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エピソード19. 変身
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鯨の歯を上を通り過ぎ、口の中に落ちていく。それはまるで地獄の淵のようだった。頭上に海が、水面が見えて足元は闇に包まれていた。やがて鯨の口が閉じると僅かな光さえも遮断され、天も地も分からなくなってしまった。
初めて海に入った時の浮遊感。つまり僕は今まさに溺れようとしていた。僕にできるのは少しでも長く息を保たせることだけだった。口を押さえて目を瞑る。
水流に押され、滑らかな通路を下り落ちていく。轟々……と音がしている。鯨の体内で血潮が震える音。それは僕が膝や手のひらで耳を塞いだ時に聞こえるのと同じ、命の音だった。命の音は鯨の巨体を巡る度に膨らみ、轟音となって鳴り響く。今僕は、大きな生命の流れの中にいる。視覚と嗅覚を塞がれた僕に分かるのはそれだけだった。だけど。
もう、息が限界だ——。
そう思った時、僕の体は突然重力に支配された。丸めた体が地面に当たり、跳ねて転がった。弾みで指が外れる。口から息が漏れ出る。
「ゲホッ」
だけど、予想に反して。そこには空気があった。
先程通ってきた通路よりも開けた場所だった。暗くて見えないけど、ここが鯨の胃の中であることは疑いようがなかった。
何より——酷い臭いがした。生き物が腐る臭い。或いは、僕の体も腐りつつあるのかもしれない。
口元を押さえながら、脈打つ壁に手を添えた。天もあり、地もあり、壁もある。なら前がどちらかは分かる。進むより他にはない。
足の周りをまだ生きている魚やイカが泳ぎ回っている感触がする。僕と一緒に飲み込まれてしまったようだ。足元はそれよりも前に飲み込まれた様々な生き物の残骸が残されていた。例えば海岸に打ち上がった海藻、イカの甲のような固い塊もあれば、縄のように細く長いものもあった。海にあるありとあらゆるものが底に沈んでいた。ここは小さな海だった。
一定の感覚で大地が揺れる。鯨の心臓が鼓を打つ度、洞窟全体が震え上がった。鯨の鼓動はありえないほど大きく、遅かった。鯨が一回脈打つ間に、僕の心臓は数十回脈打った。巨大な生き物はその体を維持するために大きな心臓を持つ。僕の数十倍もある心臓を!
鯨の心臓に共鳴するように、僕の胸は感動に打ち震えていた。
鯨の胎の中に深淵の洞窟が広がっているなんて、誰が想像できただろう!
これほどまでに大きな生き物が自由に生きる海。海は何て広いんだろう!
島を出なければ、知ることのなかった世界。ここは混沌であり、深淵だった。僕は今、世界の秘密に触れている!
ただ、喜びの一方で一抹の不安もあった。
"混沌の口へ入り来る者は深淵へ消滅する"
〈巨いなる魚〉はそう言った。消滅。消える。僕の命はここで途絶えてしまうのだろうか。海へ消えた男たちの墓場はここだったのだろうか。嫌な想像を振り払うように、慌てて首を振る。
そうしている間に反対側の壁に突き当たった。端に辿り着いたのだ。僕は手の伸ばせる限り壁をまさぐった。だけど手の届く範囲に、先へ進めそうなところはない。僕は途方に暮れた。
その時、僕の頭上から局所的な雨が降り注いだ。瞬間、痛みに飛び上がった。
