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蘇る記憶―六年前―

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「ばーるーとぅーるーすー!」

 ある晴れた日、湖岸で釣りをしているところへ声が掛けられた。
 振り返る前に、肩に体重が乗り視界から青空が消える。代わりに目の前に広がる綺麗な紅色。
 逆さまの幼い少女の美しい紫水晶アメジストに自分の顔が映っている。

「ヒューシャ」
「ねっ、ねぇっ? 明日が何の日か覚えてる?」

 上下に分かれたボスコの衣服を纏う彼女のちらりと見える臍が眩しい。幼馴染のヒューレシアはわくわくと楽し気にバルトゥルスの隣へ腰を下ろす。
 期待を込めた無邪気な瞳がじっと捉えているので、湖から視線を離さなかったバルトゥルスはつい苦笑いを浮かべた。
 明日が何の日か、そんな大事なこと忘れているわけがない。
 だが、バルトゥルスは勿体ぶって答えないことにしてみた。
 あえて黙っていると、答えてくれるのを待つヒューレシアは湖に足を入れバシャバシャと水面を叩き始めた。

「……もしかして、忘れちゃった?」

 すると彼女がしょんぼりと眉尻を下げ悲し気なトーンで呟くので、ちくりと良心が痛んだバルトゥルスはやっと期待に応えることにした。

「忘れていないさ。明日は――ヒューシャが成人する日だろう?」

 答えると、ヒューレシアは花開くように表情を輝かせた。その眩しい笑顔に、ついオルトゥルスの頬も緩む。

「他には?」
「……他?」
「もうっ! そっちの方が大事なのにっ!」

 バルトゥルスの返答にヒューレシアがぷくっと頬を膨らませる。
 表情豊かなヒューレシア。答えるべきことは分かっているのだが、ころころと変わる彼女の可愛い顔見たさについやってしまうのだ。
 バルトゥルスは竿を上げ傍に置くと、ヒューレシアの方へ身体ごと向ける。そして手を彼女の燃えるような紅い髪に乗せた。

「――――分かっているさ。俺は約束を破らない」

 彼女の柔らかく長い髪を撫でながら告げる。それから彼女を引き寄せ――――小さな唇に己のを重ねた。

 もうすぐ族長交代の時期が来る。
 現在の族長――バルトゥルスの父の跡を継ぎ自分がなる予定だ。しかしそれには嫁を娶るという条件があった。愛する者の支えなくボスコ族をまとめることは出来ないという考えからだ。
 ボスコ族は恋愛も自由だ。だから複数人と関係してもいい。実際父も二人の女性と婚姻関係にあり、どちらとも子を成した。バルトゥルスの一月後に生まれたオルトゥルスは、腹違いの弟だ。
 複数と関係することは考えていなかったのだが、ヒューレシアは言った。

『ねぇ、バルトゥルス。私を一番にお嫁さんにしてくれる?』

 誰よりもバルトゥルスが好きだから誰にも先を越されたくない、だから嫁を取るなら最初は自分にしてほしい。族長となる未来が当時から決まっていた自分にヒューレシアがそう告白したのだ。
 ヒューレシアは自分にとって守りたい存在だ。妹のように大事にしてきた彼女が家族を亡くし独りになってしまったとき、誰よりも自分が守ってやらねばと思った。
 だからこれから夫婦になる二人が行う『誓いの儀』をやると聞き、それが見える場所で彼女に想いを伝えようと思ったのに先を越されてしまった。
 元から彼女と婚姻するつもりだったバルトゥルスは『勿論だ』と返し、その証にヒューレシアと初めて口づけを交わした。

 それから何度か唇を重ねたが、その度にヒューレシアは頬を染める。初で純粋なところがつくつくとバルトゥルスの男の部分を刺激するので、実は我慢するのが大変だったりするのである。
 短い、けれど確かな誓いを乗せた口づけにはにかむヒューレシア。

