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エピソード17. 海の中へ

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 深い海の瞳が僕を見上げていた。
 僕たちの再会はお互いの気遣いに満ち溢れていた。彼女は近付く速度や抱き付く勢いを抑えてくれていたし、僕は衝撃を予期して両足で踏ん張っていた。
 両の腕で抱きしめた彼女の体はサラよりは大きいけど、僕よりは小さかった。波間に浮き上がる髪の隙間から覗く白い首筋や細い肩に、思わず唾を飲み込む。更に視線を落とすと、髪の向こうで剥き出しの乳房が揺れていた。慌てて目線を逸らす。
 僕の腕の中に抱かれた人魚は身を捩り、腕の中をすり抜けた。どうやら僕の体は海の中で生きる人魚には熱すぎるみたいだ。釣った魚だってずっと触っているとぐったりしてくる。僕たちはどう考えても距離を取るべきだった。
 少し離れた場所で、彼女は僕に微笑みかけた。しばらくして感情が伝わってくる。
 "来てくれて、ありがとう"
 嬉しい。寂しかった。喜び。よかった。
 僕らの言葉に直すと、そんなような気持ち。
 人魚が感情を抱く度、海が震える。ひょっとしたら海に生きる生き物たちも、何かしらの感情を発して海を震わせているのかもしれない。
 陸もそうなのかも。昔あった空気を読むとかそういう言葉も、僕たちの感情が少しずつ溢れ出て空気を震わしていたのかもしれない。海みたいに分かりやすくはないけれど。
 "君に会えて嬉しい"
 伝わったらいいな。僕の気持ちも余すところなく、全て。

 合流できたのはいいとして、どうやって海——そのどこかにある目的地——に行けばいいか、それが問題だった。
 僕は人魚みたいに泳げない。ずっと海の中にいることも、泳ぎ続けることも、上手に息をすることもできないだろう。
 だから長老の助言通り、船に乗ることにした。彼女には申し訳ないけど、船の縄を引っ張ってもらうしかない。
 僕は身振り手振りで彼女に泳げないこと、縄を引っ張ってほしいことを伝えようとした。
 彼女は最初、僕の伝えたいことにピンときていなさそうに、首を傾げていた。彼女たちの言葉——人魚の表現——は感情以外を伝えることが難しいみたいだ。
 波間に揺れる船に、僕は恐る恐る足を掛けた。ギィ、と軋む音を立てて船は傾いた。慌てて中央に乗り込み、足を広げた。しばらくすると揺れは収まり、安定してきた。船に乗る時は急いで乗り込まないと、転覆してしまうのかもしれない。
 船に乗り込んで船を岸辺に留めていた縄を外して彼女の方に差し出すと、ようやく僕の意図が伝わったようだった。彼女は頷いて、笑顔で縄を受け取ってくれた。
 よかった、嫌がられなくて。もしも断られていたら、ひょっとしたら僕は辿り着く前に溺れ死んでしまっていたかもしれない。初めて海に入ってひっくり返ってしまった時みたいに、鼻や目に水が押し寄せてくることを想像して、僕は身震いした。
 やがて船はゆったりと進み始めた。彼女の小さい身体では、少しずつしか進めないのだろう。僕にできることがないのがもどかしい。いつか人魚になったら、彼女の力になれることなら何でもやりたいと思った。
 船は少しずつ、少しずつ島を離れていく。船が隠されていた洞窟の全体が明らかになり、先程まで長老と話した岬が目に入った。やがて島全体の輪郭が見て取れるようになった。遠景で見る島は、歩いていた時以上に小さく見えた。船が揺れるからか、僕の心まで不安定になる。離れ行く岸辺を名残惜しく思いながらも、僕は前を向いた。
 海はどこまでも広がっていた。少し進んだからと言って島や岩が見えることはない。本当に見渡す限り空と海、二種類の青だけが広がっていた。
 船の舳先に空焼きの壺が置いてある。僕は船の前へ進み、蓋を開けた。壺には液体が入っていた。これが長老の言っていた酒という飲み物だろうか?
