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六.水古の城
しおりを挟む顔に風を切っている。耐えきれず髪は流れはためく。
耳に大気の唸り声を。
風は憤っていた。
『双子の雲』の渡りに置いた足が強く吸い付くほど固定されていたとしても、係柱に捕まる手はその力を強めた。遙か足下には木々の峰が連なり、剥き出しの王白色の岩が環状に口を開けている。その真中に溜まった藍の滴が珠のように深く凝縮されていた。
『雲』は湖に向かい前のめりに降下していく。
「回転せよ」
ラヌが激を飛ばすと、『雲』は身を翻した。
「うわわっ! ラ、ラヌ!(どこへ行くの?)」
ラヌの法衣が風に揺れた。一瞥を投げかける。
「空からあの湖へ向かっても辿り着けぬ」
(え?)
「あれは……まだ実態を現しておらぬ。降りるぞ、ギュイヌ!」
ラヌにしては歯切れの悪い返答だった。悪態の一つも聞こえない。
小さな声でギュイヌが答える。それは風にかき消されてしまった。
竜たちは巧みに木々の梢を避けて森へ降りた。舞い降りた風がそっと森の草を薙ぐ。
ラヌは辺りを見回した。
「……少し遠いが、お前たちが狩りをして待つには手頃だな」
二羽の巨大な生き物は主人の言葉に嬉しそうに喉を鳴らした。
「フフッ」
法衣を着たラヌにらしからぬ感情――優しさ――に違和感がある。
常に超然とした彼女が微かに弱くなったように思えるのは錯覚なんだろうか。
ラヌの笑顔にカツミは漠然と不安を感じた。
法衣の襟を正すと、ラヌは巨大な生き物が傾けた首の上をつたって地上へ降りた。
じっと見てしまっていたらしい。
「ン? どうしたカツミ?」
空から見えた湖の周辺。
白い岩が転々と並んでいた。
なんとも思わなかった。
イメージの残像が浮かび上がって……
妙にひっかかる。
「カツミ!」
ラヌの言葉で我に返る。
すっかりお冠になってしまったかな……。
「どうした? 降りられないのか?」
「……………」
すぐには答えられなかった。
草木が道を開けて行く。
木々が伸ばした枝を畳む。
ラヌが進む道を拓いていく。森は光射す小道を続いて現わした。
王白色の岩肌の峰に出る。
それは――谷を作って流れを導いていた。
緑が切れて、空が広がる。
背後で木々が畳んだ枝を広げる気配がした。
ラヌが革袋を地面に落とす。
ギュイヌも立ち止まった。
「ラヌ……?」
眼前に立った魔導師に不意に瞳を覗き込まれる。
強い眼光が心の底まで捉えようと射すくめる。
だが、畏れは麻痺してしまっていた。
ラヌは一歩退き、怪訝に呟いた。
「心ここにあらず、といった所か――」
微かに不満気な感情の気配がした。
ギュイヌがラヌとカツミを交互に見る。
「ラヌ様、空から湖へ向かう時、あの気配は――カツミは怯えているのですか?」
「そうではない」
ラヌは毅然と告げた。
その声が通ってカツミがハッとなる。
「どうしたの?」
ラヌは眉をひそめた。何かを躊躇っているように。
「ラヌ、その……気が進まないなら。何かあるの?」
「……………」
「ラヌ様」
「ギュイヌ、先に進んで待っていてくれ。湖に出られるボートが欲しい」
「――分かりました。手配してお待ちします」
ギュイヌは首肯すると岩肌の下り坂を湖に向かい始めた。
岩陰にギュイヌが消え――気配が遠ざかるのを待ってラヌが切り出した。
「カツミ、超活衣に変身させてくれ」
「こ、ここで?」
「そうだ。法衣を纏う私は本心を語れない……」
ラヌの瞳には悲しそうな色が浮かぶ。それがとても彼女を弱々しく見せた。
意図が分からないまま、カツミはチェンジインのイメージを紡ぎ出した。
赤い光が千里眼の視鏡を宙に描き出す。その中に映るラヌの姿が変身していく。
写し身の中で、ラヌは白く眩しく姿を変えた。
「……………!」
ラヌはフリルの着いた柔らかい袖をもたげて息を呑む。
頬に羞恥の朱が刷いた。
(ま、まずい!)