僕の手の届かない遥かなる高みに、弁があった。
酸だ。弁の向こうから胃液が逆流している。あそこが次の部屋へと向かう扉なのだ。だけど。それは死への扉なのではないか。
僕は後退り、できるだけ遠ざかろうとした。足元には先ほどまで生きていたはずの、崩れかけた生き物の残骸が浮き沈みしている。死が、僕を追いかけて来る。
体が熱い。まるで焼けるようだ。これなら太陽の神の威光の方がまだ良かった。ここは耐え難い。あの先は死そのものだ。
僕はもう二度と、太陽を目にすることはないのかもしれない。地上どころか、海に戻ることすらないのかもしれない。地上の楽園を追われて地獄の、深淵へ永遠に閉じ込められてしまうのだろうか。そう思うと急に体が熱を失ったかのように震え上がった。
僕は来た道を戻り、反対側の壁に手をついた。だけど鯨の口もまた、遥かなる頭上にあった。登ろうと壁を掴むけれど、滑った粘膜がそれを邪魔する。まるで蟻地獄のように、延々と下に落とされる。そもそも登ったところで、鯨の口が、喉が開かないことにはどうにもならない。
僕は脱出を試みることを諦めてしゃがみ込んだ。本当は横になりたかったけど、酸で溶けた部分が水に当たるだけで、飛び上がりそうな痛みに支配された。
壁に背を付けると少し楽になった。そうするとちっぽけな僕の体も鯨の一部になり、熱を帯びた痛みも忘れられるような気がした。僕は目を閉じて耳を澄ませる。
血が流れる音がする。心臓の鼓動が聞こえる。鯨の命の音はまるで僕を寝かしつけるように、優しく僕の背を叩いた。その鼓動に身を委ねるうちに、僕の意識は眠りに落ちていった。
その日、僕は夢を見た。
まだ母の胎内にいた頃。暗くて狭い、温かくて懐かしい揺籃の夢。
微睡の中、水面越しに見る太陽の光のように、血潮が透けている。潮が満ちたり引いたりする音。命はここにあって、ここにある命もまた僕だった。
いつまでもここに留まっていたかった。だけど、いつか僕はあの光の差す方——外を目指さなければならない。
生まれなければ。僕はもう一度、生まれないといけない。この温かな海を離れ、外気に触れ産声を上げなければ。
全身の痛みで目覚めた。夜の帷よりも真っ暗だ。瞼を開いても、僕はまだ鯨の胃の中にいた。
痛む体に鞭打ちながら立ち上がると、天井に手が付いた。胃が収縮している。足元が揺らぐ。近くで酸の雨が降り注ぐ音がした。
いつの間にかまた次の部屋の前に来ている。眠っている間に洞窟は縮まり、奥へ奥へと導かれているようだった。手を伸ばしても届きそうになかった扉が目の高さある。地獄の門が、口を開けて僕が落ちて来るのを待っている——。
皆の顔を思い出す。サラ、モアブ、エサウ、サム。可愛い僕の弟妹たち。長老、"近所のおばさん"、島の女たち。僕の生きた狭い島の世界。
そして最後に、人魚のあの子の顔が頭に浮かんだ。巻き毛の長い髪の、美しい人魚。海の瞳を持つあの子。
僕は、彼女の名前を知らない。そもそも人魚に名前はあるのかな。言葉を持たない人魚に名前があったとして、感情を波に乗せる彼らはどうやって名前を呼ぶのだろう。
誰にも名前を呼ばれないのは、どんな気分だろう。そんなことを最近思った気がする。僕にとって名前を呼ばれることは、僕が僕であることを思い出すために必要なものだ。海から陸へ戻って来るための。人魚はずっと海にいるから戻る必要がない?
