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12.前触れ
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大図書館からの帰り道、相変わらず二人の間に目立った会話は無かった。
だが、ソルフィオーラはブルームに一歩近づけたという確かな達成感を得ていた。
とても緊張したが、一歩踏み出せたことはソルフィオーラにとって大きな前進だった。
落ち着いた空間で二人きりで三日ぶりに言葉を交わしたことで、前よりも相手をより近くに感じられるようになった気がする。
──まあ、交わしたのは言葉だけでは無いが。
しかし驚いたのはブルームに交際経験が無いということ。
ブルームの告白を聞いたソルフィオーラは、まさか自分がブルームの最初の恋人になれるだなんて光栄かつ幸福なことだと、素直にそう思った。
そして自分の初めてを捧げられることがブルームにとっても幸福なことだと思ってくれていたら尚嬉しい。
最後に、彼は今夜忘れ物を取りに行くとソルフィオーラに言った。
あの夜部屋に置いてけぼりにされたブルームの眼鏡。
忘れ物だなんて遠まわしな言い方でわざわざ宣言したのは、まるで他にも忘れた物があるみたいだ。
ソルフィオーラはそれについて覚えがあった。
────ちゃんと分かっている。
その意味が分からないほど自分は子供ではない。
ソルフィオーラもそれを期待していたから、彼の言葉にこっくり頷いてみせたのだ。
「……………………」
だからこそ、ソルフィオーラはがちがちに身を強張らせているのであった。
現時刻は二十二時。
大図書館へのお出掛けを終え帰宅してからあっという間に夜が来てしまった。
正直、帰り道からドキドキしていたために帰ってきてから自分が何をしたのか全く覚えていない。
お腹は空いていないので夕食はきっと食べたと思う。
「……………………」
「……………………」
あの夜のように壁掛け時計のチッチッという秒針の音が静かに響く中、ソルフィオーラはブルームと並んでベッドの端に腰掛けていた。
宣言通り部屋にやって来たブルームだったが、ソルフィオーラが建前上の来訪理由である眼鏡を渡してもそれを掛けることせず難しい表情でベッドに向うと腰を下ろしてしまった。
とりあえずソルフィオーラも彼にならって隣へと座ったはいいが、ベッドの上ということに気付いた途端この後の事を想像して一気に緊張が押し寄せ……今に至る。
ブルームが眉間に皺を寄せ腕を組み落ち着きなく指をトントンとしているのを見ると、やはり自分との夜に不満があるのかもしれないと不安を感じてしまう。
(……かと言って、このまま無言で過ごすのも……)
しかしどう切り出せばいいものか。
緊張が最高潮に達したソルフィオーラも段々と落ち着かなくなってきて、夜着の裾をぎゅっと握り締める。
落ち着かないのはこの薄い布地のワンピースのせいもあるかもしれない。
今夜はあの日のやり直し────
そのつもりで選んだものなのだが、実際着てみれば裾は短いしあちこち透けているしひらひらしているしでどうにも心許ない。
今度はソルフィオーラの金色の髪が映えるよう水色にしてみたのだが、果たしてブルームの青い双眸に自分はどう映っているだろう。
髪も今回は下ろしているので、波打つ長い金糸が隣のブルームの腕にかかっていた。
その事に気づいて腕に掛かってしまった髪を払おうとしてソルフィオーラが横を向くと、同じタイミングでブルームの顔もこちらを向いた。
バチッと真正面からぶつかり合った視線に一瞬時が止まったような気がした。
「──あっ、あっ……! あの……わたくし……その……っ!」
まさか同じタイミングでこっちを向くとは思っていなくて、ソルフィオーラは反射的に顔を背けてしまった。
そしてその事に気づいたときにはもう遅い。
内なるソルフィオーラが激しく自分を叱咤してくる。
(────せっかくデートで距離を縮めたというのに、こんな態度を取っていたら意味がないではありませんか! わたくしのバカバカバカ!)