 壺を持ち上げて中の液体を太陽の光に翳すと、液体は琥珀色に輝いた。甘く酔いしれることができる甘露だと、長老は言っていた。僕はゴクリと喉を鳴らし、酒をひと掬い舐めとった。
 それは生まれて初めて味わう甘さだった。普段食べるものは塩で味付けしたものばかりで——こんな味のするものは口にしたことがない! 口の中に唾液が広がっていく。
 でも僕はこの誘惑に耐えなければならない。海は塩水で出来ていて、陸の生き物が飲み続けたら死んでしまう。雨が降るまではこの壺の中の酒だけが、貴重な水分補給源なのだ。僕は溢れ出た唾液を再び飲み込んだ。
 陸の上と違って、海の上は波が行き交い、落ち着きがなく揺れた。きっとエサウとセムが乗ってきた時、船は揺籠だったに違いなかった。ゆらゆらと波間を行ったり来たりして、揺蕩いながら微睡んだに違いない。
 ……と思ったのも束の間。酔った。
 これが船酔いなのか、それとも先程微量口にした酒によってもたらされるものなのか、分からない。とにかく頭がぐらぐらして、喉の奥から熱い何かが込み上げそうになった。けど、ここで吐く訳にはいかない。だって海には人魚が——あの子がいる。絶対に醜態を晒す訳にはいかない。僕は前を向くことを諦め、寝転がった。
 船底に背を付けたら少しだけ楽になった。横になると色んな音が聞こえた。波が船底に当たる音。縄が梁に当たって擦れる音。そして日の光に肌がジリジリと焼けていく音。
 太陽の神が所構わずその威光を撒き散らす。船の上の水だけでなく、僕の肌からまでも水分を干上がらせていく。
 早く、夜が来ればいいのに。或いは雨。女神の慈愛の時間が訪れれば、僕たち陸の生き物には安らぎが訪れる——度が過ぎて全てが押し流されてしまわなければ。
 僕は船の中で体勢を変える。表と裏を交互に入れ替えて、まるで魚に火を通す時みたいに徐々に焼き色が付いていく。もしも大きな鳥が現れたら、僕のことが美味しそうに見えるのではないか。——今のところ、空には小さな鳥の影一つも見えない。
 酔いが少し落ち着いて、僕は船縁から彼女の姿を探した。
 彼女の肌は白い。まるで海岸の砂みたいだ。海の下で太陽の神の威光を受けず、月の女神の庇護下で生きてきたに違いない。
 僕の肌は釣り竿の柄の部分みたいな色をしている。島の中ではエサウとセムの肌が一番焼けていた。外で遊んでいるからだと思っていたが、それだと釣りに出ている僕の肌の方が焼けていないことの説明がつかない。
 長老の話を聞いて腑に落ちた。二人は出身の島が違う。隣の島はきっとここより暑くて、肌が焼けていたんだ。
 でも二人が僕たちの島に来たのは幼子の時。ならそこからは僕と同じ環境のはず。もし肌の色が太陽の神の寵愛を受けたことだけによって決まるなら、僕たちの間に違いがあるのはおかしい。
 なら答えは一つ。生まれつき肌が焼けて生まれたのだ。
 生き物は親の性質を受け継ぐ。僕の巻き毛は母に、黒い瞳は父に似た。なら、エサウとセムの親のうちの一人、あるいは両方、肌の色が濃かったと考えるべきだ。太陽の神の愛を受けた民だったのだろう。
 なら、人魚はどうか。人魚は皆、きっと肌が白い。日の光は水面に遮られるからだ。でもなるのだろう? エサウとセムのように、人魚になっても生まれつきの肌の色は変わらないのではないか?
 だとしたら「人魚から生まれた人魚」と「人間から人魚に変わった人魚」の違いは、ひょっとしたら肌に現れるのかもしれない。
 水面の中を進む彼女を見る。彼女はどちらだろう。人魚として生まれたのか、人魚になったのか。彼女の透き通るような肌は、これまでに見た誰よりも白く、美しい。
 ふと気がつくと、彼女は泳ぐのを止めていた。てっきり疲れたから休んでいるのだと思ったけど、違った。に辿り着いたのだ。僕は目を見開いた。
 波間に、島のように大きな影が黒く蟠っていた。
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