——そんなこと、ないはずだ。
〈心が海にある〉は現実ではない世界に意識がいってしまっていることだ。人魚だって、僕たちの生きるこの現実に生きている。彼女たちだって空想に耽ることもあるだろう。陸にいる想い人を想って月を見上げる夜もあるだろう。
だから、誰だって名前を呼ばれるべきなんだ。
ああ、そうだ、"近所のおばさん"も。名前を呼ばれないことは、遠くにいることなんだ。体は陸にあっても、心は海にある。彼女は夫の側に居るために心を遠くへやっている。だけど——現実じゃない。僕は現実に、心だけではなく体も海にやって来た。
海に来てから気付いたんだ。陸にいた時よりも、僕の意識は体と繋がっている。僕の居場所は陸ではなく、海にあったのだと。
皆は体のある場所に心を引き留めようとするけど。本当は心のある場所に体を連れ出すべきなんだ。
僕たちは現実と空想の間を行き来して心の均衡を保っている。体が死んでしまっては、心も死んでしまうからだ。逆に心が死んでしまうと、間違った手段で望みを叶えようとする。つまり死だ。心と体の均衡が釣り合っていないと、僕たちは死に至る。
僕が陸にあって海を望む時、彼女は海にいて陸を望むかもしれない。僕もこれから陸が恋しくなる日が来るかもしれない。そんな時に呼び戻してくれる声があったら、心と体が生き延びることさえできたなら、正しい手段でそこに至ることができるから。
もしも外に出られたら。彼女に名前を聞こう。そしてもし彼女が名前を持たなかったら。その時は、僕が彼女に名前を付けよう。彼女が死に至らないように。
生きたい。まだ、やるべきことが残っている。
僕は痛む体を引き摺りながら、再び鯨の口を目指した。次の扉が目線の高さにあるということは、落ちてきた口もまた同じ高さにある可能性が高いということだ。粘膜は滑るけれど、高さがない分、少しずつ進んでいける。このまま何もしないでいれば、僕に待ち受けるのは死——鯨の餌になる定めだ。
ひょっとして、彼女に騙されたのだろうか。
例えば僕たちが魚の意思なんて関係なしに、腹を満たすために食べてしまうように。〈巨いなる魚〉に捧げるための餌を探していたのだろうか。
——それでもいい。それでもいいんだ。
僕は島の誰も来たことのない前人未到の地に辿り着いたんだ。それは島で死んだように生きているよりも、僕にとってはずっとずっと誇らしいことだった。
でも、願わくば。
僕はもう一度、世界に生まれ出たい。世界の秘密を全部解き明かしたい。この世界が終わるまで、この世界の行く末を見届けたい——。
太陽の神でも、月の女神でも、〈巨いなる魚〉でもいい。或いはそれら全てを創造した存在がいたとしたなら。それが世界そのものだとしても。
魚の腹の中から、僕は祈る。僕に至る全ての物事、それらを創りたもうた主に。連綿と続いた時の果てに僕がいること、その奇跡を今一度——。
その時、天から大雨が降り注いだ。鯨の喉が開いたのだ!
洪水に押し流され、僕の体は宙に浮いた。天と地が逆さになる。
鯨の口から吐き出された時、僕の足は尾へと変わっていた。
初めて海に入った時の浮遊感。つまり僕は今まさに溺れようとしていた。僕にできるのは少しでも長く息を保たせることだけだった。口を押さえて目を瞑る。
水流に押され、滑らかな通路を下り落ちていく。轟々……と音がしている。鯨の体内で血潮が震える音。それは僕が膝や手のひらで耳を塞いだ時に聞こえるのと同じ、命の音だった。命の音は鯨の巨体を巡る度に膨らみ、轟音となって鳴り響く。今僕は、大きな生命の流れの中にいる。視覚と嗅覚を塞がれた僕に分かるのはそれだけだった。だけど。
もう、息が限界だ——。
そう思った時、僕の体は突然重力に支配された。丸めた体が地面に当たり、跳ねて転がった。弾みで指が外れる。口から息が漏れ出る。
「ゲホッ」
だけど、予想に反して。そこには空気があった。
先程通ってきた通路よりも開けた場所だった。暗くて見えないけど、ここが鯨の胃の中であることは疑いようがなかった。
何より——酷い臭いがした。生き物が腐る臭い。或いは、僕の体も腐りつつあるのかもしれない。
口元を押さえながら、脈打つ壁に手を添えた。天もあり、地もあり、壁もある。なら前がどちらかは分かる。進むより他にはない。
足の周りをまだ生きている魚やイカが泳ぎ回っている感触がする。僕と一緒に飲み込まれてしまったようだ。足元はそれよりも前に飲み込まれた様々な生き物の残骸が残されていた。例えば海岸に打ち上がった海藻、イカの甲のような固い塊もあれば、縄のように細く長いものもあった。海にあるありとあらゆるものが底に沈んでいた。ここは小さな海だった。
一定の感覚で大地が揺れる。鯨の心臓が鼓を打つ度、洞窟全体が震え上がった。鯨の鼓動はありえないほど大きく、遅かった。鯨が一回脈打つ間に、僕の心臓は数十回脈打った。巨大な生き物はその体を維持するために大きな心臓を持つ。僕の数十倍もある心臓を!