どうしてもブルームを前にすると緊張しているが故にやらかしてしまう自分が本気で嫌いになりそうだ。
(……ブルームさま……)
流石にこれは不快な思いをさせたかもしれないと恐る恐るブルームを見上げてみれば、予想通り眉間に皺を刻んだ険しい表情があった。
ズキンと胸が痛む。
こんなのが妻で本当に良いのだろうか。
デートによって芽生えた自信が今は萎もうとしていた。
「すまない」
するとこれまで黙りこくっていたブルームがようやく口を開いた。
放たれた四文字に、ソルフィオーラは弾かれたように顔を上げて隣に座る夫を見上げる。
「え……?」
「すまない……」
聞き返すとブルームがもう一度同じ言葉を呟く。
世間の認識と自分の認識に淀みがなければそれは謝罪を意味する言葉だ。
彼は一体何に対して謝っているのだろうか?
やはり自分の不安は的中したのだろうかと思うと、ワンピースの裾を握る手にぎゅっと力が籠る。
しかしそんなソルフィオーラに対し、続いたブルームの言葉は不安を打ち消すものだった。
「緊張のあまり、まっすぐベッドへ来てしまった……」
「……え?」
ブルームの頬にポッと朱が差す。
予想外の言葉にぽかんと呆けていたソルフィオーラだったが、赤くなった頬を見て平静を取り戻した。
反対にブルームの指は相変わらず落ち着きなく組んだ腕をトントンと叩いている。
ブルームの言葉に赤い頬と仕草。
照れを浮かべたサファイアの双眸がソルフィオーラを映した。
それら全てが一致して──ソルフィオーラは初めてブルームの瞳をまっすぐに受けることが出来た。
「ブルーム様も……緊張されていたのですか……?」
「……その、何だ……出迎えてくれた貴女が……その、あまりに……──眩しかったものだから」
「まぶ……?」
もごもごと言いにくそうに紡がれる言葉。
穏やかに奏でられる低い声音がすっと耳になじむ。
ソルフィオーラの問い返しにブルームはしばらく言葉を詰まらせていたが、やがて観念したように一つ息を零すとこう言った。
「────貴女が、あまりに美しかったから」
ブルームの手がスッと伸びてきて、ソルフィオーラの頬にそっと添えられる。
絡み合った視線の──ブルームの青い瞳の中に、何か情熱的なものが奥に秘められているように感じた。
その何かを知りたくなって、ソルフィオーラは縫い付けられたように視線を逸らすことが出来なかった。
今までならきっと感情がわっと込み上げてきて顔ごと背けてしまっていたのに。
今はこれまでが不思議なくらい落ち着いて彼を見つめることができる。
初めて出会った夜と変わらない瞳の美しさ。
凛々しくて端正な顔立ち。
総じて美しい部類に入る見た目をしているというのに、彼に惹かれた者は今までいなかったのが不思議なくらいだ。
いつも不機嫌そうな顔をしているそうだから、きっと近寄りがたく思わせてしまっているのだろう。
勿体無いなと、ソルフィオーラは思う。
ブルームの事を知ったら、きっとみんな彼を好きになるのに。
しかしあまり異性にチヤホヤされるのはきっと見ていていい気はしないので、彼を知っているのは自分だけでいいかもしれない。
(────なんて、いつかそんなことを話せるくらい、ブルーム様と親しくなりたい……)
ソルフィオーラの頬に添えられた逞しい手に自身のを重ねる。
骨張っていて大きな手だ。
これが男の手なのだと改めて認識すると胸の奥が熱くなった気がした。
「……祖母は、いつか産まれるだろう私と愛する人との子供に自分の本を読み聞かせてあげるのが夢なのだと言っていた」
真摯な瞳がソルフィオーラを真っ直ぐに射抜く。
紡がれた声はまるで心の中にまで語り掛けるかのように優しく、ブルームは静かに語る。
「私に本を読んでくれる度にそう言っていた。……亡くなる前も、それが叶えられない事だけが心残りであるとも」
