都会の灯

いなぐ

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※架空の街が舞台ですが、少女が売春をしていることを匂わせる描写があります。


 ウィルは昨日よりは幾分か落ち着いて、街の景色を眺めることができた。多種多様な格好をした人々がみな一様に早足で歩いている。いったい何をそんなに急ぐ用事があるのかとウィルは首を傾げたが、自分にも急がねばならない用事があることを思い出した。とりあえず、表に求人の張り紙をしている建物を訪ねていくことにした。

「農場の仕事に、倉庫番……?学校を卒業してると言ってもねぇ、下級学校だろ。悪いが、他を当たってくれないか」
 面接の順番を待つ間に経歴や資格を書くように言われて渡した紙は、どうやらこの男の望む条件を満たしていなかったようだ。
「はあ、分かりました」 
 ウィルは、自分の話し方に訛りが出ないように注意しながら答えた。断られるのはこれで五軒目だった。兄が自分に望んでいる職業は、身体的な危険や負担が少なく、読み書きやその他知識を多少なりとも活かせる仕事だろう、とウィルは見当をつけていた。しかし、上級学校を出た者や職業経験の豊富な者が同じ条件の仕事を狙っているようで、自分には不利な競争のようだった。このまま見つからないようだったら、条件など考えずにがむしゃらに探すしかない、ウィルは大きくため息をついたが、そのことに気づく人間は街の人混みの中に誰一人いなかった。
 高い建物の隙間から覗く空に、日が高く上っている。ウィルは、兄が今頃どうしているか気になって仕方なかった。サイムはあまり多くを語らず、物事を荒立てるタイプではなかったが、小柄で静かだからかたまに変な輩に絡まれることがあった。農場で働いていた時の不愉快な一件を思い出して、ウィルは不安な気持ちになった。その時、ウィルの足に何かがぶつかった。だいぶ重いもののようで、全く動かなかったが、それが人間であることにウィルはすぐに気がついた。いつから放置されていたのか、意識した途端、鼻をつく強い臭いに顔を顰める。兄のことを考えている間にいつの間にか裏路地に入っていたらしく、昼間だというのに周囲は薄暗く、道もだいぶ狭かった。ウィルは、通りに出ようと方角の見当もつかぬまま歩いていると、道幅の狭い、やけに静まり返った通りに出た。
 昼間だというのに店はどこも閉まっているようで、通行人もまばらだ。しかも何のために使われているのかがよく分からない、不明瞭な看板を掲げる建物ばかりが立ち並んでいて、気味が悪いから早く立ち去ろうとウィルは足を早めた。すると、後ろから肩を叩かれた。
「お兄さん、昼間からこんなところで何してるの?」
「は?いや、何も……」
 話しかけてきた女性は、ウィルよりいくらか年上のように見え、派手な化粧をしていた。生地の薄い黒いドレスに身を包み、胸元や脚から不自然なまでに青白い肌を露出していて、ウィルはここがどういう場所か理解したが、いま自分がどう行動すべきかは、咄嗟に判断できなかった。
「今の時間どこもやってないけど、私が相手してあげてもいいわよ。見たところお金無さそうだし、私の好みだから、安くしといてあげる」
 真っ赤に塗られた爪が目立つ指先で胸元を突かれ、思春期になってからあまり女性と会話したことのないウィルは、反応に困って眉根を寄せた。
「……アンタってもしかして、初めて?」
  女性の、爪と同様に真っ赤な唇の端が、愉快そうに吊り上がる。ウィルはますます困惑した。そういえば、兄とはそういったことを全く話さなかったものの、仕事仲間たちは性的なことをよく話題にしていた。男だらけの職場で、安い賃金から何とか捻出して夜の店に行くことは多くの男にとって一種の褒美で、自慢できることのようだった。しかし兄のサイムは____少なくともウィルの前では____性的なことに一切興味を示さなかった。
「恥ずかしがらなくてもいいわよ。まだ若いんだし」
 黙っているウィルを落ち込んだと解釈した女性は、下から覗き込むようにして言った。優しい年上の女性の声色に、ウィルはふと、亡くなった母や嫁いで行った姉たちのことを思い出したが、その細い体に不釣り合いな豊かな胸が自分の体に押し付けられている感触に、我に返った。
「結構です」
 ウィルは女性の肩をそっと掴んで華奢な体を慎重に引き剥がし、きっぱりと言った。しかし女性はめげずにウィルの腕を掴んで、「お金が無いの?」と甘えるように言った。
「ないので無理です」
「そうは言っても、全く持ってないってことはないでしょう?」
 ウィルはいまこうしている間にも、兄がどんな目に遭ってるかも分からないのに、風俗街に迷い込んで昼間から女性に絡まれている自分を情けなく思った。以前、短気な性格を兄に注意されてから、苛立つ気持ちを抑える時にするようにしている深い呼吸を何度かして、女性に向き直る。
