ままならぬ太陽に月はじれったい ―冷徹眼鏡公爵とツンデレ伯爵令嬢の不器用な結婚―

蒼凪美郷

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11.大図書館にて―月の告白―

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 時は少し遡って――――

(……ここを気に入ったようでよかった)

 愛しき我妻ソルフィオーラが興味津々な様子で館内を進んでいく。
 王都よりも立派な図書館である。
 予想通り彼女の気を惹けた事にブルームは安堵した。

(……さて)

 文学コーナーの方へと入るソルフィオーラの後ろ姿を見送り、自分も探索を始める。
 今回ここへ来たのは妻との関係改善が目的なのだが、その前にブルームにはやっておきたいことがあった。
 足を真っ直ぐに実用書コーナーへと進め、棚をひとつひとつ確認していくこと数分。

(……あった)

 手に取った一冊、その背表紙には『恋愛初心者のための恋愛指南書』とある。
 ブルームのもう一つの目的とはこれの事だった。
 彼に欠乏している知識を補うための本である。これを探していたなんてソルフィオーラにばれてしまうのは避けたかった。

(いい歳の男が三十にもなって清い体であるなど……言えるわけがない)

 初夜の時のような失敗はもう繰り返したくない。
 付け焼刃であることは分かっているが、少しでもソルフィオーラと良好な関係を築くためには必要だと思ったのだ。

(それに……良好な関係には性生活の充実も必要だと聞く)
 
 指南書には性についても書かれているだろう。作法や悦ばせ方まで恋愛事に関わる全てを網羅している筈の指南書だ。
 きっと問えば聞きたくもないことまで教えてくれるのだろうが、幼馴染とはいえ流石にそんなことまでノクスに聞くわけにもいかなかった。

 ソルフィオーラの心も体も、全てをよろこばせたい。
 その思いでブルームは表紙を開き、目次からその項目を探し出した。

 パラパラとページを捲ること数秒。
 そこにあったのは衝撃的なものの数々だった。

 直接的な表現と淫らな単語の羅列。
 絡み合う男女の絵。
 それぞれの性器についての解説、性技の紹介……。

 うぶなブルームには少々刺激が強過ぎた。

(これは……あ、頭がクラクラする……!)

 顔が熱い。
 予想以上のインパクトに頭が沸騰しそうだった。
 体がふらついてブルームは棚にもたれかかる。

(…………だが)

 本をしっかりと持ち一言一句見逃さぬよう隅から隅まで読んでいく。
 ここに描かれている女をソルフィオーラに置き換えたらすんなりと頭の中へ入るような気がする。
 食い入るように見ていれば、そのうち絵がソルフィオーラにしか見えなくなってきた。

 あられもない姿のソルフィオーラ。
 ここに記されているようなことをブルームに施すソルフィオーラ。

 鼻血が出そうだった。
 ふぅ……と息を吐き、あらかた読み終えたブルームはパタンと本を閉じた。

「…………恋愛というのは、複雑なものなのだな」

 相手への気の遣り方、言葉選び、夜伽の作法など。
 知らなかった知識を目にしても、本当に実践できるかは自信が無かった。
 自分の社交嫌いが悔やまれる。

(だが、これをすることが出来たなら――――)

 ソルフィオーラと円満な関係を築けるだろうか。

 父と母のような仲睦まじい夫婦になりたい。
 祖母の願いも叶えてやりたい。

 ――――ブルームの祖母は作家だった。

 ここには、祖母のクリスティーナが書いた『魔法の剣と青い月』の初版本を数冊寄贈している。
 初版本はもう世には出回っていない貴重なもの――
 ブルームはこれをソルフィオーラに見せてやりたいがために、デートの行き先にグレンツェン大図書館を選んだのだった。

 この本を好きだと言った彼女ならきっと大いに喜んでくれると思って。
 そうしたら、またあの夜のように太陽のような明るい微笑みを見せてくれるかもしれないから。

(そういえば、ソルフィオーラは文学コーナーに歩いていったな……)

 もしかしたらもう見つけているかもしれない。
 いや、どうだろうか。あれは確か高い所に並べられていたような気がする。
 ステップを使えば小柄なソルフィオーラでも手が届くと思うが……ブルームはステップから足を滑らせたりしないかと心配になった。

