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春の夢

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 車は静かに走り出す。いつの間にか日は完全に落ちて、街には夜の気配が漂っている。窓を流れる風景は郊外の国道沿いから、都心のチカチカと目を刺す繁華街へ移り変わった。

「必要なものはそのバッグに入ってるから支度しておけ。あと20分で今日の客との約束の時間だ」

 側に置いてあったボストンバッグを開けると、中には黒いスーツ一式とワックスが入っていた。車の窓ガラスは外から見えない仕様になっている。

「ああ、そうだ。今日の客の情報をスマホに送ってるから、一応目を通しておけ。今日は議員先生だとよ」
 そう言われて仕方なくスマホを開く。送られてきた資料には、ご立派な経歴と仏頂面の中年の男の写真が載っていた。
 スーツに着替え、ワックスで前髪を上げる。ここまで来たらもう逃げることは出来ない。



「着いたぞ」
 車が止まったのは、高級ホテルの裏だった。
「ホテルの裏口に案内役がいるから、そいつに連れて行ってもらえ。それじゃあ、明日の朝またここに迎えに来るから」
「……ああ」

 車を降りると、風が頬を撫でた。行きたくないと心は重いのに、足は勝手に歩みを進める。
 ホテルの明かりを頼りに進んでいくと、建物の前にスーツの男が立っていた。
「お待ちしておりました、アカネ様。ではご案内いたします」
 そう言って、ホテルの中へと入って行った。入るとそこは一般的なロビーではなく、エレベーターが一台あるだけの薄暗い空間だった。
「ここは専用のカードを持った人間のみが使用できるエレベーターホールになっております。止まる場所も専用フロアのみで、一般のお客様と顔を合わせることはないのでご安心ください」

 エレベーターの扉が開いて中へ乗りこむ。行き先階のボタンがあるはずの場所には代わりにカードリーダーがついていて、男がカードをかざすとエレベーターは滑らかに動き出した。

 数秒ほどでエレベーターが止まって再び扉が開く。煌びやかに照らされたフロアには一組のテーブルセットがあり、そこに中年の男が座っていた。
 俺と目が合うと、男は満面の笑みで立ち上がった。
「お待ちしておりました。さあさあ、どうぞこちらへ」
 資料の写真とは違う、わざとらしいほどにこやかな笑みを張り付けたこの男が今日の客だ。
 テーブルにつくと、男も向かいの席に腰掛けた。

「いやあ、お会いできて光栄です。私は議員の松沢勇作まつざわゆうさくと申します。先生、ぜひ握手を」
「……接触は禁止していると契約書にも記載があったと思いますが」

 仕事を始めたばかりの頃、媚を売るように俺に触ってくる客がいた。ただでさえ知らない大人に合って気持ちが悪いのに、触られたところからぞわぞわと悪寒が走った。気持ち悪さと腹立たしさに支配されることは仕事にも支障をきたし、接触禁止を誓約書に追加した。

「ああ、そうでしたね。これは失礼しました」
 そう言って手を戻した。

「それにしても、『任意の相手に直近で起こる不幸を夢で見ることが出来る』なんて俄かに信じがたいお力ですね」
「任意ではなく、眠るまでに強く印象に残った人間の夢です。信じられないのであれば、今からキャンセルいただいても一向に構いません」

 俺は昔から他人の不幸を夢で見ることが出来た。そのせいで親から見放され、こんな仕事まですることになった。まあ普通ならそんな話、信じられるはずもない。
 言葉に棘が入っても、松沢が笑顔を崩すことはなかった。

「いやいや、ご冗談を。信じられないほど素晴らしいお力だと言いたかったのです。先生のお力を借りれば、私の目的もすぐに達成できそうですよ。そうだ、これ」
 そう言って男はバッグからファイルを取り出して、写真を机の上に並べた。

「これが先生に見ていただきたい、扇田初一郎せんだはついちろうという男です」
 隠し撮りをしたようなその写真には、黒いメガネをかけた生真面目そうな中年の男が映っていた。
「扇田とはこれから始まる選挙で同じ選挙区を争うことになるのですよ。人間、叩けば埃は出てくるもの。先生には是非その埃を見つけてほしいのです。それが公になれば、扇田の票は私へ流れる。それで私の目的は果たされるということです」
 そう言って松沢は笑った。どうしてそんなことを言って笑える。俺に依頼してくるそうな奴は揃いもそろって下衆ばっかりだ。

「先生に夢を見てもらうために、扇田の話をしないといけませんね。話は夕食を取りながらにしましょう。料理人を呼んでいるので好きなものを頼んでください。なんでも用意しますよ」
「……じゃあ、カレーで」
 パッと思いついたものがそれだった。別になんだってよかった。
「そんなものでいいのですか? 先生のためなら、寿司でもステーキでも極上のものを用意しましたのに。それでは最高級のカレーをお出ししましょう」

 そう言って松崎がパンパンと手を叩くと、あの案内役の男が背後からやってきた。松沢が耳打ちすると、案内役の男は「かしこまりました」と言ってまたどこかへ消えていった。
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