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エピソード18. 巨いなる魚
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空はある地点から急に色を変えている。僕が島のように大きいと思ったのは雨雲らしい。太陽の神の威光を遮って、海に黒々とした影を落としている。おそらくその中心に風吹き荒れる海を住処とする海の主人がいる。
僕が求めた未知がここに在る。そう思うと胸が弾んだ。期待と恐怖がないまぜになって体の中心から湧き上がっている。
急に海から白く細い腕が伸びてきて、更に心臓が跳ねた。僕は思わず後ずさった。海の幽霊かと思ったからだ。実際には彼女の腕だった。彼女が僕に到着を知らせようと、頑張って登ろうとしたようだった。陸にあっては彼女の言葉は伝わらない。その上僕はどうやら〈心が——空想の——海にあった〉らしい。全然気が付かなかった。
彼女と目が合うと、ほっとしたようにはにかんだ。彼女は手招きをして海に入るように促した。
僕は不安になった。見渡す限り海、陸がひとつも見えないような海の真ん中で、昨日会ったばかりの小さな彼女だけを命綱に足もつかないような深い海に飛び込む。それは船との別れを意味し、果ては陸との——ともすれば永遠の——別れを意味した。
吹き荒れる嵐は、凡ゆるものを薙ぎ倒す。僕の乗った小さな船も、嵐の前では木端のようなものだろう。どの道、船ではこの先へ進めない。僕は覚悟を決めて海へと飛び込んだ。
水飛沫を上げて僕の体は海の中へと降り立った。鼻を摘んで口を閉じたのが功を奏したのか、二度目の海では溺れずに済んだ。
海の上に比べて海の下は穏やかだった。嵐は海の表面を撫でるだけで、女神の涙の庇護下にある者までは脅かすことはできないようだ。
海の中から見る景色は神秘に満ちていた。いつも見ていたみたいに青色ではなく透明だし、広くて地面が見えないくらいだ。
その上、雲の切れ間があった場所に境界線が引かれ、嵐の側は暗く、嵐でない方は木漏れ日のように光が差し込んでいる。
僕は体の力を抜き、浮力に身を任せた。怖がったり強張ったりする方が溺れてしまいやすいのだと、もう知っていたから。
海面に顔を出して息をする。波は高く、雨が降っていた。口の中に海水が入ってきて、少し飲んでしまった。吐き気をぐっと堪える。意地でも彼女のいる海を汚したくない。
柔らかい感触が僕の手を包んだ。彼女が手を握ってくれている。水面越しに、彼女が笑っているのが見えた。
"心配しないで——"
彼女は僕の手を引きながら、ゆっくりと誘導してくれる。まるで踊るように。
一等星のようだと思った。嵐の中輝く一等星。海を漂う旅人たちの道標。太陽の神のように身を焼く炎ではなく、月の女神のように遍《あまね》く全てに降り注ぐ涙でもなく、ただ進むべき道を示してくれる灯火。
嵐の海を導いてくれる彼女は僕にとっての一等星だった。陸から海へ向かう僕の不安を掻き消すのは、大丈夫だと笑ってくれる彼女の存在だった。彼女の笑顔は、どんな闇のうちにあっても照らしてくれる光だった。
進むにつれて嵐は激しくなり、海は荒れた。初めは顔をほとんど海面に出したまま進んでいたけれど、やがてあまりに波が高く押し流されてしまい、終いには進めなくなった。僕は最低限の息継ぎの際にだけ顔を出し、少しずつ潜ることを覚えていった。
海の水は池の水と違って塊だ。池の水はただ器に収まっているだけだけど、海は違う。海はまるでそれ自身が意思を持っているかのように押し寄せてくる。海はいくつもの塊に分かれていて、それぞれが別々の動きをした。その動きが波を形作っているのだった。
塊と塊の間には継ぎ目がある。人魚に手を引かれながら、僕はその継ぎ目を掻き分けて泳いでいく。そうすると自分の力だけで泳ぐよりも、うんと早く前に進むことができる。海の生き物たちは皆、この塊を知覚して、波の進む力を利用しているのかもしれない。