「えへへ……。バルトゥルスのこと、信じてるんだけど、つい、聞きたくなっちゃうんだ。ごめんね」

 申し訳なさそうに微笑み『ほら、私身体小さいし』と付け足す。
 明日で十五になるヒューレシアと、一月後に二十一になるバルトゥルス。
 確かにヒューレシアは年の割には小柄だ。胸のふくらみもささやかなもので、ボスコ一の美女である双子姉妹ベルボワとベルシルワを見ては自身に視線を落とし落ち込んでいるのをよく見かける。
 更に自分と並んで立つと頭二つ分以上の差があるので、父が二人でいるところを見かけては彼女を『可愛い小熊ウルミーニョ』と呼ぶので気にしているのだろう。最近では三歳下の弟――オルトゥルスやベルボワとベルシルワまでがそう呼ぶようになった。
 自分は気にしていないのだが(むしろそれが可愛い)並んで立った時に余計それが目立つ上、恐らく六歳の差も気にしている。
 まだ子供として扱われるヒューレシアと、成人として様々な経験をしてきたバルトゥルス。
 どうしても『大人』と『子供』という感覚から抜け出せないのだ。

「ヒューシャ……」

 ――――ありのままのヒューレシアが、好きだ。
 そう言葉を紡ごうとしたのだが、遠くもない距離から聞こえた自分を呼ぶ声に遮られてしまった。

「バルトゥルス、親父――あ~……族長が呼んでるぜ」

 やってきたのはオルトゥルスだった。今日は珍しく双子は連れていないらしく、湖のそばに広がる麦畑の間を一人で歩いている。
 バルトゥルスは立ち上がり、彼に応える。

「族長が?」
「ああ。ていうか男ども全員招集されてる」
「――――何かあったのか」
「どうもそうらしいぜ」
「そうか……」

 短く会話をし、バルトゥルスはヒューレシアの方に目を向ける。
 するとオルトゥルスがそこでやっと彼女のことに気づいたとでもいうようにやや大げさに驚いてみせ、

「おーっと、なんだお前そこにいたのかぁ! 相変わらず小せぇから見えなかったぜ、可愛い小熊ウルミーニョ
「あーっ! またオルトゥルスはそういうこと言う! バルトゥルスより小さいくせにー!」

 それに対してヒューレシアがぷんぷんとオルトゥルスに吠える。ちなみに兄弟の身長差は頭一つ分くらいだ。確かにバルトゥルスより低いが、それでも充分背の高いオルトゥルスである。
 弟は何かとヒューレシアをからかおうとするので困る。

「オルトゥルス」

 なのでバルトゥルスは名前を呼び静かに睨んで見せると、彼はおどけながら『はいはい』と肩を竦めた。
 ヒューレシアが可愛いのは分かるが、少しは遠慮してもらいたいものだ。そう思いながらも口には出さず、未だぷんぷんと可愛らしく弟を睨むヒューレシアを宥める。

「行ってくる。後でまた話そう」
「……うん、行ってらっしゃい」

 ヒューレシアの紅髪をさらさらと撫で、一房取って唇を落とす。
 二人の間に漂う甘い雰囲気に当てられたオルトゥルスが呆れた声で『早く来いよ』と急かす。自分は双子とよくべたべたしているのにな、と小声で囁くとヒューレシアがクスクスと笑った。
 彼女の笑顔は、太陽のように自分の心を明るくしてくれる。この笑顔を守れるのが何よりも幸せである。
 バルトゥルスはヒューレシアの髪を名残惜しそうに少し弄ってから離す。それからひらひらと手を振り微笑む彼女に見送られながらその場を後にした。


 まさかそれが彼女の笑顔を見れた最後の日になろうとは思わなかった。
 それからずっと、守れなかったことを悔やみ続け、六年。

 今、ここに確かなぬくもりがある。
 背中に腕を回し強く強く抱き上げると、想いが溢れて涙となって落ちた。

 泣いたのは、男――――バルトゥルスだった。

「ヒューシャ……っ」

 ずっと、会いたかった。
 ずっと、信じていた。

「バルト……! バルトゥルス……バルトゥルス……っ」

 腕の中のヒューレシアが首にしがみつき、何度も確かめるように己の名を呼ぶ。

「ごめん、なさい…ごめんなさい……っ!」

 額を胸に擦り付けヒューレシアはわんわんと泣く。
 しがみつく力が昔より弱い。
 あんなに明るく活発だったヒューレシアは、この六年の間で随分様子が変わった。どれほど辛い環境に身を置いていたのだろう。『ドレイ奴隷』というものをよく知らないが、再会した時の彼女は全身傷だらけだった。
 少し身体を離し抱えたヒューレシアの顔を覗き込み――それから、唇を重ねた。

