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エピソード20. 祝福

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 息が苦しくない。海の中なのに、息が苦しくない。それは僕が陸の生き物ではなくなった証拠だった。僕はゆっくりと目を開けた。
 目の前には人魚の少女がいた。深い海の瞳に、喜びの色が滲んでいる。金糸のような髪は月の光に照らされ、水面に映る月を想起させた。月のように柔らかな微笑み。
 もし月の女神が実在したなら、きっと彼女のような姿をしていたに違いない——。
 そう思うくらい、海の中で見る彼女の姿は神々しく、美しかった。
 人間だった時、僕の目には鱗が入っていたのかもしれない。そう思うくらい、視界が開けていた。ただの闇にしか見えなかった海の中に、複雑な彩りの重なりが見えた。
 長老に聞いた光の屈折率の話を思い出す。陸には陸の理があり、海には海の理がある。僕は今、海の理に従って生きる、海の生き物になった。今や鱗は目から剥がれ落ち、僕の身に宿っている。
 僕は自分の体を見下ろした。肌が漂白され白くなっている。だけど彼女の白さには程遠い。
 そして足がなくなり、尾が生えていた。いや、感覚としては両足が縛られたままくっついて尾になっているというのが正しいか。その上、まるで正座をしているみたいに尾が折れ曲がっている。僕は自分の進みたい方向に進めずにいた。
 その時、大きな音が鳴り響いた。低く、長く続く低音。繰り返される主題。その音の波に乗せるように短く甲高い音がいくつも重なり、拍手のように鳴り響いた。
 歌だ。それは誕生を祝福する、合唱コーダだった。広い海の全方位から、僕の人魚としての新生を祝う歌が贈られている——!
 そしてその歌声は数を増しながら僕に近付いてくる。その中に聴き慣れたが混ざっていた。
 人魚の歌だ。鯨が、人魚が、魚が、ありとあらゆる生命が、僕を目指している。僕の誕生を祝うために。疑いようもないほど真っ直ぐに向けられる感情を、僕は全身で感じていた。
 嗚呼、なんて海は心地がいいんだろう。海の生き物たちの感情は混じり気がなくて、種族の違いなんて関係なくて。ただ海に生きる者として、新しい命の誕生を祝福してくれている。生きていることを喜んでくれている。
 陸では、そう感じなかった。祝福してくれていたのかもしれないけれど、そうは感じなかった。
 それは僕の感覚器が壊れてしまっていたからなのかもしれない。陸では言葉にならないことはないことになってしまっていた。
 産まれてから言葉を獲得するまでの間、僕たちは孤独に生きる。そこにいる誰かに向かって叫び続ける。その誰かとどんな繋がりがあるのか分からないまま、ただ互いの熱だけを頼りに手を伸ばし続ける。
 もしも陸の世界が海の世界と同じように感情が伝わるようにできていたら、僕たちは孤独を感じずに済んだのに。今や僕には、海の生き物の感情が手に取るように分かった。同じように僕の感情も伝わっているに違いない。周りにいる小さな魚たちが、僕にぴたりと寄り添った。
 戸惑い、憂い、喜び、悲しみ、嬉しさ、寂しさ。それらを内包した複雑怪奇な色味の心の全て。生き物が普遍的に抱く心の機微。海の生き物たちはそんな僕の気持ちに寄り添ってくれた。
 陸では悲しみや怒りは飲み下さなければなかった。涙も流してはならなかった。感情を御す術を身に付けろと言われて生きてきた。特に、負の感情は。
 誰かが悲しんでいる時に「悲しまないで」と言うことは、悲しむ自由と権利を奪っているのではないか。喜びも怒りも、悲しみも楽しいと思うことも、全部生まれ持った自由なのに。
 本当は、誰かが悲しんだり怒ったりしている時に自分が困るからそう言っていただけで、心の底から心配できていたんだろうか。本当の意味で、寄り添えていたんだろうか。僕が思っていたことは、僕にすら分からない。
 ただでさえ陸は感情が伝わりづらいのに、人は感情を押し殺したりする。その上、人間は他の陸の生き物に比べて触れ合いが少ない。触れ合えば伝わることも、確かにあるのに。海と違って感情が伝わらないから、触れ合わないから、言葉という不自由な道具が生まれたのだ。
 だけど今、僕は自由だ。
 今なら、僕の想いを余すことなく伝えられる。
——ありがとう!
 僕は生まれて初めて、心の底から湧き上がった純然たる歓喜と、感謝の気持ちを波に溶かした。
 僕の感情うたに反応するように、周囲を取り巻いていた歌も喜びの色を増した。鯨と人魚の歌は僕の身を震わすほどに大きく近くなり、まもなくそれを発する生き物たちの姿が僕の視界に入った。
 大きな群れだ。僕が住んでいた島の住民全員よりも多い、大きな群れだった。まるで山が連なるように、鯨たちが群れを成している。
 群れは新たなる命を産んだ〈巨いなる魚〉に敬意を表する。そして新しく産まれた僕を取り囲み、祝福の歌で僕を包み込んだ。僕の周囲に大きな渦が生まれた。
 鯨たちはその渦に入り込むように次々と僕の体の下に潜り込み、僕を水面へと押し上げた。鯨たちの鼻先に押されて、僕の体はぐんぐん海面へ近づいていく。
 鯨たちは産まれたての赤子が初めての呼吸をできるように、群れの皆で赤子を押し上げる。それは初めてのことだったけれど、皆の持つ共通のイメージか、或いは過去の光景が脳裏に浮かび上がっている。
 
 それは不思議な体験だった。ひょっとしたらこれが、人間が失くしてしまった本能なのかもしれない。
 波の層を突き破るように、鯨たちは僕を押し上げていく。僕自身も水面を目指した。あの光の射す方へ。揺らめくあの懐かしい月の女神へと手を伸ばす。
 ぶつかる——そう思った瞬間に、僕は水面を突き抜けた。
 まるで飛び魚のように、僕は宙へ浮いた。懐かしい月の光が僕を照らして、僕と共に舞い上がった水飛沫のその一粒一粒を輝かせた。まるで星の子たちのように。
 僕は生まれ変わって初めての息をした。澄み渡るような空気が僕の肺を満たした。
 新しく生えた尾が、水を打った。
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