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1.そわそわと待ちきれない
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豊かな自然に囲まれたセレネイド公爵家が統治するグレンツェンには、広大な敷地を持った果樹園がある。
季節に合わせ色とりどりの果実を栽培し、ローゼリア王国内だけでなく自国と取引のある近隣国にまで出荷されている。
一口齧ればじゅるりと溢れる果汁、口の中に広がる果実の甘み。
中でも林檎が評判で、その美味さはいつも不機嫌な表情を崩さない領主の顔を僅かに綻ばせるほどである。
さて、そんなグレンツェンの領主であるブルームの朝は早い。
東にあるアズール鉱山の後ろから昇る朝陽がグレンツェンの町並みを赤く染め始めた頃に起床。一応ノクスが主を起こしにやって来るものの、ブルームが起きるより先に来たことはない。
起床後、顔を洗ってから愛用の剣を持ち庭で素振りをする。
これは騎士学校に在学していた頃からの習慣だった。爵位を継ぎ、グレンツェンの領主となってからも欠かしたことが無い。
――――自分を守るために、先祖代々に渡って守り続けたこの地を奪われないために。
本当は三十歳を目処に爵位継承を予定していた。
グレンツェンの領主ならびにセレネイド家当主となるための勉学に励みながら騎士学校を卒業し王国騎士団に所属していたブルームの元へ両親の訃報が飛び込んだ。
移動中、山賊に襲われたのだ。王都で暮らす一人息子の顔を見るために向かう途中で。
その息子というのは勿論ブルームの事である。
彼が騎士として就いた最後の任務は両親を殺した山賊達の討伐だった。
当時一八歳の出来事だ。
若くして家督を継ぐことになったブルームに対し、反対の声は決して少なくはなかった。
だが、身体を鍛え知識を備え捻じ伏せた。
信頼する幼馴染――ノクスと共に。
ノクスもまたそんな主に付き合って手合わせしたりしつつ、朝から爽やかな汗を流す。
部屋に戻ったら軽くシャワーで身体を清め紺を基調とした紳士服に着替え、それから朝食を取り、しばし読書を楽しんでから仕事へ――――。
それがブルームの毎朝の流れである。
しかし今日は違った。
いつものように起床し、いつものように素振りをする。それからシャワーで汗を流した後に彼が着替えたのは、いつもの紳士服ではなく白を基調としたデザインの礼服。その胸元には赤い薔薇が一輪――――そう、今日は待ちに待った結婚式なのだった。
緊張のせいで朝食は食べられそうもないので省いた。ブルームは自室でそわそわと落ち着きなく部屋の中で行ったり来たりを繰り返す。ぎゅっと眉を寄せ眼鏡の奥にある青瞳がやけに深刻そうだ。
「……そろそろ落ち着いたらどうですか?」
「ああ……もうすぐ、もうすぐ太陽が……」
「あ、聞いてないやこの人」
部屋の入り口側に立ち、彼の様子を生温かく見守っていたノクスが声を掛けても、聞いていないのか聞こえていないのか当の本人はブツブツと呟きながらウロウロする。
そわそわ、そわそわそわそわと忙しなく動き回るので、彼から緊張が伝わって見ているこっちまで落ち着かない。それに胸元に挿した薔薇の花びらがひらひら揺れて、そのうち散ってしまいそうなのが怖い。薔薇が散るなど、縁起が悪過ぎる。
「そわそわしてたって、馬車のスピードが速まる訳では無いのですから」
「しかし、途中で万が一ということも……」
「――――そのために私設騎士団『サファイアの月』に街道を守らせているのでしょう? ブルームが鍛え上げた精鋭ばかりなんだからちょっとは信頼してあげたら?」
