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エピソード21. 名前

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 膝を折り曲げ、力を込める。尾を上下に揺らすと、波が揺れた。
 尾は水面に叩きつけられたはずみであるべき形を取り戻し、僕に自由をもたらした。僕は島を駆け回るよりももっと自由に、そこら中を泳ぎ回った。
 島にいた時、僕は走るのを躊躇っていたように思う。島は真っ直ぐ走るには障害物が多く、全力で走るには短すぎた。海へ近付いてはならない、その制約が僕の体にまでまとわりついていた。
 でも今。僕は自由に海の中を泳ぎ回ることのできる体を手に入れた。新しく僕の一部となった尾は僕をまだ見ぬ場所へ連れていってくれるだろう。
 水面へ顔を出し、月を見上げる。月はその輪郭を歪ませ、霞んで見えた。海の中を見通す視力を手に入れた代わりに、陸で物を見る力が薄まったようだった。だけど目ではなく体が、月の満ち引きを把握していた。月と引き合う、海の力。
 サラと語り合ったあの晩の月齢からすると、三日三晩。僕は鯨の腹の中にいた。とてもそんな風には思えない。昼寝をしたくらいの短い時間しか、鯨の腹の中にはいなかったはずだ。僕が思っているよりも長く意識を手放していたのでなければ。
 これが、時間の流れが違うということなのかもしれない。海でのうたた寝が陸での三日三晩になるように、今この瞬間にも、僕と島の皆の時間は離れていっているのかもしれない——。
 急に心細くなった。僕と皆は細い糸でしか繋がっていなくて、僕は皆を中心に回っている。でもその糸が切れてしまったら、僕はもっとずっと遠い場所に行ってしまって、皆とはもう二度と会えないのかもしれない——。
 そんな心細さを抱えながらも、僕は進むことを止められない。この広大な海を泳ぎ尽くすまで——或いはこの命が燃え尽きるまで、僕は進み続ける。波の彼方へ。
"——待って"
 不意に僕の前に新しい影が進み出た。明るい色の髪が波間に靡く。僕をここまで連れてきてくれた人魚の少女。彼女の瞳が戸惑いに揺れている。彼女の姿を見て、海にいるのに〈心が海にあった〉のを自覚する。
 僕の心はなんて心許なくて、すぐに遠くへ行ってしまうんだろう。こんなに近くに、僕を心配してくれる人がいるのに。陸にだって、たくさんいたはずなのに。
 海に来てまでも、僕の本質は変わらない。変えられない。僕はいつだって自分勝手で、他人のことを考えられない。それでも。
 僕を呼び戻す声があるように。僕も誰かを呼び戻すことができたなら。
 彼女の名前を呼ぶことができたなら。
 そして彼女が僕の名前を呼んでくれたなら。
 今度こそ僕は、僕の心と体を離れ離れにさせないように。
 心の赴くままに、行動を伴って。この体で、生きていきたい。
"僕の名前は、ヨナ"
 僕は心で強く念じた。ここでは、感情でないことを伝えるのが難しい。案の定彼女は首を傾げている。
 僕は〈巨いなる魚〉を指さして念じる。
"〈巨いなる魚〉"
 続けて自分を指差して。
"ヨナ"
"——ヨナ!"
 彼女はすぐに意図を理解したようだった。
"ヨナ、ヨナ、ヨナ、ヨナ……"
 覚えたての言葉を繰り返す子供のように、僕の名前を呼ぶ。僕と彼女の弾むような心が泡になって浮かんでいく。この胸の奥から湧き上がる喜びを、もっと彼女と分かち合いたい。
 それは初めて抱いた感情だった。僕は喜びも悲しみも、どんな感情も誰かと共有したいとは思わなかった。誰かに否定されるくらいなら、胸の内に秘めて、全部自分だけのものにしておきたかった。
 でも。きっと彼女は僕のことを否定しないだろう。この広い海は、僕の心を受け止めてくれるだろう。そんな確信があった。
"君に名前はある?"
 僕は彼女の目を見て問い掛ける。彼女は徐に首を傾げた。
 ひょっとしたら、人魚たちには名前という概念がないのかもしれない。感情が伝わる海でなら、特定の誰かを思い浮かべるだけで名前を呼ぶのと同じように伝わるのかもしれない。たとえば、〈人魚の彼女〉とか。
 だけどそれは、陸で「ねぇ」とか「あのさ」とかと言われるようなものでしかなくて。彼女が彼女であること、それを取り戻すことの縁ではないように思えた。
"君に名前をあげる"
 もしも君の心がどこか遠くへ行ってしまっても、またこの場所に戻って来れるように。君の心を呼び戻せるように。
"セレナ"
 月を背に金糸の髪を靡かせる彼女を見た時、泡のように浮かんできた名前。
 今や失われてしまったその名前が、どんな意味を持つのか分からない。だけど湧き上がる本能が、彼女に相応しい名前はこれしかないと告げていた。
 陸の発声器官を失った僕が紡ぐ響きが、君の耳に同じように届くのかは分からない。
 だけどこの海が、この心を溶かして、確実に彼女へと届けてくれるだろうという確信があった。
 セレナは目を丸くして——、そして月下に美しい花が咲き誇るように、満開の笑みを浮かべて、僕に抱きついてきた。
——ああ、やっぱり。
 名付けは祝福なんだ。その意味が失われていたとしても。僕に誰かがヨナと名付けたように。誰かがサラと名付けたように。連綿と続く、個を個たらしめる行為そのものが、祈りなんだ。
 僕は、僕たちは、生を受けた瞬間だけでなく、名前をもらったその日も祝福を受けていたんだ。
 たとえその後どんなことがあったとしても。名前を呼ばれる度にそこに込められた祈りが僕たちを強くすると信じて。
 今日が僕の新しい誕生日で、君にとってもそうであればいいと、僕は願った。
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