「……んっ」

 突然の口づけに、ヒューレシアの小さな口からくぐもった声が漏れた。
 離れていた時を埋めるように、バルトゥルスは深く深く口づける。

 涙に塗れくしゃくしゃになった幼い顔。だが少し大人になった。
 紫水晶の瞳の輝きだけが変わらない。一見妖艶な色の奥にしっかりと彼女が持つ純粋さがある。その瞳に見つめられていたから、オルトゥルスは彼女を守る者になろうと力をつけたのだ。
 口づけを止めぬまま、バルトゥルスは彼女の耳へと触れる。
 ちぎり取ったような傷口だったヒューレシアの可愛らしい耳は、まだ歪のままだが傷はしっかりと塞がっている。
 痛々しいほど全身にあった擦り傷やミミズ腫れも、しっかりと薬を塗りこんだ甲斐あり綺麗に治っていた。あの薬草は本当によく効く――――

「ヒューシャ?」

 彼女の腕の中にあるものに気づいたバルトゥルスはようやく彼女を解放し、『それは?』と問い掛ける。
 息つく間もないキスを与えられ上気した顔のヒューレシアもその存在を思い出し、ごしごしと手の甲で涙を拭う。それから紫の双眸を自分に向け、それを差し出してきた。
 それはバルトゥルスが彼女の傷の手当てに使ったものと同じ薬草。
 あの日の彼女はそれを抱えていたのを確かに見た。

「これ……っ、あの日、バルトゥルスに、持っていってあげたくて……! わたしのせいで…ごめんね……っ、もう、その傷、消して…あげられないけど……っ」

 ヒューレシアが再度嗚咽を漏らし始めた。首元にしがみついた手で毛皮越しに背中を撫でられる。
 そこにあるのは、彼女を守った証と守れなかった痕。

 あの日の後悔が、再び脳裏に蘇る。


 ◆


「襲われた?」
「――――ああ。幸い命に別状はねぇらしいが」

 祭事などで使われることもある集会所。腕に朱で入れられた紋様がある男が中央に立っている。その周りをボスコ族の男衆が囲い座っていた。
 男は、ボスコ族を取り纏める長であり、バルトゥルスとオルトゥルスの父だ。身体に刻まれた紋様は長の証である。
 今朝、ボスコ族の若い女が濃霧の森へキノコを採りに行ったところ、熊に遭遇したという。

「相手は……それはそれはデッケェ熊だったそうだ」

 それなりに狩り経験のある成人女性だったが、あまりの大きさに敵わないと悟り命からがら逃げてきたのだという。命に別状なく逃げ延びることができたのは奇跡に等しかった。
 そんな話を聞いた男たちからどよめきの声が上がった。狭くはない空間に騒めきが広がり始める。
 ある者は隣の者とひそひそ囁きあい、ある者は顔を強張らせ、ある者は興奮に顔を赤くしていたりと、三者三様の反応を見せるその光景を、バルトゥルスは父の隣で腕を組み眺めていた。

「それってまさか、ヒュージとアレシャを……」

 緊張した面持ちで尋ねる中年の男。しかしその問い掛けはやや遠慮がちだった。
 ヒュージとアレシャは、ヒューレシアの両親の名前だ。
 なぜここで二人の名前が出てくるのか? 男は恐らくこう言おうとした筈だ。

 ――――二人を殺した熊ではないか? と。

 ボスコ族一を誇る狩りの腕前だったヒュージとアレシャ。二人は仲睦まじく、一人娘のヒューレシアが成人したら三人で狩りに行くのが楽しみだとよく言っていた。
 そんな二人が四年前、命を落とした。――――凶暴な大熊の爪に引き裂かれ、無残に。
 犯人である熊は、その後鳴りを潜めてしまったのかしばらく目撃情報は無かった。どこか遠くへ移動したか、ただ単に偶々出会わなかっただけか。

