崩壊

いなぐ

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第二話-①:多田

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[友人:多田和明]

 自分が何をしたのか、何を思っていたのかよく分からない。ただ、人の気も知らないでニコニコしている優也さんを少しだけからかうつもりだった。あまり似ていないとはいえ加山の兄である優也さんと、案外嫌悪感なくすんなりとキスした自分に驚く。でも、静かに涙を流す顔を見て、この人は傷つけてはいけないのだと気づいた。
 期末考査は難なく済んだ。結果は分かりきっているのに毎回苛立って落ち着かない気持ちになるが、今は優也さんのことで頭が占められているためか、さして気にならなかった。部活動が再開して優也さんと一緒に登下校するタイミングが合わなくなり、どうしたらまた二人で過ごせるだろうかということばかり考えていた。加山と顔を合わせるたび、優也さんのいる家に帰る弟という立場を羨ましく思ったが、いくら兄弟仲が良くてもしてないであろうキスを俺は優也さんとしたことに、優越感のようなものを抱いていた。加山はこういうことをしたいのだと言って優也さんに無理やりキスをしたが、アイツがいくら兄に執着しているとは言えそんな願望を抱くはずもなく、行動に先走って出ただけの言葉だった。そうだ。兄弟は兄弟以上になれないが、他人同士は努力と相性次第で親友にも、恋人にも関係を変えることができるのだ。優也さんがどんな人物なのかもっと知りたい、と俺は思った。幼い頃から加山への劣等感ばかりに気を取られたせいで付き合いが長い割に優也さんのことをよく知らないことに気がついた。嫌いにならない、と言ったやさしい目はずっと近くにあったはずなのに。


「和明くん。」
 ずっと考えていたせいで幻覚でも見ているのかと思った。昼休みに友人達と教室で弁当を食べていた時、「多田、先輩が呼んでる。」とクラスメイトに声をかけられた。部活の先輩だろうかと入口に行くと、立っていたのは優也さんだった。一年生の教室にいても目立たない小さな姿は、落ち着かなさそうに体をもじもじさせていたが、俺に気づいた途端に、ぱっと顔をほころばせた。
「えっと、加山……、拓也は、隣のクラスですよ。」
 久々に、といっても一週間くらいぶりに見た優也さんは、何度も頭に思い浮かべていた姿よりもあまりに魅力的に俺の目には映り、動揺したせいで確実に知っているであろう情報を口走ってしまった。
「そう、なんだけど、あの、ごめん。体操着って持ってる?」
「持ってますよ。」
「僕、四限に体育があるのに体操着忘れちゃって……拓也に借りようと思ったら拓也のクラスは五限が体育みたいだから、返すのが間に合わないかもしれなくて。」
 優也さんが一生懸命に事情を説明しているのに俺は、優也さんの小さな口が頑張って言葉を紡ぎ出している様子とか、真黒な目が俺をぶれることなく見上げているのとか、サイズが合っていない少しシワの寄った白いシャツに収まっている体とか、目の前の姿をじっと観察することに注力していた。外見的にはこれまでと何も変化したところはないように思われるのに、優也さんはどうしようもなく俺を惹きつける存在となっていた。今すぐにでも抱きしめたかった。でも、困らせるのではなくて、喜んで受け入れてもらえるような存在になりたいと思った、そのためには自分本位で動いてはいけないのだ。
「それで、和明くんが貸してくれたら助かるんだけど、」
「もちろんいいですよ。」
 頼られて嬉しい俺が食い気味に答えると、優也さんは嬉しそうに笑顔を浮かべて、「ありがとう。」と手を握ってきた。
「あ、ごめん。」
 自分でも驚いたようですぐに手を離すと、「拓也とのが、つい癖になっていて、」と優也さんは恥ずかしそうに言った。俺は柔らかくあたたかな感触にぼうっとして、すぐに離れたのに俺の手にはしっかりと優也さんの熱が残った気がした。小さな声が“また拓也だ“、と頭の隅で苦々しくつぶやいた、多田は日常的に優也さんに手を握られてるらしい、ハグだっていくらかしてるかも分からない。でもそれは“兄弟”だから、家族愛以外の意味は持たないはずだ。俺は拳を握りしめ、手の内に爪を食い込ませて、黒々とした感情を抑えた。
「今日は部活あるんだよね?」
「はい。」
「部活では部活用のジャージとか、着る物はある?」
「持ってきてます。」
「じゃあ体操着は明日、洗濯して返すよ。」
「いいですよ、わざわざ洗濯なんて。」
 善意から出た言葉の後にすぐ、そのまま返された方が俺にとっては都合がいいのかもしれない、と、悪い考えが頭によぎった。優也さんの精神とともに肉体に対しても、俺は自然と興味を抱いていた。触れたいと願うその体を包んでいた衣服が気になるのも当然の成り行きだった。
「ついでだし、気にしないで。いつ頃がいいかな?」
「明日は体育がないのでいつでも大丈夫です。あ、昼休みがいいかも。良かったらお昼ご一緒しませんか?」
「え、いいの?」
「いいのって、俺の方で誘ってるのに。」
 変なところで遠慮するんだな、と思わず口調がくだけた。昔は敬語なんて当たり前に使っていなかったが、地元の中学校に上がって上下関係を教え込まれ、同じ学校の三年生である優也さんにも自然と敬語を使うようになった。優也さんは最初、戸惑って居心地悪そうにしていたが、俺が敬語を崩す気がないと分かると、静かに受け入れたようだった。そういえば加山のことも、昔は拓也と呼んでいたが名字で呼ぶようになり、加山も自然とそれに合わせたのだった。優也さんは照れくさそうに言った。
「友達付き合いがあるかと思って。」
「俺は優也さんと一緒に過ごしたいんですよ。」
「そっか。ありがとう。」
 自分が人に素直に好意を伝えるなんて、優也さんに影響されているらしい。優也さんは昔から、人の毒気を抜かせる不思議な雰囲気があった。元々警戒心の強い自分でさえ、敵意を抱いたことは一度もなかった。じゃあね、と小さく手を振る優也さんを名残惜しく見送りながら、俺は小さい頃、転んで痛みに動けなくなっていた時に優也さんが手を差し伸べてくれたことを思い出した。