「……そう、でしたの」
そう言ってブルームは寂しそうに微笑んだ。
しかし瞳は変わらず真っ直ぐソルフィオーラを見つめている。
ブルームの祖母の心残りを聞いて切なく思ったソルフィオーラであったが、自分を見つめるブルームに胸の奥でくすぶり始めた熱が徐々に広がり始めているのを感じていた。
────ドキドキする。
ぶわっとせり上がる緊張とは違う緊張が、ゆっくりとソルフィオーラの体に馴染ませるかのように表れていたのだった。
次の言葉が発せられる瞬間──ブルームの唇が開いたとき、それは静かに最高潮へと達した。
「だが代わりに祖母は私へ願いを託した」
────代わりに、貴方の未来の奥様があたくしの本を貴方の子供に読み聞かせてくれたら嬉しいわ。
どうかあたくしの物語を幸せな未来へと繋いでね。
「私は貴女と祖母の願いを繋いでいきたい。……私は、貴方を──ソフィーを愛している」
自分を愛称で呼び愛を告げたブルームの声は、ソルフィオーラの心の中へ潤いを落とした。
落ちた雫は波紋を生みゆらゆら揺れて全体へと広がっていく。
その波紋が隅まで至ったとき──じわりと涙が込み上げて来た。
嬉しい。
ブルームが自分を妻に迎え入れてくれたのは気まぐれなんかではなく、心から自分を好いてくれているからなのだと胸を張って信じられる。
それほどにブルームの言葉はソルフィオーラにとって人生で一番嬉しいものだった。
(泣いたら誤解させてしまいますわ……でも……)
涙を悟られぬようブルームの瞳から顔を逸らしたソルフィオーラだったが、何か言わなければと考えても嬉しすぎて言葉がなかなか出てこない。
代わりに───ぶんぶんと首を縦に振った。
みっともなく見えるかもしれないが、思いを込めて力強く頷いてみせる。
首を縦に振るのは肯定の意志。
────どうか自分の思いがブルームに伝わりますようにと、願って。
「────っ、ソフィー!」
ソルフィオーラの願いは届けられる。
再び愛称で呼んでくれたブルームの声と共に、ソルフィオーラは逞しい腕の中に抱かれていた。
「ブルーム、さま……っ」
名前を呼び返すと強く抱き締められた。
ソルフィオーラも彼の背中に腕を回し夫の顔を見上げれば、至近距離で視線がぶつかる。
互いの吐息が届くほどの距離で見つめ合う。
自然な流れでブルームと吸い寄せられるようにキスをした。
少しだけぎこちないキスの応酬。
ちゅっちゅっと唇の押し付け合いから、不器用な大人のキスへと移行する。
図書館でした、甘やかなくちづけ。
ブルームに唇を食まれたら、ソルフィオーラも真似するように彼の唇を食んだ。
それから徐々に深いキスとなり互いに貪るようになった頃、身体が押され後ろに傾いた。
あっと思った時には、ソルフィオーラの背中は冷たいシーツの感触を捉えていた。
顔の両横に手を置かれ、ブルームがソルフィオーラを見下ろす。
今まで何処へ行っていたのだろう。その時になって久しぶりに羞恥心とやらが顔を出した。
ぽっぽっと、火を灯したように頬が熱い。
(……ああっ、……でも)
やはりこれまでとは違う。
恥ずかしく思い始めても、ソルフィオーラはブルームから目を逸らさなかった。
例えブルームの瞳が欲情の色を帯びていても、射抜くようにソルフィオーラを見下ろしていても、サファイアのように輝かしく蒼月のように美しい瞳をいつまでも見つめていたい。
これまでは好き過ぎるが故に羞恥心に負けていた。
だがきっと、今は羞恥よりもブルームへの愛しさが勝ったのだろう。
ソルフィオーラはそう思っていた。
ブルームの手がソルフィオーラの頬を撫で、滑り落ちるように胸元へと差し込まれた。
「……ソフィー」
やがて降るだろうキスの雨。
その前触れだと感じたソルフィオーラは、そっと瞼をおろし口づけを待つのだった。