鯨の心臓に共鳴するように、僕の胸は感動に打ち震えていた。
鯨の胎の中に深淵の洞窟が広がっているなんて、誰が想像できただろう!
これほどまでに大きな生き物が自由に生きる海。海は何て広いんだろう!
島を出なければ、知ることのなかった世界。ここは混沌であり、深淵だった。僕は今、世界の秘密に触れている!
ただ、喜びの一方で一抹の不安もあった。
"混沌の口へ入り来る者は深淵へ消滅する"
〈巨いなる魚〉はそう言った。消滅。消える。僕の命はここで途絶えてしまうのだろうか。海へ消えた男たちの墓場はここだったのだろうか。嫌な想像を振り払うように、慌てて首を振る。
そうしている間に反対側の壁に突き当たった。端に辿り着いたのだ。僕は手の伸ばせる限り壁をまさぐった。だけど手の届く範囲に、先へ進めそうなところはない。僕は途方に暮れた。
その時、僕の頭上から局所的な雨が降り注いだ。瞬間、痛みに飛び上がった。
僕の手の届かない遥かなる高みに、弁があった。
酸だ。弁の向こうから胃液が逆流している。あそこが次の部屋へと向かう扉なのだ。だけど。それは死への扉なのではないか。
僕は後退り、できるだけ遠ざかろうとした。足元には先ほどまで生きていたはずの、崩れかけた生き物の残骸が浮き沈みしている。死が、僕を追いかけて来る。
体が熱い。まるで焼けるようだ。これなら太陽の神の威光の方がまだ良かった。ここは耐え難い。あの先は死そのものだ。
僕はもう二度と、太陽を目にすることはないのかもしれない。地上どころか、海に戻ることすらないのかもしれない。地上の楽園を追われて地獄の、深淵へ永遠に閉じ込められてしまうのだろうか。そう思うと急に体が熱を失ったかのように震え上がった。
僕は来た道を戻り、反対側の壁に手をついた。だけど鯨の口もまた、遥かなる頭上にあった。登ろうと壁を掴むけれど、滑った粘膜がそれを邪魔する。まるで蟻地獄のように、延々と下に落とされる。そもそも登ったところで、鯨の口が、喉が開かないことにはどうにもならない。
僕は脱出を試みることを諦めてしゃがみ込んだ。本当は横になりたかったけど、酸で溶けた部分が水に当たるだけで、飛び上がりそうな痛みに支配された。
壁に背を付けると少し楽になった。そうするとちっぽけな僕の体も鯨の一部になり、熱を帯びた痛みも忘れられるような気がした。僕は目を閉じて耳を澄ませる。
血が流れる音がする。心臓の鼓動が聞こえる。鯨の命の音はまるで僕を寝かしつけるように、優しく僕の背を叩いた。その鼓動に身を委ねるうちに、僕の意識は眠りに落ちていった。
その日、僕は夢を見た。
まだ母の胎内にいた頃。暗くて狭い、温かくて懐かしい揺籃の夢。
微睡の中、水面越しに見る太陽の光のように、血潮が透けている。潮が満ちたり引いたりする音。命はここにあって、ここにある命もまた僕だった。
いつまでもここに留まっていたかった。だけど、いつか僕はあの光の差す方——外を目指さなければならない。
生まれなければ。僕はもう一度、生まれないといけない。この温かな海を離れ、外気に触れ産声を上げなければ。
全身の痛みで目覚めた。夜の帷よりも真っ暗だ。瞼を開いても、僕はまだ鯨の胃の中にいた。
痛む体に鞭打ちながら立ち上がると、天井に手が付いた。胃が収縮している。足元が揺らぐ。近くで酸の雨が降り注ぐ音がした。
いつの間にかまた次の部屋の前に来ている。眠っている間に洞窟は縮まり、奥へ奥へと導かれているようだった。手を伸ばしても届きそうになかった扉が目の高さある。地獄の門が、口を開けて僕が落ちて来るのを待っている——。
皆の顔を思い出す。サラ、モアブ、エサウ、サム。可愛い僕の弟妹たち。長老、"近所のおばさん"、島の女たち。僕の生きた狭い島の世界。
そして最後に、人魚のあの子の顔が頭に浮かんだ。巻き毛の長い髪の、美しい人魚。海の瞳を持つあの子。
僕は、彼女の名前を知らない。そもそも人魚に名前はあるのかな。言葉を持たない人魚に名前があったとして、感情を波に乗せる彼らはどうやって名前を呼ぶのだろう。
誰にも名前を呼ばれないのは、どんな気分だろう。そんなことを最近思った気がする。僕にとって名前を呼ばれることは、僕が僕であることを思い出すために必要なものだ。海から陸へ戻って来るための。人魚はずっと海にいるから戻る必要がない?