カツミは自らラヌに纏わせたイメージを目の当たりにして慌てた。そして、これ以上ないくらい恥じた。
それが無防備な自らの願望だと気づいて。
「ごごごっ、ごめん! や、やり直すから! そんなつもりなかったんだ!」
ラヌは恨めしい目でジッと見た。
「人にこんな格好までさせておいて?」
「う……」
明らかに非難していた。本心で話したいと言ったのは彼女だったとは言え。
「その……」
ラヌは咎めるような眼差しを伏せて呟く。
「敵対する邪道機械の存在を欠いたままチェンジインすれば力の顕現にならないのは当然だけど――まさかこんなことするなんて思わなかったわ」
全てを悟ったラヌの前でいたたまれなくなる。
「そ、その……」
もうこの場から全力で逃げ出したい。
「そうか。今の私は風の心を知る少女ということなのね。貴方の願うままに」
「いっ、いや! ……その……悪かった。勘弁してくれよ」
ラヌは潤んだ瞳を向ける。
「気づいてたのね?」
「な、なにを?」
咄嗟に本心を隠した言葉は、明らかにラヌをいらいらさせたようだ。
「正直、風の心は分からない。この湖にははぐらかされてばかりだし」
「ど、ど、ど、どういうこと?」
「空から感じなかったの?」
「それは――」
「あれは――”夜”だった。恐ろしく純粋な――永久から来る夜――」
確かに感じた。
目に見える明るい緑、健全な自然の姿が孕んでいる底知れぬもの。青の空にうごめく気配――。
ギュイヌの言葉――風の心を知る魔導師はいない、という事実を思い出す。ボクは無意識にラヌにその力を与えていたことに驚いた。
「そうか……君には」
唐突に強い力で抱かれる。
「ラ、ラヌ!?」
カツミは――凍り付いた。
震えている!?
「う……」
薄布の感触を通してラヌの柔らかい肌にさざ波が立っていた。
「父も母も、私が怖がるから二度と湖には行かなかったわ。だから――」
場の空気が変わる。
邪悪な風が動いたのだろうか。
唐突に、見える筈のない湖面が存在感を増していく。湖面が?
暗く躍動する大気が二人の間に滑り込んでくる。
一気に引きはがされた。
「!」
ラヌは手を伸ばしてボクを捕まえようとする。が、届かない。
あっという間に空高く、ボクは連れ去られた。
――キャンバス。
手にはパステル。
目の前には溶けた砂時計が。
茂が途方に暮れる。
「こりゃ紙は取り替えないとダメだな」
教室には画材が散乱していた。
麻美の声が響く。
「うわ、こっちも酷い! 倒れる時に紙を引っ掻いちゃったんでしょ」
指を開いてキャンバスに押し当てる。
何も感じなくなっていた。
「終わった? こんな――ラ……」
視線に気づく。
振り絞った声に、茂と麻美が聞き耳を立てていた。
屋上のフェンスにもたれかかって街並みを見下ろす。
森も砂漠も完全に姿を消している。
後悔に胸を掻きむしられるようだった。
(あんな形で分かれるなんて……)
「うわっ!」
冷たい感触が頬に走る。
「どしたの? 怖い顔しちゃって」
麻美がジュースの紙パックを目の前に泳がせた。赤いスカーフがひらひらと風に舞っている。
(くっ……)
「怖い怖い、カツミン」
「あ……さんきゅ――」
徒労をはき出すようにもたれかかると、フェンスがぎしっと鳴った。
「カツミン、ヘンだね。何か焦ってる?」
「あ、そ、そうかも」
麻美は鋭く問いかけてくる。
「目が泳いでるね――。ほれほれ、正直に言ってみろ」
もう一人の気配が近づいてくる。
「おう、吐いたかヤツは」
麻美がダメダメのポーズをしてみせる。
「や――全然ダメっすよ――春期大会は戦力にならないんじゃないすかね――」
「ったく頭のいいヤツはこれだから。ホレ、人間を単純にするクスリ」
ラップがほうってよこされた。受け取った手の中――ヤキソバパンだ……。
反応に乏しいボクに茂は肩を落とす。
「ゴハンも喉を通らないってか? 深刻だなぁ」
「みんなウワサしてるよ――君、恋煩いですか?って」
何気ないその言葉が胸に突き刺さる。
返事が出来なかった。
「そんな感じじゃないけど近い感じ?」
