3 / 40
1巻
1-3
しおりを挟む
「……私がパティ様に嫌がらせをしてきたのは事実です。そのことについてはどのような罰でもお受けします。ですが、この事件は別です! このまま真犯人が捕まらなければ、またパティ様が危険な目に遭ってしまいます。それだけは避けたいのです」
メアリーは乙女が祈るように胸の前で両手を合わせる。チラッとメイドを見ると、怒りで顔を赤くしていた。
「皆様のお話を聞く限り、この事件は殺害未遂で、パティ様は生きていらっしゃるのですよね? 毒を飲まれてしまったパティ様はご無事ですか?」
この質問には騎士団長のカルヴァンが答えた。
「パティ嬢は毒が入ったお茶に口をつけていない」
メアリーはホッと胸をなでおろす。メアリーと同じく聖なる力の強いパティは毒程度では死なないと、ゲームの知識で知っていた。けれど、まったく効かないわけではない。今彼女がこの場にいないのは、毒を飲んでしまって苦しんでいるからかもしれないと、少し心配していたのだ。
(だけどこれだけ騒ぎたてるってことは、聖女候補が毒くらいでは死なないって、皆、知らないようね)
「良かったです……。でも、カルヴァン様。それならどうして毒入りだとわかったのですか?」
「その場にいたクリフが気づいたのだ。パティと二人でのお茶会だったらしい」
「そうでしたか」
天才魔導士クリフなら、毒入りのお茶を瞬時に見分けるくらい簡単なことなのだろう。メアリーは困ったような顔を作り、嘘つきメイドを見つめた。
「それでは、どうして私の参加していないパティ様とクリフ様のお茶会に、私付きのメイドであるあなたが居合わせたのですか? 私に脅迫されたと言いますが、もしそれが嘘なら毒入りのお茶をパティ様に飲ませようとしたのは、あなた自身ということになりますよね?」
メイドの顔が青ざめた。ようやく、自分が犯人だと疑われていることに気がついたようだ。カタカタと震え出したメイドを見て、ハロルド王子は優しく微笑んだ。
「うん、話はよくわかった。メアリーよりこのメイドに詳しい話を聞いたほうが良さそうだね」
エイベルが「僕に取り調べをさせてください!」と語気を荒くする。
「任せたよ。エイベル」
エイベルは小声でメアリーに「頑張ったね」とささやいた後、メイドを連行していった。メイドはメアリーを指さしながら、「違います! あの女が! あの女が悪いんです!」と部屋を出る最後の最後まで叫んでいた。
(なんとか、生き延びた……? それにしても、こんなこと、調べればすぐに私が犯人じゃないってわかりそうなものなのに……)
椅子から立ち上がったハロルド王子は、笑顔のままメアリーのそばに来た。そして、顔を寄せメアリーの耳元で優しくささやいた。
「メアリー、君を殺せなくて残念だよ」
一瞬、なにを言われたのかわからず、ハロルドの顔を見ると、ハロルドは器用にパチンとウィンクした。
(この腹黒王子……初めから私が無実だとわかっていたのに、私を消したくてメイドの嘘を利用したってこと?)
初めから、メアリーが毒を入れたかなどはどうでも良かったとでも言うかのような態度だ。
実際、もしここで、いつものようにメアリーが叫んで暴れていたら、メアリーは確実に殺されていた。
ハロルドは何事もなかったように「カルヴァン、メアリーをしばらく護衛してくれ」と微笑んだ。
「はい」
静かに返事をしたカルヴァンは、メアリーを見るとフッと笑うように少しだけ口端を上げた。
(これは……護衛じゃなくて、監視ね)
そもそも騎士団長が王族以外の護衛につくことがおかしい。
(腹黒王子様は、『隙あらばお前を殺すぞ』って言いたいのね)
悪女メアリーを殺したいのは、伯爵夫人だけではない。
(生き延びたと思うのは、まだ早いみたいね)
メアリーは深いため息をついた。
第二章 クセの強すぎる聖騎士たち
ハロルド王子の指示で、メアリーは伯爵家には戻らず、事件の真相が明らかになるまで神殿内で暮らすことになった。メアリーに与えられた部屋は窓が一つとベッドがあり、あとはテーブルとソファが置いてあるだけのシンプルなものだ。伯爵家の自室に比べると質素だが、メアリーが一人で暮らすには十分な広さがある。
(伯爵家に戻る気はなかったから、部屋を与えてもらえて良かったわ)
それより問題なのは、王子の指示でメアリーの護衛を任されたカルヴァンが、部屋の中までついてきたことだ。
カルヴァンは、メアリーを殺したいと思っているハロルド王子の腹心だ。メアリーの味方であるはずがない。
(コイツ、急に切りかかってきたりしないわよね? えっと……ゲームの中では、カルヴァンってどんなキャラだったっけ?)
騎士団長のカルヴァン・ナイトレイも、もちろん、ゲーム『聖なる乙女の祈り』の攻略対象者だ。聖騎士の中では最年長で、くすんだ灰色の髪と、青味の強い灰色の瞳を持っている。
(無口で硬派な騎士様で、外見だけは、ものすごく私の好みなんだけどねぇ……外見だけは)
というのも、カルヴァンは誠実そうな外見とは裏腹に、美女をとっかえひっかえしている遊び人なのだ。ゲームでは、過去に愛した女性に手ひどく裏切られてから、そうなったと描かれていた。「真実の愛などない」と言い切るカルヴァンが、主人公のパティと交流していくうちに再び真実の愛を信じられるようになる……というのが彼のストーリーだった。
(パティが誰と仲が良いかわからないから、今ここにいるのは遊び人のカルヴァンと思っていたほうがいいわね)
そう思った途端に、ふわっと後ろから抱きしめられた。メアリーの頭上から低い声が響く。
「大変でしたね。メアリー嬢」
その声は優しげで、どこか色っぽい。
(……あー、なるほど。これ、ハニートラップってやつだ)
ハニートラップとは『甘い罠』という意味で、元はスパイが色仕掛けで対象を誘惑し、弱みを握って脅迫したり、本気で惚れさせていいなりにしたりすることだ。
カルヴァンはメアリーの耳元に唇を寄せると、「私があなたの傷ついた心を癒してあげられれば良いのですが……」とささやいた。その声はどこか苦しそうで、メアリーを気遣っているような響きがあった。
(すごいわ、本気で私を心配してくれているみたいに聞こえる。さっきのメイドといい、カルヴァンといい、恐ろしい演技力! ここで気を許すと、私は殺されるってわけね)
メアリーは、ゲームの知識のおかげで、カルヴァンがその気のない女性に無理やり手を出さないことを知っていた。彼はあくまで相手の同意を得てから遊ぶのだ。
(そういうことなら、私はこれから、徹底的にすっとぼけるまで!)
