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2.二年前――太陽は月に出会う。

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 時は遡ること二年前――――

 ざわざわとした喧騒をバックミュージックに、ソルフィオーラはそっと外へと出る。
 喧騒の中に軽快な音楽が聞こえる。
 楽団が奏でる音楽なくして舞踏会はやれない、父は今回その役目を旅芸人の一座にお願いしたらしい。
 世界中を旅し各地で芸を披露しているという彼等の技術はなかなかのものだった。愉快気な演奏を背景に、どこからともなく白鳩が現れたり、破れたはずの紙幣が次の瞬間には元通りになっていたりと摩訶不思議な芸に客人達は皆夢中。
 だから主催した側の一員である自分がこっそり会場を抜け出しても誰も気付きはしない。

「流石に……冷えますわね……」

 空気の冷たさに身体がぶるりと震える。
 喧騒から逃れるように会場から庭へと出たソルフィオーラは白い息を吐き出す。

 フランベルグ家は商業で成り上がった貴族だ。商才に溢れた代々の当主たちが今を築き上げてくれたおかげで、パーティー会場用の離れを建てられるほど広大な敷地を得た。
 中庭には世界各地から集めた芸術品が飾られ、庭師達の懸命な手入れによって春には青々とした木々と色鮮やかな花が咲き誇り見事な眺めとなるのだが、残念ながら今は冬。それが見られるのはまだ先だ。

 王都では滅多に雪は降らないが、それでも真冬となればなかなかに冷え込む。上着くらい持って出れば良かったと思ったが、さっさと抜け出したかったのだから仕方ない。ソルフィオーラは寒い寒いと呟きつつ花壇の前に置かれたベンチに腰を下ろす。円形のそこは暖かくなれば小さな桃色の花を咲かせるブロッサムの木が中央に根を張っている。その周囲に丸く整えられたトピアリーがあり、地面は枯葉色となった芝生。冬になって一枚残らず枯れ落ちてしまった木の姿が少し寂しげだ。

 ソルフィオーラは座って早々ドレスの裾を捲り上げ、ベルトに挟んでおいたものを取り出す。ポケットサイズの本だった。支度の時にいつもエルにお願いしてこうして抜け出した時の暇つぶし用に仕込んでいる。
 エルが側にいてくれたらいいのだが、こういう催しが家で開かれる時、エルは警備の一人として駆り出されてしまう。他のメイド達と違い別枠で剣を学び日々ソルフィオーラの護衛として働くエルはそこらの男よりも強く父にも頼りにされているのだ。

 ソルフィオーラは取り出した本の表紙を愛おしそうに撫で、寒空の下それを開こうとする。
 その時、鼻がむずりと疼いて――――

「――っくしゅん!」

 くしゃみの音が静かな中庭に響いた。しかも……二人分。
 あれ? と思わず立ち上がりくるりと辺りを見回した所へ、ソルフィオーラの背後――花壇を挟んだ反対側のベンチに人がいることに気づいた。相手も同じように立ち上がりこちらを見ている。
 自分よりも頭一つ分背の高い男性だった。月が雲に隠れてしまっているのでよくは見えないが、ぼんやりと見えた姿から家族ではない事を察し招待客の一人だと知る。ソルフィオーラはぴっと背筋を伸ばし姿勢を正すと相手の方へ近づいた。

「お見苦しいところを失礼致しました。わたくし、ソルフィオーラ・フランベルグと申します。本日は父の招待を受けて下さり誠にありがとうございます」

 手には本を持ったまま、淑女の微笑みを浮かべドレスの裾をつまみお辞儀をする。
 そして顔を上げると、雲に覆い隠された月が少しづつ顔を出し始めたおかげで相手の姿がはっきりと見えるようになりかけていた。
 月明かりに照らされ、さらさらと男の青い髪が煌めく。美しき蒼銀の髪、それと同じ色の双眸が眼鏡越しにソルフィオーラを見つめている。眉間にきゅっと皺を寄せどこか冷ややかな眼差しをしているが、その瞳の綺麗さはいつまででも眺めていられそうだ。

 ずっと昔に絵本で見たブルームーンのようだと、ソルフィオーラは月の下に晒された男に思わず見惚れていた。
 男の方も黙ってソルフィオーラを見ていた。そういえば、挨拶をしたというのに何も返さない。綺麗なのになんて無愛想な人なのだろう、そう思った頃眉間に寄せられていた皺がふっと和らいだ。男の視線がソルフィオーラよりやや横にずれる。

「その本は……」

 男の口から零れ出るように漏れた低い声音。感情が込められていない淡々とした声は短く、すっと雪のように空気に消えていく。
 その声にソルフィオーラは男の視線を辿って見た。行き着いた先は自身の右手、そしてその手に持つ小さな本。
 瞬間、見られてはいけないものを見られてしまったような気になりソルフィオーラは慌てた。

「あっ……この本は……その、決してお客様の相手をサボろうとか、そう思って持っているわけではないのですが……!」

 しどろもどろで紡ぐ言い訳。これでは完全『サボる気満々でした』と言っているようにしか聞こえない。
何を考えているのか読めない表情でソルフィオーラを見てくる男。何だか恥ずかしくなってきた。寒いのに体温まで上昇してきたように思う。
 男はスッと手を差し出し言った。

「見せてもらえないか?」
「……え?」

 突然の申し出にソルフィオーラはきょとんと首を傾げる。見せるって、何を?