麻美が雰囲気を察して告げる。
「う……なんていうか。俺こんなところでパン喰ってていいんだろうか!?って」
切羽詰まった様子になってしまう。
「そりゃお前、アレだ。その悩みってのは焦ってどうにかなるモンなのか?」
「さぁ……そんなの分からないけど」
「なんで屋上に来たの?」
「え?」
「じゃあさ、何がここにあると思ったの?」
「――――」
「高い所から見る景色って君に必要なものってことかな?」
――そうか。
――確かに。
「ハイ、握って」
麻美の手が何かを渡す。
「思ってることを描いてみたら? スッキリするよ」
「え、で、でも……」
「そこにあるじゃない。キャンバスは」
嘘だ。空しかないじゃないか。
だけど、この空は――。
チョークを受け取った指が勝手に動いた。
空をなぞると紙が切り出される。
白い石と緑の森を描いて。
「うわっ!」
「キャッ!」
突風が吹いた。
紙を空に巻き上げ、フェンスを越えて行く。
とっさに腕を伸ばしてそれを捕まえようと――。
体は綿よりも軽く舞った。
青い空に居た。
とてつもなく早く流れる雲を抜いて行く。
湖の畔に少女が泣いていた。
両親には届かない。
気づいて欲しいのは、風だ。
少女の大好きな風は行ってしまった。
見えない精霊たちのざわめきで大気は埋めつくされ、風をもてあそび送り返した。
精霊たちは強力な想念に縛られて動けない。
空に道筋を付けている。
その空のトンネルの中を繰り返し響く声が呼んでいる。
大気も震えている。
自分の名前を呼ぶ少女の声が切なかった。
「カツミ――!」
そう、空は――いつもあの娘の世界につながっている。
今度は間違いなくラヌがボクを呼んだ。
ひとしきり。
強く体を掴まれて。
徐々に震えが形を潜め、高まった気持ちは深く静かな心の底へ沈んでいく。二人の間で引き際を失い、繰り返されていた波が静まっても、敏感な肌の下でざわめいて離れられない。
深く時を止めて、限りなく静なる狭間を求めて行く。
小鳥のさえずりが静寂に響く――石のように固まっていた二人の心に、世界が流れ出す。
「超活衣の力がなかったら……」
ラヌは身震いする。
「戻って来たくなかった?」
縋るような瞳だった。
そんな訳はないって、言いたかった。
何も告げられず、目を閉じる。
ラヌの気配から不安が消えていく。そう、これでいい。
「私――こんな風に心を読むなんて」
そうじゃないと思った。
だって、今、二人の心は通じているのだから。
ラヌはハッと、口をつぐんでしまう。
「ボクの想像なんだけど――」
ラヌはゆっくり顔を上げた。
「湖は空からたどり着けないって言ったよね。『双子の雲』は無理だったかもしれないけど、その超活衣ならどうだろ? 威力は君が示した通りだし」
「……その、風の術法が組み立てられないのに。聞いてるでしょう? そんな魔導師はいないって」
「それは問題ないと思う。それとも歩いて地上から行く? 君の不安からうすうす感じるのは力圧しで湖と同盟を結んでもそれが仮初めの効力しか持たないって、そう思ってるんじゃないかな」
ラヌは考え込んだ。
正直、邪道機械が現れたら。
この湖を守って戦うことになる。
その力を示すには、湖の秘密を住民たちから聞き出すことなく知らなくてはならない。
「どうしたらいいの? 威力はあっても方法が分からないのに……」
「そのイメージをボクがチェンジインするよ」
ラヌは目を丸くしてボクを見た。
千里眼の視鏡をラヌとの間に出現させる。距離を同調させながら……そっと。そして素早く手を取った。
一条の亀裂が収斂する。ボクとラヌの手首を錠のように繋いだ。
腕を上げると、自然とラヌの手首が持ち上がる。
「その、一番確実にイメージが伝えられて、ボク自身を飛ばせて貰う方法をイメージしたんだけど……イヤかな……?」
ラヌは首を横に振った。
「それじゃあ、まず飛んでみて」
二人で見上げた空に波紋の階段が現れる。
ぎゅ、と手を握るとラヌは跳躍した。
流れる雲が道を開けた。いや、避けた。まるで生きているかのように。