「う、うむ……」
ノクスの言葉にブルームは渋々と立ち止まった。しかしやはり落ち着かず爪先でたんたんと床を叩く。
なんてったって今日は待ちに待った日なのだ。結婚が決まってからの三ヶ月はそれはもう長かった。
――――たった三ヶ月、されど三ヶ月。出会ってからの二年に比べたら短い期間だが、ブルームにはそれと比べ物にならないくらい今日までが果てしなく感じたのだ。
「し、仕方ないだろう。何せ運命の出会いから二年ぶりに会うのだから」
「……ブルームも恋してからロマンチックな事を言うようになったね、運命の出会いって……ぶふっ」
「うるさい、お前は呆れるか面白がるかのどっちかにしろ」
じろりと冷たい目でノクスを睨みながらブルームは執務椅子にどかりと腰を下ろした。
自分の体格に合わせ特別に作らせた革張りの椅子。乗せられた体重に合わせて身体に密着するクッション性がなんとも落ち着く。少しだけ冷静になれた気がした。
「……全くお前は。幼馴染とはいえ仮にも主に向かって何て態度だ」
少し冷えた頭で改めてノクスの方を見やると、彼はぴしっと姿勢を正し綺麗な微笑みと共に恭しくお辞儀をする。
「ハハハッ。――――申し訳ございません、旦那様。幼馴染の特別な記念日に私も喜びが大きいのです」
「……フン、どうだかな」
ノクスの態とらしい態度に疑惑の目を向ける。――この腹黒執事め、と視線に込めれば執事は柔和な微笑みを返す。
「本当に決まってるでしょう? 恋とは無縁だったブルームにようやく春が来たんだ。嬉しくないわけがないさ」
微笑みと同じく柔らかな声音。
紡がれた言葉に嘘はないと分かる。
……いや、本当だとは分かっていたが、真っ直ぐに向けられる祝いがただ照れ臭いだけだった。
ブルームは、一切寄り道――女遊び、娯楽――せず、ただひたすら真面目に勉学や鍛錬に打ち込んだ。立派な後継者となるために。
自分の見た目に惹かれどれだけ女が寄ろうとも、縁談を希望されても全て断ってきた。
まあいずれは跡継ぎを考えなければならないので妻を迎えるつもりはあったが、来る者全てグレンツェンの豊かさを狙っているのが透けて見えていたのだ。
つまり、金目当て。両親もそれが分かっていたので何も言わなかった。
跡継ぎがどうだのと急かす事もせず、たった一人の息子だと言うのにブルームの意志を尊重し騎士学校へ行くことを許してくれた両親。
時に厳しく時に優しく、グレンツェンの民に愛された素晴らしい人たちだった。
(――――父や母にも、私の妻となる人を会わせたかった)
くるりと椅子の向きを変え窓を向くと、燦々と煌き空を昇る太陽が見えた。その陽射しはブルームをぽかぽかと照らし、少しの後悔に冷えた心まで温かくしてくれるようだった。
まるで彼女の笑顔のよう。
あの舞踏会の夜、自分に向けてくれた微笑みが忘れられない。真面目一辺倒に生きてきた自分の心を溶かしてくれた太陽のような笑顔。
父上、母上……『不機嫌な蒼月』と呼ばれた私は太陽に恋をしたようです。
――――ソルフィオーラ・フランベルグ。
彼女の到着は近い。
ブルームは二年前の出会いに想いを馳せ、春の暖かな陽射しに目を閉じた。
◆
可愛らしいピンクの小花が咲き誇る木々が立ち並ぶ街道。
風に乗った花びらが舞う中、王都からまっすぐグレンツェンへと繋がるこの道を蒼銀の甲冑に身を包んだ男たちに囲まれた馬車が進んで行く。
馬車の小窓に空を思わせる大きな瞳が映った。
主君より騎士達が命を懸けてグレンツェンに無事連れてくるよう厳命された、大事な客人――主君の妻となる女性である。
「……ようやく、ようやく会えますのね」