——そんなこと、ないはずだ。
〈心が海にある〉は現実ではない世界に意識がいってしまっていることだ。人魚だって、僕たちの生きるこの現実に生きている。彼女たちだって空想に耽ることもあるだろう。陸にいる想い人を想って月を見上げる夜もあるだろう。
だから、誰だって名前を呼ばれるべきなんだ。
ああ、そうだ、"近所のおばさん"も。名前を呼ばれないことは、遠くにいることなんだ。体は陸にあっても、心は海にある。彼女は夫の側に居るために心を遠くへやっている。だけど——現実じゃない。僕は現実に、心だけではなく体も海にやって来た。
海に来てから気付いたんだ。陸にいた時よりも、僕の意識は体と繋がっている。僕の居場所は陸ではなく、海にあったのだと。
皆は体のある場所に心を引き留めようとするけど。本当は心のある場所に体を連れ出すべきなんだ。
僕たちは現実と空想の間を行き来して心の均衡を保っている。体が死んでしまっては、心も死んでしまうからだ。逆に心が死んでしまうと、間違った手段で望みを叶えようとする。つまり死だ。心と体の均衡が釣り合っていないと、僕たちは死に至る。
僕が陸にあって海を望む時、彼女は海にいて陸を望むかもしれない。僕もこれから陸が恋しくなる日が来るかもしれない。そんな時に呼び戻してくれる声があったら、心と体が生き延びることさえできたなら、正しい手段でそこに至ることができるから。
もしも外に出られたら。彼女に名前を聞こう。そしてもし彼女が名前を持たなかったら。その時は、僕が彼女に名前を付けよう。彼女が死に至らないように。
生きたい。まだ、やるべきことが残っている。
僕は痛む体を引き摺りながら、再び鯨の口を目指した。次の扉が目線の高さにあるということは、落ちてきた口もまた同じ高さにある可能性が高いということだ。粘膜は滑るけれど、高さがない分、少しずつ進んでいける。このまま何もしないでいれば、僕に待ち受けるのは死——鯨の餌になる定めだ。
ひょっとして、彼女に騙されたのだろうか。
例えば僕たちが魚の意思なんて関係なしに、腹を満たすために食べてしまうように。〈巨いなる魚〉に捧げるための餌を探していたのだろうか。
——それでもいい。それでもいいんだ。
僕は島の誰も来たことのない前人未到の地に辿り着いたんだ。それは島で死んだように生きているよりも、僕にとってはずっとずっと誇らしいことだった。
でも、願わくば。
僕はもう一度、世界に生まれ出たい。世界の秘密を全部解き明かしたい。この世界が終わるまで、この世界の行く末を見届けたい——。
太陽の神でも、月の女神でも、〈巨いなる魚〉でもいい。或いはそれら全てを創造した存在がいたとしたなら。それが世界そのものだとしても。
魚の腹の中から、僕は祈る。僕に至る全ての物事、それらを創りたもうた主に。連綿と続いた時の果てに僕がいること、その奇跡を今一度——。
その時、天から大雨が降り注いだ。鯨の喉が開いたのだ!
洪水に押し流され、僕の体は宙に浮いた。天と地が逆さになる。
鯨の口から吐き出された時、僕の足は尾へと変わっていた。
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