さよならとつぶやいて、きみは夏空に消えた

月夜野繭

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色褪せた写真の中のきみは

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 新幹線を東京駅で下車し地下鉄を乗り継いでやってきたのは、江戸川の河口にほど近い下町だった。江戸川を挟んで対岸はもう千葉県だ。
 駅から少し離れると、アパートやマンションが並んだ素っ気ない住宅地が続く。単身者用の賃貸住宅が多く、平日の昼間は特に静かだった。

「懐かしいな」
「……懐かしいの?」
「ああ、僕はここじゃないけど、近くの街に住んでいたんだよ」
「ふーん」

 ホタルは興味なさそうに相槌を打つと、透の手を引っ張った。

「ねぇ、トオル、こっちじゃない?」

 慣れない都会で迷子にならないようにという理由があるにせよ、二十代半ばの男が小学校高学年の女の子と手をつないでいるという状況がなんとなく恥ずかしい。親子にはさすがに見えないだろう。年の離れた兄妹……も、少し無理があるか。

「うん、そうだね。もう少しだ」

 透はスマートフォンで地図を見ながら小さくホタルにうなずいて、額の汗をぬぐった。

 それにしても、暑い。
 高山のふもとに広がる古城市と違って、七月下旬の東京は既に猛烈な暑さだった。湿度も高く、日陰を歩いていても汗が出てくる。
 だが、この不快な感覚ももう毎日のことではなく旅先での非日常なのだと思えば、懐かしく思えた。

 東京にいたころは、何もかもがうまく行かなかった。

 大学に入ってからできた初めての彼女は、ひと月もしないうちに『全然大事にしてくれない』『透の気持ちがわからない』と泣いて去っていった。卒業直前に告白されて、付き合いはじめた二番目の恋人にも思っていたかんじと違うと言われ、すぐに別れた。
 今思えば、彼女達は透の心の奥底に空洞があることを本能的に気づいていたのだろう。失われた記憶の中の少女を忘れられないような男は、恋人として失格だ。

「あ、あれじゃない? あの看板、見て。……トオル、どうしたの?」
「ん、いや、なんでもないよ」

 ホタルが首を傾げて、透を見上げる。表情は薄いけれど、心配してくれているのだということが伝わってきた。
 自分は、昨日会ったばかりのこの少女にも見抜かれるくらい暗い顔をしていたのか。透はほろ苦く笑った。

 恋愛関係だけではない。仕事にもいい思い出がなかった。

 かろうじて就職できた会社は急に業績が傾き、透を退職に追い込むために、上司が様々な嫌がらせをしてくるようになった。あからさまに無視され仕事の量を減らされ、ささいなミスを会議の場や同僚の見ている前で公然と責め立てられた。
 透の大人しい性格も災いしたのか日に日に人格攻撃の度合いは増し、透は体調を崩し夜も眠れなくなった。古城市に帰ってきて数か月経ち、最近ようやく悪夢を見ることが少なくなってきたのだ。

「喫茶、ラウンジ、……はな?」
茉莉花まつりか、ジャスミンのことだね」

 住宅街から細い裏通りに入ると、昔懐かしい雰囲気の店がひょいと目に入った。
『喫茶 茉莉花』は看板にラウンジの表記もあり、夜はスナックになるらしい。煉瓦造りの小さな花壇の奥に出窓があって、レースのカーテンがかかっていた。日焼けしたカーテンや窓際に置かれた陶器の人形に、どことなくノスタルジックな昭和の香りがする。

 昨夜のことだ。
 古い台帳のメモに書かれていた携帯に電話すると、意外なことにその番号は生きていた。

『夕凪杏子さんですか?』
『……どちら様でしょうか』

 しばらく呼出音が鳴ってから、不審そうに電話に出たのは落ち着いた声の大人の女性だった。

『古城市にございます、ほたるび骨董店の夏越と申します』

 幸い夕凪杏子はほたるび骨董店のことを覚えていたようで、写真立てとその中に入っていたはずの写真について尋ねたいという透の話を聞き、すぐに会ってもらえることになった。

『喫茶 茉莉花』は杏子が東京で働いている店だ。

「ごめんください」

 ホタルとともにドアを開けると、カロンカロンとカウベルの澄んだ金属音が響く。
 色とりどりのリキュールの瓶が並んだカウンターと、テーブル席が三つあるだけの狭い店だ。コーヒーの芳香が席の間を漂っていた。





 カウンターの向こうにいた五十代くらいの小綺麗な女性が、目を見張った。

「……透くん?」
「え? あの……」
「やっぱり透くんよね。骨董店の夏越さんのところのお孫さん。お店を継いだのね」

 知り合い、ではないと思う。幼いころの記憶を探っても覚えがない。……誰だ?
 杏子は少し寂しそうに笑って、テーブル席を指し示した。

「まぁ、とにかく座って。遠いところをわざわざ来てもらってごめんなさい。お店、わたししかいないから休めなくて」
「いいえ、こちらが無理にお願いしたことですから」
「アイスコーヒーでいいかしら」
「はい。……あと、なんにする?」

 横に立っているホタルに何か飲みたいものがないか聞くが、ホタルは何も答えない。いつもの表情の乏しい顔で杏子をじいっと見つめているだけだ。

「えーと、じゃあ、クリームソーダもお願いします」
「クリームソーダ?」

 とりあえず子供が好きそうなものを頼んでみる。
 きょとんとする杏子に、大人向けの喫茶店のメニューにはクリームソーダはないのかもしれないと思い至って、透は慌てて注文を変えようとした。

