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安息

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 ぬるま湯に浸かっているかのような心地よさの中、意識が浮上を始める。
 近くで、ちゃぷんと水が揺れる音がした。続いて清涼な風がヒューレシアの頬を撫で付ける。
 それが覚醒のきっかけとなり、ヒューレシアは重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。

 見慣れた、しかしどこか違和感のある、藁葺の天井が目に入る。

 ここはどこだろう。ぼんやりとそう思ったのと同時に人の気配を感じ、ゆるりとそちらに目を向け――――ヒューレシアは目を見開いた。

 すぐ隣で男が寝ていた。
 自分より少し色の濃い褐色の肌に黒髪の見知らぬ男が穏やかな寝息を立てている。ヒューレシアはその男に腕枕をされる形で眠っていたのだった。男の存在を認識したことで寝起きの頭が稼働を始め、慌てて男から離れようと身体を起こす。

「――っ、い……!」

 同時に、びりびりとした痛みが全身を駆け巡り蹲った。その拍子に身体に掛けられていた布が落ち、ヒューレシアは再度驚くこととなる。
 裸だった。衣服も何も身に着けていない、正真正銘全裸である。
 訳の分からない状況に声にならない悲鳴を上げつつ、動くと身体が痛むことも厭わず落ちた布を胸の前にかき抱くようにしてヒューレシアは男から離れた。しかしそれほど距離は取れず背がすぐ壁に触れた。堅い木の感触が素肌をさらす背に伝わる。
 そのまま今自分がいる場所をきょろきょろと見回してみた。住んでいたオンボロ小屋に似ていたがそれ以上に広い木造の空間。空気は淀んでおらず、壁と同じように木で出来た格子窓から新鮮な風が入り込み清潔感を与える。
 耳を澄ますと水面が揺れる音が耳に入る。涼しいのは水辺が近いからだろうか?
 部屋は質素で最低限のものしか置かれていない。今ヒューレシアが乗っている簡素なベッドと藁を編んで作られたラグが部屋の中央に敷かれているくらいだ。……壁に立てかけられた槍が必要最低限に含まれるのかは分からないが。そもそも必要なものでさえ碌に与えられない生活をしていた自分よりは遥かにいい暮らしをしていそうだと思った。
 更には動物のものらしき毛皮がぶら下がっている。身体からそのまま剥ぎ取ったように顔まであった。……あれは熊だろうか、なんとなく見覚えがあるような。

 それに――――寝息を立てる男をよく観察してみる。

 均等に切り揃えられた黒髪。ヒューレシアよりは短いだろうが、男にしては長い。
 眉は凛々しさを表すように太い。そして彫りの深い顔立ち。
 首周りは太く、筋肉質で肩や腕が逞しい。厚い胸板に八つに割れた見事な腹筋……総じて屈強な成人男性という印象だ。立つ姿はきっと熊のような迫力がありそうだ。……熊?

 続いて自分の身体を確認してみた。一体どれだけの間寝ていたのか。相変わらず傷だらけではあるが、腫れは引き出血も止まっている。耳朶を引き裂く形で無理矢理証を外した傷口もまだじんじん疼くが当時ほどではない。触ると葉っぱのようなもので傷口を挟むように巻かれていた。血や汗で汚れていた身体も綺麗になっている。もしかしてこの男が……?
 だがしかし、手当や看病をしてくれたのだとしても見知らぬ男と寝所を共にすることになった状況はヒューレシアには問題で、さらに重要な事がもう一つある。大事な所は布に隠れているが男も裸なのだ。
 これらから導き出される答えはひとつ。……男女の関係を結んだという可能性以外考えられない。
 いくら奴隷で酷い生活を送っていたとはいえ、性に関する知識が皆無という訳ではない。記憶喪失だとしても一応は年頃の女。屋敷で働いていたメイド達が自身の恋愛遍歴をそこかしこでくっちゃべっていたのでそういう話は嫌でも耳に入ってきた。
 だが、ヒューレシアは処女だ。
 身体中は相変わらずあちらこちらが痛む。そのせいか噂に聞くあの痛みが今自分の身に起きているのかさっぱり分からない。じんじんするようなしないような……経験の乏しさ(処女なのだから当たり前)もあり判断がつかず、ヒューレシアは頭を抱えた。
 寝ている男が身じろぎする。その音に顔を上げると、黒曜石のような瞳と視線がかち合った。
 寝ぼけ眼でぼんやりとしている男。しばらくして目尻にくにゃっと皺を作り表情を綻ばせた。

「起きたのか、ヒューシャ」

 目の前に自分がいて凄く幸せ、と言わんばかりの男の表情にヒューレシアは戸惑う。
 ヒューシャと自分を呼んだ。その呼び名は欠片のように思い起こされた記憶の中で少年が呼んだものだ。懐かしい響きのある愛称をあの少年と同じ黒髪の男が口にした。
 何故男はそれを知っているのか? 男があの少年なのか?
 だが記憶で見た少年と目の前の男は違って見えた。ヒューレシアは脳裏に過る少年の姿を思い返す。

