきゃ」
僕が正しくないのは最初から分かっている。
彼女とはもう道が交わることがないことも理解した。
でも。
これまでのスタッフを見ていて、彼らこそが正しいだなんて、僕にはとてもじゃないが思えない。
そこは、分かり合えなかった。
「まだ納得できないなら、スタッフにアナウンスしてもらおうか?」
分かり合えなかったから、どうしても言葉がずれてしまう。
それじゃだめなのだ。
スタッフを信用していないから、アナウンスは効果がない。
「大変だったね」とみんなが思うだけで終わってしまう。
再発防止策にもなっていない。
信用していないからこそ今回のような事を起こしたのだ。
もし過去に遡って何度同じ経験をしても、彼女とスタッフの間に乖離があると思えば、毎回似たような結論に至る。
同じ状況になったら誰だって何かするだろ。
僕よりは上手くやるのかもしれないが。
少なくとも、何もしないなんて言う選択肢はあり得ない。
もちろん後からあの時こうすれば良かったと言うのは簡単だ。
電気を発明する前の人類に対して、今の人間が電気の使い方も知らないのかと嗤うのと同じこと。
そんな小手先ではなく、そもそもこんなことが起こりえない解が必要なのだ。
僕にはもうこれ以外に彼女の気持ちを確かめる方法が思いつかなかった。
生きるのが下手過ぎて僕には分からなかったよ。
どこにもっと正しいやり方があったんだよ。
教えてくれよ。
もしスタッフが今回の事を起きないようにしたいと言うなら、アナウンスだけではなくもっと根本から直さなければならない。
初めから信頼を失わないようにしなければ、それ以降にどんな対策を取っても効果など無くなる。
いつか誰かに同じような事が起きる。
仮にも誰かの代理を名乗ると言うのなら、僅かでも疑念の残るような要素があってはならない。
少なくとも周りに疑惑が露見するようなやり方をすべきではない。
それが出来ないなら、状況をこそこそとコントロールしようとするのは最初からやめるべきだ。
もし、自らが正しい振る舞いをしている主張するなら、最低限、誰から見ても公平なやり方をして、堂々と邪魔をしろ。
僕にはもう関係ない事なのかもしれないが。
まぁ、今回起きた事は、将来、誰かの参考くらいにはなるだろう。
僕がグッズを持っているだけでも、もう彼女は快く思わないはずだ。
ようやくファンクラブを退会する決心が付き、アカウントをアクセス不能にした。
大量にあったグッズ類も処分した。
体が動かない。
ちょっと、疲れた。
きっかけは何だっただろう。
その頃はウユニ湖の様に薄く広くチェックするオタクだった。
オタク大好きウユニ湖、超高塩分濃度のあのウユニ湖である。
実行する人は特別な訓練を受けているから、良い子の皆は真似しちゃだめだぞ。
布教活動するでもなく、ライブやイベントに行くでもない。
そんな薄っぺらオタクだった。
ただ日々出てくる膨大な数のアニソンその他楽曲を一通りチェックして日々を潰すような人間だったから、確か曲だったと思う。
歌唱力が特別高いという訳ではなかった。
ブラウンシュガーのようにまだ荒く、完全には精製されていない。
でも、凄く優しい味だ。
金平糖のように、キラキラコロコロした可愛い声で、妙に元気が出る歌声。
何か、自分が求めていたものにカッチリと嵌ったような気がした。
それが始まりだった。
彼女は声優が本業な上にまだ学生だったから、専業の人に比べたらリリース間隔は短くない。
ただし、ソロでもユニットでも音楽活動している。
働き者過ぎるのでは。
高頻度で新曲が出るわけではなくとも、彼女の人気が高まるとともに聴く機会が増えていく。
そして自分のアンテナが彼女を向くほどに、名前を目にする数が増えて行ったように思う。
アニメの出演にも気付くようになる。
といっても、僕にとって物語は専ら小説、ラノベや漫画といった紙媒体で、映像は嗜む程度。
僕には展開が速くて感情が振り回されてしまうのだ。
特に甘酸っぱい展開はすぐにキャパオーバーになってしまう。
映像を止めて、落ち着いてから続きを観るのを繰り返す。
うわっ…私のメンタル、弱すぎ…?
それよりは、自分のペースでチビチビ読むことができる書籍の方が合っていた。
同じように人間関係もあまり深くしない方が合っていた。
感情が制御できなくなるので、誰かに好意を向けられても遠ざけてしまう。
相手がくれた気持ちに十分報いることが出来ず、むしろ迷惑を掛けてしまう生き物だった。
臆病の言い訳だったのかもしれない。
トラブルメーカー体質なのは間違っていないのだけれど。
今日も一日一事故、教育委員会に新鮮な話題をお届けしてしまうぞ。
だからこそかもしれない。
手の届かない位置に居る人ならば、きっとどれだけ応援しても安全だし問題もあるまい。
そう思いついてしまった。
大丈夫だから、彼女の声を直接聴きたいと思うようになっていた。
僕は大学院生になっていた。
なかなか成果が出ないポンコツだったけど、それでも彼女の曲を流すと不思議と元気が出る。
気付けば彼女の曲ばかり聴くようになっていた。
彼女のライブに行ってみたい。
さて、そのためには何が必要だろうか?
グッズを手に入れる?
掛け声を覚える?
ノンノン。
僕が最初に考えたのは保湿だった。
いや、結構マジメに言っているから笑わないで欲しい。
……やっぱり、笑ってもいいよ?
万が一彼女の視界に入っても、出来るだけ不快な思いをさせないようにしなければ。
なにせ、化粧品売り場を通り過ぎると、「ちゃんとケアしないと良くないですよ」と店員に呼び止められてしまうくらい、何もしていなかった。
そこな陳列してある品のターゲット層ではあるまいにそれでも呼び止めるとは、よほど酷い状態であったことは想像に難くない。
当時はあまり考えていなかったが、思い出すほど気になってくる。
まずい。
少なくともおいしくはない。
若干トラウマになっていた。
化粧水に石鹸、日焼け止めなどなど自分の肌で試し始める。
すぐに分かった。
確かに、肌ダメージが蓄積し過ぎていることに。
気になり始めると止まらない。
毛穴が蓮コラか何かのように見え始める。
逆から見ても同じことが言える。
普段気にしていることならば、相手の状態もよく目に入る。
あぁ、世の人々からはこんな風に見えていたのだな。
美容に気を遣っている人から見たらなおさら気になるだろう。
やはり、知らず知らずのうちに相手に不快感を与えるかもしれないというのは間違いではないと思う。
何を使ってもなんか合わない。
特にボロボロ肌における洗顔料と化粧水の組み合わせは、すぐバランスが崩れてしまう。
洗わなければ毛穴が詰まる、洗えば乾燥で脂が噴出する。
肌がすぐに突っ張り、頬テッカテカや!
対応に追われる。
でもやっているうちになんだか楽しくなってきた。
実験と同じ要領だ。
生物系はどうやってパラメータを合わせているのだろう。
ノウハウがないのか予想以上に再現しない。
位相余裕が無くて発振している。
それでも、化粧水に原料を混ぜて調整し始めた頃には、ある程度落ち着くようになった。
全身が保湿されるようになると、なぜか体臭も少なくなってくる。
やったことない人は試した方が良いよ。
昔から凝り始めると止まらない。
せっかくならと、眼鏡もコンタクトに変えて、眉毛も整えるようになる。
センスが無いので、大きく印象が変わるほどは弄れないが。
髪はボサボサだが、だがそれが良いと言う人が居たことがあるので保留にしておこう。
髪型の良し悪しはよく分からないので、昔から適当に切っていた。
もし彼女の好みが分かれば、その時でも間に合うだろう。
よし、参加の準備は整った。
明後日の方向にばかり気合を入れていた。
今日は彼女のユニットが僕の地元でライブする日。
ギリギリにチケットを取ったのでほぼ最後尾だ。
当然ながら知り合いは居ない。
広い会場には気合の入っている人ばかり。
若干の場違いさを感じる。
ここに居ても大丈夫だろうか。
そんな風にキョロキョロと挙動不審に過ごしていた。
まるで保湿しか考えてなかったように思うかもしれないが、ちゃんとグッズも入手したよ?
手元に握るは買ったばかり、ピカピカしているペンライト。
長々と調子を確かめていると、突然照明が暗くなる。
開演だ。
初めて直接見て、想像よりもずっと可愛い人なのだと知った。
画像で見た印象とは全然違う。
小柄な体格と裏腹に、エネルギー溢れるその姿。
バッキバキに踊っている。
綺麗な髪がこちらを誘うかのように靡く。
凄い。
今まで見たこと無いタイプの人だ。
気付けば終わっていた。
10行に満たない感想を読むのと同じくらいの体感時間だ。
狐につままれたようで現実感が無い。
ライブが終わってようやく、確かにそこに居たのだと、そう思えた。
違和感がいつの間にか無くなっていた。
言葉に出来ない感情が少しずつ溜まってきている。
彼女の初ソロライブが開催されると知って、今度は最速で申し込んだ。
初めて応募した最速抽選は、当選していた。
調べてみると、どうも全当だったらしいが、嬉しい事には変わりない。
この時の僕は、ただ周りの流れに乗っているだけになっていて、この先何をしたいのか見えていなかった。
ただ大学で夜中まで研究して、終わったら帰って寝ているだけ。
研究すること自体は楽しくはあったけど、目立った成果を出すほどの力もない。
まだ時間はあると、少しずつ余裕がなくなっていくのを見て見ぬふりをして過ごしていた。
「社畜でも苦しい思いをしたら給料が貰えるのに、苦しい思いをして給料も出ず授業料まで払っているのだから、社畜以下だよね」
そんな風に言う教授もいたなぁ。
これがラボ畜の本懐である。
やりがい以外はもう何も要らない。
研究はいばらの道。
そこで当たったチケットは、想像以上のエネルギーを齎す。
日々の糧になる。
あぁ、沼に沈んでいく。
底はどこ?私は誰?
自意識も失っていく。
夜行バスに乗って、関東へ。
ライブ当日だ。
前回とは比べ物にならないくらいステージに近い。
静かに開演を待つ。
周りと交流の類をするにはまだ百年は早い。
つまり特にやることは無い。
でも、期待に空気を入れているだけですぐに開演の時間は来た。
単独ライブでの彼女は、前観た時と全く振る舞いが違った。
他の誰かに頼ることが出来ない。
そんな状況だからか。
“必死に”と形容するほかない。
とにかく一生懸命で、笑顔を振り撒いていて。
向かってくるエネルギーが尋常じゃない。
このライブに懸ける意気込みが熱波となって、心を焦がしていく。
まるで、戦いの中で一秒一秒成長していくような、そんな風にすら見える。
信じられない。
こんな景色が存在するんだと、初めて知った。
とにかくダンスが可憐で、エネルギッシュに歌っていて。
決して完璧という訳ではない。
でも、彼女はただがむしゃらにパフォーマンスを披露していた。
体感1秒、あっという間に最後の曲に到達してしまう。
あと71時間59分59秒欲しい。
でもそこで緊張の糸が解けたのか、彼女が感極まってしまう。
声が止まってしまった。
「ファイトーッ!!!!」
気付けば息の続く限り声を張り上げていた。
4小節を完全に埋めた。
こう見えても合唱畑出身の人間なので、声だけは多少通る。
周りからはしばしば、声が目立っていると評されたものだ。
バランス崩してどうする。
合わせられなきゃ合唱じゃねえよ。
肺の空気を使い切って声を止めた時、彼女がふわっと笑った様に見えた。
草原に育つ花々が一斉に花弁を開き花畑に変貌したような、そんな笑みだった。
そして彼女は再び歌い始めた。
もう止まらなかった。
自分の声が、気持ちが届いたように感じて、目が離せなくなった。
全身の爪先まで60兆の細胞、例外なく全てが叫んでいる。
これからずっと応援しよう。
それ以外の選択肢があるか?
いやない。
ある訳がない。
文句をいう奴が居たら市中引き回しの上獄門である。
突然の圧政が始まる。
このチケットはどうやら片道切符だったらしい。
生きて、帰って来いよ。
なんとか彼女をもっと応援したい。
そこに至って、彼女の新曲発売時には購入者に向けたリリースイベントなるものが開かれていることに、初めて気づいた。
お渡し会、なんて呼び方もされている。
記念品のブロマイドなどを直接手渡ししてもらって、その時に数十秒ほど彼女に直接言葉を届けられるという。
当選すれば、ね。
業界ではその距離から、接近戦と呼ばれているそうな。
戦うなよ、応援しろ。
了解、宣戦布告!
丁度、彼女の新曲発売が決まっていた。
応募要項を目に穴が開くまで読み、大佐ごっこをしてから、はがきに書いて一通投函する。
目がああああ?!
要項曰く、リリースイベントは全国各地で複数回行われているが、当選は1人1回までらしい。
一番近くの会場を希望して応募した。
絶対に伝えなきゃというほどではない。
キモいとか思われないだろうか。
キモいが気持ちいいの略だったら良かったんだけどな。
残念ながら世間はそう甘くない。
彼女が喜ぶかも分からない。
一か月後、当選のお知らせが届いていた。
後で考えると、1枚だけでよく当選したと思う。
イベントは学会出張から帰ってきた直後なのでバタバタだ。
せっかくだからお土産とか考えておこうかな。
正直浮かれきっていた。
能天気な事を考えていたら、案の定集合時間に遅刻しかけていた。
完璧な計画が………。
元から計画などないのだが。
予定より遅い列車に飛び乗り、降りても走る。
開場ギリギリになんとか滑り込んだ。
直前だったためか、本来の順番ではなく一番最後の席に座ることになる。
僕よりも遅れてきた人が2人座ったところで、開演となった。
いざ自分が話す番になった。
走ってきたせいか、まだ息が整わない。
目の前で見る彼女は、遠くから観るよりずっと可愛い。
ぱちくりとした大きな目で、じっと見てくる。
ちょっと距離を探っているような目だ。
意外と怖がりなのかもしれない。
ちょこんと立っている姿はまるで現実感が無い。
話そうと思ったことは風と共に消え去った。
室内なのに。
とにかく伝えないと。
凄いと思ったこと良かったことをまくし立てるかのように言う。
最後に「これからも応援しています!」と言った時には最敬礼角度でお辞儀をしていた。
……これドン引きじゃねぇの。
最敬礼は謝罪にも使えるからね。
すでに謝っている説まである。
認識した時には既に謝罪を済ませているとは、社会人って恐ろしいね。
まだ学生だけど。
「えっ」
彼女は、そう言ったっきり、何も言わなかったと思う。
元々大きな瞳を、さらに大きく開けて。
彼女の目を見た限りでは、驚いてはいそうだけど嫌そうとまではなってなさそうに見えた。
不快と思っている人は、大抵はもう少し違った目で見てくる。
ぎりぎりセーフだと思いたい。
いっぱいいっぱいだったので、壊れかけの人形みたいにステージを離れた。
「足元に気を付けてください」
そう言うスタッフの声が聞こえたのは、まさにステージから足を踏み外した時だった。
ドカンッと音が響いたが、ぎりぎり踏みとどまる。
彼女がどんな顔をしているか確かめる勇気はない。
振り返らず、速足で会場を去った。
もうほとんど人が残っていなかったのだけが幸いである。
そうだな。
一度にみなまで話そうとしたのが無茶だった。
文字にした方が良い。
そう思い、次のイベントから手紙を出すことを決めた。
そう、失敗は成功の素。
計画より実行。
世はBe Agile。
人より失敗が多いのだから、改善くらいは早くなければ。
どんな内容が良いだろう。
できるだけ面白い内容とか伏線とか仕込みたいよね。
ペンネームで書くか本名で書くか。
どんな文体にしよう。
どんなレターセットが良いだろう。
また拘り過ぎている。
どう考えてもいきなり全部盛りは無理なので、小さく始める。
当面は可能な限り丁寧な文面にしよう。
そして、彼女の態度を見ながら調整していこう。
いきなりフレンドリーな手紙を書いても怖いかもしれないし。
伏線とかは流石に難しいけど、一つだけ仕込みに丁度良さそうなものがあった。
僕の名前は読み方が何通りもあるので簡単にはどれか分からない。
敢えてそれは秘密にしておこう。
本名で通すことになるな。
SNSまで変えるのは面倒なので、そちらは普段使いのハンドルネームのままだ。
まぁ、それで困ることもないだろうが。
次のイベントが近いので手早く準備していく。
うーん、なんか硬すぎてビジネスっぽい香りがしなくもない。
レターセットのデザインも渋すぎるかもしれない。
最初はこんなもんか。
たった2枚の便箋にずいぶん時間を掛けてしまった。
意を決してプレゼントBOXに投函する。
ちゃんと読まれているといいな。
同時期に、彼女の担当しているラジオも聴き始める。
聴けば聴くほど思うのだ。
この子、真面目過ぎでは。
少しだけ口下手な言葉の節々に、そんな雰囲気が見え隠れするのだ。
信じられないくらい頑張り屋で、ストイック。
ファンがどうすれば喜ぶかを一心に考えている。
でも、ちょっと抜けていて、不器用な所もある。
もしかしたら、少々堅いと思う人も居るかもしれない。
あれだけのパフォーマンスには相応の背景が存在するのである。
人気出るはずですわ。
こんな一面を垣間見たらもう止められない。
支えなきゃという本能が無限に刺激されていく。
彼女のユニットのライブツアーが開催されていた。
彼女のソロライブとは少し毛色が違う。
ソロライブがとにかく全力をぶつけるという感じだったのに対し、お祭り感と言うかワチャワチャ感がある。
来てくれているファンをどうやって楽しませようか。
そういう余裕にも似た企みを感じるのだ。
おぬしも悪よのう。
そういうこちらは、ハロウィーンにトリック・オア・トリートされるのを血走った目で待っている人の気分だ。
血走っているのはただの不審者ムーブだ。
次第に自分がこの雰囲気に馴染むように変わっていく。
変な感覚だ。
前よりもパフォーマンスに磨きが掛かって見える。
そう余裕げに彼女の活躍を咀嚼していたのだが、現実の方は世知辛い。
僕は大学院修了要件を満たすタイムリミットが目前に迫ってきていた。
必要な論文数が足りない。
とにかく寝る間も惜しんで実験に次ぐ実験。
だんだん身を振り返る余裕もなくなってくる。
就活もしなければならないがエントリーシートを書く時間すら足りない。
期日に間に合わなかったエントリーシートが出始めたあたりで、既に破綻しかけているのは何となく察していた。
でも、どう抜け出せばいいのか分からない。
立ち止まる時間が惜しくて、方向転換が出来ない。
面接でも修了できないかもと言うと露骨に相手の雰囲気は曇る。
とは言え、あまり隠し事は得意でない。
言える物ならさっさと言ってしまった方が、気が楽。
僅かな重みとは言え、その重みを毎回背負えるほどの余裕もなかった。
社会の潤滑油にはなれそうもない。
人体を圧搾しても、車一台に必要な量くらいしか油が採れないから、巨大な社会を動かすには全然足りないのだ。
物理的にプレスすんな。
僕が迷子になっていたとき、彼女の新たな曲が現れる。
それは、僕にとっては薄明光線のように降りてきた。
彼女の曲は一つの極致に達していた。
誰にも挫けないほどのエネルギーに満ちた新曲は、余りにも眩しい。
それは太陽よりも燦々と輝き、遍く照らし尽くす。
とんでもない熱を持っているのにも関わらず、手を伸ばしても火傷することなく、粉雪のように優しく溶ける。
魔法のような曲だった。
まさに今欲している力が貰える曲と言っても良かった。
こんなタイミングが良い事があるだろうか。
こんなん推すしかないですし。
おすし。
応募は確率を考えるようになる。
イベント会場の推定キャパと推定応募者数から積む枚数を調整していくのだ。
その甲斐もあったか、次のリリイベも無事当選した。
今回当選したのはトークイベント。
直接話す機会はない。
とは言え、近くで姿が観られるだけで十分嬉しい。
トークのネタになる言の葉をアンケートに記載して、始まるのを待つ。
ちょっと雑な内容を書いてしまったかな。
これだけ人数が居るので、まぁ読まれないだろう。
速攻採用されて焦った僕が、生き残ることが出来たかは定かではない。
お察しください。
採用されるなら就活の方にしてくれ。
この新曲のリリースと共に、彼女の初ソロライブツアーが決定している。
今度から全通を目指そうかな。
少しずつイベントへの参加率が上がりつつあった。
全部は当たらなかったが、仕方あるまい。
彼女の人気は確実に上がってきている。
この調子なら、ますます高みに登っていくのだろう。
引き離されないように頑張らねば。
壇上の彼女はますます輝いていた。
蝶のように舞い、蜂のように刺す。
どの部分を切り取っても曲もダンスも刺さる。
完成度は前回の比じゃない。
表情は柔らかくなり、どんどん可憐に華麗になっている。
これを余すことなく覚えておくことが、今の僕の生きる糧だ。
もっと彼女の姿を観たい。
ライブやリリイベ以外のイベントにも行こう。
その調子で、修了にももっと力入れような?