メアリーは、カルヴァンの腕からするりと抜けると、おずおずと床に両膝を突いた。
カルヴァンは不思議そうな声を出す。
「メアリー嬢?」
メアリーは、カルヴァンに向き直ると、拳を握りしめて両腕を差し出しうつむいた。そのままの姿勢で動かなくなったメアリーにカルヴァンは戸惑っている。
「メアリー嬢、どうしましたか?」
その質問に、心の底から不思議そうに聞こえるよう、メアリーはつぶやいた。
「あの……鞭で、打つのでは?」
カルヴァンが驚いた瞬間に、メアリーは「はっ」として、膝を突いたままカルヴァンに背を向けた。
「申し訳ありません! 打つのは背中……ですか?」
メアリーは再び顔をうつむけ、震えて見えるように身体を小刻みに動かした。
(どうだ、薄幸そうな美女がおびえて震える姿は!?)
そっとカルヴァンを見ると、毒気を抜かれたように軽くため息をついていた。そして、ソファに腰をかけ、「お茶でも飲みませんか?」と聞いてくる。カルヴァンの意図は、メイドを呼んでお茶を淹れてもらおうというものなのだろうが、メアリーはすぐに立ち上がると、部屋に置かれていたティーセットの準備を始めた。
「メアリー嬢?」
戸惑うカルヴァンに、「はい、ただいま」とメアリーは硬い声で答えた。
(言っとくけど、伯爵家では誰も私にお茶なんて淹れてくれないから、お茶くらい自分で淹れられるからね?)
手早く準備をすると、ソファの横に両膝を突いて、テーブルにそっとカップを置いた。
(どうだ、薄幸そうな美女が、おびえながら従順にお茶を淹れる姿は!?)
カルヴァンがこちらに手を伸ばしたので、メアリーはとっさに父に頬を打たれたことを思い出し、顔を守るように両腕でかばい目を閉じた。
いつまでたっても衝撃が来ないので、そっと目を開くと、カルヴァンは自身の口元を手で押さえながら、なにかを考えるように視線をそらした。
「メアリー嬢、私と少し腹を割って話をしませんか?」
カルヴァンの言葉に『なにを言っているのかわかりません』と言うように、メアリーは小さく首をかしげた。
(その手には乗らない。アンタは私の味方じゃない。絶対に信用しない)
カルヴァンは、「警戒されるのは仕方ないですね」とつぶやき、少しだけ微笑んだ。
「私は仕事柄、今まで大勢の人たちを見てきました。メアリー嬢が演技ではなく、本当におびえていることは、今、わかりましたよ」
そう言ってから、カルヴァンは「申し訳ありませんでした」と少し頭を下げた。
「先ほどのエイベルの様子を見て、私はあなたがエイベルに色仕掛けをしたと思っていたのです。それで今度はこちらから、逆に仕掛けてやろうかと……失礼しました。事実は違ったのですね。エイベルは正義感が強いから、どうやらあなたの事情を知って同情したようだ」
「……エイベル様は、お優しい方です」
初めは『ちょろい』なんて思ってしまったが、エイベルはメイドの証言を聞いてもずっとメアリーの味方でいてくれた。今では素直に『優しい人なんだな』と思える。
(まぁ、だからといって、まだエイベルを全面的に信頼はしてないけどね……)
カルヴァンは、向かいのソファに座るようメアリーをうながすと、「エイベルに話したことを、私にも話していただけませんか?」と聞いてきた。先ほどのように色気をふくんだ声ではなく、あくまで事務的で淡々としている。
(まぁ、それくらいは話してもいいか)
メアリーは、自分が、伯爵がメイドに産ませた庶子であること、そのせいで伯爵夫人にこれでもかとイジメられてきたこと、そして、異母兄のルーフォスに軽蔑されていることを冷静に話した。
「なるほど。あと一つ、急にあなたが外見を変えた理由をうかがっても?」
(正直に答えると、パティのような清楚系美女を演じて聖騎士に媚びを売るためだけど……)
メアリーは少し考えた後に、こう答えた。
「父は私を聖女にしたくて、目をかけてくれていました。私もそんな父に応えるべく努力をしてきたのです。ですが、今回の事件で、父からも見捨てられました。だから……」
「だから?」
「私はもう伯爵家のメアリー・ノーヴァンじゃなくて、普通のメアリーになってもいいのかなって思って」
その自分の言葉に『ああ、そっか、もう私は私のままで生きてもいいんだ』と気がつき、メアリーは自然と頬がゆるんだ。
カルヴァンは、少し目を見開いた後に、困ったように眉根を寄せながらメアリーに微笑みを返す。
その時、コンコンと部屋の扉がノックされた。
カルヴァンが「はい」と答えると、開いた扉から現れたのはルーフォスだった。ルーフォスはギロリとメアリーをにらんだ後、カルヴァンに「少し話したい」と不愛想に伝えた。
立ち上がったカルヴァンは、なぜかメアリーのそばに寄ってくる。そして、片膝を突いてメアリーの耳元でささやいた。
「今日のお詫びに一つアドバイスを。あなたはルーフォスに軽蔑されていると思っているようだが、私から見れば、あれは惚れた女を手に入れられず、当たり散らしているようにしか見えない」
メアリーが驚いてカルヴァンを見ると、『内緒だよ』と言いたげに人差し指を自身の唇に当てた。部屋の入り口から、ルーフォスの舌打ちが聞こえる。
「カルヴァン!」
「わかった、今行く」
カルヴァンはメアリーに小さく手をふると「また明日」とさわやかに微笑んだ。
一人部屋に取り残されたメアリーは、カルヴァンの言葉を考えていた。
(ルーフォスが『惚れた女を手に入れられず』って? その惚れた女ってパティのことよね?)
