上 下
18 / 22
番外編 幼なじみはあの娘に夢中

1.彼女は陽気なパン屋さん

しおりを挟む


「黒麦パンの大きいのを一個ちょうだい」
「はーい! 毎度あり!」

 パン屋の売り子の明るい声が大勢の人の行きかう早朝の路地に響いた。

「ちょっと待ってね。えーっと」

 店先に並べた中で一番大きな丸パンを持ってきて、秤にのせ重さを量る。そして、売り子の娘は「はい、どうぞ」と恰幅かっぷくのいい女性の籠にパンを入れ、硬貨を受け取った。

「おばさん、腰の具合はどう?」
「最近は孫が家事を手伝ってくれるようになったから、だいぶ楽だねえ」
「そっか、エリーももう四歳?」
「ああ、今度連れてくるよ」
「エリーにも会いたいわ。わたしが王都を出た時はまだ赤ちゃんだったもんね」

 若い娘の屈託のない笑顔とちょっとした気遣いに、女性客も微笑みを浮かべた。

 二年ほど前、親戚に誘われて遠い町に働きに行ったという彼女は最近王都に帰ってきたばかり。母親と二人暮らしだった少女は母が病で世を去ったあと王都から出ていったのだが、どうやらその親戚の商売がうまく行かず、働き口を失ったらしい。

 天真爛漫で人気者だったパン屋の看板娘がいなくなってさみしがっていた隣近所の人たちも多く、久しぶりの再会にみんな喜んでいた。

「でもねー、ここで雇ってもらえるのは今日までなの。ほら、お嫁さんのサラが売り子をしてるし、手が足りてるから」
「おや、そうなのかい?」
「うん、最初から次の仕事が決まるまでって条件で働かせてもらってたんだ」

 彼女が王都を離れている間に、もともと働かせてもらっていたパン屋の主人が結婚して妻が売り子を兼ねるようになった。
 それほど余裕のあるわけではない小さな店だ。もとの従業員が困っているのを見かねて臨時で雇ってくれたという事情だったので、彼女はあたたかい好意に感謝しながら次の仕事を探していた。

「今夜から『十字路の黒髭くろひげ亭』の女給になるわ。だから、あんまり会えなくなっちゃうかも」
「酒場の仕事かい?」
「そう、もうちょっとお金がたまるまではがんばらなきゃ」

 未婚の女性にとって安全とは言い切れない仕事だけれど、やはり給金はいい。新しい仕事を探しつつ、当面の生活費を稼ぐ予定だった。

「そりゃ大変だ。くれぐれも気をつけなよ。酔っぱらいは厄介だからね、ジュリエット」
「ええ、ありがとね!」

 榛色の目を細めて明るく笑うと、ジュリエットは次の客の相手を始めた。

 数か月前、レスルーラ王国のとある貴族が汚職に手を染めていたことが明らかになった。事は次第に大きくなって、内乱が起きるかどうかという瀬戸際まで状況は緊迫した。
 その問題はさまざまな事態を引き起こしながらもなんとか収束したけれど、首謀者の貴族、ウィバリー伯爵とその一派は処刑ということになった。

 ジュリエットはそのウィバリー伯爵の娘だった。伯爵が下働きの娘に生ませた隠し子だったのだ。
 本来なら伯爵家に引き取られたジュリエットにもなんらかのおとがめがあるはずだったが、父親の罪を告発し王家に協力したことを認められ、平民に身分を落とされただけですんだ。