自分たちを守るため夫となる人が遣わせてくれた騎士達を眺めながら、ソルフィオーラ・フランベルグはほぅと吐息した。
太陽光に反射して蒼く輝く彼らの鎧はまるでサファイアのよう。『サファイアの月』という騎士団名に相応しい姿だ。想い人を想像させる輝きに、早く早くと心が急かす。そして頭の中にあの日見た彼の姿を思い起こす。
夜風に靡く青い髪、銀縁の眼鏡の奥にある青の眼差しに整った相貌……彼が紡ぐ低い声音は穏やかに奏でられる夜想曲だ。
彼の凛々しい姿を想像するだけで、胸の奥がトクンと鳴って苦しい。苦しさがじわじわと胸中に沁み渡って切ない疼きに変わる。これが恋だと教えられて納得した。
あの日から二年、とても――――とても待ち侘びた。
クスリ、と小さく笑う気配がする。それに気づいて窓の外に向けていた視線を中へ戻せば、対面に座る中性的な顔が微笑んでいた。
短く切り込まれた黒髪に端正な顔。程よく筋肉がついた細い身体は父が特別に作らせた騎士服に包まれている。その横にはソルフィオーラを護るための剣が立てかけられていた。
どこからどう見ても眉目秀麗な美男子。だが――れっきとした女だ。
自分の身の回りの世話役として連れてきた者で、訳有って男装をしている彼女をソルフィオーラは『エル』と呼び慕っている。エルとは幼い頃からの付き合いだ。
「なあに、エル。わたくしの顔に何かついてまして?」
「いえ、恋するお嬢様は本当にお可愛らしいと思いまして」
穏やかな眼差しでソルフィオーラに微笑みを向けるエルに問うてみれば、返って来た答えに『まあ』と頬が熱くなった。
ぽっと熱を灯した頬を押さえ、ソルフィオーラは言葉を返した。
「エルったら。でも……うふふっ、そうね! 恋をすると女性は綺麗になると本にありましたもの。わたくしもそうだと嬉しいわ」
「ええ、お嬢様は恋をされてから本当にお美しくなりました」
「ありがとう、エル。あなたも相変わらず素敵よ」
にこやかな雰囲気に包まれる車内。
エルは本当に素敵だ。
すらりと伸びた手足に程よく高い背丈。男装をしているため布をきつく巻いて胸を押し潰しているのだが、とても豊かなものを持っていることを知っている。顔立ちだって二八歳らしく年相応の美しさがある。
(それに比べてわたくしは……)
ちらりと視線を窓に映る自身へ向ける。
一八歳になったというのにそれよりも下に見られがちな幼い顔。母親譲りの金色の髪はとても好きだし自慢なのだが、波打っているせいで肥えて見える。
背もそんなに高くないからドレスを着るときはいつも踵の高い靴を履かされる上、胸元もとても慎ましやか。同年代の令嬢たちは皆たっぷりと実らせているというのに。
周りは太陽のようだの花のようだのと言うが自分はそう思わない。毎月のように実家では何かとパーティーだの舞踏会だのなんだのと開かれるので仕方なくその場に出てはいたが、ソルフィオーラは社交の場に出るより本を読んでいる時間の方が好きだった。
しかし、あの例の舞踏会以後ソルフィオーラはきっぱり社交はしないと父に宣言した。
何故なら――――
(ああ……早くお会いしたいですわ、ブルーム様……)
社交嫌いで有名なブルーム・セレネイド公爵が珍しく招待を受け来訪されたあの夜、ソルフィオーラの心は奪われてしまったから。
「お嬢様が『セレネイド公爵様から以外の縁談は一切断る』と宣言された時はどうなるかと思いましたが」
「う……だって……どうしてもブルーム様以外との結婚を想像できなかったんですもの……」
恋は盲目だなんてよく言ったものだとソルフィオーラは思う。
初めての恋に心はそれ一色に染まり、彼の事以外考えられなくなった。いつも何をしていてもあの夜の出会いを思い出しては切ない溜め息を吐く。