調べてみると彼女は思ったよりもいろいろなイベントに出ている。
そう、彼女の作品は歌以外にもあった。
僕の知らない世界。
アニメ作品のイベントがこれほど多いなんて初めて知る。
にわかな僕が行くのもどうなのと思うのだが、それでも行きたい気持ちの方が大きくなってきていた。
次の新曲リリースが再び近づいてきたころだった。
リリースイベントに加え、次の日にあるイベントも応募してみる。
無事に当選となった。
初めて話したのが一年以上前。
……あまり会話になってなかった気もしなくもないが話したことにさせてくれ。
それ以来、次の機会を待っていたのだ。
でも、目の前にきた瞬間昇華点を超えた。
ゆけっ、エクトプラズム!
じゃない。戻って来い。
ぽそぽそと感謝の言葉を投げると、彼女はうんうんと頷いてくれた。
イベントだとすらすらトークしているけど、素は意外と無口なのかもしれない。
直ぐに時間が終わる、挨拶しなきゃ。
「明日のイベントも楽しみにしています」
「えっ?!」
彼女はずいぶん驚いた顔をしていた。
驚くところそこなんだ。
もしかして曲関連以外では来ないと思っていたのだろうか。
いや、彼女に覚えられるほど現れたことがない。
手紙は出していても、話すときに名乗った訳でもない。
隠しているわけじゃないから、話した内容と手紙の内容を摺り合わせれば分かる可能性はゼロではないが。
考えすぎかもしれない。
もし、たったそれだけで覚えてくれているのなら、凄くファン冥利に尽きる。
そうでなくとも記憶力が良いか、凄く頑張り屋だ。
さて、次の日もイベントだぞ。
ちゃんと作品も履修済みだ。
さて参加してみるが、意外なほど楽しい。
キャストの掛け合いを観ているだけで思ったより楽しい。
楽しそうにしている彼女を観ているのは楽しい。
来ても良かったんだ。
あんな風に笑わせてみたいな。
僕の生活には清涼成分が足りていない。
もっともっと補充しないと。
年が明け、彼女のユニットのライブツアーが始まった。
就職先も決まり、まだ予断を許さないものの、修了の目途も立ちつつある。
連日大学に泊まり込み、そのままライブに向かい、帰ってきたらまた泊まり込む。
そんな生活が続く。
何度観ても、バランスのいいユニットだ。
生まれた時から傍にいるかのように、何も言わずとも自然と呼吸が合っている。
僕には、仲のいい姉妹のように見えていた。
それほど息が合っているから、やんわり言うとこの界隈は強火推しCP関係性オタが多い。
……やんわりだったか?今の例え。
でもそうなる気持ちもわかる。
本当に観ていて気持ちの良いパフォーマンスだ。
絶好調に思えた。
その力を借りるように修了要件を満たし、社会人になることが決まる。
これからは資金力も増えるしもっと応援できる。
そう思った矢先だった。
彼女のユニット活動休止が発表された。
まぁ、そういう事がありうるのは知っていた。
だからこそ推せるうちに推せなんて言葉もあるのだ。
ただ、思っていたよりもずっと彼女の事を何も知らなかったんだなって。
言われて初めて、彼女に落ち込んでいる雰囲気が出ていることに気付いたのだ。
逆にだからこそ、あのライブがまさに星のように光り輝いていたのかもしれない。
もっと知らなければならない。
もっと笑っていて欲しい。
これからのイベントは、全部参加。
SNSは毎回メッセージを残す。
手紙もすべてのイベントで用意しよう。
社会人になって時間が出来たから、それを全力で彼女に向けよう。
既に、就職先すら”応援する余力が最大限高まる”ことを重要ファクターにするくらい入れ込んでいた。
自己満足かも知れないが、やらぬよりは良い。
タイミングよく、彼女のアルバム発売が迫っていた。
いつものようにリリイベを当選させ、いつもより気合を入れてここまでの感謝を手紙に綴っていく。
近くで見る彼女は、落ち込んでいるようにはほとんど見えない。
なんだか、前よりも可愛く笑うようになった気がする。
きっとファンのみんなが元気づけてくれたんだと思う。
話しかけると、勢いよく頷いてくれた。
ほんの数秒で、コロコロと表情が切り替わる。
でもやっぱり他の人のようには盛り上げられない。
次はもっと彼女が喜ぶような話題を考えないと。
他の人はどんなことを話しているのだろう。
よくよくこれまでの会話を振り返ると、「えっ」と「うん」以外ほとんど彼女は話してない。
あれ。
もしかして嫌がっていたりしないよね……?
やや焦った僕とは関係なく、イベントは遅滞なく進行していく。
資金力に余裕が出れば、出来ることも増えていく。
以前は遠かった東京も、気軽に往復できる。
チケットが東京で配布されますと言われても逡巡する必要が無くなった。
とは言え、無尽蔵という訳ではない。
いついかなるイベントがあろうと対応できるよう、余裕があるうちは節約すべき。
チケットが取れなかったときは、当選した人が連番してくれないかを探すようになった。
連番、つまるところペアのチケットを確保した人に、余っている席を譲ってくれないか頼むのだ。
そうすると、リリースイベントなどの当選者本人のみ参加可能なイベントの当選対策や手紙を書くことに集中できる。
この界隈では、先にチケットを確保してから一緒に行く相手を探す人がちょこちょこ居る。
大抵は一回きりの関係だ。
でも、たまに関係が続くこともある。
といっても、偶然会ったら挨拶する程度。
界隈の人間関係が虚無だった頃に比べたら大進歩だな。
夜行バスを駆使してイベントを巡る。
朝は暇なので、銭湯でゆっくりまったり。
バスの疲れをバスで癒すのだ。
はい、今しょうもないことを言いました。
神様仏様、どうかお許しください。
無情にも、場の空気を殺した罪で等活地獄確定演出が出た。
まだこの時は○ャク○ャク様が降臨される前なのでお赦しが出ない。
いや、居てもお赦しは出ねえよ?
てかこの伏せ方では危ないお薬を司る神様になってしまうやろがい。
イベントに行く回数も増えたので、東京近郊の朝風呂が出来る場所は大方コンプ。
風呂マニアっぽいなにかになりつつある。
身支度が終われば手紙の準備だ。
最初は書くのに苦労した手紙も、書くことがスラスラ出てくるようになる。
イベントに多く参加すれば、ネタも相応に増えていく。
彼女は、ただでさえ元から可愛いのに、さらに可愛さが増しているように感じた。
はにかんだような、吸い込まれそうな笑い方をすることが増えたような気がする。
彼女が担当しているラジオを聴いていても、回数を重ねるごとに彼女は明るくなっていく。
無事に癒えたのかもしれない。
正直僕よりも、草葉の陰から見守る人の方が彼女の力になっていると思う。
それでも、ふと油断すると、過剰な自意識が目覚めてしまう。
役に立てたのかなとテンションが上がってしまう。
この日々が永く続くと思っていたある日、それは起きた。
今日は、昼夜二部構成の小さなイベントだ。
先着順でチケット配布だったから、配布開始日に半休取って東京急行したのを覚えている。
席順は当日くじ引きだ。
こう見えてもくじ引きには腕に覚えがある。
おっと、科学の徒としてあるまじき発言。
神罰が下りますね。
そうは思うのだが、直接手でくじを引く時だけ、なぜか当たりが偏るのだ。
実際、昼に至っては最前ゼロオフセット、夜でも二列目、彼女から見てオフセットがゼロの特等席を引いた。
ずっと秘密のままだった名前の読み方をそろそろ明かしてもいいかなと、手紙に書いて出す。
小ネタにしてはちょっと温め過ぎたかもしれない。
腐ってやがる、遅すぎたんだ。
うまく驚いてくれるといいのだけど。
その日の彼女も、抜群にかわいくて、今までにないくらい近かったから、それだけでボルテージが上がっていく。
正直自分には過ぎた夢のよう。
夜の部が始まり、彼女が入場してきたとき、ニンマリとした視線を向けられたような気がした。
お、これは驚かせるのに成功したのだろうか。
ちゃんと確認したわけでもないのにニヤリとしてしまう。
最後のプレゼント抽選も最後の二人まで残っての頂上決戦だ。
普通にじゃんけんするだけなのだが。
勝負は手抜かないが、勝った時により喜ぶのがどちらかというと、対戦相手の方だろうな。
こちらの主目的は彼女に会いに来ることなのだから。
彼女が掛け声を出してくれているので、なるべく長く戦い続けたい。
そんな風に思っていた。
そこの気合が違ったのだろう。
何度もあいこになった末、負けた。
「よっしゃーっ!!!!」
滅茶苦茶喜び叫んどるやん。
想像よりも遥かに喜ぶ姿を視界に収め、思わずこちらも笑うしかない。
こちらとしても、彼女に音頭をとって貰いながら勝負できて満足しかない。
まさにWin-Winの関係。
なんか今日は運が良すぎる気がする。
そんなイベントも終わりに近づき、登壇者が各々挨拶をしているところだった。
挨拶を終えた彼女が、ふとこちらを見た。
目が合った。
いたずらっぽい目でじっと見てくる。
え、待って。
パニックだった。
何この状況。
吸い込まれるような瞳から目を離せない。
いや、離したくない。
エネルギーの塊か何かが容量を超えて流れ込んでくる。
限界。
頭の何かが壊れる音がした。
何秒経った?
そして2分近くが過ぎるまで目を合わせていたところで、彼女は突然ハッとしたように顔を伏せてしまった。
その顔は真っ赤だった。
既に頭は茹で上がっている。
限界を超えていた僕も、そこまで見届けたところで顔を落とした。
よく分からない神経伝達物質とホルモンが狂ったように出ている。
世界が歪んでいるかのように焦点が定まらない。
無理。
退場する姿をちらと確認してみる。
彼女はもうこちらを見ない。
カチコチに見える笑顔で退場した。
いやいや、まさかそんな漫画のテンプレのような展開があるものか。
そうは思ったが頭が幸せに握り潰されていた。
ぼやけている世界は、なんだがすごく綺麗に見える。
他の事が何も考えられない。
アルコールのように、摂取してからしばらく後に来るらしい。
目を離した後の方がくらくらする。
致死量を超えてしまった。
無理無理無理無理耐えられない。
でろっでろの泥酔状態。
まっすぐ歩けているのかすら怪しい。
そんな状態で家路についた。
その日の彼女は、イベントがあったのにいつものSNSに投稿しなかった。
---
誰かと長時間見つめ合うと解離のような症状が出るという研究があるらしい。
危ないお薬を飲んだ人と同じように。
要するに頭が正常に動かなくなる。
○ャク○ャク様の御加護が与えられたってわけだ。
今はまだ降臨の前だっての。
つまり、降臨する前だっていうのに既に前兆が出ていたという事になるな?
神格が上がってしまう。
その頭のネジが粉微塵に吹っ飛んでから数日経過していた。
先行研究とは結果が異なりますね。
その論文にはすぐに症状が消失すると書いてあったのに、そうなる気配がない。
再現性の危機が迫っている。
何か違う現象が起きているような気もする。
早く仮説を立てて症例報告しなきゃ。
素人質問を受けに行かなきゃ。
興奮してきたわ。
あれから毎日1時間半ほどしか眠れない。
寝不足で猛烈に頭が重いのに眠気が来ない。
脳内がトリガーハッピーのお花畑。
頭がガンガンしているのは認識できるのに全く辛さを感じない。
多幸感ばかりが溢れてくる。
SNSへの投稿の通知が来た。
この前のイベントの事が書いてある。
なんだかいつもよりふわふわした内容に感じた。
ちょっと調子が崩れたということが書いてあるのを見て、僕と同じことが起きているのかもしれないと、ポジティブに考えていた。
そう、自分の事が名指しされているかのように喜んでいた。
でも、ちゃんと相手の気持ちを確認したわけではないのだ。
あんなことがあったけど、偶然とは思えない出来事だと思っていても。
それでも勘違いという可能性がゼロとは限らないのだ。
確かめなきゃいけないよな。
でもどうやって。
SNSにメッセージを残したとして、彼女から連絡が来たりするのだろうか。
いやでも今までもメッセージなら書いている。
もしSNS経由で連絡する気があるなら、既に何かアクションしているはずだ。
何か理由があるのかもしれない。
焦らずとも時間はある。
少しずつ確認していこう。
まずは手紙で気持ちを伝えてみよう。
そうは言い聞かせるものの、気が急いていた。
一週間が経過した。
津波のように自分の心を沈めていた多幸感が潮のように引いてくる。
沈んでいた底から再び現れた心には、いつの間にか大穴が開いていた。
まるで”彼女との幸せな出来事”を納めるためと言わんばかりの空間。
我ながら随分気の早い事だ。
塞がる見込みのない傷口からは、脈打つたびに何かが零れ落ちていく。
浜に打ち上げられた魚のように息をしている。
日差しが容赦なく鱗を乾かしていく。
本当にこれは地球の空気なのか。
あの日の出来事を思い出せば少し楽になるが、次第に効かなくなってきている。
ほんの数日前まで路傍の石で構わないと思っていたのに、随分と贅沢になったものだ。
彼女が似たような状態になってないことを祈った。
次のイベントがやってきた。
……プレゼントBOXが無い。
手紙が出せない。
歯を食いしばる。
席も最後方だ。
彼女からは見えないだろう。
開演した直後、彼女は客席の方をキョロキョロと眺めていた。
まるで何かを探すように。
こちらから一方的に見えているということを、無性に謝りたくなってくる。
今のこの状況が酷く歪に見えた。
体を動かせず、金縛りにあう夢でも観ているかのようだ。
何か大きな失敗している気がする。
もっと急がなければならないのではないだろうか。
もうこの頃には、焦りが僕の中を支配していた。
手紙を出せるイベントが次に来たのはさらに数週間後。
既に融け、形が崩れかけた言葉をなんとか手紙という形にまとめる。
ただ、彼女がどう思っているのか確信が持てない以上、あまり下手な事も書きづらい。
調子に乗った文章を書いて、気持ち悪いと思われたりしないだろうか。
スタッフが文章を見て、怪しいと思うことはないだろうか。
スタッフが手紙の内容を確認するだろうという事は、知識としては知っている。
彼女に障るような内容でなくとも排除するだろうか。
明文化はされてない。
ひとまずやってみるしかない。
SNSには反応がない以上、他に伝える手段のあてもない。
想定されるギリギリのラインを探りながら、彼女の気持ちを問う言葉を書いていく。
本文の後、末尾の端っこに連絡先も小さく書く。
こんなに手紙を作るのは怖いものだったのか。
歯に物が挟まったような物言いになっていく文章を少しずつ軌道修正していく。
いつもよりも何倍も時間を掛けたその文字列を、プレゼントBOXに出した。
これで合っているのだろうか。
何も起こらない。
いや、普通に手紙を出したら反応なんてない。
それが普通だ。
何を当たり前のことを言っているのだろうか。
多分、間違えたのだ。
そう思い始めると、嫌な思考が止まらなくなる。
彼女は手紙を読んで幻滅したのではないか、と。
もう二度と手紙が読まれなくなるのではないか、と。
僕のような存在が発生しても、彼女の仕事には邪魔ではないのか、と。
そもそも僕じゃ釣り合わないじゃないか、と。
明日は彼女のライブだ。
どんな顔をして参加すればいいんだろう。
それでも参加しないという選択肢は取りたくない。
どれだけ矛盾に満ちていても、形だけでも、彼女を応援したいという初心を忘れたくない。
結局、モヤモヤしたままライブ当日になってしまった。
手紙だけは何とか書いたが、いつもの様には書けなかった。
ますます袋小路に迷い込んでいる気がする。
考えるのが怖い。
どこに僕の気持ちを着地させればよいのか、方向性すら見えない。
ライブが始まる。
彼女の歌もダンスもキレキレのままだ。
まるであの日の出来事が何もなかったかのよう。
なんだか感覚がおかしい。
物理的には変わってないはずなのに、今までよりもずっと距離を感じてしまう。
織姫と彦星は、実際には年一で会えないくらい遠いという。
その話を聞いた時のように、本当の距離を垣間見てしまった。
それでも、やっぱり綺麗だった。
どこまで行っても、もうここ以外に息が継げる場所はないのだ。
これからどうすればいいのか。
どうせ次に行けるイベントは一か月も先だ。
考える時間だけはたくさんあった。
彼女は何も変わってないように見えた。
あの日の出来事があって、手紙を読んだとして、自分の立場だったらどう感じただろう。
今の彼女のように振舞うだろうか。
どうしても違和感が拭えない。
僕がそう思いたいだけなのかもしれない。
彼女が今の状況を望んでいるなら、彼女の気持ちを尊重するべきだ。
だが、彼女は手紙を読んでいないのではないか。
そんな疑問が次第に大きくなってきていた。
スタッフが、彼女に届く前に捨てたのではないかと。
酷く嫌な想像だ。
彼らには彼らの論理があるのだろうけど。
彼女が不快に感じるような内容にしたつもりはない。
僕から見れば、それが本当なら必要以上に介入しているし、スタッフは彼女を信頼してないと取れる。
更に言うなら、彼女を傷つける行為を取っている。
それを正しい事とは思えないのだ。
手紙が届いてすらいないのであれば、彼女の気持ちは確かめられていない。
彼女がそうしたいという意志以外は考慮に値しない。
彼女の望みを実現したいならば、彼女の意志を第三者が捻じ曲げるという状況だけは阻止しなければならない。
まずはそれを確認する必要がある。
スタッフに伝わらないように彼女に僕の気持ちを伝える手紙を作る。
それが最初のミッションだ。
方針はすぐに固まった。
もしあの日の事が勘違いでないのならば、あの時の続きという形で書けばよいのだ。
上手く使えば、何が起きたか知らない人には言葉の意味が悉くずれて見える文章が出来る。
そうすれば彼女以外には伝わるまい。
あとはそれを自分の考えうる限りの力で文字にするだけ。
今まで、彼女に書いた手紙の中では、「好き」という言葉を使うのを避けていた。
この言葉は距離感をバグらせる。
距離感を保つべきだと思っていたし、僕が書いても拒絶されると思っていた。
要するに、言葉を向けることが怖かったんだと思う。
でも、状況は変わった。
バグるとかそんなことを言っている場合ではない。