 今後ウィバリーの名を決して名乗らない。伯爵家の財産はすべて放棄する。
 それがジュリエットに課せられた条件だった。

 ひそかに援助を申し出てくれた人もいた。急ごしらえの伯爵令嬢として王立学園に通っていた時の同級生、王太子のヴィンセントだ。
 でも、それも断った。

「いらっしゃませー!」
「堅焼きパンを十個ばかりおくれ」
「はーい」

 うしろで二つに縛った灰茶色の髪が元気よく跳ねる。
 くるくるとよく動くジュリエットの姿は、下町になじんで違和感がない。

「あら、堅焼きパンが必要ってことは、おじさん、旅に出るの?」
「ああ、明日から行商に出るんだよ」
「そうなんだ。気をつけてね」

 今は亡き母に無理やり乱暴した『父』ウィバリー伯爵。
 母は妊娠したことに気づくと伯爵邸の下働きをやめ、一人でジュリエットを生み育ててくれた。

 いつも明るく振る舞っていたけれど、大変な苦労だったと思う。昼も夜も働きづめな生活を続けていた母は、まだ若いのに病気にかかるとあっという間に死んでしまった。

 身勝手な父親に対してはなんの情もない。ジュリエットは父に連なる貴族社会とは完全に縁を切って、新しい暮らしを始めたかった。

「そろそろお客さんもおしまいね。もう上がってもいいわよー」

 店の奥からパン屋の新妻サラが出てきて、ジュリエットに声をかけた。

「はい、これ、少ないけどお給金」
「ありがとうございます! あれ、こんなにいただいてもいいんですか?」
「旦那からの心づけよ。あんまり長く雇ってあげられなくてごめんね」
「いいえ、じゃあ、遠慮なくいただきます。またご挨拶に来ますね」

 パン屋の主人はまだ暗いうちからの作業を終えて、今はひと寝入りしている頃合いだ。わざわざ起こすのも申しわけない。

 ジュリエットは店先を片づけると、午後の街を歩きはじめた。
 少し離れた繁華街の裏通りにジュリエットの間借りしている部屋がある。伯爵邸の物置より狭い部屋でも、だれにも邪魔されない自分だけの空間だ。いずれもう少し日当たりのいいところに引っ越したいとは思っていたけれど、今のところジュリエットは満足していた。
 もともと平民として十数年生きてきた彼女には、庶民の生活のほうがむしろ気楽だ。

 これから日用品の買い物に行こうか。それとも、夕方酒場に行く前に少し休んでおいたほうがいいだろうか。
 ぼんやりと考えていると、正面から歩いてきた大柄な男に声をかけられた。

「ジュリエット」
「……はい?」

 短い赤毛に茶褐色の瞳。日に焼けた肌には薄くそばかすが散っている。
 自分と同い年くらいかちょっと上。二十歳そこそこの青年はジュリエットよりも頭二つ分くらい背が高く、がっしりした体格だ。

「久しぶり」

 青年は懐かしそうに言うが、見覚えがない。
 でも、ジュリエットの名前を知っているということは昔の知り合いなのだろう。

「えーと、だれだっけ?」
「…………」
「ごめんね、しばらく王都を離れてたら、いろいろど忘れしちゃって」

 ペロッと舌を出して軽く謝る。

 ジュリエットは元来あまり物事を深刻に考えないたちだ。相手に怒られたり気分を悪くされたりすることもあるけれど、もうこれは持って生まれた性格だからしょうがないと割り切っている。
 貴族生活を送っていた時は伯爵家の教育係や王立学園の教師にさんざん注意されて少しは改善したけれど、今はすっかり元に戻ってしまった。

 目の前の青年はだいぶ衝撃を受けた顔をしていた。

「俺、二年でそんなに変わったかな……。たしかに背は伸びたけど」

 目をこらして見ても、思い当たる節がない。
 彼の赤い髪は結構印象的で、一度見たら忘れられなさそうなんだけど……。
 
「ん? んん?」
「ジュリねえちゃん」
「ジュリ……ねえちゃん……?」

 ――ジュリねえちゃん。

 たしかに子供のころ、ジュリエットをそう呼ぶ近所の子がいた。
 でも、その幼なじみは二つ年下で、小柄で泣き虫で、大きな瞳がかわいい男の子だったはずだ。いつもジュリエットを追いかけて、うしろからついてきた……。

「まさか」

 ジュリエットはウィバリー伯爵家に引き取られる直前にも、その少年と会っていた。
 あの時彼は十四歳で、さすがに女の子と間違われることはなくなっていたけれど、それでもまだジュリエットよりも背が低くて痩せていて、頼りない様子だった。王都を去ってからも、突然自分がいなくなって泣いていないかしらと心配していたくらいだ。