だが、ソルフィオーラはブルームに一歩近づけたという確かな達成感を得ていた。
とても緊張したが、一歩踏み出せたことはソルフィオーラにとって大きな前進だった。
落ち着いた空間で二人きりで三日ぶりに言葉を交わしたことで、前よりも相手をより近くに感じられるようになった気がする。
──まあ、交わしたのは言葉だけでは無いが。
しかし驚いたのはブルームに交際経験が無いということ。
ブルームの告白を聞いたソルフィオーラは、まさか自分がブルームの最初の恋人になれるだなんて光栄かつ幸福なことだと、素直にそう思った。
そして自分の初めてを捧げられることがブルームにとっても幸福なことだと思ってくれていたら尚嬉しい。
最後に、彼は今夜忘れ物を取りに行くとソルフィオーラに言った。
あの夜部屋に置いてけぼりにされたブルームの眼鏡。
忘れ物だなんて遠まわしな言い方でわざわざ宣言したのは、まるで他にも忘れた物があるみたいだ。
ソルフィオーラはそれについて覚えがあった。
────ちゃんと分かっている。
その意味が分からないほど自分は子供ではない。
ソルフィオーラもそれを期待していたから、彼の言葉にこっくり頷いてみせたのだ。
「……………………」
だからこそ、ソルフィオーラはがちがちに身を強張らせているのであった。
現時刻は二十二時。
大図書館へのお出掛けを終え帰宅してからあっという間に夜が来てしまった。
正直、帰り道からドキドキしていたために帰ってきてから自分が何をしたのか全く覚えていない。
お腹は空いていないので夕食はきっと食べたと思う。
「……………………」
「……………………」
あの夜のように壁掛け時計のチッチッという秒針の音が静かに響く中、ソルフィオーラはブルームと並んでベッドの端に腰掛けていた。
宣言通り部屋にやって来たブルームだったが、ソルフィオーラが建前上の来訪理由である眼鏡を渡してもそれを掛けることせず難しい表情でベッドに向うと腰を下ろしてしまった。
とりあえずソルフィオーラも彼にならって隣へと座ったはいいが、ベッドの上ということに気付いた途端この後の事を想像して一気に緊張が押し寄せ……今に至る。
ブルームが眉間に皺を寄せ腕を組み落ち着きなく指をトントンとしているのを見ると、やはり自分との夜に不満があるのかもしれないと不安を感じてしまう。
(……かと言って、このまま無言で過ごすのも……)
しかしどう切り出せばいいものか。
緊張が最高潮に達したソルフィオーラも段々と落ち着かなくなってきて、夜着の裾をぎゅっと握り締める。
落ち着かないのはこの薄い布地のワンピースのせいもあるかもしれない。
今夜はあの日のやり直し────
そのつもりで選んだものなのだが、実際着てみれば裾は短いしあちこち透けているしひらひらしているしでどうにも心許ない。
今度はソルフィオーラの金色の髪が映えるよう水色にしてみたのだが、果たしてブルームの青い双眸に自分はどう映っているだろう。
髪も今回は下ろしているので、波打つ長い金糸が隣のブルームの腕にかかっていた。
その事に気づいて腕に掛かってしまった髪を払おうとしてソルフィオーラが横を向くと、同じタイミングでブルームの顔もこちらを向いた。
バチッと真正面からぶつかり合った視線に一瞬時が止まったような気がした。
「──あっ、あっ……! あの……わたくし……その……っ!」
まさか同じタイミングでこっちを向くとは思っていなくて、ソルフィオーラは反射的に顔を背けてしまった。
そしてその事に気づいたときにはもう遅い。
内なるソルフィオーラが激しく自分を叱咤してくる。
(────せっかくデートで距離を縮めたというのに、こんな態度を取っていたら意味がないではありませんか! わたくしのバカバカバカ!)
