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番外編 幼なじみはあの娘に夢中
1.彼女は陽気なパン屋さん
しおりを挟む「黒麦パンの大きいのを一個ちょうだい」
「はーい! 毎度あり!」
パン屋の売り子の明るい声が大勢の人の行きかう早朝の路地に響いた。
「ちょっと待ってね。えーっと」
店先に並べた中で一番大きな丸パンを持ってきて、秤にのせ重さを量る。そして、売り子の娘は「はい、どうぞ」と恰幅のいい女性の籠にパンを入れ、硬貨を受け取った。
「おばさん、腰の具合はどう?」
「最近は孫が家事を手伝ってくれるようになったから、だいぶ楽だねえ」
「そっか、エリーももう四歳?」
「ああ、今度連れてくるよ」
「エリーにも会いたいわ。わたしが王都を出た時はまだ赤ちゃんだったもんね」
若い娘の屈託のない笑顔とちょっとした気遣いに、女性客も微笑みを浮かべた。
二年ほど前、親戚に誘われて遠い町に働きに行ったという彼女は最近王都に帰ってきたばかり。母親と二人暮らしだった少女は母が病で世を去ったあと王都から出ていったのだが、どうやらその親戚の商売がうまく行かず、働き口を失ったらしい。
天真爛漫で人気者だったパン屋の看板娘がいなくなってさみしがっていた隣近所の人たちも多く、久しぶりの再会にみんな喜んでいた。
「でもねー、ここで雇ってもらえるのは今日までなの。ほら、お嫁さんのサラが売り子をしてるし、手が足りてるから」
「おや、そうなのかい?」
「うん、最初から次の仕事が決まるまでって条件で働かせてもらってたんだ」
彼女が王都を離れている間に、もともと働かせてもらっていたパン屋の主人が結婚して妻が売り子を兼ねるようになった。
それほど余裕のあるわけではない小さな店だ。もとの従業員が困っているのを見かねて臨時で雇ってくれたという事情だったので、彼女はあたたかい好意に感謝しながら次の仕事を探していた。
「今夜から『十字路の黒髭亭』の女給になるわ。だから、あんまり会えなくなっちゃうかも」
「酒場の仕事かい?」
「そう、もうちょっとお金がたまるまではがんばらなきゃ」
未婚の女性にとって安全とは言い切れない仕事だけれど、やはり給金はいい。新しい仕事を探しつつ、当面の生活費を稼ぐ予定だった。
「そりゃ大変だ。くれぐれも気をつけなよ。酔っぱらいは厄介だからね、ジュリエット」
「ええ、ありがとね!」
榛色の目を細めて明るく笑うと、ジュリエットは次の客の相手を始めた。
数か月前、レスルーラ王国のとある貴族が汚職に手を染めていたことが明らかになった。事は次第に大きくなって、内乱が起きるかどうかという瀬戸際まで状況は緊迫した。
その問題はさまざまな事態を引き起こしながらもなんとか収束したけれど、首謀者の貴族、ウィバリー伯爵とその一派は処刑ということになった。
ジュリエットはそのウィバリー伯爵の娘だった。伯爵が下働きの娘に生ませた隠し子だったのだ。
本来なら伯爵家に引き取られたジュリエットにもなんらかのお咎めがあるはずだったが、父親の罪を告発し王家に協力したことを認められ、平民に身分を落とされただけですんだ。
今後ウィバリーの名を決して名乗らない。伯爵家の財産はすべて放棄する。
それがジュリエットに課せられた条件だった。
ひそかに援助を申し出てくれた人もいた。急ごしらえの伯爵令嬢として王立学園に通っていた時の同級生、王太子のヴィンセントだ。
でも、それも断った。
「いらっしゃませー!」
「堅焼きパンを十個ばかりおくれ」
「はーい」
うしろで二つに縛った灰茶色の髪が元気よく跳ねる。
くるくるとよく動くジュリエットの姿は、下町になじんで違和感がない。
「あら、堅焼きパンが必要ってことは、おじさん、旅に出るの?」
「ああ、明日から行商に出るんだよ」
「そうなんだ。気をつけてね」
今は亡き母に無理やり乱暴した『父』ウィバリー伯爵。
母は妊娠したことに気づくと伯爵邸の下働きをやめ、一人でジュリエットを生み育ててくれた。