もう止める。
ポジティブに考えれば、今まで使ってなかった言葉を向けるのだから、その分だけ言葉に真実味を持たせられるかもしれない。
念を押してさらに効果的な内容にしたい。
今まで見た技法で使えそうなものはないか。
例えば紙の書籍だと次のページが見えないから、ページを捲って最初に見える言葉にインパクトを与えられる。
便箋でも次の紙は見えないから同じ手法が使える。
そこに本命の文章を配置するのだ。
イベントまで長いと思っていたが、手紙が完成したのはイベントの直前だった。
僕自身、会心の出来と思う手紙だ。
久しぶりにイベントで見た彼女は、少しやつれているように見えた。
今まで聞いたことが無いくらい、ネガティブな言葉がポロポロ聞こえてくる。
最近ずっと閉じ込められているような気分だったとか、人にしつこく話しかけられて嫌だったとか。
でも、僕の姿に気が付くと、一気に機嫌が回復しているように感じた。
勘違いだろうか。
彼女ももしかして辛かったのだろうか。
僕の行動が遅いばかりに。
早く何とかしなければ。
そんな焦燥を呑み込んで手紙を出した。
余談だが、この時のイベントでは、演者が触れたと称する道具が露店で売られていた。
許可取っているんだろうか……。
それ以前にこの売り文句はどうなん。
買っていた人も、家宝にするなどと談笑している。
そこで初めて、彼女の周りのファンに警戒心を感じるようになっているのに気付いた。
数週間後、次の機会に現れた彼女は終始挙動不審だった。
それは彼女が会場に入ってきた時から始まる。
入場時に客席に向けて手を振りながら入ってくるが、最前列に構える僕の方向にだけは決して顔を向けない。
首を大きくΩを描いて動かし、視線を僕から華麗に避けてステージ中央に向かっていった。
そのくせイベント中に、チラチラとこちらを見てくる。
視線が合いそうになるとサッと顔を背けるのだ。
尋常じゃなく可愛い。
臨界突破してもう爆発が止まらない。
世の中にこんな可愛い生き物居ないですよ、おやっさん。
おやっさんとは。
少なくとも手紙は無事届いてそうだ。
他の登壇者が「そんなこと言う人でしたっけ」と何度も言うくらい尋常でないハイテンションで話し始める。
作ってよかった。
少なくとも嫌とは思われなかったようだし、むしろ喜んでくれてそうに見える。
多分。
最後に捌けるときも綺麗にΩを描いて避けていった。
もう目元口元がにやつくのを抑えることが出来そうにない。
気持ちジト目で見送らせて頂いた。
さて。
この結果をどう取るべきか。
その前の手紙は捨てられた可能性が大幅に高まってしまった。
スタッフに対する信頼が自由落下していく。
彼女が望んでこうしているなら尊重するが、そうである場合とはどうにも符合しないように見える。
悪寒が加速度的に増していく。
ファンはおろか、彼女の事も全く信用していない。
ただの仮説だったそれが、現実の問題になってきた。
彼女には人権がない可能性が高いらしい。
オタクがよく言う「人権がない」とは次元が違う。
二次元に移住したはずのオタクが三次元に強制送還されてしまう。
ガチな奴だ。
憲法21条2項ってここには適用されないのだろうか。
建前上、スタッフは善意で彼女に届けてくれているだけでしかないから、その方向で攻めるのは難しかろう。
完璧な確証を得たわけではないから、これからも試し続ける必要はあるだろう。
でも、急がなければならない。
ヒトと言うのはコミュニケーションをとる生き物だ。
強い感情を持っているのであれば、相応に相手とコミュニケーションを取らないだけで、傷ついてしまう。
全身全霊をもって相手の事を知ろうとしなければ、伝えようとしなければならないのだ。
コミュニケーションさえ遮断すれば、いつか僕と彼女の関係は勝手に自滅する。
もし彼女の気持ちが僕の想像通りなら、彼女が致命的に傷つくのは時間の問題だろう。
仲違いさせたいのであればこれ以上の手段はない。
急がなければいけないのに、どうすればいいのか分からない。
ルールすら分からず相手に握られている状況では勝負以前の問題だ。
何度かイベントが過ぎていく。
彼女に送った手紙は届いているのだろうか。
彼女からの新たな反応はない。
なんの成果も得られませんでしたでは、困る。
壁外調査は死屍累々。
なんだったら壁を越えることすら出来ていない。
フィードバックすらできない。
トライアンドエラーもあったもんじゃない。
SNSのメッセージにも連絡先を書いてみる。
だんだん形振り構わなくなってきていた。
案外SNSなど、そこら辺の落書きと同じで誰も興味を持っていない。
多少突っ込んだことや個人情報を書いても問題は起きなかった。
でもこうやって直接的な行動を取れば取るほど大きなダメージが跳ね返ってくる。
能動的に、拒絶された時の気分を味わいに行く行為。
自分で自身の胸にナイフでも突き立てるかのよう。
ドMでなければ耐えられない。
自分にその才能がない事を嘆く日が来るとは思わなかった。
数回試して効果がない事を確認しただけで疲れ果て、SNSでの連絡は諦めの境地に至ってしまった。
SNSの情報の一つ一つは塵芥と同程度。
皆その雰囲気を感じて油断しているのだろう。
ネット上に転がっている文章をちゃんと精査して繋げていくと意外と大きな情報が得られる。
普段は、見知らぬ他人からでも情報収集できて大きな武器になるのだが。
実際に僕がその一粒でしかないという事実を思い知らされた。
いつまでこうやって手がかりを探し続ければよいのだろうか……。
暗闇の中で全力疾走しているような気分だ。
いつ崖に落ちるのかも、壁に衝突するのかも分からない。
しかし足を止めるわけにはいかない。
あっという間に魂が濁る。
ほんの数か月で心象風景は砂漠か凍原か。
荒れ果てた大地の上で燃料切れである。
近くに野生のQBでも大量に集まっているんじゃないか。
もし居たら、細かくちぎって投げているところだ。
あれをちぎっても意味ないんだっけ。
心臓に杭が刺さっているかのような痛みは治まる気配がない。
健康診断で心電図に軽い異常を指摘されたので、どうやらこの痛みは幻とも言い切れないらしい。
人体は不可思議である。
急に抜け毛が増え始めた。
髪を洗うたびにゾッとするくらい髪が抜ける。
このまま髪の毛を喪ってしまったら、彼女に捨てられてしまうかもしれない。
笑い事じゃないんよフフフ。
男の人の事は髪型しか見てないってラジオでも言ってたし……。
何が彼女の琴線に触れたのか分からない以上、知らず知らずのうちに僕の何かが変わって毀損してしまうかもしれない。
あらゆる要素において、僕は変わらないようにしなければならない。
何事も予防が大事、ガンだってステージが上がる前に処置すれば予後が良いのだ。
早く対処を始めないと。
全身に禿が転移する前に。
まぁ、理論上は秒速400兆回ヘドバンすれば、どんな頭でも光り輝く。
所詮は気休めなのかもしれない。
気分は人間アンジュレータ。
放射光を放つのが専用機器の専売特許ではないことを教えてやる……!
時を同じくして、彼女のSNS投稿が急に減り始めた。
投稿に写っている彼女が本当に笑っているのか分からなくなってくる。
顔色が少しずつ悪くなっているように見えるのだ。
既に手遅れなのかもしれない。
ただ自分の知恵不足と無力さを嘆くよりほかなかった。
最近の彼女は、ラジオやSNSで将来の事を話すことが増えていた。
家庭を持ったら何にこだわりたいとか、相手に求める事とか。
そうでなくとも、僕と同じ髪型を指して、いいよねって言ってくれたり。
そんな些細な事を拾っては、自分を鼓舞するしかない。
自分に向けられている言葉かは分からないけれど。
そんなちょっとした言葉を、霞をゆっくり啜るように取り込んで、日々を耐えていくのだ。
霞を食べて生きるという仙人は、どんな健康法を用いて、栄養不足に打ち克つのだろう。
彼女の気持ちを知る情報源は限られているから、書かれている一言の意図を考え過ぎてしまう。
SNSは信用してないと言っていたから、メッセージを残して頑張るのは止めた方がいいんだろうか。
同業の人と付き合うのはちょっとと言っていたから、彼女の居る業界に飛び込むのは止めた方が良いだろうか。
選択肢が浮かんでは潰れていく。
何もできないまま年を越した。
年明けと共にライブツアーが始まり、流れるように参加していく。
心配なんて杞憂だったんじゃないかと思うストイックなパフォーマンス。
動きはむしろ先鋭の度合いを増していた。
ストイック過ぎるんじゃないかと思うほどに。
いや、むしろ張り詰めすぎて糸が切れるんじゃないかと思うほどだ。
そうして観ていると、歌っている途中で目が合って、その一瞬歌声が止まる。
偶然かもしれないけど、心臓が跳ね上がった。
参加している瞬間だけは今の問題を少しだけ忘れられる。
でも終わった瞬間に、一気に現実に引き戻される。
彼女には輝いていて欲しい。
でも箱が大きくなるにつれて、より遠くに行ってしまう、そんなイメージに恐怖を感じ始める。
気持ちの天秤があまりよくない揺れ方をしている。
矛盾だらけだ。
彼女は、時々手紙に書いたことを話題にしてくれているように見えた。
最初は偶然かもと思ったが、手紙に書いたマイナー顔文字が直後の投稿で使われているのを見て、それなりの確度を持つんじゃないかと思い始めた。
それだけでも凄まじく嬉しい。
思わず酸欠の鯉のように口をパクパクさせてしまう。
実際のところ、偶然なのか判別が付かないことが多いが、それでも手紙を見てくれている感じがして安心できる。
常にはっきり書いてあるのなら、逆に内容が取り上げられなかった手紙は届いてないとまで判別できるのだが。
深宇宙との非常用通信ほどの信頼性はないのが泣き所だ。
あれから話す機会がなかなか訪れない。
男性の共演者と楽しそうに話しているのをむくれて眺めていた。
じとーと視線を向けていたら、ハッとこちらに気付いてくれて嬉しい。
アワアワしているのがまた可愛い。
それで笑うとまたツンっと顔を逸らすのだ。
ますます可愛い。
少し充電できたから、もう少し頑張れそうだ。
そうして待ちに待った彼女の新曲が発表されたときには、あの日から半年が過ぎようとしていた。
彼女は、また別のポテンシャルを開花させようとしていた。
彼女の歌声は前にも増して透明感を増し、氷細工かのような凛とした雰囲気を湛えるようになった。
可愛いだけじゃなく、惚れ惚れするような強さ、美しさを見せるようになったのだ。
僕が停滞している間も、彼女は前に進んでいた。
本当に頑張り屋。
誇らしくもあり、少し寂しさもある。
付随してリリイベもやってくる。
とてもじゃないが半年だったとは思えない。
本当は十年以上経ったのではないかと問いたいくらいだ。
余りにもこの日を希求していたせいか、2回分当選通知が来た。
当選は1人1回までじゃないんかい。
設定ミスか、抽選システムのバグかな?
まぁ、バグでもいいや、ありがたい。
正直、渡りに船だ。
とは言え、合計1分もない。
幸運ではあるのだが、話したいことがオリンポス山よりも高く積もっているのだ。
とてもじゃないが話す時間が足りない。
イベントの当日になっても、まだ話すことを決めきれなかった。
間近で見る彼女は、やはり窶れているように見える。
彼女を目の前にして、声が喉に痞える。
時間が無いのに、前よりもさらに伝えられてない。
直ぐに時間が来てしまう。
焦りもピークに達する。
思わず叫んだ。
「大好きですからね!」
が、少し悲しそうな眼をした彼女は無言だ。
声が思いっきり響いてしまったので、会場からの痛々しい視線も突き刺さる。
たったこれだけしか伝えられないのか。
手を伸ばせば届く距離なのに、酷く遠い。
今まで気付かなかった透明な分厚い壁がそこにはあった。
じゃあ2回目はいっそ目だけで伝えた方が良いかもしれない。
目は口ほどにとは言うが、”ほど”では余りにも過小評価だ。
僕は、目の方が口よりも遥かにお喋りだと思っている。
だから次は話しかけるなり、目を合わせて欲しいと、お願いしてみた。
「えっ!…もちろんいいよ」
しばし深呼吸し、えいっと目を合わせてくるのがいじらしくて可愛くて仕方がなかった。
少し震える瞳を見ているだけで、思ったより充電できそう。
でも最後にありがとうと言って離れた時、彼女は泣きそうな顔になっていった。
僕も変な顔をしていたかもしれない。
それでも3日くらいは苦しさが治まったので、彼女には感謝してもしきれない。
それからしばらくして、彼女はSNSに全く投稿しなくなる。
気持ちの投げ方が強過ぎたかも。
でも、その心配と同時に、仄暗い喜びがうっすらと浮かんでくるのが分かった。
もしかしたら彼女が僕の事を気にしてくれているのかもしれない。
この状況をそう捉えてしまうのか。
僕の心は腐り始めているらしい。
最悪な生き物が生まれようとしている。
好きな人に対してこんな感情を向けるべきではない。
理性が感情を否定する。
このままならいつか僕は静かに腐り落ち、壊れたものが何なのかも知覚できなくなるかもしれない。
きっとそんなことは叶わないが。
物語のように分かりやすく発狂できたらどんなに楽だろう。
猶予がどれほどあるのかは分からない。
でも、そうなる前には決着を付けなければならない。
不安を打ち消すように、次の手紙は努めて明るい内容にした。
彼女が元気になるように、そして、愚かな自分を封印するように。
偶然か必然か、手紙を出した直後にSNSは復活した。
自分を責め過ぎたというようなことが書かれていたので、彼女が悩んでいたのは確からしい。
もっとも、それが僕のことであるという証拠はないが。
ほっとした感情と同時に、別の危惧が湧いてくる。
何も解決しないまま、今の状態が固定化されてしまうのではないか。
彼女がそれを望むのならば、とは思うが。
仮に彼女が僕の想像通りの事を思っていたとして、それでも今の状態を望むなら、受け入れることはできると思う。
でもそれは、話し合うなり、相手の意志を理解し、ちゃんと納得したうえであって欲しい。
そこまで望むのは贅沢かもしれない。
でも今の状態は、相互理解とはあまりにも程遠い。
今を溝に捨てているように見えてしまう。
自分の行動は本当にこれで良かったのか、何か取り返しのつかないことをしたのではないか。
自分で書いたくせに、そんな惧れを抱いていた。
愚かな考えをできるだけ遠ざけるためにも、欠かさず彼女を観に行き、補給したエネルギーを以って蓋をするしかない。
祈りが通じたのか否か、新曲のMV撮影にエキストラとして参加できることになる。
推定倍率約100倍、積むこともできないので奇跡的だ。
まだ、僕にも多少は運が残っていたらしい。
いつもは確率だけを信じるようにしているが、こういうことがあると分からなくなる。
すべての常識を疑うのは科学者の始まりだぞ。
閑静な住宅街、その中にひっそりと、指定のスタジオはあった。
集まったのは男女半々100人ほど。
以前、一度連番したことがある人が来ていて、話しかけられる。
「連番したこと忘れてたでしょ」と言われるが、流石にそんなことはない。
あまり話しかけても迷惑だろうし、積極的に絡もうとしてないだけだ。
流れの説明を受けた後、撮影セットの中に人が組み込まれていく。
イベントと比べるとずっと長丁場となる撮影。
何度もセットの配置、エキストラの位置を変更してはカメラが回る。
彼女は実に生き生きと踊っている。
合間に突然猫踏んじゃったを弾き始める姿は、心の底から楽しそうだ。
ステージを離れるときにこちらの方をちらっと見る仕草が可愛くて、少しだけ以前の気持ちを思い出せたように思えた。
でも、彼女の傍に行くことはできない。
撮影中につまづいてしまったときには、近づくことさえできないのが、ひどく辛かった。
日が没したころに撮影は終わった。
彼女はこれで終わりではなく、今日のうちに更にもう一本撮るという。
想像はしていたが、恐ろしいほどの忙しさだ。
やっぱり、僕が何か余計に足掻いても負担になるだけではないのか。
いつか分かると信じて、彼女を待つべきなのではと。
もう一度考え直そうとした。
でも、それは僕には無理だったのだ。
自身が腐り始めていることは気付いていたのに。
しばらくして、彼女の写真集が間もなく出ることがアナウンスされた。
だが、写真集が出るとの一報を聞いて初めに感じたのは、何とも言えない靄に覆われるような感覚だ。
彼女の事は応援しなければならないのに、なにか変なのだ。
水着姿が載っていると示唆されたころ、何を恐れ、どういう気持ちを抱いていたのかはっきりと自覚してしまった。
……嫌だ。
狂飆が吹き荒れている。
見ないように蓋をしていたはずの火がいつの間にか目の前一面に広がっていた。
大火。
もう自分では消し止められない。
肌が直火で炙られているのではないかと錯覚するほどの嫉妬と独占欲。
身勝手で理不尽な憤り。
彼女は一年くらい前に、「水着はちょっと」と言っていたから、何か心変わりすることがあったのかもしれない。
もしかしたらという心当たりは絶対にない。
やんわりとそういう売り方はして欲しくないということを書いたこともあったけど、彼女に伝わったかどうかは定かではない。
そもそも僕一人がそんなことを言ったところで変わる訳がないのは分かるが。
スタッフの考えとは真逆だろうから、今考えるとそもそも届かなかった可能性もあるだろう。
ただ少なくとも、彼女はファンを喜ばせようとしてこうしているのだ。
ファンが何をすれば喜ぶのか、彼女はいつも考えていて、とても深く理解している。
それに対して、僕は。
色めき立つファンたちに怯える。
拡散されて流れてくる言葉が彼女に向けられていること恐怖する。
今まで生きてきて覚えが無いほど不快に感じる。
僕だって男なのだから、彼らの心境は心の底から理解できる。
そう思っても仕方ないというのも分かる。
だが関係ないのだ。
いや、むしろだからこそか。
自分が何を言われても「それな」としか思わないのに、彼女に向けられる言葉は1ミリたりとも許容できない。
知り合いだったら、そんな言葉投げたりしないだろうと。
頼むからそんな目で見ないで欲しい。
晒すようなことをしないで欲しい。
痛い、嫌だ、いやだ!