恋心は募る一方、でも自分からは動き出せない臆病な自分が顔を出す。そうして夢を見るのだ、思い人もまた自分の事を好いていると現れる日を。
たった一度きりの出会いがそんな都合よく行く可能性など限りなく低いのに。家族にも本の読みすぎだと何度言われたことだろうか。そんな事は分かっているが、ソルフィオーラは胸に芽生えた想いを押し通したかったのだ。
父から縁談を申し込んでみるかと言われても、こちらから申し出るなんて恥ずかし過ぎて遠慮した。万が一断られた時を考えると怖くて仕方がなかったから。
そんなこんなで二年が過ぎる。来る日も来る日も実現しない夢に何千回目の溜め息を吐いた頃、グレンツェンからやって来た使者によって奇跡がもたらされた。たった一度の出会いはしっかり奇跡への布石になっていたようだ。それがこうして今日の日に繋がっている。
「自分は公爵様とお会いしたことはありませんが、お嬢様の心をそこまで熱くさせたのですからさぞ素敵な方なのでしょうね」
「……そう、そうなの! 冷たいお方だと噂に聞いていたのに、お話してみるととてもお優しくて……!」
エルの言葉にソルフィオーラは興奮気味に返す。つい前のめりになって。
金色の髪に飾られた宝石で作られた薔薇の飾りが揺れる。今日の為にソルフィオーラが自ら指示して特別に作らせた物だ。宝石は勿論、サファイアである。
青は幸せを呼ぶ色と言われ、結婚式の時に青色の物を身に着けるとその結婚は永遠に幸せなものになるというジンクスがあるのだそうだ。その話を聞き髪飾りを作らせたのもあるが――――それよりも、彼を象徴する色を身に着けたかったという思いの方が大きかった。
二年ぶりに会う自分の夫となる人、ブルーム・セレネイド公爵。
ソルフィオーラはあの夜の出会いを思い出しながら、エルへと語り始める。
何度もした話だからエルは飽き飽きしているかもしれないが、青一色に染まっているソルフィオーラの頭にそれを気づける隙間などなかった。
季節に合わせ色とりどりの果実を栽培し、ローゼリア王国内だけでなく自国と取引のある近隣国にまで出荷されている。
一口齧ればじゅるりと溢れる果汁、口の中に広がる果実の甘み。
中でも林檎が評判で、その美味さはいつも不機嫌な表情を崩さない領主の顔を僅かに綻ばせるほどである。
さて、そんなグレンツェンの領主であるブルームの朝は早い。
東にあるアズール鉱山の後ろから昇る朝陽がグレンツェンの町並みを赤く染め始めた頃に起床。一応ノクスが主を起こしにやって来るものの、ブルームが起きるより先に来たことはない。
起床後、顔を洗ってから愛用の剣を持ち庭で素振りをする。
これは騎士学校に在学していた頃からの習慣だった。爵位を継ぎ、グレンツェンの領主となってからも欠かしたことが無い。
――――自分を守るために、先祖代々に渡って守り続けたこの地を奪われないために。
本当は三十歳を目処に爵位継承を予定していた。
グレンツェンの領主ならびにセレネイド家当主となるための勉学に励みながら騎士学校を卒業し王国騎士団に所属していたブルームの元へ両親の訃報が飛び込んだ。
移動中、山賊に襲われたのだ。王都で暮らす一人息子の顔を見るために向かう途中で。
その息子というのは勿論ブルームの事である。
彼が騎士として就いた最後の任務は両親を殺した山賊達の討伐だった。
当時一八歳の出来事だ。
若くして家督を継ぐことになったブルームに対し、反対の声は決して少なくはなかった。
だが、身体を鍛え知識を備え捻じ伏せた。
信頼する幼馴染――ノクスと共に。
ノクスもまたそんな主に付き合って手合わせしたりしつつ、朝から爽やかな汗を流す。