「あ、えーと、オレンジジュースはありますか」
「大丈夫よ。少し待っててね」

 しばらくしてから杏子がカウンターから出てきて、アイスコーヒーとクリームソーダを透の前に並べた。クリームソーダのグラスを、隣に座ったホタルの前に滑らせる。

 きっと杏子の性質が表れているのだろう。丁寧に作られたことのわかる、美しいクリームソーダだった。
 透明な氷がぎっしり詰まったグラスに夏空のような色の青い炭酸水がそそがれ、その上にディッシャーですくった半球形のバニラのアイスクリームと、真っ赤なサクランボがのっている。

 まじまじとクリームソーダを見る透に、母親くらいの年齢の杏子は穏やかに微笑んだ。

「それにしても、透くんは変わらないわね。大きくなったけど、子供のころの面影が残ってる」
「ええと、僕のことをご存知なんですか?」
「……そうね……」

 杏子は何かをためらって、言おうとした言葉を唇の中に閉じ込めた。

「……すみません。僕、もの覚えが悪くて。実は、子供のころのこともはっきりとは覚えていないんですよ」

 少しでも場を和ませようと軽い口調で冗談めかして言う透に、杏子は悲しげに苦笑して目を伏せる。

「……もう、十五年になるのね」
「十五年……」

 昨日ホタルが店に来てから、繰り返し現れる『十五年』というキーワードにどきりとした。

 十五年前に祖母が買い取った写真立て。
 その中に入っていたという十五年前の写真。
 そして、透の中から失われた、十五年前の初恋の思い出……。

「もし本当に覚えていないのなら、忘れたままのほうが幸せなのかもしれない。それでも、透くんは聞きたい?」
「…………」
「あの夏のことを」



 忘れたままのほうが幸せ?



「これ……」

 杏子がテーブルの上にそっと置いたのは、薄紅色の合成皮革のカバーがかけられた女性用の小さな手帳だった。
 手帳の間に挟まっていたのは、一枚の写真。

「この写真だけ、東京に持ってきたのよ」
「これは……」

 少し色褪せたL判の写真だ。古城市の名所である城址公園で撮られたらしい。数百年前に造られた野面積みの石垣に、木々の緑が濃い影を落としている。
 その前に笑顔で並んでいるのは、若いころの杏子と彫りの深い白人の男性、そして小学生くらいの女の子。仲のよさそうな三人の家族だった。

「ほかの遺品は、実家の押し入れの奥に置きっぱなし。もう誰も住んでいないから、どうなっていることやら」



 ……ほかの、遺品。
 


 遺品?

 突然目の前の女性の口からこぼれた不穏な響きに、頭を殴られたような気がした。
 大地が、世界が、ぐらりと揺れる。足もとにあると信じ切っていた堅牢な土台の底が急に抜けて、底の知れない深淵が口を開く。

 ……違う。これは眩暈だ。
 揺れているのは、自分自身だ。

 もう一度、写真を見る。明るい笑顔の母親と優しそうな父親。国際結婚の夫婦と、可愛らしい一人娘。
 肩の長さで切りそろえた栗色の髪。日焼けのあとのない白い肌。生き生きと輝く榛色の瞳。



 これは、ホタルの顔だ。
 そして、もうずっと思い出せなかった、幼馴染みの顔……。



 ――蛍。



 隣に座るホタルを見る。

 そっくりだ。

 蛍、なのか?
 きみが、蛍なのか?

 ホタルの前に置かれたクリームソーダのアイスクリームが溶けて、グラスの外にあふれてしまっている。夏空のように美しかったクリームソーダが、混沌とした青味泥と化していた。

 ホタルはクリームソーダが嫌いなのだろうか。

 そんな場合ではないのに、くだらない疑問が湧いてくる。
 子供はアイスクリームが好きだと思っていた。少なくとも、少年時代の自分にとってクリームソーダは特別な飲み物だったし、蛍も好きだったはずだ。

「いや、クリームソーダだけじゃない」

 ホタルは、好きだと言った麦茶も飲まなかった。
 それに……思い出せ。新幹線の中で、暑い陽射しの下で、ホタルは何か飲み食いしたか?

 透は寄る辺ない子供のように不安になった。

 昨日から、ホタルがものを口にしているところを一度も見ていない。
 ほんの二日の付き合いだ。ホタルはそういう質なのかもしれない。不思議はないのかもしれないけれど。

 ホタルは。



 きみは……何者なんだ?



「透くん……?」

 杏子に声をかけられて、透はふっと我に返った。

「大丈夫?」
「はい……」

 静かに立ち上がった杏子はカウンターから布巾を持ってきて、溶けたアイスクリームで汚れたテーブルをふいた。

「何か別のものを作りましょうか?」
「いえ……、すみません」

 クリームソーダのグラスを下げ、透の前に座り直りした杏子は唇の端を上げ笑顔を形作った。

「気にしないで。……わたし、ずっと透くんに謝りたかったの」
「謝る?」
「あなたのせいじゃないのに、あなたを責めてしまったこと。もしかしたら透くんは、そのことで自分を責めつづけているんじゃないかと思って」

 なんの話だ?
 僕が自分を責めつづけている? なぜ?

「わたしは幼いあなたを詰ることでしか、自分を保てなかった。本当にごめんなさい」

 何を?
 何を、自分はこのひとに詰られたのだろう?

「すべてはあの夏のせいなのよ。……苦しいくらい暑かった、あの夏の」

 あの、夏。





 十五年前の夏の一日。

 高原の街、古城市は七月としては珍しい真夏日だった。
 痛いほど烈しい太陽の光。ちらちらと輝きながら清らかな音を立てて流れる渓流。日射に焼けた河原の石ころ。

 丸い石から平らな石へ、鹿の子のように裸足で飛びまわるきみ。

『あっつい!』

 石の熱さに悲鳴を上げる少女。

『透もこっちにおいでよ』

 蛍が、笑った。





 透は思い出した。
 すべてを。




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