青の広がりの中に二人で浮かび、眼下には湖が広がっている。
無造作に風が吹き荒れて、衣服や髪を散らす。
上空に人の侵入を阻むかのように。
そこには悪意が渦巻いていた。
ただし、それと分からないよう巧妙に偽装され、風を装って。
青い空の茂みには、人を貪る獣たちが潜んでいる。気づいた人間がいたとしたら、異質で邪悪なものたちがひしめいて身動きできなくなっている風の悲鳴に耳を澄ますことのできる者だけだろう。
ラヌにもそれは分かっている。誰よりも敏感にそれを感じ取って瞳は陰っていた。
空を運ばれるとき、気づいていた。自分を運び去った蹄の音。
荒れ狂い口元に涎を垂らした暗い獣。
黒い車輪の不協和音。
カツミは大気のうねりに潜む俊足な者たちをイメージする。
ラヌは空を見た。
小さなものたち。
大きなものたち。
黒い馬の形をした風。
透明なマントを羽織った妖精。
巨大な息を吐く怪物。
邪悪な渦の中心に。
荒れ狂う大気の波涛の波間に。
狂おしくぶつかり合い、砕け逢い、もつれ合ってひしめいていた。
(見える)
ラヌの唇が力強く震える。
「La……LaLaLaLaLaLu――――」
響きが大気を切って湖に落ちる――荒れ狂っていた風は射すくめられて身動きが出来なくなる。邪悪な躍動感に支配されていた空に――ゆがみのない陽光が射した。
小さなものたちと大きなものたち、それらが凍り付いたように時間を止められていた。
さざ波立ち濁っていた湖面が透き通ってくる。
うなずき合い、湖へ目を向けた。
波紋の階段が湖に降りていく。ステップしながら湖面スレスレに生じた円の上へと辿り着いた。
ラヌは信じられないように呟いた。
「こんなあっさり――」
ボクはその、無垢な横顔に――心の底から安心した。
そしてラヌに心を読まれぬよう、一人赤らめた顔を背けた。
超活衣の変身を解くと、法衣が再びラヌを拘束する。
晴れた湖の岸辺を歩いて行くと、船着き場で退屈そうに待つギュイヌが見つかった。
「この湖の空が晴れたのは私が知る限り初めて、と言った所です」
「白鳥琅共の姿が見えぬな」
「ほど近い、ペールライの漁夫に金を渡して用意させました。造りの丈夫な漁り舟です」
ラヌは躊躇なく乗り込んだ。いつもと同じ、堂々とした態度で。
ギュイヌも後に続いた。
「カツミ? どうしました?」
カツミは蒼い湖面を見ていた。
周囲は頂に囲まれて空から見た通りの地形だ。
再びギュイヌが彼を呼んだ。
カツミは舟後に乗り込んだ。
静かな湖面を舟は中心に向かって漕ぎ出した。
「こんな穏やかな湖は初めてですな……」
ギュイヌはそれが二人のせいだとは言わなかったが、何かを確信しているようだった。
「待って」
ギュイヌが漕ぎ手を止める。
「?」
「どうした、カツミ?」
ラヌが厳と尋ねる。
「いや、その……」
(こんな状況でもし変身が必要になったら……ギュイヌが一緒でも大丈夫なのかな)
「?」
「い、一度岸に引き返さない?」
「……なぜだ?」
ラヌとギュイヌは辺りを見回して、問い返した。
ふと湖面に目を落とす。水がゆっくり……奔り初めていた!
「ラ、ラヌ!」
「!」
「これは層の奔りですが……」
「ギュイヌ、中心へ向かえるか?」
従者は顔色を変えていた。額はじっとりと汗ばんでいる。
湖面に響く鳥の猛り。不気味な嗄れた音にざわついた。
黒い陰が集まって水面をかき乱すように回っている。
「奴らめ……どういうつもりなのか? あの色は――」
「いけません。舵を取られました」
ギュイヌはあっさりと操舵を手放す。
「ギュイヌ!」
「力付くで来られました。重い”水”が絡んでビクともしません」
舟の周囲はタールのように暗い水に囲まれている。
ラヌはチラ、とぼくを見る。
(戦う用意がいるってことなのか……)
ホルンのような声が響いた。
「いつもの鵞守令と声が違う。何と言ってるのか分からんな」
「容易ならん出迎えですな……出迎えだとしたら、ですが」
「……」
二人の魔導師は警戒の色を浮かべつつも様子を見ることにしたようだ。
(風か……風?)