不意に手を引かれる感触がなくなり、目的地に辿り着いたことを知る。
——嵐だ。吹き荒れる嵐を纏った黒い影。父の瞳に似た色をした巨大な生き物。それは幼い頃に見た鯨の姿に相違なかった。だけどこれまでに見たどんな生き物よりも大きかった。赤子の時に見た鯨の姿よりも、ずっと。体感では島より大きいのではないかとすら思える。鯨の王——。海の世界に長がいるなら、間違いなく、目の前の存在に他ならないだろう。そう思った。
"あれは——"
そう思うと同時に、頭の中に言葉が過った。
"さばきのさかな"
"巨いなる魚"
それは人魚が発した〈言葉〉だった。感情と同じように流れ込んでくる、海の言葉。特別な存在を現す共通言語。
大きな鯨はその身をグルリと翻し、僕の前に進み出て、体の側面を僕に向けて止まった。巨体の全体像が明らかになる。
角張った長く大きな頭。頭に開いた穴から無数の水泡が漏れ出している。胸鰭は全体の体躯から考えるとかなり小さく見えるが、当たっただけで僕を屠ることができるだろう。
肌には鱗がない代わりに、傷と深い皺が刻まれていた。全身に刻まれたそれらの上に、隆起した小さな生き物たちの棲家がある。小さな生き物たちの築いた痕跡は無数に散らばり、まるで星々のようだ。
長く生きた生き物に刻まれる歴史が連綿と続いた先に尾がある。魚のように左右に振るのではなく、上下に振る尾が。僕は息をするのも忘れて鯨の姿を見た。
そして目が合った。海よりも昏く深く、全てを見通すような賢者の瞳。若く小さい命に向ける憐れみが、瞳の中に凪いでいた。
そして僕はハッキリと、鯨の〈声〉を聞いた。
"混沌の口へ入り来る者は深淵へ消滅する"
どういう意味——思う間に、急に視界が暗くなった。次の瞬間、僕の頭上に大きな波が覆い被さった。波は返す間もなく次々と僕に襲い掛かり、まるで大きな拳で握り込むように僕を海の奥の奥の方へと押し下げていく。
息が、できない。目を開けることもできない。かろうじて目を開くと、明るい水面と、大きな影が見えた。〈巨いなる魚〉が、大口を開けて迫り来る——。
そうして僕は、鯨に飲み込まれた。
僕が求めた未知がここに在る。そう思うと胸が弾んだ。期待と恐怖がないまぜになって体の中心から湧き上がっている。
急に海から白く細い腕が伸びてきて、更に心臓が跳ねた。僕は思わず後ずさった。海の幽霊かと思ったからだ。実際には彼女の腕だった。彼女が僕に到着を知らせようと、頑張って登ろうとしたようだった。陸にあっては彼女の言葉は伝わらない。その上僕はどうやら〈心が——空想の——海にあった〉らしい。全然気が付かなかった。
彼女と目が合うと、ほっとしたようにはにかんだ。彼女は手招きをして海に入るように促した。
僕は不安になった。見渡す限り海、陸がひとつも見えないような海の真ん中で、昨日会ったばかりの小さな彼女だけを命綱に足もつかないような深い海に飛び込む。それは船との別れを意味し、果ては陸との——ともすれば永遠の——別れを意味した。
吹き荒れる嵐は、凡ゆるものを薙ぎ倒す。僕の乗った小さな船も、嵐の前では木端のようなものだろう。どの道、船ではこの先へ進めない。僕は覚悟を決めて海へと飛び込んだ。
水飛沫を上げて僕の体は海の中へと降り立った。鼻を摘んで口を閉じたのが功を奏したのか、二度目の海では溺れずに済んだ。
海の上に比べて海の下は穏やかだった。嵐は海の表面を撫でるだけで、女神の涙の庇護下にある者までは脅かすことはできないようだ。
海の中から見る景色は神秘に満ちていた。いつも見ていたみたいに青色ではなく透明だし、広くて地面が見えないくらいだ。
その上、雲の切れ間があった場所に境界線が引かれ、嵐の側は暗く、嵐でない方は木漏れ日のように光が差し込んでいる。
僕は体の力を抜き、浮力に身を任せた。怖がったり強張ったりする方が溺れてしまいやすいのだと、もう知っていたから。