 小柄なヒューレシアに対し、頭ひとつ分高い少年。すらりと伸びた手足に程よく筋肉はついているが総じて見れば細い印象。動物に例えるなら大地を悠々と駆ける鹿だろうか。
 目の前の男はどう見ても熊だ。熊。それも大きなヒグマ。ちゃんと並んでいないからはっきりと分からないが、並ぶと自分より頭一つ分どころか三つ以上飛び出ていそうな身長。太く逞しく鍛え上げられた身体。自分くらいの小ささならその身体の中にすっぽりと隠れられそうだ。
 ――――あの少年とは似ても似つかない。共通点は髪と瞳くらいだ。眉だってこんなに太くなかった。

 この人は違う。絶対にあの少年じゃない。
 ――――じゃあこの人は誰なの?

 ヒューレシアが何の反応も返してこないことを訝しんだのか、男が起き上がる。こちらに熊のように大きな手を伸ばそうとして――――大事な所を隠す役割をしていた布がはらりと落ちかけたのを見て、ヒューレシアはハッと我に返った。

「こ、来ないで!」
「……ヒューシャ?」

 拒絶の言葉を投げたのに男は止まろうとしなかった。
 布がズレて生娘には見るのを憚られる男の大事な一部分がお目見えしかける。
 ヒューレシアは伸びてきた男の手をパシンと払い除け、精一杯身を捩り拒否の意思を伝える。
 こんな事をしたら怒られ殴られるかもしれない。だが男は怒るわけでもなく、きょとんと首を傾げていた。何故拒絶されているかさっぱり分からないという表情でヒューレシアを見る。

「ヒューシャ?」

 ――――どうした? と、男がもう一度呼び掛ける。柔らかな微笑みで。
 その微笑みがちくりと胸を刺す。男の優しい瞳が真っ直ぐに見れない。
 ヒューレシアは遠慮がちに小さな声を零す。

「……あなたは、だれ?」

 ヒューレシアの言葉を聞いた途端柔らかな笑みはスッと消え、男は傷ついた顔をした。


 ◆◆◆


 滑らかな感触の衣服を被り、すんと匂いを嗅ぐ。
 ほんの少し獣くさい。これは何か獣の皮なのか。だけどそれを好ましく思える不思議。
 簡素な作りをした服は今まで着ていたものと対して変わらない。長方形の布の真ん中を頭が通せるようにくり抜き、脇に紐をつけて結ぶか紐のベルトを腰に巻くかして着るもののようだ。
 それがボスコ族の女性の服らしい。ワンピースタイプのそれと、下はショートパンツで上は臍を出すビキニタイプのと二種類あったがヒューレシアはワンピースとショートパンツの組み合わせにした。下着も無くワンピースを着るのは心許なかったからだ。
 どうして女性の衣服があるのだろう。この家に男以外がいる気配は無いが、恋人か誰かのものだろうか? ちらり男を見れば彼も着替え……と言っても同じような生地のハーフパンツを履いただけで、上は裸のままヒューレシアの着替えを待っていた。見ないでと言ったヒューレシアの言葉を素直に受け入れ、目を閉じ座っている。

 男には自分が記憶喪失であることを話した。
 六年間奴隷としてある町の貴族の家で暮らしていた記憶しかなくそれ以前のものがすっぽりと無くなっていること、自分について覚えていたのは名前くらいであること、自分が今何歳であるのかも分からないことをヒューレシアが告げると、男は何も言わず寂しげに目を伏せた。

 やや間があって、それから男は教えてくれた。
 ヒューレシアは今濃霧の森を超えた先にあるボスコという種族の集落にいて、ここはそこにある男の家。水の音が身近に聞こえるのはこの集落が湖の上に造られているからだという。湖の辺りだけは何故か霧が晴れているらしく、言われてみれば格子窓から光が入り込んでいる。
 ボスコ族は熊や鹿などの獣を狩猟し、日々自給自足の生活を送る民族。幻の種族と呼ばれているのはきっとこのボスコの事だろう。ヒューレシアの褐色肌はボスコ族全体の特徴だった。男の髪は黒く、女の髪は赤い。だから自分はボスコ族のヒューレシアで間違いないと男は断言した。
 ちなみに裸で寝ていた理由は、単にボスコ族は裸で寝る習慣があるから。それでも裸にされた事には抵抗があったが、ボスコ族なのだから当たり前だろう? という男の無言の問いかけに閉口した。とりあえず、やましいことは一切ないと知りヒューレシアはほっとした。それから傷の手当の礼を告げると、男は柔らかく微笑んだ。
 男と出会ったのは昨晩のこと、濃霧の森の境目にある川で会ったそうだ。しかし人に会った覚えがないヒューレシアは首を傾げた。すると男は吊り下げられた毛皮を指差し、そこでようやくあの熊の正体が男だった事に思い至った。男の体格と森の闇が人である事を隠してしまっており、ヒューレシアの目には熊にしか見えなかったようだ。森に出る時は必ず熊の毛皮を被っているのだと男は言った。