水が奔るのに風は凪いでいる。
「カツミは知らぬのも無理はない。やつらは水を仕組む」
ハッとなる。ラヌが説明していた。
「水の魔法とは異なるが、契約の効力を持って従える。風の塁砦といい、我らの理力が及ばぬ界綸を顕象させる」
淡々と驚異を語る口ぶりは冷静そのものだった。
(戦いにすらならないということか……)
「奴らも我を害することはない。使いこなしてはおらん筈なのでな。堪えかねる不愉快さかどうか、ということが懸念ではあるが」
ギュイヌは諦めたようにレールに腰を下ろし、ボクに向かい合う。
「気にしても仕方ありません――というのも無責任ですな。最悪カツミを連れてきた責任は私が取りましょう。安心なさいますように」
「ギュイヌ!?」
ラヌは驚いて従者を見た。
「いや、これは口が滑りました。努めて平和的に……でございますな」
ギュイヌの失言にラヌはしばらく言葉を失っていた。
漆黒の翼。幾つも、幾つも。
水面と空に、鋭い羽根が傷を刻んで。湖を痛めつけていく。
責められて水は、あらんかぎりの力を振り絞る。
引き寄せられていく。
気持ちのいい光景ではなかった。
ボートから乗り出すと暗く染みた水が悲鳴を上げ、奔っている。
(なんて酷いことするんだ……)
無意識に手で触れて――。
「うぁッ……!」
刺すような衝撃が腕に走り、ボートの底にひっくり返る。
「カツミ!」
ラヌとギュイヌが同時に声を上げた。
「い、いや……ビックリした」
ラヌは激怒した。
「愚かな! 水に触れたのか!? 見せてみろ!」
素早い足捌きで近づいて跪き、手を取る。
険しい表情のままじっくりと観察して、
「恐らく……なんともなっていない」
息遣いは乱さないがホッとする気配がある。
「……ごめん」
ラヌは手を取ったまま、ボクの顔をじっと見た。
「――ど、どうしたの?」
「お前は――優しすぎる。この世界も奴らも使役されるものも等しく他を傷つける牙を持っている。そして我も――。支配することでしか理解できんぞ」
「……」
「優しい風だ――カツミは。ギュイヌの言う通りかもしれん……連れてきてはいけなかった気がする」
ラヌは大切なものを扱うように、そっとボクの手を握った。
「ラヌ様……どうやら我々は……」
ギュイヌの声にボクとラヌは我に返る。
ラヌはそっと手を離すと、毅然と立ち上がり、前方を見た。
「あれは”城”か?」
ギュイヌも俄に信じがたい、といった表情を浮かべる。
「まさか”漆黒の城”へ招かれることになろうとは……」
「岸からは見えず、湖の迷路を運ばれた、ということか」
湖の上、冥い翼の舞う大理石の卓。柱が立ち、神殿を形造っていた。
黒色の大樹が三方に聳え、黒い鋭い翼が累を成していく。
その中心へと導かれるに連れ、群れ集う白鳥たちの姿がはっきりしてきた。
「ギィー」
広げた翼の裏側に覗かせた漆黒の闇が連なり、湖に黒い森が茂っていた。獣毛を思わせる漆黒は長い尾をたなびかせる。点々と並ぶ目は血に飢えた野獣のように赤かった。
「ようこそラヌ・シュマリ。目障りな風を連れて参ったな」
不気味な嗄れた声はどの鳥が発したのか分からなかった。ラヌがハッと体を堅くした気配がある。ボクが奴らの注意を引いたことが彼女の警戒を引き出したのだと分かった。
「連れて来たのはお前たちであろう」
「城へ招かざるを得なかったのでな。汝の行い、芯より我らを目覚めさせた」
ラヌはフン、と鼻を鳴らした。
そしてこれまでにない冷たく、威厳に満ちた声を響かせた。
「空を突破されて身を隠すこともできず、本性を現したか。古き者どもよ」
ラヌの言葉に耳を塞ぎたくなるような不快な鳴き声が一斉に上がり、広がった。
憤りと魔導師が覗かせた殺気への怯え……そんなものが入り交じった声だった。
(ボクを守るためなのか……? ラヌ!?)