「今回の件を受け、討伐隊を組むことにする。これ以上被害を出さないためだ」

 父が告げると、皆一様に頷く。言葉はそのあとも続いた。

「俺、バルト、オルトの三人を中心に隊を三つに分ける。先陣は俺の隊、その右後方からバルト、左後方からオルトといった陣形で進む。出発前に大いなる精霊グラン・エルメに祈りを捧げていく。加護が無けりゃ霧の中に紛れた仲間の位置を知ることはできん」

 作戦の概要をあらかた告げ終えると、数刻後に再びここへ集合を決め解散となった。
 男たちがわらわらと集会所を出ていく。
 バルトゥルスもそれに続こうとしたところ、父に呼び止められた。

「大熊はヒューレシアにとって仇でしかねぇ。だが話はいずれ耳に入るだろう」
「……分かっている。どこかからヒューシャの耳に届く前に、俺が話をするつもりだ」
「ならいい。てめぇの大事な可愛い小熊ウルミーニョだ。しっかり見とけよ。出来るならとどめはお前がやれ。そうすりゃヒューレシアも少しは救われるだろうよ」
「ああ、もちろんそのつもりだ」
「ガハハッ! それでこそ俺の息子だ!」

 肩をバンバンと叩かれ呻く。豪快に笑う父に見送られバルトゥルスは外に出た。

 気づけば背は父に追いつきつつある。逞しさはまだ敵わないが、鍛錬を毎日欠かさず行っているので筋肉も徐々に付き腕が太くなってきていた。
 すべてはヒューレシアのため、鍛錬の成果を見せる時だ。
 この手で彼女の仇を討ち、安心させたい。
 そして胸を張って父の跡を継ぎ、ヒューレシアを迎えるのだ。

「ヒューシャ……」

 笑う彼女の顔を思い浮かべ、バルトゥルスは拳を固く握りしめた。
 湖上にある木造の道を進みわが家へと向かう。
 その道中にある、例の襲われた女の家の前を通った時だった。

「あっ、バルトゥルス……!」

 長い髪を三つ編みにした若い女が出てきた。彼女が件の者だろう。腕には薬草の塗りこまれた傷当てが巻かれており、僅かに血が混じった薬液が垂れている。
 慌てたように飛び出してきたので、何事かとバルトゥルスは足を止めた。

「ヒューレシアに会わなかった?」
「……ヒューシャがどうしたんだ」
「それが……」

 言い淀む女の表情に、嫌な予感が過る。そしてその予感は的中することになり、バルトゥルスは駆け出す。

 ――――自分が話す前に、熊の事を耳にしたヒューレシアが森へ向かってしまった。

 武器を取りに帰ることもせず、バルトゥルスは女に聞いた熊の出現場所へ走る。
 まだ成人していないヒューレシアの精霊の加護は未完成だ。そのまま森へ入れば迷い、最悪命を落としかねない。大熊に出会ったとしても、ヒューレシアには討てないだろう。まず、今のヒューレシアは冷静さを欠いている。感情の赴くまま走り、復讐に燃えている。
 そんな彼女を放っておけるわけがない。彼女は自分が守らねばならない。

『俺はずっと、ヒューレシアだけを守り、ヒューレシアだけを愛す』

 あの日、そう誓ったのだ。
 バルトゥルスは霧の境界に飛び込むと同時に叫んだ。

「ヒューシャ!!」

 己に宿る精霊の声を聞きながら、バルトゥルスは名前を叫び続けとにかく走る。
 霧のどこかにいるだろうヒューレシアを探し、やがて精霊が彼女の場所を捉えた。
 濃い霧の向こうに、ぼんやりと影が見える。
 大きな影と小さな影。それはまるで熊の親子のように見えた。