「急いでるので、では」
「あ!ちょっと!」
 ウィルが立ち去ろうとすると、女性の爪がウィルの腕に食い込んだ、我慢の限界だ、とウィルが思ったその時だった。
「おい。その男は私の客だよ」
「え?」「は?」
 ウィルと女性が声の方を向くと、白いドレスを身に纏った小柄な女性がこちらに歩いてきた。
「私への支払いもまだなのに、他の女に手を出そうとするなんて、いい度胸ね」
 腕組みをしてきつい眼差しをこちらに向ける女性……というよりも、よく見るともしかしたらウィルよりも年下かと思われる、幼い面影のある少女は、刺々しい口調で言った。
「そういうことだったのね」
 ウィルに絡んでいた女性は舌打ちをすると、「せいぜいガキ同士で乳繰り合ってろ」と悪態をついて去っていた。何が起こったのか分からず呆然としているウィルを、少女は「ぼさっとしてんじゃないよ」と下から小突いた。どうやら、この少女は、女性に絡まれていたウィルを助けてくれたようだ。
「しかしキャスの奴、いくら自分の好みだからって、こんな小汚い、貧乏そうなのに目をつけるなんてねぇ」
 キャス、というのはさっきの女性のことらしい。少女の言葉にウィルはむっとしたが、助けてもらった手前、言い返すことはできなかった。
「あんた、こんなところで何してたわけ?」
「道に迷って、」
「あっそ。さっさと帰んな」
 ウィルの話が終わらないうちに、少女は冷たく手で追い払う仕草をした。自分とそう歳の変わらない少女が、一人前として仕事しているらしい事実に、ウィルは衝撃を受けた。困り事の対処にも慣れているようだし、荒んだ雰囲気があるものの、落ち着きを払った態度に感心する。
「……帰るとこ、無いの?」
 黙って動こうとしないウィルに、少女はしぶしぶといった感じで問いかけた。
「無いわけじゃないけど、仕事を見つけないといけなくて」
「ふうん」
「なんか、いい仕事知らない?」
 少女はウィルの顔をまじまじと眺めた後、吹き出して、ついには大口を開けて笑い始めた。ウィルは自分が馬鹿にされていることは分かっていたが、辛抱強く、少女が笑い終わるのを待った。
「あんたって本当、」
「あんた、じゃなくて、ウィル」
 体の大きいウィルの不機嫌さを滲ませた口調にも、少女は全く怯まなかった。
「ああ、ウィルね。私はアンナ。それであんたは……ウィルは、ここら辺の人じゃないのね」
「そう。昨日、田舎から出てきたばかりなんだ」
「一人で?」
「いや、兄貴と二人で」
 兄貴、という言葉を口にした途端、ウィルはまた、不安に呑み込まれそうになった。今まで、あてがわれた仕事が違うことはあっても、常に兄弟一緒の職場で働いていた。でもこれからは別々だ、サイムは弟である自分を心配しているだろうが、ウィルの方も兄のことが心配だった。
「仕事はあることはあるけど……あんたに務まるかしらね?」
 アンナは試すような目つきでウィルを見た。
「あんたって、女好き?」
 仕事をもらえるかと期待した矢先、思いがけない問いを投げかけられて、ウィルはきょとんとした。アンナはそれを見て、怪訝そうな表情を浮かべる。
「もしかして、特殊な趣味でもあるの?」
「いや、」
「ああ。女に興味がないのか」
 ウィルは咄嗟に兄のことが思い浮かんだ自分に驚き、口を噤んだ。仕事場で女性が話題に上がっている時、会話の内容よりも兄がどういう反応をしているかの方を気にしていたことを思い出して、果たして自分は変なのだろうか、と今更不安になる。そういえば今まで女性に興味を持ったことがなかったし、かといって不特定の男性にも興味を持ったこともないが、兄は男性であるので、男性への関心が無いとも言いづらかった。
「まあ、その方が下男としては都合がいいわね」
 ウィルの無言を肯定と受け取ったアンナは頷き、あんたは見目が悪くないから従業員とそういう仲になられちゃ厄介だしね、と小声で付け加えた。
「田舎者で世間知らずなところと、青臭い見た目が気にかかるけど……まあ、決めるのは私じゃないし」
 真昼の日差しがアンナの身に纏っている白を照らし、ウィルは眩しさに目を細めた。足元の影はずいぶん濃くなっていた。
「夜になったらまたここに来な。私が店の主人に紹介してやるから」
「わかった。ありがとう」
 ウィルが感謝を口にすると、アンナは片眉を釣り上げて彼を一瞥した後、さっさと踵を返して建物へと向かった。夜になるまでどのくらい時間があるんだろう、ウィルは希望と不安に胸に抱きながら、時間を潰すためにあてもなく歩き始めた。
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