 しかし、そこまで聞いてもヒューレシアは何も思い出せなかった。記憶の引き出しには引っかからず、そうなんだ……と他人事のような感想だけが後に残る。
 着替えを終えたヒューレシアは男の前に座る。
 男に自分との関係を問うと、彼は憂いの顔を俯かせた。それから何かを迷っているような素振りでニ、三度口を開いたり閉じたりを繰り返しヒューレシアから目を逸らしながらやがて呟く。

「言わない」
「……なぜ?」

 短い問い返しに、男は小さな笑みを返す。

「思い出して欲しいからだ」

 それから男がヒューレシアの方へ手を伸ばそうとして――――ヒューレシアはぴくりと身体を震わせた。熊のような大きな手が動きを止める。……が、遠慮がちにゆっくりと赤髪の上に乗せられた。
 その時身体を強張らせたが、嫌ではなかった。頭の上にある彼の手のひらは温かく、ヒューレシアを安堵させる。すぐに緊張は解かれた。
 ヒューレシアの髪を優しく撫で、男は立ち上がる。

「いずれ思い出す。ボスコにはエレメトの加護がある」

 言いながら男は身体の向きを変えた。首筋は太く、骨組みもがっしりとした広い背中がヒューレシアの方を向く。
 見上げるとその背はやはり高く一つの山のようだ。小さな自分と並んでみてそこでジャンプしても頭が男の肩を超えるのがやっとだろう。こんなに大きいのなら熊に見間違えても仕方がない。
 その背には引き裂かれたような大きな傷があった。右肩から左の脇腹にかけて刃でも振り下ろされたかのような傷だ。
 一体彼に何があったのだろう? 優しげな大男には似合わないそれにヒューレシアは息を呑んだ。
 そんなヒューレシアを振り返りもせず、男は言葉を連ねた。

「今、ヒューシャのエレメトは眠っている。だから思い出せない。……今は身体を休めるのが大事だ。モルヌを持ってくるから、それまで寝ているといい」

 そしてそのまま部屋を出ていってしまう。
 ハッと我に返り、取り残されたヒューレシアは首を傾げた。

「えれめと……? もるぬ……?」

 未だ男の熱が残る髪に手をやり呟く。触れた指先から男の温もりが伝わってくるような気がした。
 彼にはヒューレシアをどうにかしようという邪なものを感じなかった。大事な宝物を眺めるようにただ見つめるだけ。何故そんな目をするのかは分からない。男が隠す自分との間柄が関係しているのだろうか?
 あの男が記憶の少年でないのなら、あり得るとしたら親族といったところか。でなければあの目はしないだろう。
 分からない単語もあの男なら聞けばきっと優しく教えてくれる。戻ってきたら聞いてみよう。
 もう男への警戒心はない。あの熊のような手の温かさに持っていかれてしまった。

 男は身体を休めろと言っていた。そんな声かけをされたのは一体いつぶりだろうか、なんて思い返そうとして全く無かったことに気付き、奴隷という生活がそれほど悲惨なものだったということに改めて実感させられた。
 ヒューレシアはベッドへころりと横になる。薄い布の下にはふかふかに敷かれた藁があった。布に鼻を擦り付けると太陽に干された麦の香ばしいにおいが鼻腔を擽る。あのボロ小屋でも藁を敷いて寝ていたが、あまり交換はさせてもらえず大体いつもかび臭かった。
 すぅっと大きく息を吸う。懐かしさを感じる麦の香り。そして安堵の思い。
 六年間で初めて与えられる安息の時間にじわりと胸が温かくなった。
 お言葉に甘えて今は眠ろうとヒューレシアは目を閉じた。
 すると瞼の裏にまた映像が映される。あの少年と駆ける自分の姿だ。晴れ渡る青い空の下、大きな湖がそばに広がる麦畑の中で追いかけっこをしているようだ。
 これ以上の記憶も、あの少年のことも、ここにいればきっと思い出せる。落ち着いたら村を案内してもらうのも良さそうだ。そう考えていたらすっとぬるま湯に沈んでいくような感覚がヒューレシアを包む。
 ああ、眠い。心地よい眠りに誘われ、ヒューレシアは抗うことなく受け入れた。
 男が持ってくると言っていたモルヌが何かを期待して。


 そうして次に目覚めた時、部屋は食欲をそそるような香りに包まれていた。
 モルヌとは、なんてことはない、朝食のことだった。
 藁編みのラグの上に置かれたほくほくと湯気を上げる鍋を見てヒューレシアは腹をきゅるると鳴らした。
 男は寝起きのヒューレシアを手招き柔和に微笑む。

「さあ、食べよう」

 こうして男とヒューレシアの、記憶を辿る生活が始まった。
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