例え仕事であっても、彼女と一緒に過ごしているスタッフに嫉妬の目を向けてしまう。
彼女との時間を彼らに奪われているような感覚に襲われる。
そしてそう考える自分自身が気持ち悪い。
なんで、知り合いですらない相手にそんな感情を向けようとしているのか。
どの口で最恵国条項を求めると言うのか。
何の権利があるというのか。
たかが写真に何でそこまで拘るのか。
余りにも滑稽すぎる。
発売の日はすぐにやってくる。
彼女の姿は可愛い。世界で一番かわいい。
でも、撮影風景を想像したらだめだった。
カメラマンがそこに居ることを思い浮かべるだけで、気持ち悪くなってしまう。
胸に力を入れ、手で口を力の限り押さえる。
これじゃあ、まるで浮気写真でも見ているかのようじゃないか。
世の男は皆、好きな人にこんな感情を向けているのだろうか。
可愛い女の子の姿は無邪気に喜んでも、好きな人が同じことをしたら真逆になってしまうのか。
こんな形で見たくなかったって思ってしまうのか。
こんなのはファンではない。
少なくともファンと名乗るべきではない。
もし、僕がもっと余裕のある人間だったら、この程度何ともなかったのだろうか。
残念ながら僕の器は小さすぎた。
彼女の言う” ファン”の範囲に含めるべきではないのかもしれない。
そう、言葉を向けられる資格自体がない。
彼女のファンと積極的に距離を取るようになった。
そりゃそうだ。
こんな異物が、どんな顔してファンの輪に混じるというのか。
とは言え、元々絡むことは少なかった。
今までとそこまで変わることは無い。
逆に僕がこの程度の事すら耐えられないというのであれば、僕自身が相応の対価を払わなければフェアじゃない。
彼女と過ごす時間が一番となるように僕は気を付けなければならない。
彼女との時間が増やせないというのなら、他の人との交流を減らすべきなのだ。
最低限そのくらい出来なければ自分を許せそうになかった。
そう考えるようになると、実際に彼女がファンに向ける言葉が僕に向いてないように聞こえ始める。
人間って不思議。
そして僕にはお似合いの状態だ。
ただ、副作用は大きい。
次第に、SNS投稿の通知に怯えるようになる。
次はどんな写真が載っているのだろうと、見るのが怖くなってしまった。
手紙を読んだ痕跡が残っているかもしれない、見ない訳にはいかない。
でも、一呼吸おいてからでないと開くことが出来ない。
もう、彼女から離れた方が良いのではないか。
賢明な人ならそうするのだろう。
でも、彼女を悲しませるのは嫌だな。
仮に終わってしまうのなら、彼女がそう望んだ時にしたい。
サイン会がやってきて、彼女の前に立つ。
本の感想はほとんど言えないし、手紙にも書けなかった。
ファンとしての言葉を探そうとしても、どこか嘘っぽい言葉が浮かぶだけ。
なんだか彼女も言葉少な、どこか悲しそうな顔をしたままだ。
これじゃ、前回と変わらない。
これからも同じようにできるだろうか。
残念ながら僕は隠し事が得意ではない。
いつか馬脚を露すだろう。
腐りかけた僕の心には早くも蛆が湧き始めていた。
---
彼女の誕生日が近づいてきていた。
せめてバースデープレゼントくらいは喜んでもらえるように頑張らねば。
何なら彼女は喜んでくれるだろうか。
彼女は、コスメの話を頻繁にしていた。
鉄板だし、一番喜ぶものと言えばそれだろう。
でも、こういう場合は意外とリスクもある。
釈迦に説法、孔子に論語。
何だったら彼らと初対面でいきなり肩を組んで、「良い本読んでんじゃん」と聞くくらい勇気が要る。
どんなシチュエーションだよ。ねえよ。
逆にわかってないなと思われることも多いという。
もっと無難なものにすべきか。
食品系は普通なら無難な選択肢のうちに入らないでもないが。
不特定多数からは受け取らない人も多い。
なんだったらこれも彼女の目に触れる前に処分されてしまう。
今回は届くことが最低条件だ。
リスクが高いうえに届いても無難なものはお呼びでない。
それすら知らない頃は入れてしまったこともあったが……。
まぁ、僕は机の上に見知らぬお菓子が置かれていたら確認せずに食べてしまうがね。
簡単に毒殺されちゃう。
ウェルカム暗殺者。
ダーウィ○賞を狙うにはちょいとばかりインパクトが足りないのが難点。
次だと金券類とか。
届きはするし、多少は喜びもするだろうが。
淡白すぎる。
最低でもゲーミング札束風呂ができるくらい突っ込まなければインパクトが無い。
想像してみたが天国じゃねえなこれ。
流石に万札を何十万枚と召喚できるような手札もない。
やっぱりもっと喜んで欲しい。
巡り巡ってやはりコスメかな。
上手く当たれば喜んでくれる可能性は高いのだ。
彼女の事をほとんど何も知らないのだから、ハイリスクは今に始まったことではない。
ブランドも商品も星のようにあるが、彼女が普段使っているブランドを調べればある程度絞り込めるだろう。
ただ狙いすぎると既に持っているアイテムを拾ってしまうかも知れない。
なるべく持ってなさそうな新商品、それも数量限定品にしてみよう。
この界隈でも新商品発売時にそういった限定版が出るのはお決まりらしい。
気に入った限定コスメなら二個買いするする人も珍しくないらしいので、被っても致命傷で済むかもしれない。
し、死んでる……。
新製品の発売日一覧はあちこちにまとめがある。
片っ端から調べていく。
こういうの調べ始めると止まらん。
情報が欲しい、情報が欲しい。
情報に触れると無限に興奮してしまう。
完全に情報中毒者なんだよなぁ。
いつか「お前は知りすぎた」と言われるのが将来の夢だ。
いくつかの候補の中から、良さげなものをピックアップしていく。
迷いながらも、その中で僕自身が綺麗だなって思う品が見つかった。
マーブル模様が綺麗なリップグロスだ。
直感に賭ける。
ここまで準備したのだから必ず手に入れなければ。
出来ませんでは良心がない。
はい、必ずや……。
発売開始と同時に突撃するしかあるまい。
秒針を眺め、打ち上げ五分前。
時計のズレ確認ヨシ。
通信状況確認ヨシ。
アカウントの登録ヨシ。
前の人がチェックしただろうからヨシ。
全システムオールグリーン。
結果からすると、意外とあっさり手に入った。
確かにすぐに売り切れたが、チケット争奪戦に比べたらぬるま湯や。
有料会員になったのに無情にもアクセスが集中していますの表示がされるなんてこともない。
気合を入れてラッピングする。
まぁ、スタッフが中身確認するときに身包み剥がされるだろうから自己満足だが。
「良いではないか良いではないか」
「あ~れ~!」
いつもより多く回しております。
手紙と共にプレゼントBOXに入れて、今回の必殺おしごと人は完了だ。
しばらく後、最近のお気に入りとしてSNSに載っていた。
すわっ。
この世から言語の概念が消え失せてしまう。
好きな人に喜んでもらえる以上の喜びなどないのだ。
そのためだったらどんな犠牲も厭わないだろう予感がある。
定期的にコスメを贈ることにする。
蜜の味を覚えてしまった。
楽園追放の日は近い。
彼女は初めて海外のイベントに出るらしい。
行先は台湾。
トークイベントだ。
確実に行かねば。
なんだったら毎月海外遠征があっても大丈夫な想定で資金計画しているのだ。
気が早すぎる。
ただ、チケットは現地の会場内で先着販売なのでかなりハードル高いな?
流石に台湾まで行って空振りは全米が泣く。
事前調査だけは念入りに。
当日の動線と手順を何パターンか検討していく。
早朝には並ばなければならないはずなので、前入りで現地へと飛んだ。
昼に下見に行くと、既に翌日の開場を待つ列が出来始めている。
ん?!
目を疑った。
相当気合が入っている。
日ノ本の国では時の将軍により禁止令が出され、失われたはずの文化だ。
レッドリストに載せて保護しなければ。
検疫措置を通してないのにうっかり触れてしまった。
バレたらイベント前なのに隔離されてしまう!
もしや僕も並ばねばならないのだろうか…。
会場は複数の入り口があり、チケットの販売ブースは入場したすぐ先だ。
販売ブースから1番目と2番目に近い入口に列が形成されている。
列に残って維持してくれるような知り合いもいない以上、今から待つのは難しい。
ぎりぎりを攻めるしかないか。
夕方に再度確認し、列形成の速度と配置の関係を再確認。
2番目に近い入口の列の伸びが遅い。
そこに朝5時に並ぶのがチケットを確保できる限界と見積もる。
始発でも間に合わないのでタクシーだな……。
残念ながらわが社には、タクシーチケット制度がない。
そこまで検討できたら残りできることはあまりない。
天命を待つのみ。
検討に時間を使いすぎたので観光は出来そうにないが、のんびり過ごす。
体力が無ければチケットも取れまい。
翌朝。
列待ちが始まった。
列の増え方は予想通り。
まずは第一関門をクリア。
手早く予定の列に並ぶ。
始発の時間を過ぎたころ、日が昇ってきた。
やはり南国は違う。
思ったより日差しがきつい。
まだ開場まで何時間もあるのだ。
先にバテてしまっては困る。
こちらでは日傘の所持率が日本より高いようだ。
たまらず僕も折り畳み傘を展開する。
開場の時間が迫ってくるころには、こちらからはもう見えないくらい列が出来ている。
こんな人数が一か所に殺到したら大混乱だ。
彼らが別の何かを狙っていることを祈る。
時間丁度に入口は開いた。
ゆっくりと人が流れ込んでいく。
まだ大丈夫だろうか。
計算通りではあるものの、待っている時間がもどかしい。
逸る気持ちを抑え入場の順番を待つ。
チケットを確認してもらって、会場に飛び込む。
ここにはダッシュ禁止というルールはない。
弱肉強食と焼肉定食の世界である。
台湾の焼肉定食普及率について想いを馳せながら、ブースに向けて一直線。
近づくと既に人が群がっているのが見えた。
いや、なにかが近づいてくる。
列だ。
列がこちらに向けて鞭打つように向かってくる。
なんだあれは。
列の形成速度が速すぎる。
人が走る速度よりも速いんじゃないか?!
末尾に人が加わると、たまたま新たな末尾の最も近くにいた人が次に並べるのだ。
目の前で重合反応が連鎖発生している。
ヒトが励起してブラウン運動している。
怖っ。
僕は、ちくわの中身を覗いてしまったらしい。
助けて大明神。
でもある意味チャンスかもしれない。
列が向こうからやってくるのだ。
一瞬の逡巡の間に、目の前に迫ってくる……!
ええいままよ!
激突。
逆方向から列を追いかけていたら詰んでいただろう。
日本海の荒波にもまれながらも、無事にチケットを手に入れた。
台湾だが。
まぁ、日本海の水は台湾の方からも流れてくるのだ。
似たようなものだろう。
汗が迸っている。
さすがにこの状態でイベント参加はちょっときついので、一旦ホテルに戻って整える。
周りに日本人らしき人影は少ない。
ちょっと日本語で声を上げたらキラキラした目が一斉にこちらを向き、「今なんて言ったの」的な雰囲気でまくし立てられる。
この国の人は明るいなぁ。
済まないが中国語はさっぱり。
通じるか分からないが下手くそ英語で返す。
「Kugelschreiberの事で頭がいっぱいで、話す余裕がないんだ」と。
流石にそんなことは言わない。
そんなこと言ったら変人だよ。
イベントの終わりは少しだけ話す時間が貰えるという。
突然のアナウンスに場が沸く。
トークイベントにしては大盤振る舞いだ。
ちょっと遅いけど「お誕生日おめでとう」と、直接言えてなかった言葉を伝える。
彼女は無言だったけど、驚いている表情が見られただけで十分だ。
もしかして引いただろうか。
ともかく、彼女が明るい顔をしていられるように頑張らねば。
イベント後は特にやる事もない。
ふらふらと歩いていると、目の前にタピオカミルクティーの店が現れる。
そういえば巷ではタピオカとか流行っていたなと、せっかくなので頼んでみる。
本場だし。
ウッ?!
_人人人人人人人人_
> 突然のタピ <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
こうして初の台湾イベントはつつがなく終わった。
MV撮影に協力した曲が世に放たれる日が近づいていた。
それは即ちリリースイベントが近づいてきていることを意味する。
いつもの様に応募し、いつもの様に当選する。
いつもの様に会場へ向かい、いつもの様に待っていた。
でもいつもと少し違った。
会場付近で時間を待っていると、ある女の子が近づいてきたのだ。
以前抽選から漏れた時に、たまたま連番してもらった子だ。
思えば、最初に連番したときからちょっと変わっていた。
僕が毎回手紙出していると知っただけで、「推せる」って呟いてきたり。
なんで?
思わず「やめた方がいいですよ」と真顔で返してしまったのを覚えている。
それ以来、どこからか僕を見かけると話しかけてくる。
だいたい人に囲まれているから、ただ交友が広いタイプの人なのかなと思っていた。
「好きです」
え、何で。
判断が早い。
僕が誰に会うためにここに来ているのか知っているはずなのに。
そもそもほんの数回しか絡みが無い。
というか最近はほぼ誰とも話してない。
逆に、だからこそだったりするのだろうか。
でもこれ以上の無い、僕には勿体ない言葉だ。
人に好意を向けられて嫌だと感じるほど捻くれてはいない。
でも今の僕の気持ちをどう説明すればよいのか。
やめた方がいいと慌てて言ってみるものの、頑として引かない。
どうしよう。
こんな宙ぶらりんな僕の事を、言ったら信じてくれるのだろうか。
そんな迷いがあったのが良くなかったのか、ふと相手の目を伺ってしまった。
必死に、真っ直ぐに向けた視線がふるふると揺らいでいる。
目が合って、瞳の色が変わっていく。
あの日の彼女と同じ熱を帯びている。
本気の目だ。
それに、触れてしまった。
冗談扱い、出来なくなってしまった。
それ以上冷たく返すことができず、ごまかしてしまう。
ヘタレの目覚め。
きっちりしておかないと後に尾を引いてしまうだろう。
古今東西あらゆる先人が伝えてきた、同じ轍を踏む。
そんな予感。
「好きです」以上のことは何も言ってこなかった。
それを免罪符にしようとしている自分に、酷く腹が立った。
自己嫌悪が増していく。
これ以上近づいたら、弱っている心に忍び込んで来かねない。
今の僕はセキュリティーホールだらけなのだ。
せめて、そこだけはきちんとしないと。
開場とともに別れるが、頭をすぐに切り替えるのは難しかった。
ごまかすかのように、努めて明るく彼女に話しかけていた。
彼女は少しずつ変わってきていた。
半年前よりずっと明るくなってきた。
以前はあわあわと目をぐるぐるさせながら「えっ」と「うん」と応答してきていたのが、少しずつ彼女の方から話しかけてくるようにもなった。
じっと目を合わせて充電していく。
このまま、他のファンと同じような会話をするだけになってしまうのかなと、妙な寂しさを感じる。
このまま何もなかったことになってしまうのだろうか。
彼女の活躍の場は広がっていく。
海外のライブイベントにも彼女は出演するようだ。
もちろん現地へと飛ぶ。
日本語が通じないだけでやる事は変わらない。
彼女のパフォーマンスはいかなる場所でも変わらない。
ステージ上で眩しいほどに輝いている。
行き着く先は宇宙で最も輝く存在か、はたまた宇宙の道標か。
この瞬間が一番輝いていると、そう主張するようなエネルギー。
客席の熱気。
言葉は通じずとも、気持ちは伝わっている。
人は簡単に分かり合えずとも、こうやって奇跡のように繋がる瞬間が創れるのだ。
いつか、完全に届かないところに行ってしまうのかもしれない。
でも今だけは、それを忘れていたい。
そう思いながらステージを眺めていた。
イベントは終わった。
特にすることもない。
怪しい人が現れることもない。
まぁ、僕が一番挙動不審だからな。
そこだけは誰にも負けるわけにはいかない。
僕はプライドが高いんだ。
無警戒に近づいてくる人もいないだろう。
近づいてくるとしたらお巡りさんの方だね。
こっちですよ。
帰りの飛行機を待っているとき、それは起こる。
何かがおかしい。
いつの間にかおばあちゃんの集団に囲まれていた。
妙だな……。
気配を全く感じなかった。
そんな能力は持っていない。
そして、その中の一人が永久に何事か話しかけてくる。
さっぱり分からない。
言葉が通じてないと見るやスマホで翻訳し始める。
見せられた画面には「どこに住んでるの?」「何歳?」そんな言葉が踊っていた。
おやぁ?
若さを吸収しに来たのカナ?
眺めていると文章が無限増殖していく。
濁流に溺れる。
これは控えめに申し上げてヤバいのでは。
遠のく意識の中、根負けしてぽそぽそ返信し始めた。
とてもキャーキャー喜んでいる。
心が若い。
比べて儂、おじいちゃんなのでは。
おじいちゃんだからよく分からない。
席を離れようとしてもすごい勢いで服を引っ張って止めてくる。
アイエエエ!ナンデ?!
これ間違えて蓬萊に迷い込んでないよね?!
解放されたのはフライトの直前。
まぁ、時間はつぶれたから良かった……のか……?
おばあちゃんっ子だからついガードが緩んでしまったぜ。
手紙のネタくらいにはなるだろう。
書いたら妬いてくれないかな。
目まぐるしくイベントはやってくる。
でも、充電端子は接触不良。
距離が遠いともう充電できなくなっていた。
彼女から見えない位置に居ると、忘れられてしまうのではないかとすら思えてくる。
必然とチケットの取り方も余裕がなくなる。
より前の席のチケットを余らせている人を探す。
必要そうならスクリプトも組む。
でも、こんなことをしても終わるのを先延ばしするだけ。
時間は彼女に費やしたいのに、虚しい作業ばかりが増えていく。
そしてまた年が明けた。
進捗ゼロで一年を重ねてしまった。
イベントに向ける目そのものがおかしくなってきていた。
彼女が他の演者と話しているだけで、見えない真綿が絞まっていく。
呼吸が苦しい。
嫉妬が次第に強くなってきている。
汚れていく。
もはや、彼女と目が合う瞬間の為だけにイベントに行っているような状態だ。
例外はライブだけだ。
彼女が歌って踊っているのを近くで観ている時だけは、不思議と一体感のようなものがある。
本当はこの中に混じる資格なんてないのに。
でも、もうこの魔法が掛っている瞬間が無ければ、僕を維持することが出来そうにない。
成れ果ててしまう。
考えたら恐ろしくなるから、ただ前に走り続ける。
それしかなかった。
停滞している中でも少しずつ周りは変わっていく。
起こる出来事で、僕の劣化は加速していく。
ある冬の夜に、祖母が亡くなった。
母の代わりに僕を育ててくれた人だった。
僕は母に会った記憶がない。
物心つく前に事故が起きたそうだ。
唯一残っている形見がM○X2。
なぜパソコンだけ残した。
残すなら他にあるだろう。
まぁ、小学校入って間もなくマイ半田ごてを手にしていたから、案外血は争えないのかもしれない。
月に一度くらいは指か床を焦がしていたから、小さな子に与えて問題ない代物なのかは考えた方が良いと思うぞ。
ひらがなもまともに書けない知識水準だから、まともな設計も出来ない。
今考えると動く訳がない回路を、呪物のように量産していた。
怖い。
金銭面では比較的余裕がある家だったから物質的に何か困った記憶はない。
でも、物心が付いたころはあまりよい空気ではなかったと思う。
特に多感な時期の姉は大荒れで、不安定だった。
いつも泣いていて、そして怒っていた。
それが母を喪った為であると想像できるようになったのは遥か後の事。
僕はそれを全く理解できない。
物語ではしばしば記憶を失くした人が出てくるが、多分似たようなものだ。
概念自体が無くなってしまうのだ。
悲しいと思う事すら出来ず、共感できない。
感情が見つからない。
母の話題が出ると、会話の輪に入れなくなる。
自身が異物であるような感覚すら覚えてしまう。
バブみとかオギャるとかいう奇語の解釈も合っているのか分からない。
解釈違いは戦争の始まりを呼ぶ。
バブみ戦争とかこの世の地獄であるな。
すまんな、僕が解釈を間違えたばかりに無益な血が流れる。
もっと積極的に知ろうとしていれば、何ともないことだったのかもしれない。
ハリネズミよりも臆病だった僕には出来なかった。
むしろその話題を積極的に避けてすらいたかもしれない。
結果、母の名前を認識したのもここ数年のことだったりする。
当時の僕は、理解できない姉の事を畏れていたと思う。
笑わせようとしてみたこともあったが、おかしい奴を見る目で見られただけだった。
センスが全くかみ合っていない。
いとおかし。
周りには笑ってくれる人もいるが、家族は笑わせることが出来ない。
であれば避けることしか出来なかった。
なるべく視界に入らないようにしていたし、足音も立てないようにしていた。
アニメを観たいときも、姉がリビングで観ているのを廊下から、扉の隙間から覗いていた。
何年かしたところで落ち着いたものの、普通の距離感というものは既に分からなくなっていた。
別にもう仲が悪いとかそういうことは無いけど、未だに連絡先も知らない。
スマホを持っているのが姉と僕だけなので、家族とのLI○Eは都市伝説と化した。
ちょっと憧れがある。
結果として遊び相手に飢えていたわけだが、いつも家に居る祖父の周りを羽虫の如く飛び回っていた。
しかも目や口に入ってくる系のやつだ。
控えめに言って最悪なので早く誰か止めてくれ。
おかげさまで祖父には「あっち行け」以外の言葉を掛けられた記憶がない。
家から出ないという事は足腰が弱っていたのだ。
事故が起きるのは時間の問題だった。
とうとうある日、押した拍子に転ばせ、骨盤を折ってしまう。
病院で会った時も、退院した後も、祖父はもう何も言ってこなかった。
まともに謝る事すら出来なかったのに。
結局、退院してすぐに亡くなってしまった。
子供であっても、二度と消えない形で自らが汚れてしまったのは理解できた。
それでも根気よく育ててくれたのが祖母だった。
掃除洗濯は適当だったりしたが、あまり主張することが無く控えめ、そしてとても忍耐強い人だった。
嫌な顔をするのは、猫が膝に飛び乗ってくる時くらい。
猫様は着地時に容赦なく爪を立ててしまうから、薄手の服だととても痛い。
いつも気苦労ばかり掛けた。
しばしば事故を起こすし、周りからは浮きやすい。
これらから導き出される事実は、つまり、僕はヘリウムの生まれ変わり…ってコト!?