一瞬浮かんだ考えをかき消す。ラヌに読ませてはいけない気がした。
「察しは付くが、まさにそのような者たちだったとはな。獣の翼を持っている訳ではない。翼の陰こそがお前たちの本性であろう。太古の暗き夜より出でたる獣たちよ」
鳴き声は咆哮に変わった。黒い森が冷たい悪意にざわめいた。
危険だ!
「ラヌ様!」
「平和的手続きなどとっくに壊れておる」
ラヌは超然と言い放つ。そして腕を翳すと敵を圧倒する気配を解放した。
「愚か者どもめ。我が真の力を見たいと願うか」
ラヌは止まる気配が全くない。鳥たちがボクの存在を口にした時から――最初から戦う気だったのか!!
「黎璋烙撃、サルバの書の前編、冊子の符一二、八七、三一……」
場の空気を変えて集中していく。強い干渉が働いて空を揺らめかせた。
「焔爆の光、雷よ共に来たれ!」
ラヌの怒りが号砲と共に轟くと、それに応えるように激震が空を真っ二つに割った。時を置かず湖の底を突き抜けてきた火柱が立ち、撃ち合って閃光と熱と轟音の衝撃を響かせた。
「ギィィ――――ィ―――――――――――ッ!!!!!」
漆黒の森が破れて逃げ惑う。黒い森を赤い焔が焼き尽くしていく。
「だっ……ダメだっ!!」
体が透き通っていく。体の中を突き抜けるように風が奔った。
大気が動き出す。
湖面が揺れた。
泡立ち、飛沫となって、目に見えないくらい小さな霧を飛ばして光よりも速く。
水と風が燃え立つ焔と光の壁を一瞬で打ち抜いた。
黒い森から熱と光の衝撃を奪うと、それは弾けて湖上に姿を消した。
「グ……グル……ゥゥゥ」
「グル……ッルゥ」
焼け焦げた鳥たちが弱々しくうめき声を上げる。
ラヌは呆然とボクを振り返った。
「バカな……お人好しなだけだ! 未熟な……それが我の術陣をこうも子供扱いするか……それにしても――なんというお人好しだカツミ!」
当惑しつつ、責めつつ、それでもラヌは法衣の下でボクを想っていた。
が、それも束の間だった。
キッと敵に向き直ると第二の術陣を発動させる。
「今度こそ跡形なく――永遠の夜へ送り返してくれる!」
「やっ、止めてくれ! そんなラヌ、見たくないんだ!」
思わず口走るとラヌは躊躇する。
「くっ……」
何の前触れもなく、それは起こった。
舟が回転する。
景色が揺らいだ。
「え?」
吸い込まれる!?
城の奥深く、漆黒の部屋から、強く呼び寄せる。
体は風になった。
「――カツミ?」
ラヌは舟の上を見渡して呆然となる。
(いなくなった!? ど、どうして)
それは法衣の許す一瞬の思考停止だった。感情はすぐに理力に押し込まれ、思慮を強制される。
「カ、カツミ……」
「ラヌ様!」
ギュイヌが幾分青ざめた眦を向けてきた。
「なんということだ……如何なる手段でカツミを捉えた?」
白鳥琅共の声が低くなる。
ラヌが城を睨み付けると、太古の生き物たちは畏れを抱いて押し黙る。
「ギュイヌ」
「はっ」
「城へ付けよ。乗り込むほかあるまい」
漆黒はしっとりと水気を感じる。
湖にいる。
――そうか。
城の奥へと引き込まれた。ボクは――。
『水澪メ』
水が悲鳴を上げていた。
ハッとなる。
「止めろ!」
悲鳴は弱々しく逃れ、床に滴り落ちる音がした。
『舟を沈めろ、命じた』
その意識は次第に明確に言語を成す。
「異境の風を引きずり込むよう契約にかけて命じた。従わぬ上風に呼応する」
その白鳥琅は全身が濃い暗黒に包まれていた。目だけが赤く輝っている。
「うっ……」
全身が総毛立った。
「ラヌ・シュマリと交渉せざるを得まい」
「え?」
「異境の風め、貴様は砦の主人の攻撃を鎮め、部下を滅する火を取り除いたな?」
「……」
意図も思考も理解できないが、感謝しているのか?