海面に顔を出して息をする。波は高く、雨が降っていた。口の中に海水が入ってきて、少し飲んでしまった。吐き気をぐっと堪える。意地でも彼女のいる海を汚したくない。
柔らかい感触が僕の手を包んだ。彼女が手を握ってくれている。水面越しに、彼女が笑っているのが見えた。
"心配しないで——"
彼女は僕の手を引きながら、ゆっくりと誘導してくれる。まるで踊るように。
一等星のようだと思った。嵐の中輝く一等星。海を漂う旅人たちの道標。太陽の神のように身を焼く炎ではなく、月の女神のように遍《あまね》く全てに降り注ぐ涙でもなく、ただ進むべき道を示してくれる灯火。
嵐の海を導いてくれる彼女は僕にとっての一等星だった。陸から海へ向かう僕の不安を掻き消すのは、大丈夫だと笑ってくれる彼女の存在だった。彼女の笑顔は、どんな闇のうちにあっても照らしてくれる光だった。
進むにつれて嵐は激しくなり、海は荒れた。初めは顔をほとんど海面に出したまま進んでいたけれど、やがてあまりに波が高く押し流されてしまい、終いには進めなくなった。僕は最低限の息継ぎの際にだけ顔を出し、少しずつ潜ることを覚えていった。
海の水は池の水と違って塊だ。池の水はただ器に収まっているだけだけど、海は違う。海はまるでそれ自身が意思を持っているかのように押し寄せてくる。海はいくつもの塊に分かれていて、それぞれが別々の動きをした。その動きが波を形作っているのだった。
塊と塊の間には継ぎ目がある。人魚に手を引かれながら、僕はその継ぎ目を掻き分けて泳いでいく。そうすると自分の力だけで泳ぐよりも、うんと早く前に進むことができる。海の生き物たちは皆、この塊を知覚して、波の進む力を利用しているのかもしれない。
不意に手を引かれる感触がなくなり、目的地に辿り着いたことを知る。
——嵐だ。吹き荒れる嵐を纏った黒い影。父の瞳に似た色をした巨大な生き物。それは幼い頃に見た鯨の姿に相違なかった。だけどこれまでに見たどんな生き物よりも大きかった。赤子の時に見た鯨の姿よりも、ずっと。体感では島より大きいのではないかとすら思える。鯨の王——。海の世界に長がいるなら、間違いなく、目の前の存在に他ならないだろう。そう思った。
"あれは——"
そう思うと同時に、頭の中に言葉が過った。
"さばきのさかな"
"巨いなる魚"
それは人魚が発した〈言葉〉だった。感情と同じように流れ込んでくる、海の言葉。特別な存在を現す共通言語。
大きな鯨はその身をグルリと翻し、僕の前に進み出て、体の側面を僕に向けて止まった。巨体の全体像が明らかになる。
角張った長く大きな頭。頭に開いた穴から無数の水泡が漏れ出している。胸鰭は全体の体躯から考えるとかなり小さく見えるが、当たっただけで僕を屠ることができるだろう。
肌には鱗がない代わりに、傷と深い皺が刻まれていた。全身に刻まれたそれらの上に、隆起した小さな生き物たちの棲家がある。小さな生き物たちの築いた痕跡は無数に散らばり、まるで星々のようだ。
長く生きた生き物に刻まれる歴史が連綿と続いた先に尾がある。魚のように左右に振るのではなく、上下に振る尾が。僕は息をするのも忘れて鯨の姿を見た。
そして目が合った。海よりも昏く深く、全てを見通すような賢者の瞳。若く小さい命に向ける憐れみが、瞳の中に凪いでいた。
そして僕はハッキリと、鯨の〈声〉を聞いた。
"混沌の口へ入り来る者は深淵へ消滅する"
どういう意味——思う間に、急に視界が暗くなった。次の瞬間、僕の頭上に大きな波が覆い被さった。波は返す間もなく次々と僕に襲い掛かり、まるで大きな拳で握り込むように僕を海の奥の奥の方へと押し下げていく。
息が、できない。目を開けることもできない。かろうじて目を開くと、明るい水面と、大きな影が見えた。〈巨いなる魚〉が、大口を開けて迫り来る——。
そうして僕は、鯨に飲み込まれた。
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