 俺は幼い子どものうちから表情の変化に乏しかったらしく、両親は上手く感情を汲み取れずに戸惑ったらしい。それでも、自分たちの子どもだからと愛情は注いでくれたので、俺も自分のそうした特質に気づかずにいた。しかし四歳の時に弟が生まれて両親は弟の世話にかかりきりになって、俺はまだ小さいのに放って置かれるようになった。成長するにつれ、笑うにしても泣くにしてもとにかく大袈裟なくらいに表現する弟は、手がかかると言われながらも両親を含む周囲の大人たちの気を引いて、明らかに兄である俺よりも特別に愛情を与えられていた。俺は小さな自分の弟のことを純粋に可愛いと思っていたが、何の苦労もせずに愛されている様子を見ると、だんだん疎ましくなってきた。弟の真似をしてわがままでも言ってみようかと思ったが上手くできなさそうな気がしたし、何より弟を意識して周囲に媚びるなんて嫌だと思った。弟は常に多くの人たちに愛されていたから、兄一人に愛されていないことなんてまるで気にしてないようで、俺はいつもべったりしている加山兄弟を異常だと思っていた。
 思春期に入って、感情の表出が下手という欠点がクールでかっこいい、と一部の女子に評されるようになった。また、何か目に見える形で結果を残さなければ自分の存在を認められない気がして頑張っていた勉強や運動も、そこそこ優秀な成績を収めることができて、そのことでも注目されるようになった。俺が気になった女子は例外なく加山を好いていたが、俺に告白してくる女子もいないことはなく、一度だけ何となくその内の一人と付き合ったことがある。小柄で大人しく、あまり大きな声で喋らない子だったが時折、まるで近しい人間じゃないみたいに俺のことを褒め称えた。
「多田君って背が高くてかっこいいよね。何センチあるの?」
「勉強だけじゃなくスポーツも得意なんて、何でもできるんだね。」
「しっかりしていて本当に頼もしいよ。」
 俺は必死に努力しているからいい成績を取れたんだし、部活で常にレギュラーだったのだ。それでも加山には絶対に敵わず、たまに心が折れそうな時もある、それに怖いものや嫌なことだってたくさんあるのに。でもその内心を打ち明けて、弱い自分を受け入れてもらえるか分からなかったし、そもそもこの子に受け入れてほしいのかも分からなかった。こんな感情で付き合い続けるのは不誠実だと思って別れを告げたら、「やっぱり私と多田君じゃ釣り合わないよね」と返された。俺は積極的に相手を理解しようとしなかったが、相手の方も俺を理解しようとしていなかったのは明らかで、俺はそれから恋愛事への興味を失った。
 中学では、定期テストの学年での順位を知らされる。小学校の時点で自分の成績が加山に劣っていることは知っていたが、はっきりと数字で知らされるのはやはり悔しいものだった。いつも一位をとる弟を褒めながら優也さんは、二位にいる俺のことも悪気なく褒め称えた。それで、ある時二人きりの時に、優也さんに皮肉っぽくこう言ったことがある。
「加山……、拓也なら、俺の半分の勉強量で満点は取れますよ。」
「そうかもしれないね。でも、最初からできる人ももちろんすごいけど、人よりも頑張って結果を出した人ってすごいなと僕は思うよ。僕は苦手なことを頑張らなくちゃいけないってなるとすぐ諦めて、放り出しちゃうし。」
 そう言って照れくさそうに笑う優也さんの顔には何の悪意も見られないのに、だからこそ、俺は頭に血が上った。優也さんはずっと愛されて弟に守られてきたから、無防備に弱いままでいられるのだ。そして、誰に対しても好意的な態度を取れるのは思慮が浅いためだ、そう思い込むことで、優越意識を保って落ち着こうとした。優也さんの本質を見失ってしまった原因はそこにある。俺は、弱い自分を守ることに必死だった。