どうしてもブルームを前にすると緊張しているが故にやらかしてしまう自分が本気で嫌いになりそうだ。
(……ブルームさま……)
流石にこれは不快な思いをさせたかもしれないと恐る恐るブルームを見上げてみれば、予想通り眉間に皺を刻んだ険しい表情があった。
ズキンと胸が痛む。
こんなのが妻で本当に良いのだろうか。
デートによって芽生えた自信が今は萎もうとしていた。
「すまない」
するとこれまで黙りこくっていたブルームがようやく口を開いた。
放たれた四文字に、ソルフィオーラは弾かれたように顔を上げて隣に座る夫を見上げる。
「え……?」
「すまない……」
聞き返すとブルームがもう一度同じ言葉を呟く。
世間の認識と自分の認識に淀みがなければそれは謝罪を意味する言葉だ。
彼は一体何に対して謝っているのだろうか?
やはり自分の不安は的中したのだろうかと思うと、ワンピースの裾を握る手にぎゅっと力が籠る。
しかしそんなソルフィオーラに対し、続いたブルームの言葉は不安を打ち消すものだった。
「緊張のあまり、まっすぐベッドへ来てしまった……」
「……え?」
ブルームの頬にポッと朱が差す。
予想外の言葉にぽかんと呆けていたソルフィオーラだったが、赤くなった頬を見て平静を取り戻した。
反対にブルームの指は相変わらず落ち着きなく組んだ腕をトントンと叩いている。
ブルームの言葉に赤い頬と仕草。
照れを浮かべたサファイアの双眸がソルフィオーラを映した。
それら全てが一致して──ソルフィオーラは初めてブルームの瞳をまっすぐに受けることが出来た。
「ブルーム様も……緊張されていたのですか……?」
「……その、何だ……出迎えてくれた貴女が……その、あまりに……──眩しかったものだから」
「まぶ……?」
もごもごと言いにくそうに紡がれる言葉。
穏やかに奏でられる低い声音がすっと耳になじむ。
ソルフィオーラの問い返しにブルームはしばらく言葉を詰まらせていたが、やがて観念したように一つ息を零すとこう言った。
「────貴女が、あまりに美しかったから」
ブルームの手がスッと伸びてきて、ソルフィオーラの頬にそっと添えられる。
絡み合った視線の──ブルームの青い瞳の中に、何か情熱的なものが奥に秘められているように感じた。
その何かを知りたくなって、ソルフィオーラは縫い付けられたように視線を逸らすことが出来なかった。
今までならきっと感情がわっと込み上げてきて顔ごと背けてしまっていたのに。
今はこれまでが不思議なくらい落ち着いて彼を見つめることができる。
初めて出会った夜と変わらない瞳の美しさ。
凛々しくて端正な顔立ち。
総じて美しい部類に入る見た目をしているというのに、彼に惹かれた者は今までいなかったのが不思議なくらいだ。
いつも不機嫌そうな顔をしているそうだから、きっと近寄りがたく思わせてしまっているのだろう。
勿体無いなと、ソルフィオーラは思う。
ブルームの事を知ったら、きっとみんな彼を好きになるのに。
しかしあまり異性にチヤホヤされるのはきっと見ていていい気はしないので、彼を知っているのは自分だけでいいかもしれない。
(────なんて、いつかそんなことを話せるくらい、ブルーム様と親しくなりたい……)
ソルフィオーラの頬に添えられた逞しい手に自身のを重ねる。
骨張っていて大きな手だ。
これが男の手なのだと改めて認識すると胸の奥が熱くなった気がした。
「……祖母は、いつか産まれるだろう私と愛する人との子供に自分の本を読み聞かせてあげるのが夢なのだと言っていた」
真摯な瞳がソルフィオーラを真っ直ぐに射抜く。
紡がれた声はまるで心の中にまで語り掛けるかのように優しく、ブルームは静かに語る。
「私に本を読んでくれる度にそう言っていた。……亡くなる前も、それが叶えられない事だけが心残りであるとも」
「……そう、でしたの」