「ニコラス? ……じゃないわよね?」

 いや、まさか。
 妹みたいにかわいがっていたニックは、こんな小山のような筋肉男じゃない。

 でも、燃えるような赤毛はニコラスと同じ。瞳の色も覚えのある茶褐色。ついでにそばかすも一緒だ。

「え……ええええええ!?」

 昔、ジュリエットを見あげてきた瞳が、はるか上から見おろしてきた。
 ジュリエットは変貌してしまった幼なじみを見あげて――見あげすぎて尻もちをついた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

穏便に過ごしたいご令嬢のエロ侍従がやらかし過ぎる【フェリシテ視点】

梅乃屋
恋愛
【ご注意】 こちらは『悪役令嬢のビッチ侍従』の悪役令嬢フェリシテ視点となっております。 先に本編をご覧になっていない方には訳分からんストーリーとなると思いますので、お気をつけください。 ※本編はBLですが、こちらはフェリシテ視点なので『恋愛』カテゴリに致しました。 【あらすじ】 学園の卒業パーティーで婚約者であるアルベール王子に身に覚えのない理由で婚約破棄を言い渡されたフェリシテ。 当然婚約破棄は陛下に認められず、一年間の離宮生活を言い渡されるも婚約破棄したいフェリシテはこのまま大人しく過ごそうと思っていた。 ところが自分の侍従が何かと裏で動き回るし、帝国から皇子が訪問して通訳を任されるし何だか色々忙しいフェリシテが、幸せになるエピソードです。

悪役令嬢の生産ライフ

星宮歌
恋愛
コツコツとレベルを上げて、生産していくゲームが好きなしがない女子大生、田中雪は、その日、妹に頼まれて手に入れたゲームを片手に通り魔に刺される。 女神『はい、あなた、転生ね』 雪『へっ?』 これは、生産ゲームの世界に転生したかった雪が、別のゲーム世界に転生して、コツコツと生産するお話である。 雪『世界観が壊れる? 知ったこっちゃないわっ!』 無事に完結しました! 続編は『悪役令嬢の神様ライフ』です。 よければ、そちらもよろしくお願いしますm(_ _)m

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

慰み者の姫は新皇帝に溺愛される

苺野 あん
恋愛
小国の王女フォセットは、貢物として帝国の皇帝に差し出された。 皇帝は齢六十の老人で、十八歳になったばかりのフォセットは慰み者として弄ばれるはずだった。 ところが呼ばれた寝室にいたのは若き新皇帝で、フォセットは花嫁として迎えられることになる。 早速、二人の初夜が始まった。

悪役令嬢のススメ

みおな
恋愛
 乙女ゲームのラノベ版には、必要不可欠な存在、悪役令嬢。  もし、貴女が悪役令嬢の役割を与えられた時、悪役令嬢を全うしますか?  それとも、それに抗いますか?

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

転生者はチートな悪役令嬢になりました〜私を死なせた貴方を許しません〜

みおな
恋愛
 私が転生したのは、乙女ゲームの世界でした。何ですか?このライトノベル的な展開は。  しかも、転生先の悪役令嬢は公爵家の婚約者に冤罪をかけられて、処刑されてるじゃないですか。  冗談は顔だけにして下さい。元々、好きでもなかった婚約者に、何で殺されなきゃならないんですか!  わかりました。私が転生したのは、この悪役令嬢を「救う」ためなんですね?  それなら、ついでに公爵家との婚約も回避しましょう。おまけで貴方にも仕返しさせていただきますね?

「殿下、人違いです」どうぞヒロインのところへ行って下さい

みおな
恋愛
 私が転生したのは、乙女ゲームを元にした人気のライトノベルの世界でした。  しかも、定番の悪役令嬢。 いえ、別にざまあされるヒロインにはなりたくないですし、婚約者のいる相手にすり寄るビッチなヒロインにもなりたくないです。  ですから婚約者の王子様。 私はいつでも婚約破棄を受け入れますので、どうぞヒロインのところに行って下さい。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。