 そしてそれは的中し――――。
 ブルームはソルフィオーラの小さな悲鳴を聞いて大慌てで向かうこととなる。
 本棚に強く肩をぶつけ、手にはあの本を持ったままで。

 そうして駆け付けたブルームは、小さな手に掴まれた祖母の本を目にするのだった。





「――――わ、わたくしのことは、ソフィーと呼んでくださってもよろしいですのよ!」

 可憐な叫びが館内に木霊する。
 数秒後、脈絡のない申し出をしたことに気がづいたソルフィオーラがハッとする。
 それからオロオロと視線を彷徨わせると恥ずかしそうに顔を俯かせた。

 金糸の髪がよく映える空色のワンピース。
 その裾を握りしめ黙りこくってしまった妻を見てブルームは目をしばたたかせた。

(ソフィーとは……?)

 自分の手の中にある『魔法の剣と青い月』を見下ろす。
 沢山の人に読まれ愛されてきた証拠を刻んだ祖母の本。三十年も前に発行された本はすっかり傷んでしまっている。

 祖母の書いた物語……ヒロインの名はソフィーと言う。
 しかしそれは本名ではなく、主人公がヒロインの名前を縮めて呼んだもので所謂愛称である。
 主人公がヒロインを『ソフィー』と愛称で呼び始めたことで、二人の仲は急速に縮まった。

(――――愛称?)

 そこまで考えてピンときた。
 ソルフィオーラは自分に愛称で呼んでもいいと、自分を親しい間柄の一人と認めてくれると言っているのだ。

「ソフィー……」
「――――っ!」

 試しに呼んでみるとソルフィオーラの肩がぴくんと跳ねた。
 耳まで真っ赤にして、きょろきょろと視線を彷徨わせている。

(……可愛い。なんて可愛いのだ)

 祖母の作品を何度も読み込むほど愛してくれて、しかも素敵だと言ってくれる。
 自分で言っておいて、いざ呼んでみると恥ずかしそうにして。
 いじらしくて、本当に可愛い人だ。ソルフィオーラへの愛しさが感情の源泉からどんどん湧き上がる。

 それに――――
 あんな失態を見せた上、初夜で置いてけぼりにして去るという夫失格なことまでやってしまったのに。
 彼女が自分に近づこうとしてくれている気配を感じていた。愛称で呼べというのも、きっとそうだ。

 相変わらず顔を合わせればぎゅっと唇を引き結んだしかめ面になってしまうし、目を合わせれば逸らされてしまう。
 だが、ソルフィオーラの纏う雰囲気が少しだけ変わったような気がした。
 ソフィーと呼んでほしいと言い放つ少し前、――――そのひと時だけ真っ直ぐこちらを見てくれたような……

 見つめ合ったのは、あの夜にした口づけ以来だった。

 嬉しい。嬉しかった。
 もう二度と見つめ合えないだろうと思っていた。それほどまでのことを自分はしでかしたと思っていたから。
 あの夜の事を考えて、ちくりとした痛みがブルームの胸を刺す。

(私はなんて情けない男なのだ……)

 初夜を逃げ出した事も情けないが、それ以上に情けないのは――――自分自身だ。

 ブルームは経験の無さが露呈することを恐れた。
 十も歳が離れている夫婦だ。少しでも頼り甲斐のある格好いい男でいたいと思うのが普通だろう。
 ソルフィオーラの美しい青空色の瞳には自分がそんな風に映っていて欲しかった。そしてそれを壊したくなかったのだ。
 それがあんな失敗を招いた。

 ありのままの自分を曝け出し受け入れてもらってこそ夫婦だ。
 父と母もそうだった筈だ。
 それが出来なければ本当に夫婦とは言えないし、彼女を愛称で呼ぶ資格も無い。
 物語の主人公のように魔法が使えるのなら今すぐ時を戻してあの夜をやり直したい。

(私は……彼女と添い遂げたい)

