世界を連れて

いなぐ

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第二話

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 何を買うつもりでこのコンビニに立ち寄ったのか、目の前に、ある一組ひとくみの兄弟が現れたせいですっかり忘れてしまった。高校のブレザーの制服に窮屈に収まった俺は、惨めったらしくぶら下げた右手の指先をこすり合わせていた。ムカついた時によくやる癖だ、それを初めて指摘してきたのは意外にも兄だった。
「拓海ってよく、そうやって指をすり合わせているよね。」
 自分でも意識していなかった動作なので、驚いて己の手先をまじまじと見た後に兄を見、幻を見るような目つきでこちらを向く、まだ幼さの残ったその顔に何も言えなくなった。家族は一番身近にいる他人だ、とはよく言ったもので、俺は兄のことを何も分かっていなかった。そしてこれから先の人生においても、高藤晴也という人間を理解することは少しも無いのだろう。
 あの会話の後、兄が勝手にどこかへ行くことは無くなった。そして弟の俺が兄を探しにあちらこちらへと駆り出されることも、全く無くなったのだった。

「良かったじゃない。もうすぐ中学生になるから、落ち着いてきたんだよ。」
 母は上機嫌でハンバーグを作っていた。今よりも痩せていたその後ろ姿のシルエットが、何の問題も抱えていない気軽さに元気に動いていたことを覚えている。
「……うん。」 
 そうじゃない。俺は音を立てずに激しく指の先を擦り合わせながら、話しても上手く伝わらないと思って母親のいる台所を出た。兄は以前にも増して、自分の内側に引きこもるようになった。部屋に戻っても、甲羅に閉じこもった亀のように本にかじりついている兄がいることが分かっているので、入りづらかった。
(これで俺がふらっとどこかに出かけて行ったら、以前の兄のようだな。)
 話しかけても無視されるわけではないけど、兄は本当にここにいるのだろうかと疑えるほどに、うつろに丸まった小さい背中を見せてばかりで、反応も薄いような気がした。これではその他大勢と一緒じゃないか。俺は、兄の外で流れる世界の何でもない一つの事象と化してしまった。傲っていたのかもしれない、兄にとって弟である自分だけは特別だと、内に向いた世界を少しでも開いて見せてくれているのだと、繋いだ手には世間への恥ずかしさと共に、確かな優越感があったのだ。でも今はもう、触れる理由もない。

 中学に入った兄は、確かに目に見える問題行動が減っていった。他人から話しかけられても何かしら辻褄の合う答えを返せるようになったらしいし、大人しそうな友人を何度か家に連れてきたこともある。両親は兄のそういった変化を喜ばしく思っているようで、口論もなくなった。兄が相手を喜ばせ場を和ませるために、料理を食べておいしいと言ったり、テレビ番組を観て面白いねと話しかけてきたりすることが、なぜだか俺には苦痛だった。兄の声には依然として感情があまり込められていないようで、表情も捉えどころがなかった。それなのに、謝意を口にする兄は俺に向けて、ぎこちない笑顔をつくった。気づいたら指先を擦り合わせていた俺はその時、自分が完全に兄の外側の人間になってしまったことを悟った、同じ家に暮らす兄弟の間に事務的な会話が途絶えることはなかったが、親しみというものは一切存在しなかったのだ。人とコミュニケーションを取るようになった兄は心を開き始めたのではなく、社会に向けて自分自身の表面を偽装することを覚えただけのように思えた。俺はどうしても兄のことを知りたくて、相変わらず旺盛な読書家であった兄が読んでいる本と同じものを次々手に取った。しかし兄は名作と呼ばれる古今東西の小説を見境なく読んでいることが分かっただけで、好きな作家や作品の傾向は推察できなかった。兄は何を考えているのだろう、話しかけたら以前よりも友好的に多くの言葉を返してくれるけれども、全て本質ではないような気がして歯痒かった。薄い膜に包まれているみたいな兄を相手にしていると、すぐそばにいるのに手が届かないような錯覚がして、肩を掴んで揺さぶりたくなった、でも無理に踏み込んだら完全に心を閉ざされそうで怖い、無力な俺はいつも苛立っていた。