一例を挙げると、朝が起きられず毎日集団登校に置いていかれるくらいのマイペースさ具合だった。
問題意識くらいはあったのだが。
起きられないのは仕方がない。
仕方ないわけがないんだよなぁ。
大音量なら起きられるか試したこともあったが、聴力の方がお別れの言葉を述べてきただけだった。
何より鈍い。
周りと軋轢が生じてもなかなか気付かず、爆発するまで気付かない。
ハインリッヒの法則に従うならそれまでに300回くらい何かやらかしていそうなものなのだが覚えがない。
まぁ、やらかしたやつは大体「何もしてないのに壊れた」って言うからね。
度し難い。
もっともこの鈍さのおかげで、色々あった割には学生生活を普通にエンジョイしていた訳だが。
でも、卒業式の日に思わせぶりに呼び出してきたと思ったら、「みんなと一緒に色々壊してごめんね」とかカミングアウトするのは止めてくれ。
知らないままで居たかったわ。
微塵粉メンタルだったらトラウマになるところだ。
危ない危ない。
既に砕けているんだよなぁ。
別に期待とかしてなかったけど!
自分がどうも珍獣扱いされているらしいことも義務教育の間は気付かなかった。
義務教育の敗北!
「そういう奴だから」って甘やかすと学習しないから良くないよ!
既に諦められているんだよなぁ……。
こんな調子だから、もしかしたら母の事故も自分に原因があるのではないかと考えたこともある。
本当だったら怖いので訊くことは出来なかったが。
でも、人に近づき過ぎてはいけないという感覚がうっすらと根を張っていたのは否定できない。
そうやって、心労を掛け過ぎてしまったのだろう。
小学校に入ってしばらくした頃には認知症の症状が出始めていた。
鍋物を焦がす。
具材を入れ忘れる。
そんなことから始まり、僕の出来ることが増えていくのと対比するように、少しずつ出来ないことが増えていく。
因果関係が無いのは分かっているのだが、まるで吸い取っているみたいだと思っていた。
そして、僕が中学に入ったころに、家事全般から引退していった。
その頃には噛む力が弱くなって、肉々しい肉類が食べられなくなっていたから、柔らかく分厚いオーブン焼きハンバーグを作ったときには凄く喜んでくれたのを覚えている。
レシピに書いてある通りに作っただけなんだけど。
でもそんな時間がもう戻ってこないと思い至ったのは、最近の事だ。
半年ほど前に、僕の事を忘れてしまった。
気力のようなものも一緒に喪われてしまったのか、あっという間にほとんど骨と皮だけになっていた。
「誰?」
訊かれた時の衝撃は何とも形容しがたい。
手足を動かそうとしても動けない。
何かおかしいと思って見てみると、身体中があちこち欠けているのだ。
そこでようやく痛みに気付く。
――――っ。
叫ぶことすらできない。
それと同じことが心に起きるのだ。
物語の中だけの表現だと思っていた。
相手の心から欠けると、己の心も欠ける。
さながら量子もつれとなっているかのように。
物語でよく大切な人が記憶を失くしてしまうシーンが出てくるが、こういう感覚なんだな。
もし母が生きていたら僕はこんな気持ちにさせてしまうのか。
誰が言ったか、推せるときに推せ。
それと本質的には似たようなものだ。
それが比喩ではなく、現実の恐怖が塗りたくられた言葉に変質していく。
かといって、何か手が動くわけでもない。
ただただ手足が竦んでいる。
全てを投げうって介護しようと思うでもなく、より良い施設を探そうとするでもない。
覚悟なんて無かった。
無責任に当てもなく嘆いているだけ。
病院のベッドで動くことも出来ない。
ただ「帰りたい」とだけ何度も言う。
応えられていない自分は、空虚で、どこか滑稽だった。
周りは大往生だった、天寿を全うしたと言うけれど。
最期の姿を見ていてそんな風には思えなかった。
折り合いの付け方が分からない。
ただ後悔だけが尾を引く。
「良かった」とか「安らかだった」と思えるような終わり方とは如何なるものなのか。
そんな人は居るのだろうか。
終わり良ければ総て良しとは云われるけど、そんな物語は一体どこにあるのだろう。
彼女ともいつ話す機会すら失うかわからないのだ。
いつか彼女に悲しい顔をさせてしまうかもしれないのだ。
だから、もっと頑張らないと。
---
春といえばアルバムの季節だ。
なぜかって?
彼女のアルバムが出るのはだいたい春だからだ。
心頭滅却すればいついかなる時であっても春。
私が決めた。
そんな春の期待に違うことなく、彼女の最新アルバムは発表された。
作曲者も彼女の歌声の強みに対する理解度が上がっている。
さらに洗練され、より魅力を引き出すものになっている。
透明度の高い彼女の声は、ほんの少しの味付けで驚くほどの鮮やかさになる。
砂糖細工のアソートのような煌きだ。
彼女のパフォーマンスを鮮烈にするお洒落なダンスナンバー、ビターな曲から甘々な曲まで隙が無い。
彼女のファンにとって大満足の出来だろう。
もちろん、リリイベもやってくる。
僕にとってはこれを逃す手はない。
だがこれは、これまでに多くの人を屠ってきたという、危険なミッションだ。
せやろか?
せやせや。
今回のそのイベントには、いつもと違う男性が司会として現れた。
あまり慣れてないのだろうか、今日ここに来るまでに彼女としたことを自慢げにつらつら並べていく。
Oh…こちらを蚊帳の外にしていくじゃあないか。
オタクは繊細なんだぞ。
あまり馴れ馴れしく話しているとヘイト向けられますよ?
え、僕?
怒ってないよ?本当だよ?
こんな些細な事で怒るなんて心が狭いよ全く、HAHAHA。
でも、ちょっと口を滑らせてもいいよね?
そんなことは無いのだが、余計な事を口走った。
「最後に一つ訊いてもいい?」
「えっ、もちろんいいよ?」
「何歳くらいに結婚したい?」
「えっ」
口走った瞬間に失敗を悟った。
口走る前に気付けよ。
これは気持ち悪いですね。
誰かに文句を言う資格はない。
見知らぬ人にこんなこと言われたら恐怖だろう。
幻滅される一秒前。
彼女は目をまん丸にして数秒フリーズした後、絞り出すように返してきた。
「考えたことない…」
ああ、終わった。
困らせてしまった。
視界が一気に歪んでもうなにも目に入らない。
ふらふらとステージから離れる。
その時だった。
「また来てねっ!」
会場全体に響く大声で彼女が叫んでいた。
振り返って見た彼女は目を疑うほどの必死な形相で身を乗り出している。
スタッフもファンもぎょっとしている。
会場が完全に凍り付いている。
状況に心が追いつかない。
でも彼女がここまでしてくれたのだ。
とにかく、安心させなきゃ。
笑顔を見せなきゃ。
出来る限りの笑顔で頷いて、会場を後にした。
やってしまった。
でもまだ、終わってはいなかったらしい。
思い返してみれば、話す度に少しずつ、彼女の口調が”普通の対応”に近づいている気がするのを、内心不安に感じていた。
いつ冷えた鉄に戻ってしまうのか。
いつの間にかそのことばかりを気に掛けていた気がする。
まだ熱は残されているようだ。
後日、旧知に僕が質問した内容をどう思うか訊いてみたら、「キッッッッッッッモ」とお応え頂いた。
うんうん、やっぱりそう思うよね!
実家に帰ったかのような安心感がある。
何の利害関係もない人からの意見は実に貴重だ。
今後は気を付けよう。
次のイベントは一週間後。
流石に気まずい。
どんな顔して居ればいいのだろうか、とは思うが、行かないと言う選択肢もない。
果たして彼女は、バツの悪そうな顔でステージに入ってきた。
目が合いそうになって、露骨にツンっと目を逸らされる。
申し訳ないが可愛すぎる。
気持ち悪い笑みを浮かべてしまいそう。
ステージが終わるときには自然な様子に戻っているように見えたから、思っていたよりは気にしてないのかもしれない。
それだけしか効果が無いなんてちょっと物足りない、なんて贅沢な考えが過ぎったのは秘密だ。
次に話す機会は既に決まっていた。
彼女のフォトブックが出るのだ。
すっかり写真が見られなくなっていた僕だが、それでもサイン会に行くために山のように積む。
傍から見たら、僕はどれほど滑稽なのだろうか。
感想を書こうと開いてみるも、すぐに閉じてしまう。
言葉を紡ぐのに時間が掛かる。
サイン会に行っても、「どうだった?」と聞かれて「かわいかった」と返すのが精一杯だった。
かわいいとは思っているのだ。
その気持ちに変化もない。
それを楽しめなくなった自分がおかしいだけ。
もし、僕がそんなことを思っていると知ったら、彼女を悲しませてしまうだろうな。
彼女に言いたくないことが増えていく。
良くない兆候だったが、どうすべきか分からなかった。
貴重な時間を割いて訊いてみる。
「最近、手紙読んでくれてる?」
「もちろん読んでるよ?」
曇りなき眼でこちらを見てくる。
不思議そうな顔だ。
頭にはてなが浮かんでいる顔はそれはそれで可愛いのだが、それを喜んでいる余裕がない。
少なくともある程度の数は届いているらしい。
でも、何かを見落としているような悪寒はあの日から消えたことが無い。
彼女は今の状況をどう思っているのだろうか。
幸いイベントは次々やってくる。
準備を念入りにしていれば、余計な事を考えずに済む。
彼女の努力、活躍、人気が好循環を奏でている。
ライブツアー、ライブフェス、誕生日のイベント。
そのおかげで、僕はまだギリギリ頑張れる。
落ちるときは落ちる。
全てのイベントを網羅はなかなか難しい。
でもそういう時は、調べると何かイレギュラーな事が起きていることが多い。
確率計算して積んだのに、蓋を開けてみれば複数積んだ人はほぼ全員落ちていたなんてこともある。
そんなルール知らんがな。
書いてないし。
ディスプレイを炙れば浮き出てくるのかな?
予め書いてあるなら、ある種公正と言えるかもしれない。
でもサイレントでそれをやってしまったら、「積むような人は落ちても次も来るからいいよね」と考えていると捉えられかねない。
そこには公正さはない。
抽選方法の開示はどこに要求すればいいんですか。
景品表示法の改正要望を出したい。
こちとら遊びじゃないんだぞ。
こういうところから、ファンとスタッフの軋轢は生じるのだろう。
実際、リリイベで積む数が多すぎると必ず落選するなんていう都市伝説も真しやかに流れてくる。
有意と言えそうなデータを得られたことがないので、これについて僕はまだ懐疑派なのだが。
ただ少なくとも、今の仕組みを不安に思うファンの心境が表れているのは確かだと思う。
多少の問題があろうと、まだ次があると思えるから、些事とすることができていた。
既に脆くなっているから、ちょっとしたことで大きく割れてしまうのだが。
次のリリースイベントのルールが変わっていた。
“質問禁止”
まさか、前回僕が余計な質問したからじゃなかろうな?
明確な証拠がある訳ではない。
とはいえ、会場をあっと驚かせる事をしでかしたわけであるから、順当に考えれば関係ありそうなものだ。
ただ、このルールは許せない。
これは彼女を守るものではなく、むしろ彼女に負担を強いるルールだ。
会話っていうのは、相手と言葉を交換しあう。
前に受けた言葉から次の言葉が紡がれる。
言い換えれば、人に向ける言葉と言うのは少なからず質問の意を含むのだ。
それが一切ない言葉を常に相手に向けるというのは、言葉を寸断させて攻撃するか、話を終わらせたいという場合くらいしかない。
当然会話は膨らまない、盛り上がりにも欠ける。
短い時間とはいえ、そんな応答しか出来ない人たちに、一方的に話しかけ続けなければならない彼女は大変だ。
会場には彼女に話しかけたい人が集まっているのだ。
本来なら、鷹揚に構え、仁王立ちしているだけで勝手に話しかけては喜んで帰っていくはずなのだ。
それはそれで彼女のキャラが崩壊してしまうが。
何度考えても、僕を呼び止めたあの時の彼女はこの結果を望んでいるとは思えなかった。
スタッフの意志なのだろうか。
彼女は望んでいないのに、スタッフに唆されているのだろうか。
話をするなという意図だとしか僕には解釈できない。
「金は欲しいが彼女には近づけたくない」という発想以外でこの解法が出てくる道筋が、僕にはどうしても想像つかないのだ。
元々僅かな時間だからいいってものじゃない。
これを決めた人は、こちらが人語を解する生物と思っていないのだろうか。
僕は生物だからあながち間違ってはいない。
すぐにくさくさするからね。
そんなに深く考えて決めたわけではないかもしれない。
それはそうだろう。
いつでも彼女と話せる人が、年にわずか数分、ないしは数十秒しか話せない生物の気持ちを知る由もない。
その時間を代えの効かない鎹と思うだなんてありえないと思うだろう。
その頭のおかしい狂った何かがここに居ること自体がバグだ。
そもそも話せること自体がおまけサービスでしかない。
どんな制約を付けられても文句を言う権利はない。
恐らく悪気すらない。
それだけなのだ。
ただ、彼女を守るよりも、彼女の商品価値を守ることの方がずっと大事なんだなと、認識してしまった。
僕もそれ以外も全て、人ではなくただの危険因子のように思っているかのような対応をするのを、目の当たりにしてしまった。
スタッフの全員が全員そうだとは思わないが、僕からは区別できないのだ。
彼らに対する僕の信用は現時点を以って売り切れてしまった。
彼女の意志を確かめなければいけないとは思うのだが、糸口が見つからない。
このルールでは彼女の意志を知ることが出来る見込みはゼロだ。
仮にルールを無視したとしても、衆目環視の中では正確な結果を得られまい。
あらゆる正確な測定には相応の測定環境が必要なのだ。
さもなくば、いくらでも彼女の意志を勝手に解釈できてしまう。
これまでですら糸口がなかったのだ。
それに、それを知ったところでどうするというのだろうか。
失敗したうえに次の機会が奪われる可能性を考えるとこの手は使いづらい。
これ以上彼女を悲しませる結末にはしたくないのだが。
だが、僕は好奇心のかまたり。
仮説を立ててしまえばあら不思議、証明するまで止まれない狂信者なのだ。
健康の為なら死んでもいいという人と同種の狂気が神経系を侵している。
今日も当てどなく、手は止まらない。
ちなみに僕の名前はかまたりではない。
会えるだけで僥倖だと思うしかない。
彼女は以前よりも話しかけてくれる。
それだけでもやはり嬉しい。
ただ、歯に物が詰まったような応答しか出来なくて、苦しかった。
当然であるが、彼女は仕事に関すること以外は話さない。
話題が選べない。
ただのファンという形の器に押し込められていく。
普通の知り合いのような会話がしたい。
今まで気付かなかったが、きっと自分はそれを望んでいたのだろう。
填め込まれて潰れていく。
僕の形が歪んでいく。
息が苦しくなっていく。
目の前の分厚い壁が、さらに分厚くなっていく。
これが、身代金を要求されたときに大金を払う人の気持ちという奴なのだろうか。
知らなくてもいい感情を覚えてしまった。
年の瀬が近づいてきたころ、テレビ番組のエキストラに招集があった。
今年はちょっと色々あったがそれはそれ、これはこれ。
たまには忘れさせてくれ。
当然ながら、どんな予定が入っていても向かう。
如何にも何か予定入ってそうな思わせぶり発言をするのは日本人の責務であるが、当然予定などない。
そうでなくとも僕は、「行けたら行く」って言ったのに本当に来てしまうタイプの人間だからね。
呆れられるのも愉しみの一つだ。
ついつい言葉が踊ってしまう。
それ以前に、この高倍率の中なんでまた当選しているんでしょうねえ。
そこはくじ運に感謝しかない。
選ばれた曲は彼女の魅力を一番凝縮している曲の一つだ。
今までに彼女の曲のバリエーションは増え、湿っぽい曲も静かな曲も十二分に歌いこなすようになっている。
でも自分にとっての原点は、太陽より目映いほどの明るい芯を、暖かい雪がしんしんと降り注ぐように遍く届け温めていく、そんな曲なのだ。
1曲しか撮らないなら、それを体現している曲を流して欲しい。
うむうむ、プロデューサーはわかり手であるな。
そんな顔をしていたかもしれない。
エキストラの配置を決め、各々が配置につく。
撮影セットの上に登っていく。
今地震が来たらさよならバイバイだぁ。
簡単な流れの説明を受ける。
ここには彼女をあまり知らない人もいるから、全員とコールを予習していく。
ライブ感を最大限出したいという事か、リハーサルはなく一発撮り。
収録が始まる。
彼女が入ってきた。
今日の衣装も抜群に似合っている。
カメラが近いからか、いつもより目に力が入っている。
流れるように指先、そして全身が舞い始める。
それに引っ張られるようにペンライトを振っていく。
正しくこれはライブだ。
何度観ても綺麗だ。
1番のサビが過ぎたところで、いつもと違う間奏が流れてきた。
ってえええ、ショートバージョンじゃないか。
慌てて合わせようとするが間に合わない。
ああ、トップオタさん助けて?!
そんな存在が居るのかは知らないが。
残念、撮り直しになってしまう。
時間が増えたからむしろラッキーなのか……?
テイクツー。
同じミスを二度はしない。
今度は全員しっかりついていく。
確認OKが出て、お役目は終わりだ。
今年も終わりだ。
進捗なしです。
このままヨボヨボになってもあの日の事を彼女に訊く機会はないのかも知れない。
諦観にも似た感覚を持つようになっていた。
でもイベントがある限りは、頑張らないと。
年明けはすぐにファンクラブイベントがある。
昼夜公演で、片方のチケットだけ手に入ったので、もう一方は当日券狙い。
いつも通り夜行バスで現地に向かい、列に並ぶ。
前日から少し熱っぽかった。
でも今日は話す時間があるから、休みたくない。
ただ、早朝から外で並んでいたせいか寒気は悪化する一方。
チケットを確保して、とにかく体を温めなければと銭湯に向かう。
すでにグロッキーで体が動かない。
ふと目が覚める。
気が付けば開演が迫っていた。
汚い叫び声を上げそうになる。
「ああああ゛?!」
上げてんじゃねえか。
タクシーを探して駆け回り、開演時間が過ぎた会場に滑り込んだ。
やや冷たい視線を浴びながら席に座る。
肩身が狭い。
そう、ここは彼女がファンに向けて作り上げたイベント。
その当日券をもぎ取った猛者の巣窟席。
ファンのための席。
やはり僕はここから出ていくべきなのではないかと思う。
違和感を強く感じるようになって、自意識過剰なのかもしれない。
そんな僕とは関係なく、彼女は可憐に、可愛くを体現していた。
公演が終わった後にもう一度、中へと舞い戻る。
今回のイベントは、当選者に追加で話す機会があるのだ。
もう声も完全に枯れて、頭も痛い。
せめてマスクくらい持ってくればよかったか。
準備不足甚だしい。
いざ目の前に行くと彼女は、いの一番に訊いてきた。
「また来てくれる?」
「絶対に行く」
初めて約束が出来た。
あの日の事は分からなくても、彼女との約束さえあれば、きっと頑張っていける。
たった一言で、こんなにも安心するのだ。
そこで、忙しい彼女に風邪をうつすわけにはいかないと、気持ちが傾いた。
まだ時間は来ていなかったが、そこで一歩引いた。
彼女は悲しそうな顔に変わってしまう。
後悔が一気に込み上げてきたが、もう戻れない。
でもきっとまた話す機会はやってくる。
朦朧とした頭で思っていた。
この時はそう思っていた。
直ぐに後悔することになる。
パンデミックが猛威を振るい始めていた。
僕はいつも考えが甘すぎる。
先々のイベントが次々に消滅していく。
ロックダウンが迫る。
もうだめかと思われるタイミングに、彼女の新曲発売が予定されている。
リリイベがなんとか無くならないようにと毎日のように祈っていた。
バレンタインデーに合わせたリリイベは、無事に開催されることになった。
本当はチョコを手渡してもらえる予定だったらしいが、予め席に配られている。
話すタイミングもない。
それでも開催してくれただけありがたい。
マスク着用でのミニライブで声を届ける。
新曲は、今までの曲の中でも特に破壊力が高いラブソングだ。
彼女が練り上げた詩はとても真っ直ぐな気持ちが綴られていて貫通力が高い。
こんな威力の気持ちを向けたら世界最大のダムにだって穴が開くだろう。
大惨事だ。
無論僕は土左衛門になっていた。
気を抜くと自意識過剰になってしまう。
何を考えて歌詞を書いたとか想像してしまい頭が沸騰してしまう。
そんなことは無い、そのはずだ。
前まではいつも満員だった高速バスも今はまばら。
運転手がいつもはない長い感謝を告げるのを聞きながら、帰途に就いた。
以後のイベントは残らなかった。
それでも、バレンタインにチョコが貰えたら、お返しをせねば気が収まらない。
返報性の原理には抗えない!