だったら当たられるこっちはいい迷惑だ。
(でも、わざわざカルヴァンが私に言うってことは、もしかして、私に惚れてるって可能性も……)
少し考えた後に「いや、ないわぁ」とメアリーは首をふった。
(母親がちがうとはいえ、私たちは兄妹だからね。もしそうだったらドン引きだわ。それにカルヴァンが私を動揺させるために嘘をついている可能性もあるし……あーもう、考えることが多すぎる!)
「カルヴァンは、『また明日』って言ってたから、明日聞いてみるしかないか……」
ソファに横になると、急に眠気に襲われた。
(そういえば、今日は早起きしてたっけ……)
朝から緊張の連続で、精神をすり減らしていたのか、メアリーはすぐに意識を失うように眠りこんだ。
目覚めると、すでに日がかたむき、部屋の中は夕焼け色に染まっていた。
メアリーは空腹を感じてため息をついた。
「お腹がすくのは生きてる証拠ね……」
食事が欲しい。一人で部屋から出ていいのか悩んでいると、コンコンと部屋の扉が叩かれた。
「はい」
メアリーが答えると、「あ、いた!」と明るい声がしてエイベルが顔を出した。ソファに座っているメアリーを見ると、人懐っこい笑みを浮かべる。
「あれ? メアリー、もしかして寝てた? 髪に寝癖が……」
エイベルはソファに近づいてくると、手を伸ばし髪に触れようとしたので、メアリーはとっさに身体を引いた。
(しまった、今まで私に優しくさわる人なんていなかったから、つい逃げてしまった)
エイベルを見ると、こちらに伸ばした手をひっこめて、気まずそうに「ごめん」とつぶやいた。
「急にさわられたら怖いよな。これからは気をつけるから」
捨てられた子犬のような瞳を向けられ、なぜかこちらが罪悪感を覚える。
「い、いえ、こちらこそ、すみません……」
少しの沈黙の後、エイベルは気を取り直したように、廊下に向かって「運んでくれ!」と声をかけた。白いフードをかぶった神殿仕えのシスターたちが、静かに入ってくる。彼女たちは、手にそれぞれ荷物を抱えている。
「メアリー、しばらくここに住むんだろ? シスターに必要そうなものを用意してもらったんだ。ほら、メアリーのメイドはいなくなっちゃったから」
無邪気にそう言ったエイベルに、少し背筋が寒くなる。
(いなくなっちゃうのは、本当は私だったのよね……)
シスターたちは、着替えやタオルなどの生活必需品を運び終えると、丁寧に頭を下げて部屋から出ていった。向かいのソファに座ったエイベルに、「お腹すいてない?」と聞かれたので、メアリーは素直に「すいています」と答えた。
「良かった、そうだと思ってシスターに頼んでおいたから、すぐにここに運んでくれるよ」
「ありがとうございます!」
メアリーが微笑むと、エイベルも嬉しそうに微笑んだ。そして、「……良かった、元気そうで」とつぶやく。
「メアリーが一人で泣いていたらどうしようって少し心配でさ」
「エイベル様……」
エイベルからの好意をどう受け止めていいのかわからないが、『まぁ嫌われているよりかは、いっか』とメアリーは軽く流した。
「ねぇねぇ、メアリー。伯爵家から新しいメイドを呼びなよ。一人くらいは君に良くしてくれたメイドがいるだろ? 伯爵がなんと言おうと僕の権限で連れてきてあげる」
(私に良くしてくれたメイド……?)
そう言われて考えてみると、メアリーは一人だけ思い当たる少女がいた。
「そうですね……。では、伯爵家の厨房に勤めている、ラナという少女をお願いします」
エイベルは「え? 厨房のメイド?」と不思議そうな顔をした。
「はい、食事を抜かれて空腹に耐えかねた私が厨房に忍びこんだ時、彼女は伯爵夫人の命にそむいてまで、温かいスープを分けてくれようとしたのです。それで……」
エイベルは急に下を向き、膝の上で両手を強く握りしめた。
(しまった、厨房に忍びこんだなんて引かれた!?)
「あの、お恥ずかしいお話を!」
慌ててメアリーが謝罪しようとすると、エイベルは震えながら顔を上げた。それは、とても怒っているような表情だったが、綺麗な瞳がうっすらぬれて、エメラルドのように輝いている。
「……わかった。絶対に、僕が、その子を連れてくるから」
震える声でそう答えると、エイベルは手の甲で目尻を乱暴にぬぐった。そうしているうちに、シスターが部屋に食事を運んでくれた。どう見ても一人分の量ではないのに、エイベルは「メアリー、いっぱい食べて!」と言うだけで自分は食べようとしない。
(こんなに食べきれない……)
「エイベル様、良ければ一緒に食べてくださいませんか?」
「僕はいいから! メアリーが食べなよ!」
(こんなに食べたら吐きそう……)
仕方がないので、メアリーはそっと瞳を伏せた。
「あの、エイベル様。私、誰かと楽しく食事をしたことがなくて……。良ければ、お付き合いいただきたいな、なんて……」
エイベルはまた勢いよく下を向くと、ブルブルと身体を震わせた後に「わ、わがっだ……」と涙声で返事をした。
(こんな簡単に他人を信じて同情しちゃって……この人、大丈夫かしら?)