部屋に戻ったら軽くシャワーで身体を清め紺を基調とした紳士服に着替え、それから朝食を取り、しばし読書を楽しんでから仕事へ――――。
それがブルームの毎朝の流れである。
しかし今日は違った。
いつものように起床し、いつものように素振りをする。それからシャワーで汗を流した後に彼が着替えたのは、いつもの紳士服ではなく白を基調としたデザインの礼服。その胸元には赤い薔薇が一輪――――そう、今日は待ちに待った結婚式なのだった。
緊張のせいで朝食は食べられそうもないので省いた。ブルームは自室でそわそわと落ち着きなく部屋の中で行ったり来たりを繰り返す。ぎゅっと眉を寄せ眼鏡の奥にある青瞳がやけに深刻そうだ。
「……そろそろ落ち着いたらどうですか?」
「ああ……もうすぐ、もうすぐ太陽が……」
「あ、聞いてないやこの人」
部屋の入り口側に立ち、彼の様子を生温かく見守っていたノクスが声を掛けても、聞いていないのか聞こえていないのか当の本人はブツブツと呟きながらウロウロする。
そわそわ、そわそわそわそわと忙しなく動き回るので、彼から緊張が伝わって見ているこっちまで落ち着かない。それに胸元に挿した薔薇の花びらがひらひら揺れて、そのうち散ってしまいそうなのが怖い。薔薇が散るなど、縁起が悪過ぎる。
「そわそわしてたって、馬車のスピードが速まる訳では無いのですから」
「しかし、途中で万が一ということも……」
「――――そのために私設騎士団『サファイアの月』に街道を守らせているのでしょう? ブルームが鍛え上げた精鋭ばかりなんだからちょっとは信頼してあげたら?」
「う、うむ……」
ノクスの言葉にブルームは渋々と立ち止まった。しかしやはり落ち着かず爪先でたんたんと床を叩く。
なんてったって今日は待ちに待った日なのだ。結婚が決まってからの三ヶ月はそれはもう長かった。
――――たった三ヶ月、されど三ヶ月。出会ってからの二年に比べたら短い期間だが、ブルームにはそれと比べ物にならないくらい今日までが果てしなく感じたのだ。
「し、仕方ないだろう。何せ運命の出会いから二年ぶりに会うのだから」
「……ブルームも恋してからロマンチックな事を言うようになったね、運命の出会いって……ぶふっ」
「うるさい、お前は呆れるか面白がるかのどっちかにしろ」
じろりと冷たい目でノクスを睨みながらブルームは執務椅子にどかりと腰を下ろした。
自分の体格に合わせ特別に作らせた革張りの椅子。乗せられた体重に合わせて身体に密着するクッション性がなんとも落ち着く。少しだけ冷静になれた気がした。
「……全くお前は。幼馴染とはいえ仮にも主に向かって何て態度だ」
少し冷えた頭で改めてノクスの方を見やると、彼はぴしっと姿勢を正し綺麗な微笑みと共に恭しくお辞儀をする。
「ハハハッ。――――申し訳ございません、旦那様。幼馴染の特別な記念日に私も喜びが大きいのです」
「……フン、どうだかな」
ノクスの態とらしい態度に疑惑の目を向ける。――この腹黒執事め、と視線に込めれば執事は柔和な微笑みを返す。
「本当に決まってるでしょう? 恋とは無縁だったブルームにようやく春が来たんだ。嬉しくないわけがないさ」
微笑みと同じく柔らかな声音。
紡がれた言葉に嘘はないと分かる。
……いや、本当だとは分かっていたが、真っ直ぐに向けられる祝いがただ照れ臭いだけだった。
ブルームは、一切寄り道――女遊び、娯楽――せず、ただひたすら真面目に勉学や鍛錬に打ち込んだ。立派な後継者となるために。
自分の見た目に惹かれどれだけ女が寄ろうとも、縁談を希望されても全て断ってきた。
まあいずれは跡継ぎを考えなければならないので妻を迎えるつもりはあったが、来る者全てグレンツェンの豊かさを狙っているのが透けて見えていたのだ。