汗が止まらず瞳孔は開き、脈が早鐘のように鳴っている。
それは早く病院に行った方がいい。
人類はかくも強欲なのだ。
イベントがない以上事務所に直接送るしかあるまい。
事務所に送ると彼女に届くまで時間が掛かると聞いていたので今まで敬遠していた。
イベントは無くなったがホワイトデーの配信はある。
それに間に合うよう張り切ってコスメを見繕い、手紙と共に送っていた。
配信当日。
贈ったコスメを自慢げに画面に大映ししていた彼女の姿があった。
滅茶苦茶可愛い。
プレゼントを受け取って彼女が喜んでいる顔を初めて直視してしまう。
その威力たるや……あれ……?
語彙さん、待って、置いて行かないで。
語彙さーん!!?
一気に満たされた。
大満足。
かのロングセラー商品とは関係ない。
他の何かでは絶対にここまで充足しないだろう。
会えないならもっとこちらを強化していくしかない。
死ぬ気で頑張る。
現世の時が止まるのとは裏腹に、彼女の新曲発表ペースはかつてないほどの頻度になっていた。
彼女の曲が増えていくのが心地よい。
彼女はファンと話す機会を保ちたいと思っているのだろう。
イベントの代わりに、当選者は通話できる特典が付いていた。
枠は少ない。
だが、当てられないほどではない。
週間ランキングを変えてしまうことも辞さない。
今までのイベントでも、予想される当選確率をベースに積む枚数を決めている。
おおよそ当選確率7、8割になる枚数がいつもの最低ラインだ。
計算上は、今までより一桁積み増せば同程度の当選確率を確実なものとできよう。
どうせ彼女以外にお金を使う当てもないのだ。
やる以外の選択肢はあるまい。
応募の事考えてなかったわ。
永久にシリアルナンバーを取り出す作業が続く。
おっと、紹介が遅れました。
私の名前はシュリンク・オープナー。
オープナー家の三男坊。
CDの包装を撲滅するのが仕事だ。
今後お見知りおきを。
……終わらないよう……。
せめて応募フォームの入力くらいは楽しませう。
適当に画像認識のサンプルコードを拾ってきて、シリアルを読み込ませてはオートで応募を済ませていく。
急造なので割と読み間違えるが、手打ちよりは速い。
なんとか応募は済みそうだ。
抽選の日、彼女は配信中に手ずからくじを引き、当選者を決める。
一人、また一人と名前が呼ばれていく。
流石にリアルタイムで見守るのは緊張する。
あっさりと名前が呼ばれた。
あまり実感はないが、賭けに勝ったらしい。
思わず気が抜けてしまう。
後から思うと、注意していればこの時点で違和感に気付けたと思う。
彼女から電話が来るなら相応の準備が必要だ。
考え過ぎだと思う。
スマホ内蔵のマイクとスピーカーでは不足だろう。
速やかにマイクとヘッドホンを用意する。
動作確認ヨシ。
スマホの非通知ブロックも解除していく。
いくつも設定がある。
何でこんな面倒なことになっているんだ。
絶対に非通知を拒否するという強い意思を感じる。
非通知での通話テストヨシ。
雑音になる部屋の機械類も全て電源を落とす。
準備万端である。
電話が鳴る。
画面に踊る非通知の表示。
スマホで電話をするなんて流言飛語の類だと思っていたよ。
数コールののち、応答した。
話し始めると、すぐにいつもと雰囲気が違う事に気付いた。
戸惑っているような、はたまた拒絶されているような。
言葉の節々が刺々しく感じる。
どうして。
何か彼女を不快にさせるような事を言ってしまっただろうか。
表情が見えないので細かい事が読めない。
このまま話していいのだろうか。
迷いながら話していると、決定的な一言が出てくる。
「えっ、コスメを贈ってくれたこともあるの?!」
漸く違和感の正体に気付いた。
余りにも遅すぎた。
彼女は僕と話していることに気付いていないんじゃないか?
そう、距離感が違ったのだ。
まずい。
ここで焦って変な事を言って、スタッフに怪しまれないだろうか。
出禁にされる未来まで一瞬で想像する。
何を話せば伝わるだろうか。
背筋が凍るような感覚の中、慌てて、今までどのコスメを贈ったのかを伝えていた。
「えっ…」
彼女はそう言ったあと、完全に言葉が途絶えた。
無情にもそこで時間切れを告げる声が聞こえる。
考えうる限り最悪のタイミングだった。
今まで手紙では自分の本名を書いていた。
でも、今回の抽選は放送で名前が呼ばれるから、ハンドルネームで応募する必要があった。
つまるところ、彼女は僕のハンドルネームを知らなかったらしい。
ただ、これまでの手紙の中で、自分のハンドルネームを何度か書いていた。
名前の由来に始まり、SNSのメッセージやラジオへの投稿など、話のネタにしたことが何度もあったから。
どうも油断していたらしい。
もしかして彼女は手紙を読んでなかったのだろうか。
それともそれもどこかで検閲コードに触れてしまっていたのか。
少なくとも、今までのSNSのメッセージやラジオへの投稿は、一つも彼女に認識されることはなかったらしい。
思い返してみれば、手紙で書いたことに関連したことがSNSに書かれていることはあっても、SNSのメッセージに対してはそういうのはなかったな。
全てが無駄になっていた。
フォローのタイミングも当面ない。
電話口の向こう側の最後の声音がリピートする。
彼女を傷つけてしまった。
すぐに何か書いて届けなきゃと思っているのに、筆が全く動かない。
何か、致命的なモノが壊れてしまった。
投稿に「ありがとう」とか、ほんの一言書こうとするだけで、心臓が捻じられているような感覚を覚える。
彼女の投稿にメッセージを残すのが遅れるようになる。
酷い時は落ち着くまで半日以上も。
文字数もガクッと減ってしまった。
今までどうやって書いていたのか思い出せない。
こんな文章ではどちらにせよ彼女は喜ばないだろう。
負のスパイラルだ。
ますます書けなくなっていく。
特に何か状況が変わることもない。
ないと言い聞かせているのに、心のどこかで期待してしまうのだ。
アカウント名が伝わったのだから、何らかの手段で連絡が来る可能性があるんじゃないかと。
最初に思っていたはずの、全て僕の勘違いなのかもしれないという考えが、いつの間にか掻き消えていた。
心の熾火が制御できなくなっているのだ。
期待すればするだけ傷つくことは分かっているのに、鍋の隙間から吹きこぼれては焦げていく。
おこげおいしい。
グリセロールの甘みが口の中いっぱいに広がる。
これもしかして、おこげじゃなくてキ○ワイプでは?!
そもそも彼女は「SNSは信用してない」と一時期何度も言っていた。
それを覚えているのに。
心底自分が気持ち悪い。
彼女のラジオが聴けなくなった。
他の人の投稿が読み上げられていくのを聴くだけでダメになってしまった。
配信もSNSもますます直視できなくなった。
輪の外に居るという感覚が先鋭化していく。
カメラの前でファンに語りかけているのを観るのすら耐え難くなっていく。
ファンの皆は話しかけてもらえて羨ましいな。
もうこんなの完全に終わっている。
でも彼女もファンを喜ばせたいと思って行動しているはずなのだ。
しぶとくここに残る僕は一体どれほど愚かなのだろう。
いつもヘビロテしていたはずの曲ですら、少しずつ聴く気力が無くなっていった。
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時はパンデミック真っ盛り。
外に出なくなると、何のために働いているのか分からない。
まさに仕事のために仕事をしている。
イベントが無くなった代わりに、仕事が最高に忙しくなっていた。
仕事をすると、他の事は何も考えなくていい。
日々の辛さを忘れさせてくれるのはお前だけだぜ。
というか、もう何も考えたくない。
仕事楽しいしごとたのしい。
土日祝日も仕事のことで頭がいっぱい。
残業規制限界まで働きまくるんじゃ。
ぐへへへ。
彼女に会う事が出来ないのに、他の人と会うのも不公平だろう。
猫と話す時間ばかり増える。
ここの公用語は猫語である。
にゃあ。
不快感を減らすため、いい感じのバリトンヴォイスで脳内再生してください。
我が家の猫様はとても甘え上手だ。
サバトラの拾い猫にして、尾曲がりの幸運猫。
僕が振り撒く不幸のかなりの部分を中和してくれている徳の高い猫様だ。
小さく、体重も3kgを切っていて、既に高齢猫のはずなのにその細い毛はつやっつや。
今でもどこか子猫のような雰囲気を醸し出している。
自分の名前を憶えているのか、構って欲しい時は「ニャッニャ」と変わった鳴き方をする。
猫の口でも促音を真似るのはいけるらしい。
うい奴め。
猫に名付けるときは猫が喋りやすい名前を付けるといいぞ。
今日も今日とて膝の上に乗ってきてはなにもせずともゴロゴロし始める。
そしてだんだん口が弛緩してよだれが止まらなくなり、服がベトベトになる。
汚い。
……そんなことは些末事なくらいかわいい子だ。
こんなこともあろうかと、膝の上に来そうなときは予めティッシュがスタンバイしている。
だが、寝室への勝手な出入りは禁止。
だからといって部屋から出すと、それはもうボコボコに虐待しているかのごとく低い声で鳴きまくる。
多少は慣れた今でも心が抉られる。
こんなエグイ鳴き方をする猫に育てた覚えはありませんよ?
いったいどこで覚えたんだ。
少し扉を開けてみる。
キラキラとお目々を見開いた猫が、ニッコニコで首を滑り込ませてくる。
さっきまでの鳴き声は何だったのか。
小悪魔め。
誰なんだろうね甘やかしたのは。
不思議だなぁ。
だがそれが良い。
体まで滑り込む前に、扉を少し閉める。
少し嫌そうな顔をしながら、首をひねらせて引っ込める。
すかさず脚を出してきて爪を引っかけ扉を開けようとする。
むっとした顔も可愛いぞ。
扉の開閉と連動する瞳孔の開き具合を眺めながら、また少し扉を開けるのだ。
無限ループがやめられないとまらない。
電話から一年が経とうとしていた。
猫様と戯れることが最後の防波堤になっていた。
あれから、何度か手紙もプレゼントも送ってはみたが、反応らしきものが観測できなくなった。
探せどもカケラも見つけることが出来ない。
そもそも今は手紙類を受け付けているのだろうか。
事務所のホームページには送るなとは書いてない。
送れば事務所までは届くし、受け取られもする。
けど、あちこちのイベントでは、”ご遠慮ください”となっているとも聞く。
果たして彼女には届いているのだろうか。
それとも、もう彼女には見限られたのか。
何も補充できないと、自分自身の思考回路が刺々しく作り変えられていくのが分かる。
どうもテセウスは同じ部品ではなく仕様の違う部品で補修している。
恐怖!人体の不具合混入。
早くリコールしてくれ。誰か。
そこ、廃品回収の間違いではとか言わない。
元々細かった人間関係が清算されるのも一瞬のこと。
僕に告白してきた子も辛いことばかりつぶやくようになって、とうとうアカウントごと消えてしまった。
少なくとも、声を掛けなければならなかった。
言い訳のしようもない。
あのとき自分の気持ちを何も伝えられず、そのままずるずる放置しておいて。
話しかけて来る度にますます瞳に熱が籠っていくのに、気付かない振りをして。
仕舞いにはこれだ。
僕は肝心な時にいつもなにもしない。
彼女の放送も刺々しい雰囲気が見え隠れしているように見える。
一時期の彼女のようなネガティブ発言が多くなっていた。
「なんでこんなことしてるんだろう」
放送中に言われたファンが喜ぶ発言ではないだろう。
でも、それを聴いた僕は、救いに近い感情を覚えてしまったのだ。
僕と同じような気持ちになってくれている、と。
まるで共感してもらっているかのように。
やっぱり僕の思考回路は、もう壊れている。
彼女の新曲が出る日が近づいていた。
この一年間ずっと待ち続けていた。
彼女の声の透明感を最大限に引き出した曲だ。
すごく良い曲なのに。
聴くのが苦しいのが申し訳ない。
でも、久しぶりに電話の機会がやってくる。
それだけで、消えかけた炉にもう一度火が付いた。
前回と同じ手順を踏むだけ。
至極簡単に通話の権利は手に入った。
でも、いざ電話に出てみると、時の経過を否応にも認識することになる。
前回までの彼女が嘘のように、静かな敬語で話しかけられた。
ともすれば事務的とすら思えるほど。
その声は珠のように綺麗で、確かに彼女に違いない。
普通には話している。
いやむしろ今までよりもずっと普通に話しているのだが、感情が読み取れない。
声音の揺れが掴めない。
今まで彼女に敬語で話しかけられたことが無かったから違和感があるだけ、なのだろうか。
はたまた、気持ちが離れてしまったのだろうか。
そうでなくとも彼女の心境に変化があったのか。
人と言うのは各々考えているし、変わっていく生き物だ。
それはもちろん悪い事ではない。
でも突き放されたような気分になってしまう。
何の心の準備もしていなかった。
彼女と話せるだけで贅沢なのかもしれないが。
感情が読み取れなかったら、自分の言ったことを彼女がどう受け取ったのか判断できない。
自分は次に何を話せばいいのか分からない。
怖い。
彼女に何が起きて今に至ったのか分からない。
何も分からない。
彼女はすらすらと話しかけてくる。
ここまで困惑している僕がおかしいのだろうか。
そうしているうちに通話が終わってしまった。
まるで、狐に化かされたような気分だ。
ほんの数分。
刑務所だったら、月に2回以上30分の面会が確保されるのだが、残念ながらここは刑務所ではない。
そもそも世間でいう”知り合い”にすら該当しないのだから、面会許可が下りるわけがないのだが。
これで次の機会はまた何か月も先だ。
直接会うことが出来れば、分かるのだろうか。
最近はぼやくばかりだ。
そうしてまた一年が過ぎる。
ウイルスへの対抗手段を社会が身に着け、皆が恐怖を忘れてきたころ、ついに次の機会が復活を果たす。
何年振りかのリアル対面イベントだ。
もっともっと積み増して、確実に、取らねば。
あっさり落ちた。
あれれぇおかしいなぁ?
ここまで何年もあってリリイベで全落したのは初めてだった。
積んだ枚数を考えると、計算上、全会場全落の可能性は0.1%以下。
あぁ、3σ超えてしまった。
これは新粒子きたな。
まだ兆候は満たせても発見には届いてないのだが。
えっ、もっと積めと?
あっはい、がんばります……。
悪い方の宝くじにでも当たったとでも考えればいいのか、果たして。
今までの事を考えると、人為的な要因が絡んでないかを考えてしまう。
何度も手紙を送り続けているのが良くないのだろうか。
それとも何かまずい事でも話しただろうか。
ここでは推定無罪の原則は適用されない可能性が高い。
冤罪の可能性があっても、容疑者に浮上した段階で処分されうる。
僕の話ではないがそれが疑われることが起きた人は知っている。
以前、当たりを送ると景品が手に入る彼女のグッズが売られたとき、その人は幸運にも複数口当たりを手にしたのだという。
期待値的には、恐らく日本人の平均月収くらいの額を積まないとその結果は得られない。
でもその当たりを全て送ったら、その人だけが希望の賞を落とされた。
何らかの不正を疑われたのではなかろうかと。
同じ轍を踏むのは避けたいので、こういった例を見かけたら後から確認する。
SNS上で後から捕捉できたのは当選者の半分強。
確かに、この人以外に希望が通らなかった人は見つからなかった。
今回の件も”偶然”と言われたらそれまでだけど。
僕はもう彼らに対する信用度がゼロ。
かといって、客観性を担保できる追跡可能性を確保しろなんて、ハードルが高いだろう。
でも透明性が欲しい。
法律さんには本当に頑張って欲しいのだが。
それ以前に、そういう不満を訴える人はまず居ない。
わざわざこんなことを情報収集している人は多数派ではなかろうから、疑問自体抱かないことも多いだろう。
それ以上に、深く推していればいるほど、余計な事を言って「じゃあもうイベントしません」とか「出禁」とか言われるのを最も恐れるようになる。
全員がそうではないのかもしれないが。
推しは替えがきかない。
だから、せいぜいSNSや掲示板で不平不満が流れてくるくらいだ。
不健全な関係と言えば実際そうなのだろう。
誰でも大好きなら、そんな不安も少ないのかもしれないが。
至極羨ましい。
僕にはそんな風に複数を推せるほどの甲斐性がない。
自分の手で抱えられる分だけ。
どちらにせよ、今となっては彼女以外に目を向けることはもう無いのだが。
このままでは、彼女に対する気持ちが天に召されてしまう。
もうこうなったら現地推しでも何でもいいや。
ほんの少しでも残滓があれば。
そんな気持ちで会場の最寄り駅に降り立っていた。
意趣返しのつもりが無かったかと言えば否定はできない。
正直怒っていたのは確かだ。
駅に降り立ち、お土産屋の前で流れゆく人をぼーっと眺めていた。
そろそろイベントが終わったころ。
立っていても通りがかる保証などない。
この場所なら動線に入る可能性があるかも、くらいだ。
いったい自分は何をしているのだろうか。
やっぱり嫌がられるのでは。
気持ち悪いと冷静に諫める声がぶり返してきた。
こんなことして意味があるのだろうか。
でももしかしたら。
そんな風にぐるぐると考えていた時だった。
ふと、遠目に駅に入ってくる人が見えた。
その一点が輝いているように見えたのだ。
彼女だった。
続いてスタッフらしき人が3人。
古に語られるお姫様とその付き人のように、数歩後ろを歩いている。
そこだけが別の世界のように浮世離れしていた。
流石彼女はべっぴんさんである。
これだけの雑踏の中なのに一瞬で分かるくらいなのだから。
そんなことを思っていたら彼女がこちらを見た。
慌てて顔を逸らした。
そのまま、僕の居る方に向きを変えて、まっすぐこちらに近づいてくる。
え、嘘でしょ。
すぐ後ろにスタッフ居るよ?!