エイベルのそばにいると、少しの罪悪感と共に、メアリーは不思議と心が温かくなるような気がした。
二人で食事を終えると、エイベルは明るく「じゃあね!」と言い、すぐに帰っていった。
(これは紳士アピールかしら? 自分は女性と二人きりでも手を出しません的な? まぁエイベルのあの顔ならガツガツしなくても女性のほうから寄ってくるか……)
人からの厚意を素直に受け取れない自分に少しあきれつつも、メアリーは生き残るためには仕方ないと思い直した。死なないために、利用できるものはなんだって利用するしかない。窓の外を見るともうすっかり暗くなっている。
メアリーは神殿のシスターが持ってきてくれたものを一通り確認した。着替え用の服は、シスターが着ているものと同じ修道服だった。白いフードがついていて、顔を隠せるようになっている。
(この姿なら、目立たず神殿の中を歩けるかも……)
とにかく、一度パティに会いたい。
(私の味方をしてくれたっていうパティにお礼を言って、今までのことを謝りたい。そして、できれば私の命が助かるように協力してほしい)
そのためにも、まずパティに会わなければいけない。
(大浴場で待ち伏せしたら、パティに会えるかもしれない)
この神殿では多くの人が暮らしていて、風呂は共同のものだけだ。たとえ聖女候補でも、入浴の際は部屋から出て大浴場に行かないといけない。
事件までは伯爵家の屋敷から神殿に通っていたメアリーと違い、パティは聖女候補に選ばれてから、家には帰らず、ずっと神殿にとどまっていた。だから、今も神殿にいるはずだ。
メアリーは急いで修道服に着替えた。念のためにタオルや替えの下着を持ち、自分も風呂に入るように見せかける。
(これなら、誰かに見つかっても『大浴場に行くところでした』ってごまかせるはず)
そっと扉を開いて、近くに誰もいないことを確認すると、メアリーは静かに部屋から抜け出し、小走りで大浴場のほうへ向かった。
メアリーの部屋から大浴場へ向かう途中には一本道の渡り廊下があり、その左右は中庭になっている。その渡り廊下に、なぜか異母兄のルーフォスの姿があった。
(嘘でしょ……どうしてここに?)
メアリーは、ハッとした。
(もしかして、パティを待ち伏せしているの?)
身内のストーカー行為を目撃してしまい、なんとも言えない気分になる。
(まぁ、そういう私もパティを待ち伏せしに来たんだけどね……)
『なにこの変態兄妹』と思いつつ、メアリーはフードを深くかぶった。そして、顔が見えないようにうつむきながら、ルーフォスの前を早足で通りすぎる。
『良かったバレなかった……』と安心した途端に、右肩を強くつかまれた。小さな悲鳴と共にふり返ると、ルーフォスがメアリーを鋭くにらみつけている。
「ルーフォス様……」
慌てて頭を下げると、ルーフォスは「俺に挨拶もしないとは、いいご身分だな」と舌打ちする。
(私が声をかけても、どうせ無視するくせに!)
そう思いながらも、メアリーは怒りを抑えて、おびえて見えるようにそっとうつむいた。
「わ、私などがお声をかけたらルーフォス様のご気分を害してしまうかと思いまして……」
ルーフォスはなぜか少し言葉につまった後、「挨拶は礼儀だ」と言って視線をそらした。
「申し訳ありません。以後、気をつけます」
そそくさとその場を立ち去ろうとすると、ルーフォスは、もう一度、肩をつかんでくる。
(なんなのよ!?)
振り返ると、ルーフォスは顔をしかめ、声を荒げて言った。
「カルヴァンは見た目通りの男ではない! 気安く部屋に入れるな! ……お前のような汚らわしい女と噂が立つと、カルヴァンが迷惑する」
(本当になんなの、コイツ!)
カッと来たメアリーの視界の端に、ルーフォスが腰に帯びている剣が見えた。途端に熱くなった頭が冷える。
(……なるほど、わざと私を怒らせて、キレて暴れたところを、その剣でバッサリいく気なのね? そっちがそのつもりなら、こっちは徹底的にとぼけてやる!)
メアリーは持っていた荷物を両手で胸の前で抱きしめ、ルーフォスを上目遣いに見上げた。
「カルヴァン様が、私のお部屋にいると、噂になる……ですか?」
「そうだ」
冷たく言い放つルーフォスに、メアリーは不思議そうに少しだけ首をかしげた。
「それは、どのような噂ですか?」
『メアリー、わからなーい』とでも言うように、純粋無垢をよそおってルーフォスを見つめた。ルーフォスの眉間のシワが深くなる。
(ほらほら、早く言いなさいよ。男と女のエロい噂が立つのを心配してるって、そのお上品ぶった口で、言えるものならね!)