「貴様の存在か。天蓋の嵐を止めたのも」
「その……ラヌは元々同盟を求めて来たんだけど――手違いと言うか」
「砦の主人は決着を付けに来たにすぎぬ。前会の同盟とて冽碧を乱さぬための中立であった」
「その、でも……ラヌと交渉してくれるんだよね?」
「如何にも」
「じゃあ……」
恐る恐る白鳥琅に近づいた。足下には水溜まりが、漆黒の影を映している。
「…………」
屈み込み、風に浚うようにそっと掬い上げた。
丸く緑の球になる。
「異境の風が吹けば湖の刻は流れ出す。水澪ももはや従うまい」
鋭い靴音が大理石を叩いて近づいてきた。
「ガルメイ、随分と手間をかけてくれたな」
「カツミ、いるのですか?」
ラヌとギュイヌの声がする。
「ギュイヌさん、ここです」
「……」
明確な音ではないがラヌがぐっと言葉を呑み込む音が耳を打つ。
(怒ってるのかなぁ……)
黒い白鳥琅の羽根の下にある漆黒が怪訝にボクを見た。
(最初にラヌの名前を呼ぶべきだったかなぁ……でもナシュークの領主として来てるんだからボクが軽々しく声をかけたらおかしいし……)
ガルメイが苛立ちながら呟いた。
「風め、我々のさだめと秩序を貪る破壊者よ……随分と軽々しく煩わされておるようだな。心するがいい、気まぐれに吹きおって」
「あ、いや……その、すいません……」
明かりが差す。ラヌの掌に点り、全身を映し出した。
「それは我の物だ。大人しく差し出すがよい」
ラヌはキッと眼差しを向けた。
ガルメイは喉を鳴らす。
「貴様の物だと? 風は誰の物でもない。貴様の物であればなぜ貴様の光火を滅した?」
「そやつは風だ。故に我の手に余ることがある。何が望みだ? ガルメイ」
黒い白鳥琅は羽根を立てて身を奮わせた。
「貴様こそ何を求めてここへ来た? 嵐を止め、冽碧の刻を動かし、同盟とやらの上に君臨するためか? 何をもって異境の風を操るのだ?」
「その風は同盟の要だ。既に邪道機械を二体破壊しておる」
ガルメイは押し黙った。
「それが汝の意なれば同盟は強いず退く。だがカツミは返して貰うぞ」
「貴様は力づくでも取り返すつもりであろう。ならば砦の主人よ、我と約を成せ」
「同盟に応じると言うのか?」
ラヌは少し驚いたようだった。
「邪道機械が冽碧へ侵攻するならば、だ。時を得ずば仮初めの約とせよ」
「……それで充分だ」
ガルメイの羽根の下に広がる闇がボクを見た。
「……(戻れってことか)」
背中にガルメイの視線を感じながら、ギュイヌの元へ歩く。
笑みを交わすと、従者は安堵の息を漏らした。
「そして今ひとつ条件を果たせ」
背後より白鳥琅の声がした。ラヌが憮然と答えた。
「分かっておる」
空を飛んでいた。
剥製のように刻を止めた禍々しい物たち。
趣味の悪い博物館の回廊みたいだ。
ただ、遠くからは透けて見えなかったけれど、それは一様に白かった。
一面の白――雪景色のように彼らの醜悪さを美しく塗り固めて動きを奪っていた。
白い回廊の頂点へ立つと、ラヌは湖面へ落ちるトンネルに向かい唇を奮わせる。
唇の震えがゆっくりと速度を上げて行くと、笛のような音になる。固まっていた壁が各所でじわ、と身動ぎを始めた。
汽笛のように響いた。それを合図に空は弾力を取り戻す。ほどけるように白い壁が崩れて風を巻き始める。それは次第に湖の上空を覆う嵐になるのだろう。
ラヌの横顔はそれを見つめていた。
物言わず振り向いた視線を受け止める。
ボクはこのまま風になりたいと思った。
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