「――――ヒューシャ!!」

 そして見えたものは、ぎらりと光る熊の鋭い爪と、それに狙われたヒューレシアの恐怖に怯えた顔だった。
 大熊の爪が彼女めがけて振り下ろされる――――

「きゃああああああああっ!!」

 絹を裂くような女の悲鳴と同時に背中の皮膚が引き裂かれる感覚がする。びりびりと破られたところが激しい痛みをもたらし、バルトゥルスは地面に転がった。

「バ、バル……バルトゥルスっ!!」

 悲痛な叫びと共にヒューレシアが駆け寄って来る。
 転んだのか頬に擦り傷はあるが、それ以外は無事なようだ。

「ヒューシャ……無事だったか」
「や、やだっ、私のことより、バルトゥルスが……っ!!」
「お前が、無事なら……何よりだ」
「そんなわけないよ! だって、ち、血が……いっぱい……!」

 激痛を超える痛みが背中を占領しているため感覚があまりないが、止めどなく血が溢れ出しているだろう。熊の前に飛び出しヒューレシアを庇ったのだから、重傷であることを自分でも分かっていた。
 だが、それがどうしたというのだ。バルトゥルスにはヒューレシアを守ることの方が大事だった。
 毛を逆立たせた大熊が低いうなり声を鳴らしこちらを威嚇している。
 見れば熊の身体に真新しい傷があり、そのせいで相当気が立っているようだ。
 すぐ近くの地面に刃の長いナイフが転がっていた。おそらく彼女のものだろう、刃先に血がついている。
 ――――こんなナイフ一つで熊に立ち向かおうとしたのか。よく無事でいられたなと安堵したのと同時に彼女の勇ましさに感心した。
 バルトゥルスはナイフを手に取り、ゆっくりと立ち上がる。ヒューレシアの瞳に驚愕の色が浮かんだ。

「バルトゥルス……!?」

 無理もないだろう、普通なら立てない怪我であるのに立ち上がって見せたのだ。
 実際今にも倒れそうだ、頭がクラクラする。血が失われていく気配がずっとしている。このままでは命に関わるだろう。それでも、おとなしくなどしていられないのだ。
 彼女も自分も死ぬわけにはいかない。共に生きて帰り、明日を迎えるのだ。そして約束を果たすのだ。

「――――っぁあああああああああ!」

 それは、さながら命を歌う獣の咆哮のようだった。バルトゥルスは熊目掛けてナイフを振りかざす。
 背丈はバルトゥルスよりも大きな熊。これがヒューレシアの両親を殺したのだ。そう思うとこの熊がより大きく、そして恐ろしく見えた。
 突然向かってきたバルトゥルスに臆することなく熊も応戦する。自身に向けられた刃を手で払いのけ、バルトゥルスに飛び掛かる。
 バルトゥルスはいとも簡単に押し倒される。後ろでヒューレシアが短く悲鳴を上げたのが聞こえた。
 血走った瞳が見下ろす。
 生温かい息が降り掛かり、涎がぼたぼたと落ちる。
 酷いにおいがする。だが怯むわけにはいかない。熊の喉元を押し返し、涎に塗れぬらぬらと光る牙を遠ざけた。
 熊が腕を振り、バルトゥルスの胸元を浅く削る。走った痛みに少しだけ力が抜けた。だが背中のもの程ではない。

「ぅあああっ!!」

 バルトゥルスは熊の鼻目掛けて拳を打つ。まっすぐに放たれた拳を受け怯んだ熊がバルトゥルスの上から離れた。
 ――――その隙を見逃さなかった。

「おおおおおおおおおおおっ!!」

 押し倒されても、傷つけられても離さなかったナイフを熊の額に突き刺した。
 熊が苦悶の声を上げ地面を転がる。バルトゥルスはその上に乗り、もう一度刃を突き立てた。何度も、何度も。血しぶきが身体を汚す。
 やがて、静かになった。

「バルトゥルス……」

 何も言葉を発さず立ち尽くすバルトゥルスへ、恐る恐る声が掛けられた。
 かちゃんと乾いた金属音が鳴る。自分の手からナイフが落ちた音だ。
 視界が揺らぐ。

「バルトゥルス!!」

 ヒューレシアの柔らかい髪が頬を撫でる。彼女は何度も名を呼ぶ。
 バルトゥルスは彼女の髪を一房手に取り、口づけた。

「これでもう……」

 ――――お前の仇はいない。だから改めて誓う。ヒューシャ、俺と……

 視界は暗転し、ヒューレシアの泣き叫ぶ声が霧の中に響き渡った。
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