まっすぐにルーフォスを見つめると、意外にもルーフォスは視線をそらした。
「ルーフォス様?」
名前を呼んでも彼はこちらを見ず、そのまま立ち去っていく。
(フッ、勝った)
今度からルーフォスに絡まれたら、純粋無垢演技で乗り切ろうとメアリーは決めたのだった。
メアリーは乙女が祈るように胸の前で両手を合わせる。チラッとメイドを見ると、怒りで顔を赤くしていた。
「皆様のお話を聞く限り、この事件は殺害未遂で、パティ様は生きていらっしゃるのですよね? 毒を飲まれてしまったパティ様はご無事ですか?」
この質問には騎士団長のカルヴァンが答えた。
「パティ嬢は毒が入ったお茶に口をつけていない」
メアリーはホッと胸をなでおろす。メアリーと同じく聖なる力の強いパティは毒程度では死なないと、ゲームの知識で知っていた。けれど、まったく効かないわけではない。今彼女がこの場にいないのは、毒を飲んでしまって苦しんでいるからかもしれないと、少し心配していたのだ。
(だけどこれだけ騒ぎたてるってことは、聖女候補が毒くらいでは死なないって、皆、知らないようね)
「良かったです……。でも、カルヴァン様。それならどうして毒入りだとわかったのですか?」
「その場にいたクリフが気づいたのだ。パティと二人でのお茶会だったらしい」
「そうでしたか」
天才魔導士クリフなら、毒入りのお茶を瞬時に見分けるくらい簡単なことなのだろう。メアリーは困ったような顔を作り、嘘つきメイドを見つめた。
「それでは、どうして私の参加していないパティ様とクリフ様のお茶会に、私付きのメイドであるあなたが居合わせたのですか? 私に脅迫されたと言いますが、もしそれが嘘なら毒入りのお茶をパティ様に飲ませようとしたのは、あなた自身ということになりますよね?」
メイドの顔が青ざめた。ようやく、自分が犯人だと疑われていることに気がついたようだ。カタカタと震え出したメイドを見て、ハロルド王子は優しく微笑んだ。
「うん、話はよくわかった。メアリーよりこのメイドに詳しい話を聞いたほうが良さそうだね」
エイベルが「僕に取り調べをさせてください!」と語気を荒くする。
「任せたよ。エイベル」
エイベルは小声でメアリーに「頑張ったね」とささやいた後、メイドを連行していった。メイドはメアリーを指さしながら、「違います! あの女が! あの女が悪いんです!」と部屋を出る最後の最後まで叫んでいた。
(なんとか、生き延びた……? それにしても、こんなこと、調べればすぐに私が犯人じゃないってわかりそうなものなのに……)
椅子から立ち上がったハロルド王子は、笑顔のままメアリーのそばに来た。そして、顔を寄せメアリーの耳元で優しくささやいた。
「メアリー、君を殺せなくて残念だよ」
一瞬、なにを言われたのかわからず、ハロルドの顔を見ると、ハロルドは器用にパチンとウィンクした。
(この腹黒王子……初めから私が無実だとわかっていたのに、私を消したくてメイドの嘘を利用したってこと?)
初めから、メアリーが毒を入れたかなどはどうでも良かったとでも言うかのような態度だ。
実際、もしここで、いつものようにメアリーが叫んで暴れていたら、メアリーは確実に殺されていた。
ハロルドは何事もなかったように「カルヴァン、メアリーをしばらく護衛してくれ」と微笑んだ。
「はい」
静かに返事をしたカルヴァンは、メアリーを見るとフッと笑うように少しだけ口端を上げた。
(これは……護衛じゃなくて、監視ね)
そもそも騎士団長が王族以外の護衛につくことがおかしい。
(腹黒王子様は、『隙あらばお前を殺すぞ』って言いたいのね)
悪女メアリーを殺したいのは、伯爵夫人だけではない。
(生き延びたと思うのは、まだ早いみたいね)
メアリーは深いため息をついた。
第二章 クセの強すぎる聖騎士たち
ハロルド王子の指示で、メアリーは伯爵家には戻らず、事件の真相が明らかになるまで神殿内で暮らすことになった。メアリーに与えられた部屋は窓が一つとベッドがあり、あとはテーブルとソファが置いてあるだけのシンプルなものだ。伯爵家の自室に比べると質素だが、メアリーが一人で暮らすには十分な広さがある。
(伯爵家に戻る気はなかったから、部屋を与えてもらえて良かったわ)
それより問題なのは、王子の指示でメアリーの護衛を任されたカルヴァンが、部屋の中までついてきたことだ。
カルヴァンは、メアリーを殺したいと思っているハロルド王子の腹心だ。メアリーの味方であるはずがない。
(コイツ、急に切りかかってきたりしないわよね? えっと……ゲームの中では、カルヴァンってどんなキャラだったっけ?)
騎士団長のカルヴァン・ナイトレイも、もちろん、ゲーム『聖なる乙女の祈り』の攻略対象者だ。聖騎士の中では最年長で、くすんだ灰色の髪と、青味の強い灰色の瞳を持っている。
(無口で硬派な騎士様で、外見だけは、ものすごく私の好みなんだけどねぇ……外見だけは)
というのも、カルヴァンは誠実そうな外見とは裏腹に、美女をとっかえひっかえしている遊び人なのだ。ゲームでは、過去に愛した女性に手ひどく裏切られてから、そうなったと描かれていた。「真実の愛などない」と言い切るカルヴァンが、主人公のパティと交流していくうちに再び真実の愛を信じられるようになる……というのが彼のストーリーだった。
(パティが誰と仲が良いかわからないから、今ここにいるのは遊び人のカルヴァンと思っていたほうがいいわね)
そう思った途端に、ふわっと後ろから抱きしめられた。メアリーの頭上から低い声が響く。
「大変でしたね。メアリー嬢」
その声は優しげで、どこか色っぽい。
(……あー、なるほど。これ、ハニートラップってやつだ)
ハニートラップとは『甘い罠』という意味で、元はスパイが色仕掛けで対象を誘惑し、弱みを握って脅迫したり、本気で惚れさせていいなりにしたりすることだ。
カルヴァンはメアリーの耳元に唇を寄せると、「私があなたの傷ついた心を癒してあげられれば良いのですが……」とささやいた。その声はどこか苦しそうで、メアリーを気遣っているような響きがあった。
(すごいわ、本気で私を心配してくれているみたいに聞こえる。さっきのメイドといい、カルヴァンといい、恐ろしい演技力! ここで気を許すと、私は殺されるってわけね)
メアリーは、ゲームの知識のおかげで、カルヴァンがその気のない女性に無理やり手を出さないことを知っていた。彼はあくまで相手の同意を得てから遊ぶのだ。
(そういうことなら、私はこれから、徹底的にすっとぼけるまで!)