逸らした視界の端に映る彼女は、真っ直ぐにこっちを見ていた。
目を見開いて、いつかの時のようにガン見してきていた。
まるで吸い寄せられているかのよう。
直ぐ近くまで来た彼女の顔は、今まで見たことないくらいニマニマとした笑みを浮かべていた。
余りにもかわいすぎる。
三途の川中から奇跡の復活を遂げたはずの語彙さんがまた集中治療室に緊急搬送されていく。
そして、手が届くくらいの距離まで近づいてきた彼女は、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎて行った。
まぁ、そりゃそうだよね。
でもあの顔を見られたなら十分かな。
そう思って、嬉しさ半分虚しさ半分、そそくさとその場を離れた。
それが多分、最大のミスだった。
帰る前に名残り惜しさか、さっき居た場所を振り返って見て、目を疑った。
彼女が居た。
さっき僕が居たお土産屋に戻ってきていた。
スタッフの姿はない。
想定外の状況に頭が混乱していた。
いまからでも行くべきなのでは。
でも、スタッフは本当に居ないのか?
のこのこ出て行ったところでお縄になったりしないだろうか。
これで今後のイベントから締め出されたら、終わりだ。
なんて話しかけよう。
今まではファンのような言葉しか彼女には伝えてこなかった。
もし、今までのことを全部話したときに、本当の僕を知って嫌いになったりしないだろうか。
どうやったら彼女が喜んでくれるか、考えていなかった。
いますぐ行けと言う声と、行ったら終わりだという声が交互に聴こえてくる。
それは数十秒だったのか、それとも数分だったか、彼女はレジを過ぎて行ってしまった。
最後までスタッフは現れなかった。
だというのに僕は動けなかった。
ただただ謝り続ける声が頭の中を木霊する。
僕がこれほどの大馬鹿者だったとは流石の僕も予見していなかったよ。
SNSに、お土産の写真が載っていた。
「なんで居なかったの」と怒られているような気がした。
訳もなく叫びだしそうな衝動に囚われる日々が、始まった。
覚悟を決めた。
こんな失敗を繰り返していたら、何年たっても終わりは来ない。
彼女があれほど喜ぶ顔をするなら、会いに行くべきであると考えることにする。
やるときは徹底的に。
迷っても絶対に手を止めない。
役に立たなかったブレーキなんて壊れてしまえ。
どんな手を使ってでも彼女に会いに行くと決めた。
いやもしかしたら、決めすぎてしまったのかもしれない。
やりすぎて怒られることは昔からよくあった。
オンオフが上手くいかない。
集中し過ぎて視野が狭くなってしまう。
でもそれくらいのリスクは甘受しなければ彼女にはたどり着けない。
本当は慎重さも残さなければならない。
だがこう見えて、僕はかもしれない運転が得意なのだ。
車は出てこないかもしれないことに賭けるぜ。
彼女に会いに行くつもりであるなら、急ぐ必要がある。
これ以上僕の気持ちが壊れてしまったら、彼女に会わせる顔が無くなってしまう。
そうなるよりは、やり過ぎて彼女に嫌われてしまった方がまだましだと思える。
全てのイベント終わりに待ってみることにした。
すぐに分かったことは、前回彼女が現れたのがどれほど奇跡的だったのかという事だ。
貴重なビギナーズラックを消費してしまっていた。
そもそも動線の予測自体が難しい。
複数の動線が考えられることも多いし、その場合は運任せ。
実際、7割程度は待っていても誰も何も1bitたりとも現れない。
前回彼女が通り過ぎた場所も、何度待っても彼女が再び現れることは無かった。
いつまで居ればいいのかも分からない。
かといって集中を切らすわけにもいかない。
帰りのタイムリミットぎりぎりまで待つと、それだけで体力がごっそり削られてしまう。
ご飯を食べる時間もない。
残りの3割にしたって、車が通り過ぎるのが見られる程度だ。
彼女の姿はまず見えない。
いっそ車を追いかけられるかも検討するが、乗っているかも分からない段階では追いかけても仕方がない。
そもそも、そんな都合よく追いかけられない。
仮に追いかけるとしてもそれが出来そうなタイミングは一瞬。
すぐ手元に車が要るが、待っているときは傍にあると邪魔なのだ。
東京には置く場所がない。
人海戦術が使えるならともかく、単独では限界があった。
結局、もっといい情報が得られないかを待つことになる。
あまりにも徒労だ。
イベントで多少回復したとしても、エネルギー収支は赤字。
こんなことを彼女が望んでいる訳ではないのかもしれないが。
ただ、蜘蛛の糸だろうが何だろうが掴めないか、それだけを考えていた。
何もなかったことになってしまうということに対する恐怖だけが僕の手を動かしている。
あまりに体力を食うので、疲れの取れない夜行バスはほぼ卒業。
今の行動が合理的とは思えない。
でも、ずっと暗闇の中に居たのに、微かでも希望を幻視してしまったら、もうそれしか目に入らない。
道で佇んでいると、意外と人が話しかけてくる。
年齢、性別、陰陽ともばらばらだ。
陰陽で分けんな。
でも傾向としては、女性の場合は一言二言話して、こちらが上の空なのを察するとすっと居なくなる。
一方、男の場合はあの手この手で連絡先交換しようとしてくる人が多かった。
中でも、初手「LI○E交換しませんか」と聞いてきた中年男性には流石に驚いた。
レベルが高すぎる。
そもそも男の連絡先なんて聞いて何するんだ。
粽にでもするのか。
美味しく食べられてしまう。
それを言うなら簀巻きな。
キャー怖い。
本当の化け物は僕の方なんだよなぁ。
そうしているうちに、彼女がレーベルを変えるというニュースが飛び込んでくる。
僕は純粋に彼女に祝福できる気持ちを、既に持てていなかった。
もしかしたらスタッフが変わればこんな状況が変わるかもしれないという微かな期待と、次に話せる機会が遠のくこと危惧が、空を曇らせていた。
イベントで待つのは全く捗らない。
こんなことするより、東京都市圏を丸ごと探す方が早いのではないか。
そんなプランが過ぎった。
荒唐無稽ではあるが、このまま電池が切れるのを待っているよりは良い考えに思えてくる。
思い立ったが百年目。
運の尽きである。
終わってんじゃねえか。
早速その日から行動を開始する。
ウェブの海に住まい、ネットの隅から隅まで情報を探し始める。
どうせならウェブよりも宇宙望遠鏡で星の海でも眺めている方がいいのだが。
徒労に終わるかもしれない。
とは言え他にやる事もないのだ。
道の中で佇んでいるよりはずっとましだった。
三ヶ月が過ぎた。
理論上は彼女に届く方法を見つけつつあった。
ただし、月に探せるのはほんの数km2。
東京と言う砂漠は想像以上に広い。
誰だ日本最大の平野に都市を作ろうなんて考えたのは。
残念ながら必然でしかない。
このままでは100年かけても終わらないだろう。
しかも、あくまで机上の話。
間違っていた時も気付くのは何十年と先だ。
寿命が尽きる前に探せるだろうか。
そのころには儂もおじいちゃんじゃ。
まぁ、今際の際にたどり着くというシチュエーションも一種のロマンはあるのだがね。
ロマンだけだ。
望んでその結末に辿り着く人など居ない。
効率化を進める必要がある。
可能性の高い所から重点的に調べる。
そのために条件を絞り込み、手順も簡略化する。
何か手掛かりになりそうなものが見つかれば、現地に向かって実地で検証する。
必要な資料や機材があれば次々に購入していく。
ようし、ついでに最新GPUや有機ELディスプレイも買うぞ。
最早調査とは関係ねえ。
うおお、コマンドラインシェルの黒が滅茶苦茶締まっている。
黒背景に踊る文字たちがこんなにも美しいものだったとは……!
今までこんなに出費が増えたことは無かった。
遠征やグッズ費用よりも遥かにお金が飛んでいく。
とはいえ必要経費を絞って失敗しては元も子もない。
財布のひもは千切ってしまった。
この際本職の人にも相談を掛けてみる。
どうせ門前払いだろうと思って今まで保留にしていたのだが。
今までの事を洗いざらい話してみたら、思っていたのとだいぶ違う言葉が返ってきた。
「まるで探偵みたいですね」
「情熱的ですね」
え、あれ、そういう反応なんだ。
というかそんなワクワクしている目で見ないでくれ。
もうちょっとワークワークしている事務的な目線が欲しい。
僕はこれを良い手とは思ってないのだから。
セールストークってやつかなぁ?
相談員は親身で、少し過激派だった。
まぁ、依頼を掛けてみても結果は出なかったわけだが。
それでも、味方など居ないと思っていた僕を延命するのには、それなりに役立った。
彼女を探し始めてから一年ほど経ったころ、レーベル移籍後初の新曲が発表された。
彼女の近くに行ける機会がようやく回ってくる。
今回のリリースイベントでは、感染症対策で話すことはできないが、紙に書いたメッセージを伝えられる。
レーベルが変わったことによりルールが変わり、当選回数の制限も緩和されるようだ。
当てれば複数回会いに行ける。
話せないのは正直辛いが、それでも言葉が伝えられる機会だ。
その機会を無駄にしないように、メッセージを書いていく。
この時の僕は、どこか、パンデミック以前の様に話しかけてくれることを期待していたのだ。
顔がよく見えてないからオンラインだと話し方が違っている。
それだけではないのかと。
「ありがとうございます」
彼女の前に出てメッセージを見せた時の彼女の反応は、電話で話した時と同じ。
そうか、通話だったからじゃなくて、彼女の心持ちが変わったのか。
勝手に期待して勝手に落ち込んで、何をやっているんだろう。
人の気持ちは変えられないし、変わるのを止めることもできない。
自分自身ですら簡単には制御できないと分かっているはずなのに。
どんな顔をすればいいのか分からない。
お礼を言ってくれたのだから、笑わなきゃいけないのに。
笑い方を思い出せない。
これは駄目かもわからんね。
でも今回のリリイベは2回分当選している。
すぐに次がやってくる。
でも、次何を書けばいいのか分からない。
彼女への文章を書く機会が少なかったせいだろうか。
それとも。
せめて僕の気持ちはまだ向いているって、なるべく伝えてみよう。
その「好きです」という気持ちを書いて次の回に臨んだ。
曲の感想とか書いてないけど大丈夫かな。
彼女の前に行く前のメッセージチェックで、スタッフが「えっ」と戸惑った顔をした。
あぁ、やっぱりライン超えなんだなこれ。
でも数秒迷った上で通してくれた。
優しい人で助かった。
僕がまさしく彼らが懸念しているような人物であるということは申し訳ないが。
彼女はこちらの反応を伺うように、言葉を返してきた。
「ありがとね」
前回とは少し口調が違っていた。
なんだか気を遣わせてしまったかもしれない。
彼女の表情もこちらを探るようで、心なしかぎこちない。
また以前みたいな笑顔を見るためにはどうすればいいのか、そればかり考えてしまう自分が居る。
どうしても、目の前の壁が過去最大に分厚くなっていくような感覚が抜けない。
そうしてまた今日もイベントが終わる。
いつもの様に終わったイベント会場を眺めていたとき、会場から出てくる人影が見えた。
暗くて良く見えないが、彼女とスタッフではなかろうか。
だとすれば1年振りだ。
また彼女に見つけてもらえれば、もうこんなことを終わりにできる。
そう思ってふらふらと付いていく。
なんだか見られているような気がする。
暗くてはっきりとは見えない。
でもこれを逃したらまた年単位で機会がないかもしれない。
迷いながらも付いていく。
そうして近づいた先に待っていたのは、スタッフだった。
親の仇でも見るかのような目をしてこちらの方を睨んでいた。
やってしまった。
でも、いつかこんな日が来ると思っていた。
自分も似たような目で彼らを見ていたのだ。
今まで、仕方ない、仕方ない、彼らも仕事を忠実にこなしているだけなのだと、そう言い聞かせながら。
心の奥底で憎悪と嫉妬の醜い感情を集中砲火していた。
人を呪わば穴二つ。
こんなことまで頭が回らないほどになっていたらしい。
これで出禁になったらいよいよ終わりだな。
ついに導火線に火が付いてしまった。
この線が繋がっている先はまだ見えないが、恐らくは全ての終わりだろう。
鏡に映る自分という醜悪な生き物を眺めながら、接触する前に、逃げるように帰った。
そんなことをしていたせいだろうか。
猫を病院に連れて行くのが遅れたのは。
すっかりご飯を食べなくなっていた。
最近、猫用の暖房の調子が悪いのだ。
体調を崩してしまったのかもしれない。
見た目はそう見えないが高齢猫。
早く病院に連れて行かなければ。
病院でもすぐには原因が分からない。
人と違って症状を教えてくれたりはしない。
症状からしらみつぶしに調べるしかない。
高齢猫だと真っ先に腎臓病を疑うところだが、そちらの数値は良好らしい。
一体どこが悪いのだろうか。
キャリアケースに入れて待っていると、お得意のスキルを活かして「ここから出せ」と鳴きまくる。
相変わらず堪えがたい鳴き声だ。
ご飯は食べないのに鳴き声はまだ元気だった。
大人しくしているなら膝の上でも良いと言っていただいたので、蓋を少し開ける。
液体がにゅるんとすり抜けてくる。
実は液体金属製のアンドロイドと言われても納得できそうだ。
いつか人類は猫に支配されるであろう。
膝の上なら落ち着いている。
さっきまで胡乱な目で見てきた隣の人も、この子が出てきた瞬間目の色が変わっていた。
どうです、うちの子はかわいいでしょう。
そしてどうも怪しい人です、すみません。
よほど深刻な顔をしていたのか、「20歳までは生きてもらわなきゃ」と励まされてしまった。
この子ともいつも話しているようで、僕は何にも知らないのだ。
ちゃんと知ろうとしないからこんな事になってしまった。
医者も数値とこの子の様子を交互に見ながら頭を捻って考えている。
そうしているうちに、呼吸音がおかしいことに気付いたようだった。
肺炎になっていた。
通常は黒く写る肺のレントゲンは、死に装束の様に真っ白だ。
ほとんど機能していない。
何かといつも不満を訴えて表情豊かなように錯覚するが、それはご飯と遊びのことだけ。
自分の体調は全然顔に出さないのだな。
「今日から毎日通ってください」
そう言われた。
本当は入院したほうがいいくらいの症状に思えたが、この子のストレスを考えると難しいのだろうと納得することにした。
やはりもっと早くに連れてこなければならなかった。
帰り道。
鳴けば出してもらえると覚えると、キャリアケースには入らなくなる。
運転中だろうがずっと膝の上だ。
どうせ猫用の安全装置はないから、どこに居てもいいけどさ。
少しでもストレスを与えないに越したことは無い。
それから数日経ったある日の晩のことは妙によく覚えている。
これまでにも増して僕から離れようとしなかった。
彼女のバレンタインデー生配信の前日だったっけ。
何時間も膝の上でなでていても、やめようとすると、「もう終わり?」というような顔をして見てくるのだ。
なんだか眠るのが怖かった。
翌朝、朝起きて真っ先に確認したが、ちゃんと息をしていた。
杞憂だった。
落ち着きを取り戻し、仕事を始めた。
仕事を終えて、もう一度様子を見に行った時、猫部屋の暖房が止まっていることに気付いた。
血の気が引く音が聞こえた。
いつもの定位置に居ない。
どこかに震えて隠れていたりしないのか。
油が切れた機械の様に周りを見回した僕の目に、こてんと横たわる姿が映った。
もう硬くなっていた。
こんなになってもまだ全然可愛いまま、まだ動くんじゃないかってそんな風に見えた。
前から暖房の調子が悪いのは分かっていたのだ。
配線が接触不良になっているだけなのは軽く調べて分かっていた。
すぐに根本的に直さなかったからこんなことになった。
少なくともあと何日かは生きられた。
奇跡的に治ってまた元気な姿を見られるかもしれなかった。
自分の瑕疵で潰してしまった。
会えなくなってからでは遅いのだ。
もう謝ることもできない。
この子を犠牲にしてしまったのに、探すことすら失敗するなんていうのは最早許されない。
ここ何年も、恐怖ばかりが重くなっていく。
嫌な事がある度に、彼女に会えなくなる恐怖が増していく。
いつ会えなくなるか分からないのだ。
いつか忘れられてしまうのが怖い。
常に睡眠時間を削って調べているようになったから、とうとう彼女の作品をチェックする時間すらほとんど無くなった。
自分の心境とは関係なく、イベントはやってくる。
彼女の新作フォトブックの発売が次月に迫っていた。
何事か起きることは無く、発売日を迎える。
もしかしたらもう当たらないかとも思ったが、サイン会にも当選していた。
本当なら、もはや完全にイベントに来る資格がないだろう僕は、どうしてここに居るのだろうか。
こんなに後ろ向きな気分で応募したことがあっただろうか。
終わりが近づいてくる焦燥を忘れることができない。
まだ会話も解禁されない。
「楽しんでくれましたか」
目の前に立った時、彼女はそう言った。
彼女は身振りだけで返せる言葉を選んでくれているようだ。
でも、ずっと避けてきた話題が出てしまった。
写真は、見るのが辛くなっていた。
その症状は、月日が経てば経つほど悪化していた。
高く積まれた本は、とうとう一度も開くことなく、今日まで仕舞ったままだ。
でもNoだなんて返したくない。
悲しませたくない。
せっかく彼女が頑張って作り上げた本に対して、読む前から否定するようなことを言いたくない。
山ほど隠している事がある癖に、決定的な嘘をついてしまうのは嫌だった。
本当に、なんでここに居るんだろう。
時間はほんの10秒ほどしかない。
いっそ言葉で返してしまおうかとも思ったが、言葉を探す時間もない。
曖昧に視線を泳がせているだけで時間切れ。
終わってしまった。
最近はすれ違ってばかりだ。
まだぎりぎり、挽回が間に合うかもしれない。
まだこのときはそう思っていた。
でもこのイベントを最後に、全ての応募が外れるようになった。
何枚積もうとも、明らかに全当らしき場合であっても。
なんらかの手段で僕の事を特定したのかと思ったのだが、どうやら他にも同じ状態の人が同時発生しているらしい。
ただの偶然なのか。
まさか疑わしいと思われる全員を出禁にしたのか。
もしそうだとしたら、魔女狩りと変わらない。
彼らには確証を得るすべがないから泣き寝入り確定だ。
以前、彼女のリリイベからサイレント出禁を食らった人のブログに遭遇した時は、絶対何かやっただろうと思ったものだが。
案外、無差別虐殺の被害者だったのかもしれないな。
さようなら、平時法。
ハロー、戦時法。
顕現するは青き六芒星の国もかくやの大量報復戦略。
一方の僕は、文民の中に紛れるゲリラ哉。
…どう考えても血を血で洗う結末にしかなりえない。
まぁ、状況証拠ばかりで決定的なモノがないのだ。
この推測が正しいとは限らないし、すべては闇の中。
無実なんじゃないかと僕が思っている人達には心の中で謝る事しか出来ない。
かなり積んだだろうに、当たることのない状態にさせて申し訳ない。
諸悪の根源のくせに、どの口が言っているんだか。
謝ったところで赦されるわけがない。
お前が言うなという奴だな。
一般販売が存在するイベントなら行けないこともないのだが、今後イベントで彼女と話す機会が来ることは無いだろう。
彼女が全ての経緯を知った時、彼女はどちらの味方をするだろうか。
多分、幻滅されて終わりだろうな。
これまで危ういバランスを保っていた天秤が、ゆっくりと傾き始めた。
---
最初は100年以上掛かると思われた特定作業も、1年以内に丸ごと探せるくらいに効率化が進んでいる。
僅かでも前提条件を間違えていたらやり直しだが。
実際に作業中に誤りに気付いて、何度かゼロからやり直している。
他に誤りがなければ、見つかるまであと少しのはずだ。
数か月後、とうとう痕跡が出てくる。
探していた情報と一致する。
あぁ、見つかってしまった。
そんな馬鹿な、実在していたのか。
細かい住所まではまだ分からない。
でも、大まかな住所が合っていれば郵便が届く可能性はあるらしい。
急がなければと、手紙を書こうとした。
あれ、言葉が出てこない。
何を書けばいいんだろう。
あんなに沢山伝えたいことがあったのに。
伝えるべき時期を逸した話、旬を過ぎた話題。
頭が錆びついて、壊れたロボットのように腕が空を彷徨う。
何を書こうとしても文が途切れてしまう。
今までの経緯を何と説明すればいいのだろう。
それを知った時、彼女は多かれ少なかれ悲しむだろう。
あまりに時間が経ちすぎ、重い話になり過ぎた。
そんな文章を一方的に投げつけていいのか。
文章だと細かいニュアンスが伝わらない。
直接話せるのであれば、反応を見ながら軌道修正できるかもしれないが。
そもそも、彼女は自分の文章なんて今も望んでいるんだろうか。
こんな化け物に成り果てた者の文章だ。
既にスタッフから僕の事について説明を受けているなら、もう忘れたいと思っているんじゃないだろうか。
書けないなら書けないなりの文章で臨むしかない。
どうせ時間は残ってないのだ。
遅くなればなるほど失敗の確率は上がっていく。
最低限必要な事だけを書いて、もし彼女が味方をしてくれたら、直接すべてを話そう。
そうしてポストに投函した。
数日後、追跡ステータスはお届け済みになっていた。
届きはしたが、何も起きなかった。
しまった。
これでは届け先が合っているかすら区別がつかない。
仮に合っていても既に引っ越し済みというパターンだってありうるのだ。
そもそも、後で話せばいいなんて誤りだった。
僕は「これまでの経緯を全て知った上で、彼女が取る選択肢を知りたい」と思っていた。
そう思っていたことに今頃気付いた。
気付くのが遅すぎた。
こうなる可能性が見えていたならば、全部書ききらずに送るなんて選択肢は即却下しなければならなかった。
どうしよう。
手紙には「待ってる」と書いてしまった。
である以上、追加で何か送るのは流石にナンセンスなように思う。
何かわかるまではこのままで待つしかない。
迷っているうちに次のイベントがやってくる。
会場に登壇した彼女は、入ってくるなり何度か悲しげな目線を向けてきた。
多分、手紙が原因だ。
嫌だったのだろうか。
それとも手紙に確証が持てないのか。
スタッフに止められているのか。
それとも他に理由があるのか。
流石に目線だけでは分からない。
一言でいい。
彼女が考えていることが知りたい。
でも実際のところ、その目を見た時に直感はあったのだ。
恐らくもう希望は残っていない。
賭けに負けたのだと。
既に心が終わりに備え始めていた。
彼女がどんな結末を望んでいるのか、せめてそれだけでも知って、区切りを付けたい。
コンコルド効果が、超音速で身を蝕むのを感じる。
このままでは埒が明かない。
もう返事が無くても良いよう、全てを書ききった手紙を1通出そう。
宛先不明で返ってきた。
あくまで届けてくれるのは善意だというのを忘れていた。
一度ならうっかりミスかも知れないが、二度連続ならわざとか知らない奴だ。
届けてはくれない。
可能性が高そうな住所に一か八か送ってみるか?