つまり、金目当て。両親もそれが分かっていたので何も言わなかった。
跡継ぎがどうだのと急かす事もせず、たった一人の息子だと言うのにブルームの意志を尊重し騎士学校へ行くことを許してくれた両親。
時に厳しく時に優しく、グレンツェンの民に愛された素晴らしい人たちだった。
(――――父や母にも、私の妻となる人を会わせたかった)
くるりと椅子の向きを変え窓を向くと、燦々と煌き空を昇る太陽が見えた。その陽射しはブルームをぽかぽかと照らし、少しの後悔に冷えた心まで温かくしてくれるようだった。
まるで彼女の笑顔のよう。
あの舞踏会の夜、自分に向けてくれた微笑みが忘れられない。真面目一辺倒に生きてきた自分の心を溶かしてくれた太陽のような笑顔。
父上、母上……『不機嫌な蒼月』と呼ばれた私は太陽に恋をしたようです。
――――ソルフィオーラ・フランベルグ。
彼女の到着は近い。
ブルームは二年前の出会いに想いを馳せ、春の暖かな陽射しに目を閉じた。
◆
可愛らしいピンクの小花が咲き誇る木々が立ち並ぶ街道。
風に乗った花びらが舞う中、王都からまっすぐグレンツェンへと繋がるこの道を蒼銀の甲冑に身を包んだ男たちに囲まれた馬車が進んで行く。
馬車の小窓に空を思わせる大きな瞳が映った。
主君より騎士達が命を懸けてグレンツェンに無事連れてくるよう厳命された、大事な客人――主君の妻となる女性である。
「……ようやく、ようやく会えますのね」
自分たちを守るため夫となる人が遣わせてくれた騎士達を眺めながら、ソルフィオーラ・フランベルグはほぅと吐息した。
太陽光に反射して蒼く輝く彼らの鎧はまるでサファイアのよう。『サファイアの月』という騎士団名に相応しい姿だ。想い人を想像させる輝きに、早く早くと心が急かす。そして頭の中にあの日見た彼の姿を思い起こす。
夜風に靡く青い髪、銀縁の眼鏡の奥にある青の眼差しに整った相貌……彼が紡ぐ低い声音は穏やかに奏でられる夜想曲だ。
彼の凛々しい姿を想像するだけで、胸の奥がトクンと鳴って苦しい。苦しさがじわじわと胸中に沁み渡って切ない疼きに変わる。これが恋だと教えられて納得した。
あの日から二年、とても――――とても待ち侘びた。
クスリ、と小さく笑う気配がする。それに気づいて窓の外に向けていた視線を中へ戻せば、対面に座る中性的な顔が微笑んでいた。
短く切り込まれた黒髪に端正な顔。程よく筋肉がついた細い身体は父が特別に作らせた騎士服に包まれている。その横にはソルフィオーラを護るための剣が立てかけられていた。
どこからどう見ても眉目秀麗な美男子。だが――れっきとした女だ。
自分の身の回りの世話役として連れてきた者で、訳有って男装をしている彼女をソルフィオーラは『エル』と呼び慕っている。エルとは幼い頃からの付き合いだ。
「なあに、エル。わたくしの顔に何かついてまして?」
「いえ、恋するお嬢様は本当にお可愛らしいと思いまして」
穏やかな眼差しでソルフィオーラに微笑みを向けるエルに問うてみれば、返って来た答えに『まあ』と頬が熱くなった。
ぽっと熱を灯した頬を押さえ、ソルフィオーラは言葉を返した。
「エルったら。でも……うふふっ、そうね! 恋をすると女性は綺麗になると本にありましたもの。わたくしもそうだと嬉しいわ」
「ええ、お嬢様は恋をされてから本当にお美しくなりました」
「ありがとう、エル。あなたも相変わらず素敵よ」
にこやかな雰囲気に包まれる車内。
エルは本当に素敵だ。
すらりと伸びた手足に程よく高い背丈。男装をしているため布をきつく巻いて胸を押し潰しているのだが、とても豊かなものを持っていることを知っている。顔立ちだって二八歳らしく年相応の美しさがある。