メアリーは、カルヴァンの腕からするりと抜けると、おずおずと床に両膝を突いた。
カルヴァンは不思議そうな声を出す。
「メアリー嬢?」
メアリーは、カルヴァンに向き直ると、拳を握りしめて両腕を差し出しうつむいた。そのままの姿勢で動かなくなったメアリーにカルヴァンは戸惑っている。
「メアリー嬢、どうしましたか?」
その質問に、心の底から不思議そうに聞こえるよう、メアリーはつぶやいた。
「あの……鞭で、打つのでは?」
カルヴァンが驚いた瞬間に、メアリーは「はっ」として、膝を突いたままカルヴァンに背を向けた。
「申し訳ありません! 打つのは背中……ですか?」
メアリーは再び顔をうつむけ、震えて見えるように身体を小刻みに動かした。
(どうだ、薄幸そうな美女がおびえて震える姿は!?)
そっとカルヴァンを見ると、毒気を抜かれたように軽くため息をついていた。そして、ソファに腰をかけ、「お茶でも飲みませんか?」と聞いてくる。カルヴァンの意図は、メイドを呼んでお茶を淹れてもらおうというものなのだろうが、メアリーはすぐに立ち上がると、部屋に置かれていたティーセットの準備を始めた。
「メアリー嬢?」
戸惑うカルヴァンに、「はい、ただいま」とメアリーは硬い声で答えた。
(言っとくけど、伯爵家では誰も私にお茶なんて淹れてくれないから、お茶くらい自分で淹れられるからね?)
手早く準備をすると、ソファの横に両膝を突いて、テーブルにそっとカップを置いた。
(どうだ、薄幸そうな美女が、おびえながら従順にお茶を淹れる姿は!?)
カルヴァンがこちらに手を伸ばしたので、メアリーはとっさに父に頬を打たれたことを思い出し、顔を守るように両腕でかばい目を閉じた。
いつまでたっても衝撃が来ないので、そっと目を開くと、カルヴァンは自身の口元を手で押さえながら、なにかを考えるように視線をそらした。
「メアリー嬢、私と少し腹を割って話をしませんか?」
カルヴァンの言葉に『なにを言っているのかわかりません』と言うように、メアリーは小さく首をかしげた。
(その手には乗らない。アンタは私の味方じゃない。絶対に信用しない)
カルヴァンは、「警戒されるのは仕方ないですね」とつぶやき、少しだけ微笑んだ。
「私は仕事柄、今まで大勢の人たちを見てきました。メアリー嬢が演技ではなく、本当におびえていることは、今、わかりましたよ」
そう言ってから、カルヴァンは「申し訳ありませんでした」と少し頭を下げた。
「先ほどのエイベルの様子を見て、私はあなたがエイベルに色仕掛けをしたと思っていたのです。それで今度はこちらから、逆に仕掛けてやろうかと……失礼しました。事実は違ったのですね。エイベルは正義感が強いから、どうやらあなたの事情を知って同情したようだ」
「……エイベル様は、お優しい方です」
初めは『ちょろい』なんて思ってしまったが、エイベルはメイドの証言を聞いてもずっとメアリーの味方でいてくれた。今では素直に『優しい人なんだな』と思える。
(まぁ、だからといって、まだエイベルを全面的に信頼はしてないけどね……)
カルヴァンは、向かいのソファに座るようメアリーをうながすと、「エイベルに話したことを、私にも話していただけませんか?」と聞いてきた。先ほどのように色気をふくんだ声ではなく、あくまで事務的で淡々としている。
(まぁ、それくらいは話してもいいか)
メアリーは、自分が、伯爵がメイドに産ませた庶子であること、そのせいで伯爵夫人にこれでもかとイジメられてきたこと、そして、異母兄のルーフォスに軽蔑されていることを冷静に話した。
「なるほど。あと一つ、急にあなたが外見を変えた理由をうかがっても?」
(正直に答えると、パティのような清楚系美女を演じて聖騎士に媚びを売るためだけど……)
メアリーは少し考えた後に、こう答えた。
「父は私を聖女にしたくて、目をかけてくれていました。私もそんな父に応えるべく努力をしてきたのです。ですが、今回の事件で、父からも見捨てられました。だから……」
「だから?」
「私はもう伯爵家のメアリー・ノーヴァンじゃなくて、普通のメアリーになってもいいのかなって思って」
その自分の言葉に『ああ、そっか、もう私は私のままで生きてもいいんだ』と気がつき、メアリーは自然と頬がゆるんだ。
カルヴァンは、少し目を見開いた後に、困ったように眉根を寄せながらメアリーに微笑みを返す。
その時、コンコンと部屋の扉がノックされた。
カルヴァンが「はい」と答えると、開いた扉から現れたのはルーフォスだった。ルーフォスはギロリとメアリーをにらんだ後、カルヴァンに「少し話したい」と不愛想に伝えた。
立ち上がったカルヴァンは、なぜかメアリーのそばに寄ってくる。そして、片膝を突いてメアリーの耳元でささやいた。
「今日のお詫びに一つアドバイスを。あなたはルーフォスに軽蔑されていると思っているようだが、私から見れば、あれは惚れた女を手に入れられず、当たり散らしているようにしか見えない」
メアリーが驚いてカルヴァンを見ると、『内緒だよ』と言いたげに人差し指を自身の唇に当てた。部屋の入り口から、ルーフォスの舌打ちが聞こえる。
「カルヴァン!」
「わかった、今行く」
カルヴァンはメアリーに小さく手をふると「また明日」とさわやかに微笑んだ。
一人部屋に取り残されたメアリーは、カルヴァンの言葉を考えていた。
(ルーフォスが『惚れた女を手に入れられず』って? その惚れた女ってパティのことよね?)