「兄さん。」
「どうした?」
 兄は穏やかに微笑むのがだいぶ上手くなっていた、兄が中学に上がってからやっと、兄弟の部屋は分けられた。小さなベッドは処分され、兄のそう広くない部屋は大きなベッドと本が溢れた本棚で占められていた。気づいたら俺ももう四月から中学生という年齢になっていて、学業の成績が優秀な兄は、偏差値の高い地元の公立高校にすでに合格していた。弟にとって兄は、恥ずかしいどころか自慢だと思えるような存在になったのかもしれない、それなのにどうして俺はこんなに不満なのだろうか。
「その……英和辞典を貸してほしくて」
 適当な口実を言うと、兄はいつも使っているものではなく新品の辞典を手渡してきた。
「これ、拓海にあげるよ。」
「え?」
「もう中学生になるだろ?必要になると思って、小遣いで買ったんだ。」
「いいよ、そんな。」
 片手で受け取った辞書は重くて、俺は善良そのものである兄の顔に思い切り投げつけたくなった。少し前まで、兄の持っている小説を借りていた、本を読みたい気持ち半分、兄と話をしたい半分で。兄は嫌な顔一つせず何冊も貸してくれたが、ある時、本を返しに来た俺に図書券を渡して言った。
「これで、好きな本でも買って。」
 それが優しさであっても、俺は拒絶されたような気持ちになって悲しかった。兄は俺と話すことが嫌なんだろうか、尋ねてもきっと首を横に振ることは分かっていたから、諦めずに兄に話しかけ続けた。それなのに、
「拓海、」
 驚きを含んで名を呼ばれた、俯いた俺は涙を流していた。兄はどうしたら良いか分からないらしく、沈黙のまま突っ立っている俺に近づくこともしなかった。
「兄さんは、俺のことどう思ってる?」
「それは、大切な弟だと……」
 目を乱暴にこすって、自信無さそうに発せられた声の方を向くと、その顔には焦りが浮かんでいた。兄は、もしかして自分は何か間違えてしまったのではないだろうか、とでもいうような動揺ぶりで、俺は唇をぐ、と強く噛んだ。
「そう。辞書、ありがとう。大切に使うね。」
「う、うん……」
 我ながらわざとらしい言い方だったが、困惑に固まったままの兄を頷かせることはできた。部屋を出て俺は、もう自発的に兄に関わることはやめようと思った。この世界にたとえ兄がいなくても、美は普遍的に存在していて、俺の苦痛は永遠ではないはずだった。俺の生活に兄しかいないわけはない、広い世界で寄り添うことを、生まれてすぐに出会っただけのただ一人に求めることは馬鹿げている。偉大な自然に心を打たれるのは、動物のなかでも人間だけが持つ特権だった。離れて初めて、脅威ではなく、その美しさを芯から感じられる。兄は俺にとって美しく、尊い存在だった。そのことを認めてもなお、俺の精神は解放された状態からは遠く隔たっていた。

 


 中学校の生活が終わっても高校の生活がすぐ始まって、そのあいだに兄はすんなりと大学生になっていた。兄弟の仲は悪いわけではないけれど、良くはなかった。同じ家で無関心を装って、それでも兄への感情をコントロールするのはまだ未熟な俺には難しかった。兄弟で話すのは家族が揃う食卓くらいしかなくなったのに、俺は兄が一人の男と急速に接近しているのを知っていた。偶然兄弟として生まれて同じ家で暮らしているだけの俺に、それは全く干渉を持つはずのない話で、どれだけ苛立ってもぶつけるあてなどなかった。
 他人の兄弟は会計を済ませ、仲良く手を繋いで店を出た。こんなに暑いのに。俺は外の暑さを思い出して、ペットボトルの水を手に取った、苛立たしい夏はもうすでに来ていた。
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