そう言ってブルームは寂しそうに微笑んだ。
しかし瞳は変わらず真っ直ぐソルフィオーラを見つめている。
ブルームの祖母の心残りを聞いて切なく思ったソルフィオーラであったが、自分を見つめるブルームに胸の奥でくすぶり始めた熱が徐々に広がり始めているのを感じていた。
────ドキドキする。
ぶわっとせり上がる緊張とは違う緊張が、ゆっくりとソルフィオーラの体に馴染ませるかのように表れていたのだった。
次の言葉が発せられる瞬間──ブルームの唇が開いたとき、それは静かに最高潮へと達した。
「だが代わりに祖母は私へ願いを託した」
────代わりに、貴方の未来の奥様があたくしの本を貴方の子供に読み聞かせてくれたら嬉しいわ。
どうかあたくしの物語を幸せな未来へと繋いでね。
「私は貴女と祖母の願いを繋いでいきたい。……私は、貴方を──ソフィーを愛している」
自分を愛称で呼び愛を告げたブルームの声は、ソルフィオーラの心の中へ潤いを落とした。
落ちた雫は波紋を生みゆらゆら揺れて全体へと広がっていく。
その波紋が隅まで至ったとき──じわりと涙が込み上げて来た。
嬉しい。
ブルームが自分を妻に迎え入れてくれたのは気まぐれなんかではなく、心から自分を好いてくれているからなのだと胸を張って信じられる。
それほどにブルームの言葉はソルフィオーラにとって人生で一番嬉しいものだった。
(泣いたら誤解させてしまいますわ……でも……)
涙を悟られぬようブルームの瞳から顔を逸らしたソルフィオーラだったが、何か言わなければと考えても嬉しすぎて言葉がなかなか出てこない。
代わりに───ぶんぶんと首を縦に振った。
みっともなく見えるかもしれないが、思いを込めて力強く頷いてみせる。
首を縦に振るのは肯定の意志。
────どうか自分の思いがブルームに伝わりますようにと、願って。
「────っ、ソフィー!」
ソルフィオーラの願いは届けられる。
再び愛称で呼んでくれたブルームの声と共に、ソルフィオーラは逞しい腕の中に抱かれていた。
「ブルーム、さま……っ」
名前を呼び返すと強く抱き締められた。
ソルフィオーラも彼の背中に腕を回し夫の顔を見上げれば、至近距離で視線がぶつかる。
互いの吐息が届くほどの距離で見つめ合う。
自然な流れでブルームと吸い寄せられるようにキスをした。
少しだけぎこちないキスの応酬。
ちゅっちゅっと唇の押し付け合いから、不器用な大人のキスへと移行する。
図書館でした、甘やかなくちづけ。
ブルームに唇を食まれたら、ソルフィオーラも真似するように彼の唇を食んだ。
それから徐々に深いキスとなり互いに貪るようになった頃、身体が押され後ろに傾いた。
あっと思った時には、ソルフィオーラの背中は冷たいシーツの感触を捉えていた。
顔の両横に手を置かれ、ブルームがソルフィオーラを見下ろす。
今まで何処へ行っていたのだろう。その時になって久しぶりに羞恥心とやらが顔を出した。
ぽっぽっと、火を灯したように頬が熱い。
(……ああっ、……でも)
やはりこれまでとは違う。
恥ずかしく思い始めても、ソルフィオーラはブルームから目を逸らさなかった。
例えブルームの瞳が欲情の色を帯びていても、射抜くようにソルフィオーラを見下ろしていても、サファイアのように輝かしく蒼月のように美しい瞳をいつまでも見つめていたい。
これまでは好き過ぎるが故に羞恥心に負けていた。
だがきっと、今は羞恥よりもブルームへの愛しさが勝ったのだろう。
ソルフィオーラはそう思っていた。
ブルームの手がソルフィオーラの頬を撫で、滑り落ちるように胸元へと差し込まれた。
「……ソフィー」
やがて降るだろうキスの雨。
その前触れだと感じたソルフィオーラは、そっと瞼をおろし口づけを待つのだった。
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