 加山拓也のことは好きじゃない。しかし、加山は俺という人間に興味がなく、何の期待も抱いていないため行動を共にするのは楽だった。だから仲が良くなくともずっと一緒にいられたのだと思う、加山の方ではどんなつもりなのか知らないが。そして優也さんは、昔から競争や対抗意識というものがすっぽり抜け落ちていて、自分を取り繕おうとせず、どう扱われようとも周囲の人間に対して友好的に接していた。俺はそんな態度が信じられないし、少し不気味でさえあったので、考えることを封印したのだ。

 ……痛い。動けない俺に気づいた優也さんは慌てて駆け寄ってきて、俺の手をしっかり掴んで、ゆっくりと立ち上がらせた。
「大丈夫?痛そうだね。早く洗わなくちゃ。」
 優也さんは俺より二年早く生まれているにもかかわらず、出会った頃から俺と体の大きさがさほど変わらなかったので年上であると意識していなかったが、俺の手を引く優也さんの背中は頼もしかった。近くの公園の水道で俺の膝の傷を水で洗うと、優也さんはポケットから取り出したハンカチで患部を優しく拭き、絆創膏を付けた。
「よく頑張ったね。」
「何が。」
 ねぎらう優也さんに、当時小学四年生くらいだった僕はぶっきらぼうに返した。
「痛かったでしょう。我慢してえらいね。」
「うん、」 
 あまりに柔らかい物言いに俺は自然と頷くと、優也さんは頭を撫でてきた。恥ずかしさと嬉しさで体が熱くなったが同時に、弟に普段からこういうことをしているから俺に対しても同じことをするのだ、と思って少し反発を覚えた。

 今になってみれば俺は、優也さんに特別に扱われたかったのかもしれない。俺にとって優也さんは特別な存在になりえるのに、優也さんにとってはそうでないであろうことを認めるにはまだ幼かったのだ。




 優也さんのクラスの体育の授業は体育館で行われたらしいので、俺の体操着を着ている姿を見ることができず、残念だった。でも明日また会えると思うと心が弾んだ。部活中も楽しそうにしている俺を不審に思ったのか、更衣室で加山に声をかけられた。
「なんかいいことでもあった?」
「いや、まあ……優也さんが、」
 俺は加山の様子を見るためにわざとここで言葉を切った。案の定、加山の顔には分かりやすい動揺が浮かんだ。互いにもたれかかって生きていたような加山兄弟だったが、明らかに弟の抱いている感情が異質なのが、他人である俺の目からでも見てとれた。加山は兄の優也さんのことになると落ち着かず、余裕がないようで、かといって決して離れようとはしなかった。優也さんはそのことに気づいているのかいないのか、柔らかな笑みでそれに応えるだけだった。
「兄さんが?何?」
「別に。」
 意地悪く言い放つと、加山は黙り込んでしまった。まあ、兄弟間で何があるにせよ、優也さんと親しくなろうとする俺を阻むものでは無い、俺は一人で更衣室を出た。
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