だったら当たられるこっちはいい迷惑だ。
(でも、わざわざカルヴァンが私に言うってことは、もしかして、私に惚れてるって可能性も……)
少し考えた後に「いや、ないわぁ」とメアリーは首をふった。
(母親がちがうとはいえ、私たちは兄妹だからね。もしそうだったらドン引きだわ。それにカルヴァンが私を動揺させるために嘘をついている可能性もあるし……あーもう、考えることが多すぎる!)
「カルヴァンは、『また明日』って言ってたから、明日聞いてみるしかないか……」
ソファに横になると、急に眠気に襲われた。
(そういえば、今日は早起きしてたっけ……)
朝から緊張の連続で、精神をすり減らしていたのか、メアリーはすぐに意識を失うように眠りこんだ。
目覚めると、すでに日がかたむき、部屋の中は夕焼け色に染まっていた。
メアリーは空腹を感じてため息をついた。
「お腹がすくのは生きてる証拠ね……」
食事が欲しい。一人で部屋から出ていいのか悩んでいると、コンコンと部屋の扉が叩かれた。
「はい」
メアリーが答えると、「あ、いた!」と明るい声がしてエイベルが顔を出した。ソファに座っているメアリーを見ると、人懐っこい笑みを浮かべる。
「あれ? メアリー、もしかして寝てた? 髪に寝癖が……」
エイベルはソファに近づいてくると、手を伸ばし髪に触れようとしたので、メアリーはとっさに身体を引いた。
(しまった、今まで私に優しくさわる人なんていなかったから、つい逃げてしまった)
エイベルを見ると、こちらに伸ばした手をひっこめて、気まずそうに「ごめん」とつぶやいた。
「急にさわられたら怖いよな。これからは気をつけるから」
捨てられた子犬のような瞳を向けられ、なぜかこちらが罪悪感を覚える。
「い、いえ、こちらこそ、すみません……」
少しの沈黙の後、エイベルは気を取り直したように、廊下に向かって「運んでくれ!」と声をかけた。白いフードをかぶった神殿仕えのシスターたちが、静かに入ってくる。彼女たちは、手にそれぞれ荷物を抱えている。
「メアリー、しばらくここに住むんだろ? シスターに必要そうなものを用意してもらったんだ。ほら、メアリーのメイドはいなくなっちゃったから」
無邪気にそう言ったエイベルに、少し背筋が寒くなる。
(いなくなっちゃうのは、本当は私だったのよね……)
シスターたちは、着替えやタオルなどの生活必需品を運び終えると、丁寧に頭を下げて部屋から出ていった。向かいのソファに座ったエイベルに、「お腹すいてない?」と聞かれたので、メアリーは素直に「すいています」と答えた。
「良かった、そうだと思ってシスターに頼んでおいたから、すぐにここに運んでくれるよ」
「ありがとうございます!」
メアリーが微笑むと、エイベルも嬉しそうに微笑んだ。そして、「……良かった、元気そうで」とつぶやく。
「メアリーが一人で泣いていたらどうしようって少し心配でさ」
「エイベル様……」
エイベルからの好意をどう受け止めていいのかわからないが、『まぁ嫌われているよりかは、いっか』とメアリーは軽く流した。
「ねぇねぇ、メアリー。伯爵家から新しいメイドを呼びなよ。一人くらいは君に良くしてくれたメイドがいるだろ? 伯爵がなんと言おうと僕の権限で連れてきてあげる」
(私に良くしてくれたメイド……?)
そう言われて考えてみると、メアリーは一人だけ思い当たる少女がいた。
「そうですね……。では、伯爵家の厨房に勤めている、ラナという少女をお願いします」
エイベルは「え? 厨房のメイド?」と不思議そうな顔をした。
「はい、食事を抜かれて空腹に耐えかねた私が厨房に忍びこんだ時、彼女は伯爵夫人の命にそむいてまで、温かいスープを分けてくれようとしたのです。それで……」
エイベルは急に下を向き、膝の上で両手を強く握りしめた。
(しまった、厨房に忍びこんだなんて引かれた!?)
「あの、お恥ずかしいお話を!」
慌ててメアリーが謝罪しようとすると、エイベルは震えながら顔を上げた。それは、とても怒っているような表情だったが、綺麗な瞳がうっすらぬれて、エメラルドのように輝いている。
「……わかった。絶対に、僕が、その子を連れてくるから」
震える声でそう答えると、エイベルは手の甲で目尻を乱暴にぬぐった。そうしているうちに、シスターが部屋に食事を運んでくれた。どう見ても一人分の量ではないのに、エイベルは「メアリー、いっぱい食べて!」と言うだけで自分は食べようとしない。
(こんなに食べきれない……)
「エイベル様、良ければ一緒に食べてくださいませんか?」
「僕はいいから! メアリーが食べなよ!」
(こんなに食べたら吐きそう……)
仕方がないので、メアリーはそっと瞳を伏せた。
「あの、エイベル様。私、誰かと楽しく食事をしたことがなくて……。良ければ、お付き合いいただきたいな、なんて……」
エイベルはまた勢いよく下を向くと、ブルブルと身体を震わせた後に「わ、わがっだ……」と涙声で返事をした。
(こんな簡単に他人を信じて同情しちゃって……この人、大丈夫かしら?)