「その本を見せてもらえないか?」

 すると男は先程より言葉を足した上でもう一度尋ねてきた。
 本、といえばこの場にあるのはソルフィオーラの持つ一冊だけ。ソルフィオーラは右手にある本に目を向けた。

「この本を……? ですが、こちらは……その、児童向けの内容ですから、貴方様がお読みになるには……その」

 そう、ソルフィオーラが持っていた本は児童向けの物語だった。男は明らかに自分より歳上だ。いい歳の大人に差し出すのは何だか失礼な気がしてしまい、ソルフィオーラは戸惑った。
 ちらり上目で窺う男の表情は相変わらず無感情のまま。それが余計に緊張を呼び寄せた。
 ふと、眼鏡の奥で細められた青い瞳が柔らかくなった。些細な変化でとても分かり難かったのだが――男が微笑んだのだ。その瞬間、ソルフィオーラの胸の奥ががしっと鷲掴みにされたような強い感覚を覚えた。苦しくはないが、切ない痛みのようなもの。これは一体……?

「知っている。……その本は私も幼い頃読んでいた」
「まあ、そうでしたの。それでしたら……」

 男の意外な返答に少々驚きつつ、ソルフィオーラは本を彼に差し出した。差し出された男はそれを受け取るとベンチに腰を下ろした。ソルフィオーラもなんとなくそれに続き男の隣に座る。
 そこでまたむずりと鼻が疼いてくしゃみをしてしまった。

(――――やだ! 恥ずかしい……っ!)

 またはしたない所を見せてしまった。羞恥で顔が赤くなっていくのが分かる。ソルフィオーラは恥ずかしさから顔を俯かせた。
 すると隣で男がごそごそと身動ぎする気配がした。ちらり窺い見たのと同時に、ぱさりと少し重たい布のようなものが肩に掛けられた。
 見ると男は上着を脱ぎシャツ姿になっていた。つまり、今肩に掛けられたのは彼の――――気づいたソルフィオーラが何か言う前に、男は何事も無いように言葉を発した。

「……だいぶ読み込まれた跡があるな」

 裏返したり側面を見たりパラパラとページを捲ったりしながら男が呟く。今までに聞いた淡々とした低い声音が少し柔らかい。変わらず表情から感情は読みにくいままだが、ソルフィオーラにはどことなく嬉しそうに見える。

 ――――自分が遠慮しないよう気遣わせてしまった。男の小さな優しさにまた胸の奥が切なく痛んだ。ソルフィオーラは彼のジャケットをきゅっと掴み、彼の手にある本へ目を向けた。

 何度も読み込んだせいで表紙は傷み本はくたびれて、題名だけ辛うじて読める程に色褪せしてしまっている。恐らくそこにいつも指が添えられていたであろう箇所には皺が多数あった。

「え、ええ……たくさんの本を読みましたけれど、……不意に読み返したくなりますの。もう何度読み込んだか分からないくらい読みましたわ」

 ある日魔法に目覚めた少年は、この力が世界を救うためのものだと知り旅立つ。
 途中出会った少女と共に旅をすることになり、炎が踊るドラゴンの巣、穏やかな風が吹く妖精の村、美しい魚たちが住まう水中都市……と二人は様々な土地を巡りながら絆を深めていく。

 それがこの本の内容。世界で一番ソルフィオーラが好きな物語だ。

 中でも終盤、数十年に一度しか見られない月が青く染まる現象ブルームーンを眺めながら少年が少女に愛を告白するシーンが一番のお気に入りだった。
 横にいる男を見てはその場面を連想してしまうのは、彼の蒼銀の目と髪があまりに美しいからだろうか。

(ブルームーンがまるで人の形を取ったようだわ……)

 未だ切ない痛みを残したままの胸の奥が、また疼く。ソルフィオーラはそこを抑えるように胸元で拳を握った。しかしそんなもので治まるわけがなく、それどころか彼の穏やかな表情を見ているだけで鼓動が早くなっていく。

(わたくし、何かの病気なのかしら……?)

 だが切ない痛み以外に症状は無く、特に体調が悪いわけでもない。原因不明。そんな自分の状態を訝しみつつも、胸の痛みを訴えたら男との時間を中断してしまいそうで言えなかった。出会ったばかりの男――しかもまだ名前も知らない相手に対し、もう少し話をしてみたいとソルフィオーラの心は揺れていた。
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