(それに比べてわたくしは……)
ちらりと視線を窓に映る自身へ向ける。
一八歳になったというのにそれよりも下に見られがちな幼い顔。母親譲りの金色の髪はとても好きだし自慢なのだが、波打っているせいで肥えて見える。
背もそんなに高くないからドレスを着るときはいつも踵の高い靴を履かされる上、胸元もとても慎ましやか。同年代の令嬢たちは皆たっぷりと実らせているというのに。
周りは太陽のようだの花のようだのと言うが自分はそう思わない。毎月のように実家では何かとパーティーだの舞踏会だのなんだのと開かれるので仕方なくその場に出てはいたが、ソルフィオーラは社交の場に出るより本を読んでいる時間の方が好きだった。
しかし、あの例の舞踏会以後ソルフィオーラはきっぱり社交はしないと父に宣言した。
何故なら――――
(ああ……早くお会いしたいですわ、ブルーム様……)
社交嫌いで有名なブルーム・セレネイド公爵が珍しく招待を受け来訪されたあの夜、ソルフィオーラの心は奪われてしまったから。
「お嬢様が『セレネイド公爵様から以外の縁談は一切断る』と宣言された時はどうなるかと思いましたが」
「う……だって……どうしてもブルーム様以外との結婚を想像できなかったんですもの……」
恋は盲目だなんてよく言ったものだとソルフィオーラは思う。
初めての恋に心はそれ一色に染まり、彼の事以外考えられなくなった。いつも何をしていてもあの夜の出会いを思い出しては切ない溜め息を吐く。
恋心は募る一方、でも自分からは動き出せない臆病な自分が顔を出す。そうして夢を見るのだ、思い人もまた自分の事を好いていると現れる日を。
たった一度きりの出会いがそんな都合よく行く可能性など限りなく低いのに。家族にも本の読みすぎだと何度言われたことだろうか。そんな事は分かっているが、ソルフィオーラは胸に芽生えた想いを押し通したかったのだ。
父から縁談を申し込んでみるかと言われても、こちらから申し出るなんて恥ずかし過ぎて遠慮した。万が一断られた時を考えると怖くて仕方がなかったから。
そんなこんなで二年が過ぎる。来る日も来る日も実現しない夢に何千回目の溜め息を吐いた頃、グレンツェンからやって来た使者によって奇跡がもたらされた。たった一度の出会いはしっかり奇跡への布石になっていたようだ。それがこうして今日の日に繋がっている。
「自分は公爵様とお会いしたことはありませんが、お嬢様の心をそこまで熱くさせたのですからさぞ素敵な方なのでしょうね」
「……そう、そうなの! 冷たいお方だと噂に聞いていたのに、お話してみるととてもお優しくて……!」
エルの言葉にソルフィオーラは興奮気味に返す。つい前のめりになって。
金色の髪に飾られた宝石で作られた薔薇の飾りが揺れる。今日の為にソルフィオーラが自ら指示して特別に作らせた物だ。宝石は勿論、サファイアである。
青は幸せを呼ぶ色と言われ、結婚式の時に青色の物を身に着けるとその結婚は永遠に幸せなものになるというジンクスがあるのだそうだ。その話を聞き髪飾りを作らせたのもあるが――――それよりも、彼を象徴する色を身に着けたかったという思いの方が大きかった。
二年ぶりに会う自分の夫となる人、ブルーム・セレネイド公爵。
ソルフィオーラはあの夜の出会いを思い出しながら、エルへと語り始める。
何度もした話だからエルは飽き飽きしているかもしれないが、青一色に染まっているソルフィオーラの頭にそれを気づける隙間などなかった。
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