エイベルのそばにいると、少しの罪悪感と共に、メアリーは不思議と心が温かくなるような気がした。
二人で食事を終えると、エイベルは明るく「じゃあね!」と言い、すぐに帰っていった。
(これは紳士アピールかしら? 自分は女性と二人きりでも手を出しません的な? まぁエイベルのあの顔ならガツガツしなくても女性のほうから寄ってくるか……)
人からの厚意を素直に受け取れない自分に少しあきれつつも、メアリーは生き残るためには仕方ないと思い直した。死なないために、利用できるものはなんだって利用するしかない。窓の外を見るともうすっかり暗くなっている。
メアリーは神殿のシスターが持ってきてくれたものを一通り確認した。着替え用の服は、シスターが着ているものと同じ修道服だった。白いフードがついていて、顔を隠せるようになっている。
(この姿なら、目立たず神殿の中を歩けるかも……)
とにかく、一度パティに会いたい。
(私の味方をしてくれたっていうパティにお礼を言って、今までのことを謝りたい。そして、できれば私の命が助かるように協力してほしい)
そのためにも、まずパティに会わなければいけない。
(大浴場で待ち伏せしたら、パティに会えるかもしれない)
この神殿では多くの人が暮らしていて、風呂は共同のものだけだ。たとえ聖女候補でも、入浴の際は部屋から出て大浴場に行かないといけない。
事件までは伯爵家の屋敷から神殿に通っていたメアリーと違い、パティは聖女候補に選ばれてから、家には帰らず、ずっと神殿にとどまっていた。だから、今も神殿にいるはずだ。
メアリーは急いで修道服に着替えた。念のためにタオルや替えの下着を持ち、自分も風呂に入るように見せかける。
(これなら、誰かに見つかっても『大浴場に行くところでした』ってごまかせるはず)
そっと扉を開いて、近くに誰もいないことを確認すると、メアリーは静かに部屋から抜け出し、小走りで大浴場のほうへ向かった。
メアリーの部屋から大浴場へ向かう途中には一本道の渡り廊下があり、その左右は中庭になっている。その渡り廊下に、なぜか異母兄のルーフォスの姿があった。
(嘘でしょ……どうしてここに?)
メアリーは、ハッとした。
(もしかして、パティを待ち伏せしているの?)
身内のストーカー行為を目撃してしまい、なんとも言えない気分になる。
(まぁ、そういう私もパティを待ち伏せしに来たんだけどね……)
『なにこの変態兄妹』と思いつつ、メアリーはフードを深くかぶった。そして、顔が見えないようにうつむきながら、ルーフォスの前を早足で通りすぎる。
『良かったバレなかった……』と安心した途端に、右肩を強くつかまれた。小さな悲鳴と共にふり返ると、ルーフォスがメアリーを鋭くにらみつけている。
「ルーフォス様……」
慌てて頭を下げると、ルーフォスは「俺に挨拶もしないとは、いいご身分だな」と舌打ちする。
(私が声をかけても、どうせ無視するくせに!)
そう思いながらも、メアリーは怒りを抑えて、おびえて見えるようにそっとうつむいた。
「わ、私などがお声をかけたらルーフォス様のご気分を害してしまうかと思いまして……」
ルーフォスはなぜか少し言葉につまった後、「挨拶は礼儀だ」と言って視線をそらした。
「申し訳ありません。以後、気をつけます」
そそくさとその場を立ち去ろうとすると、ルーフォスは、もう一度、肩をつかんでくる。
(なんなのよ!?)
振り返ると、ルーフォスは顔をしかめ、声を荒げて言った。
「カルヴァンは見た目通りの男ではない! 気安く部屋に入れるな! ……お前のような汚らわしい女と噂が立つと、カルヴァンが迷惑する」
(本当になんなの、コイツ!)
カッと来たメアリーの視界の端に、ルーフォスが腰に帯びている剣が見えた。途端に熱くなった頭が冷える。
(……なるほど、わざと私を怒らせて、キレて暴れたところを、その剣でバッサリいく気なのね? そっちがそのつもりなら、こっちは徹底的にとぼけてやる!)
メアリーは持っていた荷物を両手で胸の前で抱きしめ、ルーフォスを上目遣いに見上げた。
「カルヴァン様が、私のお部屋にいると、噂になる……ですか?」
「そうだ」
冷たく言い放つルーフォスに、メアリーは不思議そうに少しだけ首をかしげた。
「それは、どのような噂ですか?」
『メアリー、わからなーい』とでも言うように、純粋無垢をよそおってルーフォスを見つめた。ルーフォスの眉間のシワが深くなる。
(ほらほら、早く言いなさいよ。男と女のエロい噂が立つのを心配してるって、そのお上品ぶった口で、言えるものならね!)
まっすぐにルーフォスを見つめると、意外にもルーフォスは視線をそらした。
「ルーフォス様?」
名前を呼んでも彼はこちらを見ず、そのまま立ち去っていく。
(フッ、勝った)
今度からルーフォスに絡まれたら、純粋無垢演技で乗り切ろうとメアリーは決めたのだった。
1
お気に入りに追加
5,884
あなたにおすすめの小説
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
この度、双子の妹が私になりすまして旦那様と初夜を済ませてしまったので、 私は妹として生きる事になりました
秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
*レンタル配信されました。
レンタルだけの番外編ssもあるので、お読み頂けたら嬉しいです。
【伯爵令嬢のアンネリーゼは侯爵令息のオスカーと結婚をした。籍を入れたその夜、初夜を迎える筈だったが急激な睡魔に襲われて意識を手放してしまった。そして、朝目を覚ますと双子の妹であるアンナマリーが自分になり代わり旦那のオスカーと初夜を済ませてしまっていた。しかも両親は「見た目は同じなんだし、済ませてしまったなら仕方ないわ。アンネリーゼ、貴女は今日からアンナマリーとして過ごしなさい」と告げた。
そして妹として過ごす事になったアンネリーゼは妹の代わりに学院に通う事となり……更にそこで最悪な事態に見舞われて……?】
【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。
くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」
「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」
いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。
「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と……
私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。
「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」
「はい、お父様、お母様」
「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」
「……はい」
「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」
「はい、わかりました」
パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、
兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。
誰も私の言葉を聞いてくれない。
誰も私を見てくれない。
そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。
ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。
「……なんか、馬鹿みたいだわ!」
もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる!
ふるゆわ設定です。
※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい!
※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ!
追加文
番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました


【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。