 天窓から降り注ぐ光に晒された金糸の髪が太陽のように燦々と輝く。
 太陽に愛された我が愛しの天使――――いつ見ても、何度見ても、自分には彼女がそう見えて仕方がない。
 なのに、再会から今まで太陽と評された彼女の笑顔を見ておらずその表情は曇りっぱなしだ。
 それをさせているのも、他でもない自分なのだ。

(……言わなければ)

 ソルフィオーラがこうして一歩を踏み出してくれたのに、自分も踏み出さないでどうする。

「……私は、貴女に……謝らなければならない」
「……? あやまる……?」

 ゆっくりと紡ぎ出せば、ブルームの言葉にソルフィオーラが小首を傾げる。
 一瞬だけ目が合ったがすぐに逸らされた。

「今の私には……貴女と近しい者でいる資格が、無い」

 ソルフィオーラがハッと顔を上げ、切なげに表情を歪ませる。
 不安の色を帯び始めた瞳がちらちらとブルームを窺う。
 その瞳から不安が伝わってきて、ブルームもまた苦しい気持ちになった。

 どうしようかと一瞬一考した。
 きっとソルフィオーラは別れを切り出されるのではと思ったのだろう。
 しかし、今からブルームが話そうとしているのは違う。別れではなく告白だ。

 自分が本当は情けない男であるという告白――――
 だから、別れを切り出されるとしたらそれは自分の方だ。
 きっと間違いなくソルフィオーラを幻滅させてしまうだろうから。

 それでも伝えなければいけない。
 不安を押し退けて、本当の自分を曝け出し二人の未来を繋ぐために。

 ブルームは思考をやめ、ちらちらと窺う視線を真正面から受け止めた。

「私は今まで……女性と親しい仲になったことがない」
「え……?」
「……男女の関係を、結んだことがないのだ」
「男女の……関係……」

 ブルームの言葉を繰り返したソルフィオーラの頬にぽっと朱が差す。

「ソルフィオーラが……私の、初めてなのだ」
「私が……ブルーム、さまの……」
「――――そうだ」

 みっちりと本が詰まった本棚と本棚の間。
 二人きりの静かな空間に肯定するブルームの声が響いた。
 ソルフィオーラの瞼が戸惑いがちに伏せられる。

 我が家よりも位が高く自分よりも十二も歳上で、一通りの事は経験していそうな男が、衝撃的とも言える告白をしたのだ。
 夫から告げられたまさかの事実に戸惑うのも無理はなかった。

「……恋愛……指南書……」

 今度はブルームがハッとする番だった。
 窓枠に置いた右手の下、そこにあったのは先ほどブルームが見ていた例の本。
 ブルームはその時になってまだそれを手にしていた事に気づく。

「こ、これは……その……!」

 体温が瞬間的に上昇する。
 ぽっぽっとあちこちが熱くなって妙な汗が出た。
 置いてきたと思っていたので予想外の存在につい焦ってしまい、この後語ろうとしていた言葉がどこかへと消え去ってしまった。

「……その……だな……」
「…………」

 祖母の本をそれとは反対側に置くとブルームは腕を組み、落ち着きなく指をとんとんとリズミカルに動かした。

 これが仕事であれば予想外の事にも冷静に対応できるのに、やはり対人(ソルフィオーラ相手)では駄目駄目である。
 何か言おうとしても口がぱくぱくと動くだけ。
 恥ずかしい云々はさておき、今後のために性技について勉強していたなんて流石に言えるわけが無い。
 ――――恋愛指南書と知り、ソルフィオーラがその内容について予想していたとしても。