再び宛先不明で返ってきた。
なんだったら最初に届いたはずの手紙も一緒に宛先不明で返ってきた。
焦っていた。
負け犬根性が侵食してくるにつれ、やる事が雑になってきている。
最初に送ったのも戻ってきたってことは誤配達したってことか?
であれば、そもそも間違った住所に送ったのだろうか。
でも最初のは開封した跡がある。
誰かが読んだのだろうか。
間違っていたのだとしたら前回の彼女はどうしてあんな顔をしたのか。
勘違いだったのだろうか。
考えることが多すぎる。
一旦最初から見直そう…。
そもそも見つけた場所が誤りならば、やり直しだ。
でも、何が間違っているか分からない。
その状態で今から全てやり直せるほどの気力も時間も残っていない。
他に何か見つけられるようなものはないだろうか。
彼女の実家なら見つかるだろうか。
東京全域よりは狭いし、この一年で身につけた知識があれば、案外できるかもしれない。
見つけたところで何をするんだとは思うが…。
勝算はないが、糸口くらいは見つかるかもしれない。
やってみよう。
あっという間に見つかった。
あ、これはヤバい。
無駄に腕を磨き過ぎた。
こんな気軽に見つかってしまうのは危険すぎる。
というか身に着けとうなかったわこんな技。
必要だと思ったからとはいえ…。
ドン引きだ。
とは言え、貴重な糸口だ。
直接、話しに行ってみようか。
そんなことをふと思った。
より有効な手もない。
そう思った週末。
電車とレンタカーを乗り継ぐこと半日。
小雨の降る中、勢いで彼女の実家にやってきていた。
インターホンを押すと、ニコッと笑顔をした男性が現れる。
その笑い方が、彼女に似ている。
多分、彼女の父だろう。
彼女の数年前のライブTシャツを着ていた。
新品の様に綺麗な状態だ。
僕のは既に、色落ちが目立っている。
どんな風に洗濯したらその状態を維持できるのだろう。
っと、それを話に来たわけではないのだ。
「ご家族の方でしょうか」
単刀直入に聞いた。
雨を吹き飛ばしていた顔が、一気に翳った。
あぁ、また人を困らせてしまった。
彼女と似た雰囲気があるからなおさらダメージが来る。
彼女に言伝してくれないかと言ってはみたものの、頷いてはくれない。
当然だよなという思いもある。
今日は、説得できないことを確認しに来ていたのだ。
心が最初から負けていた。
僕は話術の類はからっきしなので、これ以上は出来る見込みがない。
「彼女に何か言われたんですか」
僕は既に諦めかけていたが、彼はもう一言だけ踏み込んできてくれていた。
何か事情があるのかもしれないと、そう思ってくれたのかもしれない。
彼女の関係者から受けた言葉の中では、今までで一番優しい言葉かもしれない。
これがスタッフだったら、彼女に近づこうとしていると認識した瞬間に対話モードが停止してしまうから、速やかに退散するほかなくなる。
でも、彼女には直接的に何か言われたわけではないのだ。
好きだと言われたわけでもない。
探して欲しいと言われたわけでもない。
こうすべきだと思ったから来ただけなのだ。
「僕が勝手にそう思っているだけです」
そう答えるほかなかった。
そこで初めて、今までの経緯を説明することすら出来ていなかったことに思い至った。
でももう、遅い。
既に気力を使い果たしていた。
「名前を教えて欲しい。せめて名前くらいは憶えておきます」
帰る直前にそう言われた。
それに意味があるのか、僕にはもう考える力がなかったけど。
それでも彼なりの誠実さが表れているのだと、そう目が語っているように見えた。
次のライブは、端の方で観ていた。
彼女のライブはやはり輝いている。
でも、なんだか何百億光年も遥か彼方の世界を眺めているような、そんな気分だ。
ここにきて、久しぶりにプレゼントBOXが復活していた。
復活することが分かっていたら、言葉を伝えることを諦めてなかったかもしれない。
今となってはただのぼやきだ。
念のため出してはみたが、もう届くとは思えない。
周りにいる人は自分が来ることを望んでないのだ。
楽しむこと自体許されない。
僕は、どうすればいいのだろう。
会場に来てもそれは分からなかったが、消えたと思っていた燃えカスが、少しだけ熱を取り戻してしまっていた。
もう一度、探してみようという気になる。
このままの状態を維持しても碌な結果にはならない。
残る手がかりは、最初に見つけた場所だけだ。
もう合っている可能性は低い上に、間違っていた時の金銭的ダメージが大きいので保留にしていたが、候補となる範囲の全ての家の情報を調べよう。
本当にあの場所が間違っていたのか確認しよう。
空振りの可能性は高いが、他の方法よりはまだ確率が高い。
幸か不幸か、資金余力だけはあった。
調べてみたら、可能性は低いだろうとの予想は外れ、あっさりと見つかる。
当初の想定とは少し違う場所ではあったが。
恐らく、最初の手紙は届いていた。
つまり。
今度は、少なくとも彼女には届くだろう。
内容も決まっている。
もう不要なら無視するように、不安なら通報するようにと書き加えていく。
ただ、彼女の目に届きさえすれば。
そう思って手紙を出した。
当然ながら、今度も返事はない。
もし彼女が手紙を読んでいれば、この結果を選択したのだ。
これで終わりだろう。
最後に配達状況を確認してみる。
受け取り拒否になっていた。
でも自分の元には届いてない。
誰か何かしたのか、それともただのミスか。
何でこんなタイミングで。
結果が不明確になってしまった。
それ以前に。
読まれない可能性が頭から抜けていた。
前回は開けてくれただろうからと、何も考えず同じことをしていた。
まるで実験のパラメータを少しずらして再試行するように行動していた。
相手は普通の女の子なのに。
機械でも同じことをして同じ結果が返ってくるとは限らないのに、何をしているのか。
人の気持ちを何も考えられていない。
どうすれば想像できるのかもう分からない。
何もかも行動が一手遅い。
もういいや。
直接聞きに行こう。
最悪でも僕が身を以って贖うことになるだけだろう。
失って困るものが他にない。
こんな状況を続けるよりははっきりと決着をつけた方が彼女にとっても後腐れがないだろうと、理論武装していく。
もし、彼女が「帰って」と言ってきたら、それ以上の言葉を投げてきたら、僕は対応できるだろうか。
彼女が何を望んでいたとしても、せめてそれは叶えなければならない。
考慮したのは一瞬、問題はなさそうだった。
彼女の望まないことをしている可能性が高いのだ。
自分の身命程度で供託金が足りるかの方が不安だった。
正しい事なのか分からない。
僕は肝心な時に空気が読めないから。
でも、確認するまで、僕の手は止まらない。
心臓がただただ悲鳴を上げている。
できるだけ彼女の仕事がなさそうな日の朝に行くことにした。
夜行バスを降り、身支度を整え、彼女の家に着く。
正直、十中八九「帰って」と言われて終わりだろう。
意を決してインターホンを押すと、「はーい」と言う声と共にエントランスの扉が開いた。
彼女の声だ。
扉が開いた。
この時点で今日のプランは崩壊した。
間抜けにもなんでと問い返す僕の声は、恐怖と驚愕で完全に裏返っていた。
返事はない。
けど、手招きする警備員を視界の端にみて、吸い込まれるように敷地内へと入った。
入ってしまった。
部屋に着き、恐る恐るインターホンを押してみる。
反応はない。
一方の僕も虫の鳴くような声しか出てこない。
手の震えが止まらない。
仮に聴いていても聞こえやしないだろう。
居ない?
さっきのはなんだったんだ。
これからどうすればいいんだろう。
彼女の意志を知ることはできるのだろうか。
しばらくすると目の前の給湯器が稼働し始める。
ただ無視されているだけなのだろうか。
状況に理解が追いつかない。
恐らく二度目の機会はない。
次に何をすればいいんだ。
後から考えれば能天気にも、考え始めた。
気が付けば5時間近く玄関前に突っ立っていた。
いつまで経っても声が出せるようになる気配もない。
出待ちに慣れ過ぎて時間感覚がおかしくなっていたのかもしれない。
流石にもうあきらめよう。
一言、書置きだけ残そうとペンを執った。
この期に及んでまだ、「ネガティブな話題を書いたら嫌がられるかもしれない」なんて考えていた。
まさに悪いニュースを今日話そうとしていたはずなのに。
僕がここに居ること自体がまさに悪いニュースだろうに。
良い事探しをして、今日嬉しかったことを書き加えようとしていた。
何かあっただろうか。
敷地内に入れてもらえたことかな。
支離滅裂な文章が出来る。
そんな羅列しか出来なかった。
人語を解さない生き物がそこに居た。
でも、何も残さないよりはましだと、そう思う事にした。
置いて去ろうと歩き出した直後だった。
人の好さそうなおじさんが目の前に近づいてきた。
「ここで、何をしてるんですか」
警察官だった。
余りにもタイミングがぴったりで笑ってしまうかと思った。
誰かが通報したようだ。
彼女が通報したのなら良いのだけど、100%ではない。
他の人かも分からない。
ここまでやっておいて、彼女の意志を確かめることにすら失敗した。
手際よく手荷物を調べられていく。
旅行用品ばかり大量に出てくるので、旅慣れてますねという感想を頂いた。
それが終わってしばらくすると、続々と警官が集まってくる。
何かを調べている人、どこかと連絡を取っている人。
ぼんやりと眺めていると、背の高いお兄さんがどうやって入ってきたのか聞いてきた。
「彼女が入れてくれましたよ」
「嘘つけーっ!!!!」
怒ってしまった。
僕自身想定外だったからね、そう思うよね。
こんな時、口で上手く説明が出来ない。
相手が冷静になるのを待つ以外の方法を知らない。
待てば相手と自分の温度差が自然と均衡するのだ。
あまり温度差が大きいと突沸することもあるけど。
何度か同じ言葉を返すと、それ以上は返してこなかった。
宅配と間違えたとかそんなところだろうとも思うが、真相は彼女しか知りえない。
現地での調査が終わると署に行くことになる。
とりあえず、これまであったことをかいつまんで話してみたが、「で、それで?」とか「何言ってんだこいつ」という感じの反応だ。
まぁ、気持ちは分かる。
僕が何も知らない第三者で、同じように言われたところで、納得することは難しいだろう。
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特にある女性の警官は怒髪天を衝くかの如く怒っていた。
「自分だけは特別だとでも思っているの」
「まだファンで居られるとでも思っているの」
「彼女のような人があなたの事をどうこう思う訳がないでしょ」
周りから見たらそんな風に見えるのだろうか。
僕は多分もう壊れているだろうからよく分からないが、それが正しいのかもしれない。
彼女の気持ちに寄り添う優しい人だ。
でも正直、自分自身の感覚とは噛み合っていなかった。
自分が特別だなんて思っているなら、何年も待ったりしない。
こんな泥臭い方法も取ってない。
足りない頭で考えて、例え非難されても、これが一番ましだと思う方法を採ろうとしたはずだった。
頭が悪すぎて結局最悪の結果になった訳だが。
僕に魅力が無いなんてことは自分自身が一番分かっているのだ。
釣り合うとは最初から思っていない。
それは別にいい。
でも、特別だから人を特別な人しか好きにならないというような風に言うのは、価値観が相容れない。
僕の事を置いておいたとしても。
“特別だから”好きにならないのか?
そんなわけがない。
彼女は人一倍頑張り屋の、普通の女の子だ。
特別という分かりやすい言葉の枠に填め込んで、彼女の気持ちを量ろうとしないで欲しかった。
まぁ、無理に開けようとしてしまった僕が言うのは説得力がないどころか顰蹙しか買わないだろう。
やっぱり反論を返す資格はないな。
考えは浮かんでも、感情がまるでついてこない。
神経に無効電力しか流れていない。
こんな重箱の隅をつついても、その後の処理には関係がない。
”知人でない人間が会いに来た”という事実さえ合っていればあとは勝手に処理が進む。
そこは事実通りで反論の余地はない。
それ以外の枝葉を直したところで自己満足でしかない。
ここは必要な事実を明らかにする場であるべきだ。
感情を燃やそうとしても仕方ない。
最初に話しかけてきたおじさんだけは妙に同情的で、時々フォローしようとしてくれていたのが、僕にとっては救いだったかもしれない。
もろもろの処理が終わると、夜中には家に帰れた。
朝から何も食べてないはずだが食欲もない。
何もする気が起きない。
物語で例えるならこんなところだろうか。
過ぎた力に手を出したら力に呑まれ、気が付いた時には守りたかったものも全て破壊しつくしていたのだった。
現実世界は意外とダークファンタジーに近いのかもしれない。
果たして僕が正気であるのかは定かではない。
彼女が、あまり落ち込んでなければいいのだけれど。
そんなわけがないだろう。
気が狂っている。
一週間後、もう見ない方がいいとは思いつつ、生放送を映してみた。
放送中だと言うのに、彼女は茫然とした表情を浮かべていた。
すぐに観るのが耐えられなくなった。
何もする気が起きない。
ただひたすら胸が痛い。
ネットもほとんど見なくなった。
でも、何も変わっていない。
ファンクラブすら退会にならない。
現実感が無いので試しにチケットを買ってみたら、ちゃんと警察から電話が来た。
「絶対に来ないでください」
「チケット代金は諦めてください」
警察の方には手間を掛けさせてしまった。
元々捨て金だからお金は気にしてないのだけど。
どうやらスタッフは仕事しているらしい。
気がつけば、半年近く経っていた。
頭を常に曲が流れている。
彼女の音楽が消えない。
もう止めたいのに止まらない。
最低限の外出すら体を引き摺るような感覚が纏わりついてくる。
でも、多少は体が動かせそうになってきた。
最後に放送で見た顔が忘れられない。
結局、彼女の意志を確かめられなかった。
最後に彼女の今の意志だけは確認したい。
もう、何もするべきでないのは分かっているはずなのに。
スタッフへの信頼はとうの昔に失われている。
彼らが何とアナウンスしても僕の求める情報とはならない。
どうしてもスタッフを介さずに確かめる必要があった。
せめて、彼女にとって最小限の手間で済むものを。
それでも身勝手と言われれば釈明のしようがない。
一通、手紙を出す。
すぐに警察から連絡がきた。
彼女が通報したのだ。
今回はもう疑念の余地がある事柄はない。
彼女の行動を確かめることが出来た。
彼女の意志を確認できた。
最悪な方法ではあるけど、これで終わり。
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でも。
これまでのスタッフを見ていて、彼らこそが正しいだなんて、僕にはとてもじゃないが思えない。
そこは、分かり合えなかった。
「まだ納得できないなら、スタッフにアナウンスしてもらおうか?」
分かり合えなかったから、どうしても言葉がずれてしまう。
それじゃだめなのだ。
スタッフを信用していないから、アナウンスは効果がない。
「大変だったね」とみんなが思うだけで終わってしまう。
再発防止策にもなっていない。
信用していないからこそ今回のような事を起こしたのだ。
もし過去に遡って何度同じ経験をしても、彼女とスタッフの間に乖離があると思えば、毎回似たような結論に至る。
同じ状況になったら誰だって何かするだろ。
僕よりは上手くやるのかもしれないが。
少なくとも、何もしないなんて言う選択肢はあり得ない。
もちろん後からあの時こうすれば良かったと言うのは簡単だ。
電気を発明する前の人類に対して、今の人間が電気の使い方も知らないのかと嗤うのと同じこと。
そんな小手先ではなく、そもそもこんなことが起こりえない解が必要なのだ。
僕にはもうこれ以外に彼女の気持ちを確かめる方法が思いつかなかった。
生きるのが下手過ぎて僕には分からなかったよ。
どこにもっと正しいやり方があったんだよ。
教えてくれよ。
もしスタッフが今回の事を起きないようにしたいと言うなら、アナウンスだけではなくもっと根本から直さなければならない。
初めから信頼を失わないようにしなければ、それ以降にどんな対策を取っても効果など無くなる。
いつか誰かに同じような事が起きる。
仮にも誰かの代理を名乗ると言うのなら、僅かでも疑念の残るような要素があってはならない。
少なくとも周りに疑惑が露見するようなやり方をすべきではない。
それが出来ないなら、状況をこそこそとコントロールしようとするのは最初からやめるべきだ。
もし、自らが正しい振る舞いをしている主張するなら、最低限、誰から見ても公平なやり方をして、堂々と邪魔をしろ。
僕にはもう関係ない事なのかもしれないが。
まぁ、今回起きた事は、将来、誰かの参考くらいにはなるだろう。
僕がグッズを持っているだけでも、もう彼女は快く思わないはずだ。
ようやくファンクラブを退会する決心が付き、アカウントをアクセス不能にした。
大量にあったグッズ類も処分した。
体が動かない。
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