いつも明るく振る舞っていたけれど、大変な苦労だったと思う。昼も夜も働きづめな生活を続けていた母は、まだ若いのに病気にかかるとあっという間に死んでしまった。
身勝手な父親に対してはなんの情もない。ジュリエットは父に連なる貴族社会とは完全に縁を切って、新しい暮らしを始めたかった。
「そろそろお客さんもおしまいね。もう上がってもいいわよー」
店の奥からパン屋の新妻サラが出てきて、ジュリエットに声をかけた。
「はい、これ、少ないけどお給金」
「ありがとうございます! あれ、こんなにいただいてもいいんですか?」
「旦那からの心づけよ。あんまり長く雇ってあげられなくてごめんね」
「いいえ、じゃあ、遠慮なくいただきます。またご挨拶に来ますね」
パン屋の主人はまだ暗いうちからの作業を終えて、今はひと寝入りしている頃合いだ。わざわざ起こすのも申しわけない。
ジュリエットは店先を片づけると、午後の街を歩きはじめた。
少し離れた繁華街の裏通りにジュリエットの間借りしている部屋がある。伯爵邸の物置より狭い部屋でも、だれにも邪魔されない自分だけの空間だ。いずれもう少し日当たりのいいところに引っ越したいとは思っていたけれど、今のところジュリエットは満足していた。
もともと平民として十数年生きてきた彼女には、庶民の生活のほうがむしろ気楽だ。
これから日用品の買い物に行こうか。それとも、夕方酒場に行く前に少し休んでおいたほうがいいだろうか。
ぼんやりと考えていると、正面から歩いてきた大柄な男に声をかけられた。
「ジュリエット」
「……はい?」
短い赤毛に茶褐色の瞳。日に焼けた肌には薄くそばかすが散っている。
自分と同い年くらいかちょっと上。二十歳そこそこの青年はジュリエットよりも頭二つ分くらい背が高く、がっしりした体格だ。
「久しぶり」
青年は懐かしそうに言うが、見覚えがない。
でも、ジュリエットの名前を知っているということは昔の知り合いなのだろう。
「えーと、だれだっけ?」
「…………」
「ごめんね、しばらく王都を離れてたら、いろいろど忘れしちゃって」
ペロッと舌を出して軽く謝る。
ジュリエットは元来あまり物事を深刻に考えない質だ。相手に怒られたり気分を悪くされたりすることもあるけれど、もうこれは持って生まれた性格だからしょうがないと割り切っている。
貴族生活を送っていた時は伯爵家の教育係や王立学園の教師にさんざん注意されて少しは改善したけれど、今はすっかり元に戻ってしまった。
目の前の青年はだいぶ衝撃を受けた顔をしていた。
「俺、二年でそんなに変わったかな……。たしかに背は伸びたけど」
目をこらして見ても、思い当たる節がない。
彼の赤い髪は結構印象的で、一度見たら忘れられなさそうなんだけど……。
「ん? んん?」
「ジュリねえちゃん」
「ジュリ……ねえちゃん……?」
――ジュリねえちゃん。
たしかに子供のころ、ジュリエットをそう呼ぶ近所の子がいた。
でも、その幼なじみは二つ年下で、小柄で泣き虫で、大きな瞳がかわいい男の子だったはずだ。いつもジュリエットを追いかけて、うしろからついてきた……。
「まさか」
ジュリエットはウィバリー伯爵家に引き取られる直前にも、その少年と会っていた。
あの時彼は十四歳で、さすがに女の子と間違われることはなくなっていたけれど、それでもまだジュリエットよりも背が低くて痩せていて、頼りない様子だった。王都を去ってからも、突然自分がいなくなって泣いていないかしらと心配していたくらいだ。
「ニコラス? ……じゃないわよね?」
いや、まさか。
妹みたいにかわいがっていたニックは、こんな小山のような筋肉男じゃない。
でも、燃えるような赤毛はニコラスと同じ。瞳の色も覚えのある茶褐色。ついでにそばかすも一緒だ。
「え……ええええええ!?」
昔、ジュリエットを見あげてきた瞳が、はるか上から見おろしてきた。
ジュリエットは変貌してしまった幼なじみを見あげて――見あげすぎて尻もちをついた。
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