 結果、場の空気は再び静寂に包まれた。

「……ブルーム様は……わたくしに許して欲しい、ですか?」

 だが意外なことに沈黙はすぐに破られた。
 それもソルフィオーラによって、だ。
 ブルームは妻の問いに静かに答える。

「……許す……そう、だな。私は自分の事しか考えていなかったから、あんな最低な事をしてしまった。……夫失格だと思っている」

 情けない自分を見せて格好悪く思われたくなかったから、隠した。
 情けない自分を見られたことが恥ずかしくて仕方なくなって、逃げた。

 それが明らかになった時、それ故の失態を犯した時、そのときソルフィオーラがどう思うかなんて考えもしていない。

 こんな自分、振られて当然なのだ。
 ブルームは静かに愛しき妻の決断を待った。

「…………許しませんわ」

 少し間をおいて下された判断が、嫌味なほど鮮明な音として耳に届いた。
 ソルフィオーラの声が刃となって心の奥深くに至るまでぐさりと刺さる。

 そう思われても仕方がないことだ。
 納得できる。
 自分でも分かっていたことではないか。

 しかし、それが現実となったとき計り知れない絶望感が襲い来るなんて思いもしなかった。
 自嘲気味に笑い、ブルームは声を絞り出す。

「そう、だろうな。こんな情けない男と生涯添い遂げようなど――」
「――許しません。 ……でも、口づけをしてくださるのなら……許してあげてもいいですのよ……?」

 時が、止まった。
 ほんの一瞬だけブルームは何を言われたのか分からず目を見開いた。
 言葉の最後は尻すぼみになっていたのではっきりとは聞き取れなかったが。

 ソルフィオーラはワンピースの裾を固く握り締めて立っていた。

 顔は林檎のように耳まで真っ赤。
 怒ったような困ったような微妙な形の眉に、瞳はおろおろと揺れている。
 唇をぎゅっと真一文字に引き結んで。

 ソルフィオーラはブルームを待っていた。

「――――貴女と言う人は……っ」
「あっ」

 指南書がブルームの手から離れ床に落ちた。
 バサリと大きな音が立ってもブルームは気にもしない。
 言い放たれた言葉を理解したと同時に堪らなくなって、自分より頭一つ分小さな妻を己へと引き寄せ抱きしめた。

「どうして、そんなにも……っ」
「ブルーム、さま……」
「――――そんなにも……!」

 愛しくて、愛しくてたまらないのだろう。

 男は単純だと、昔母親が語っていたのをブルームは思い出す。
 その時は――そんなことはない、男はしっかりした生き物だと反発した。
 だが、実際に夫婦喧嘩の後で不機嫌さをあらわにする父に母が甘い顔をして寄り添ってみせると、途端に父の表情が緩んでいくのを見たことがあった。

 今なら分かる。
 母が言った単純の意味も、父が母に甘いのも。

 男は心から愛した者に対してとことん弱いだけなのだ。

 彼女は許すと言った。
 その上でキスをして欲しい・・・・・・・・とねだったのだ。

 だからブルームもソルフィオーラの言葉一つで感情が高まっていくのを抑えきれなかった。
 
 波打つ金糸の髪から、ふわりとハチミツ林檎の香りが漂う。
 それを胸いっぱい吸い込んで――ブルームは林檎のように頬を赤く染めたソルフィオーラへと口づけた。

「んっ……」

 可愛らしいことを言い放ってくれたそこを味わうように何度も何度も唇を食む。
 キスの合間にこぼれた甘い吐息が降りかかるが、ブルームはそれさえも食らうようにソルフィオーラの唇を貪った。

 初夜のぎこちないものとは違う、少し腕を上げた初心者のキスだ。
 ただ唇を押し当てるものから、彼女の柔らかな唇を堪能するものへと変化していた。

 どこかの窓が開いていたのかどこからともなく風が舞い込んで、床に落ちた本のページをぱらぱらと捲っていく。
 やがて止んだ風が開いたのは、恋人の証――キスについて記された所。

 ブルームはしっかりと学んでいた。
 しかし本人はあくまで無意識。
 ただただ彼女にキスがしたいと思っての行動に、得た知識が自然に反映されていただけなのだった。

「……はぁ……っ」

 ゆっくりと顔を離すと、はぁはぁと息は荒くどこかうっとりしたような瞳でソルフィオーラがブルームを見上げる。
 ばっちりと目が合ったのだが、やはり視線を逸らされてしまった。

「……ソルフィオーラ」

 妻の名を呼ぶブルームの声が降り注ぐ春の陽射しに溶け込む。

 その後で告げる言葉は口づけた瞬間から決めていた。
 青空色の双眸がちらりと窺い見てきたタイミングでブルームはしっかりと伝えた。

「――――今夜、忘れ物を取りに行く」

 そして今度こそ夫の務めを果たしソルフィオーラを真に手に入れる。
 ブルームの逞しい腕にいだかれて、愛しい妻は小さな頷きを返した。
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